上坂一存の世界
「もしかして俺たち、帰れないってことですか……?」
兄との電話を終えて暫く無言のまま放心している上坂に対し、日下部はその会話の中身をやきもきしながら尋ねてきた。上坂は結論から言うとあまり芳しくないと前置きしてから、兄が自分たち同様に18年前にこの世界に迷い込んできた可能性があることを説明した。
始めは兄が18年間こちらの世界で普通に暮らしてきたことに感心していた日下部であったが、次第にその意味が分かってくると顔色が変わってきた。18年間こちらに居るということは、18年間あっちに帰れなかったということだ。無論、兄は世界線を移動したということに気づいていない……いや、気づいていたが確信は得られず、結局夢だったと結論してしまった。だから自分たちとは立場が違うのだが……
果たして、何も知らずに18年間生きてきた兄と、知っていて帰り方が分からない自分たちと、どちらの方がマシなのか。気分的に楽なのは前者の方なのは間違いないだろう。比べる意味があるかどうかは分からないが。
「あれ? でもなんか変じゃないか?」
「何がですか?」
そんなことを考えて絶望に浸っているとき、上坂はふと違和感に気がついた。日下部が藁をも縋るような目でこっちを見ている。
「今までの話を総合すると、兄さんとGB、それから俺たち、4人も別世界からこっちの世界に移動してきたってことだよな? じゃあ、眠り病になった人はみんなこの世界にくるって考えてもいいんだろうか」
「そう……ですね。そうなるんじゃないですか?」
「だったら俺たちの他にも、同じような人たちが居なきゃおかしくないか? こんな異常な体験、中々すぐには受け入れられないだろうし、人によっては物凄く周りを巻き込んで大騒ぎしててもおかしくない」
「……言われてみれば。超能力者みたいに、存在はするけど胡散臭すぎて、世間に受け入れられてないとかは?」
「兄さんが18年も前にこっちに来たっていうなら、眠り病の患者は相当数居るはずだろう。最初は信じられなくても、それだけ大勢が騒ぎ出せば、流石にそのうち認識されるんじゃないか。実際、俺達には美空学園みたいな学校があったわけだし」
「ネットで調べてみましょう。もしかしたらお仲間がいるのかも知れない」
2人は肩がぶつかるくらいにくっつきあって、スマホの小さな画面を見た。ブラウザを起動して、パラレルワールド、世界線移動、最終的には異世界転生みたいなキーワードまで調べてみたが、残念ながら上坂たちみたいな経験をしたと騒いでるようなページは一つも見つからなかった。
その事実は2人をかなり落胆させたが……代わりに、今回のネットサーフィンで、全く期待してなかった意外なものが2つ見つかった。
まず1つは、どうやら、こっちの世界にも超能力者は存在するらしいのだ。
あっちの世界で最初に発覚したように、それはユーチューブ上に現れて、人々が嫉妬するくらいフォロワー数を獲得しているらしい。そしてあっちの世界同様、巨大掲示板にいくつものスレッドが立って、信じる人と信じない人とでお互いを罵り合っていた。
あっちの世界では、最終的にそれが行き過ぎて、超能力者同士が対決しあって、事の次第が広く知れ渡ったのだが、こっちの世界ではまだそこまで行ってないらしい。そんな中で、GBは最も有名な超能力者としてテレビ出演までしているようだった。
思い返せば昼間、義姉はGBのことを『ペテンデブ』と胡散臭げに呼んでいた。ただの手品師だと思っていたら、こんな言い方はしないだろう。
そして、もう1つは……意外だったのだが、眠り病という病がこっちにもあることだった。
ネット上の噂レベルではあったが、あちらの世界同様、超能力者の特徴を持つと思しき若者が、ある日突然昏睡状態に陥ってそのまま目覚めなくなるということが、このところ頻発しているらしいとのことだった。
眠り病になってしまった人が、こっちで大騒ぎしていないかと探していたら、逆に眠り病になる人たちが頻発してるという結果に、上坂達はいよいよ混乱した。
「どういうことだ? 眠り病って一体なんなんだ? 眠り病にかかった人は、みんな同じ世界に来るわけじゃないのか? だとしたら……どうして俺とおまえは一緒なんだろう。殆ど共通点も無いのに」
「あるとすれば三千院先輩のお見舞いをしてたことくらいですよね。その先輩も同じ眠り病だとすると……もしかして三千院先輩に引っ張られたとかなんですかね」
「だとしたら、兄さんまでいる必要がない」
「……最初言ってた通り、上坂先輩の能力って可能性は?」
「だとしたら、能力が使えない今、絶望的だぞ? それに今回の出来事が自分の能力が引き起こしたことなのかどうか、最初はそうかも知れないって思ってたけど、流石に自信無くなって来た。今回のことは、俺の本来の能力とはまるで違う現象なんだ」
「じゃあ、先輩以外の誰かが引き起こしたことってことでしょうか?」
「おまえってことは……無いんだろうな。同じようにGBもそうだろう。つーか、誰かがやったことって考えないほうがいいのかも知れない、単に眠り病って現象があるってことだけ考えるんだ」
2人はその後も議論を続けたが、結局何の答えも導き出すことは出来なかった。
気がつけば辺りはすっかり人気が無くなっており、時刻は間もなく深夜を迎えようとしていた。2人は疲れ果て、言葉も少なくなってきた。月が無ければ殆ど暗闇と言った感じの暗い人口草原の中で、彼らはぼんやりと星空を見ていた。遠く首都高湾岸線からは途切れること無く、自動車のエンジン音が聞こえてくる。
東京インパクトの日、上坂はこの場所で同じように星を見上げていた。一緒に見上げる人は違っても、あの日も同じ夏の星座が輝いていたと思い出し、遠い昔の出来事のような、まるでさっきのことのような、不思議な感覚が胸の中に去来した。あれからどれだけの時が経ち、どれくらいの距離を歩いてきただろう。五年間と言ってしまうとあっという間だが、その間に起きた出来事を思い出してみると、それは決して忘れていいほど楽な道のりでは無かった。
もし、この世界にこのまま取り残されてしまったら、あの五年間はなんだったと言うのだろうか。
「でも、良かったですね」
そんなことを考えていたら、すっかり口数が少なくなった日下部がポツリと呟いた。
「お兄さんが生きていて」
「……世界が違うのに?」
「死ぬよりはマシですよ」
そうだろうとも、そうではないとも、どっちとも言えなかった。何しろ自分の人生は、兄の死から始まったと言っても過言ではないのだ。兄が死んで、母が死んで、父が失踪して、親戚にたらい回しにされて。それで不幸かと言えばそうでもなくて、先生に出会えて、恵海に出会えて、そして今の自分になれたのだ。
でも、兄が生きていて良かったのもホントだった。彼が自分たち同じように眠り病だったなら、多分、何も苦しまずに突然こっちの世界に紛れ込んだはずだ。その後、あっちの兄が肉体の死を迎えても、こっちの兄には何にも影響が無かった。彼は単に、不幸な出来事を回避して今まで生き続け、家庭を持ち、幸福に暮らしていたのだ。
それが嬉しくないわけがない。
「そういやさ……」
上坂はふと思った。
「兄さんが生きてたことで気づいたんだけど、あっちの俺にはなかった実家が、こっちにはあるんだよ。俺は別の場所に住んでたみたいだし、もしかしておまえも同じように、こっちに住む場所があったんじゃないか? あの、羽田近辺に」
「そうかも知れませんね」
「今日はいきなりだったから仕方なかったけど、明日にでもまた調べてみたほうがいいかもな。俺たちもいつまでここでこうしていられるか分からないし、住む場所は最優先で確保したい」
「先輩の実家に居候させてもらえませんかね」
「いやあ、それはちょっと……俺だって家族と会うのは初めてなんだぜ?」
「……え? どういう意味ですか?」
「俺はあっちの世界じゃ天涯孤独なんだよ。兄さんの死から色々あって、一家がバラバラになっちまってさ。今は寺に居候しているんだ。こっちの寺の方も連絡つかなくて参っちゃったよ」
上坂が自分の家の事情を話すと、日下部は顔を曇らせた。
「そ、そうだったんですか……すみません。不用意に失礼なこと聞いて」
「いや、別に構わないよ。慣れてるし、案外、他人が思うほど、言われて傷つくようなもんじゃない」
すると日下部は、ふぅ~っと小さくため息と吐いてから、
「そうかも知れませんね」
と言った。
「……実は、俺もあっちでは先輩と同じで、身寄りがないんですよ。だから、こっちでも似たようなもんかも知れません」
「そうだったのか……昼間、実家を聞いたら北海道って言ってたのは?」
「養護施設です」
上坂の家庭の事情も複雑だと知って、少し親近感が湧いたのかも知れない。日下部は過去の話を淡々と始めた。
彼の入っていた児童養護施設とは、いわゆる孤児院というやつだが、日本では本物の孤児は少なくて、家庭環境が崩壊したり、虐待にあったりする子が生活している場所らしい。周りはそういう子供たちばかりで、彼もそれと似たり寄ったりの理由で施設に預けられたようだ。
「俺の父は北海道で農家やってて、母はお見合いで結婚した、いわゆる外国人花嫁ってやつだったみたいです。でも日本の農村生活は彼女が思い描いていた生活とは違って、苦しかったり、外国人だからって虐められたりで、結局長続きしなくて離婚しちゃったみたいです。俺はそれでも跡取りの長男だからって大事に育てられたんですが、まあ、嫁さんに逃げられちゃうくらいですからね。俺が大きくなる前に家業は苦しくなって、経営破綻したあと、父は首をくくってしまって、おじさん達も事業を投げ出して、俺には借金だけが残されました。もちろん、俺に返せるあてもないから、その後、裁判とか色々あって、全部弁護士さんがやってくれたんですけど、そんで最終的に施設に入れられました」
さらりと言ってのけるが、案外ヘヴィーな話である。だが、それほど驚きが無いのは、つい最近もっと酷い家庭環境を知ってしまったからだろうか。
思えば、アンリといい、日下部といい、上坂といい、自分の周りには家庭環境に問題があるやつだらけだ。GBだって、入院したのにお見舞いにすら来ない両親に育てられたようだし、もしかして同じような境遇の者同士、引き合うものでもあるのだろうか……
そんな非科学的なことは信じられないが、超能力だの世界改変だのに比べたら、十分有り得そうに思えてくるから不思議なものである。
「それじゃお前、施設を出てこっちに来たんだ。働いてるわけでもないし……誰か後見人でも出来たの? 養子縁組とか」
「はい。外田先生です」
「外田……?」
まさかここでその名が出るとは思わず、上坂は目を丸くした。
「……俺、1年の頃、向こうの学校でスポーツやってて、そこそこ期待されてたんです。でも色々あってやめちゃって……ぶらぶらしてたところを外田先生が声かけてくれたんです。行くとこないならうちに来ないかって……野球なんてやったこと無かったんですけどね」
大分ぼかしているが、その口調がどこか気怠げなのは、思い出したくない嫌な記憶なのだろう。彼の境遇で期待されていたということは、それに人生をかけるくらい打ち込んでいたと言うことだ。色々あってやめたと言ってるが、美空学園に入るようなやつが、どんな経歴を持ってるかは言わずとも知れている。
「外田先生は俺みたいな奴らに美空学園にこないかって声かけてくれてたんです。でも、凄いスパルタだからついてけない人も出てきて……そういう人たちからすると、俺みたいな下手くそが目についたのかも知れません」
「……おまえをイジメてたやつって、じゃあ部活の?」
話によると、どうやらあの不良連中は元々野球をやってた奴らで、部活ではチームの中心を務めるような連中だったらしい。だが練習嫌いで、外田のスパルタにはついていけず、逆に野球は下手くそでも、愚直に練習をこなす日下部のほうが、徐々に部活で目立つようになってきた。それが気に入らなくて、彼らは日下部のことをイビって追い出そうとしていたらしい。
しかし、部活を辞めたら他にやることがない。帰る場所もない彼はそれを甘んじて受け入れていた。下手に抵抗して問題になったら、学校を辞めさせられるかも知れないからだ。それが事態をややこしくしてしまったのかも知れない。
そう言って、自嘲気味に笑う日下部に対し、上坂は慰めの言葉も出なかった。
帰る場所がない。その気持ちは痛いほどよく分かるのだ……上坂だってつい最近まで、そんな状況だったのだ。死んだと思った先生が生きていて、一緒にドイツに行こうと言ってくれるまで、何をして生きていけばいいのか分からなかった。彼には、上坂にとっての先生のような存在が居ないのだ。
「……実家に、電話かけてみたら、どうですか?」
会話が途切れ、しんみりしていたら、ポツリと日下部がそんなことを言い出した。
「え……?」
「さっき先輩……スマホ見ながら長いこと固まってたから……電話したいのかなって」
上坂は何も言えなかった。そんな長く迷っていたつもりはなかったのだが、彼にはそう見えたらしい。
「もしかしたら、ずっとこっちで生きてかなきゃならないのかも知れませんし……そしたら、話くらいはするようになるんですし……元の世界に帰れるなら帰れるで、これが最後のチャンスかも知れませんし……」
その通りだ。あっちの世界に上坂の母親は居ない。父みたいにどこかに逃げ隠れしてるわけじゃなく、生きていないのだ。
自分の母がどんな人なんだろうってことは、子供の頃から何度も想像していた。ほんのちょっとしか記憶にない父は、母には苦労をかけたと謝罪ばかりしていた。
だから自分の中で母親とは、どこか疲れた雰囲気を漂わせた、立花倖のイメージで固定されていた。彼にとって親という存在は、彼の先生である立花倖に集約されているからだ。でも、これからはそんなことをしなくて済む。ほんのちょっと電話してみれば、それがわかるのだ。
一体、自分の母親とはどんな人なんだろう。
別段、知りたいとは思わなかった。だって、今までは、知ろうとしてもそれが無駄なことは、誰よりも自分が一番よく分かっていたからだ。
どんなに恋しくても母は帰ってこない。彼が生まれてすぐ、彼女はこの世から去ってしまったのだ。
だから知ろうとしなかった。その方が楽だったから。でも今望むなら、望むことすら出来なかったその願いが簡単に叶ってしまうのだ。
ぐぅ~……ぐぅ~……と寝息が聞こえてくる。
「日下部……?」
返事はない。気を利かせて寝た振りをしているわけじゃないだろう。上坂が考え込んでいるうちに、だいぶ時間が経ってしまったようだった。今日は一日中歩きまわって、自分もだいぶ疲れていた。
このまま寝てしまおう。電話は明日にしよう。そう思いながら、彼はポケットからスマホを取り出していた。
寝っ転がりながらスマホの時計を見れば、もう丑三つ時といった時間だった。こんな時間に電話をしても、きっと母は電話に出てくれないだろう。だから、3コール目までに電話が繋がらなければ、切ってまた明日にしようと思っていた。
アドレス帳から実家を選び、トゥルルルル……っと呼び出し音が鳴り出す。
トゥルルルル……トゥルルルル……
でも、3コール目が来ても彼は電話が切れない。
4コール目、5コール目と呼び出し音が鳴り続ける中、彼の心臓も同じようにドキドキと大きく鳴り響いた。
そして10コール目を越えていい加減諦めたほうが良いと思い始めた時、カチッとそれは繋がった。
「もしもし……? 一存? あんた、いま何時だと思ってるのよ」
電話の向こうから、聞いたことのない女の人の声が聞こえてくる。上坂には、不思議とそれが、母親の声であることがわかった。何故か懐かしい、どこかで聞いたことがある、そんな声だった。
でもそれは絶対にありえない。何故なら彼女は上坂を産むとほぼ同時に死んでしまったからだ。上坂はその時、赤ん坊用の集中治療室に入れられていた。だから彼女の声を聞いたことがあるとするなら、生まれ落ちた瞬間か、彼女のお腹の中に居たときしか無いはずだ。
まさかそんなはずないというのに、なのに上坂には、彼女の声が懐かしくて仕方なかった。
「こんな時間に電話かけてきて、また昼夜が逆転しちゃってるんでしょう」
上坂は口をパクパクとさせていた。なんて返事をすればいいのか分からなかった。全身からビシャビシャと汗が吹き出しているようだった。物凄いエネルギーだった。
「はい……」
だから彼は一番省エネな返事しか出来なかった。
「しょうがない子ねえ、大学入ってから遊び呆けて……ちゃんと単位取れてるの?」
「はい」
「あんたまだ夏休みよね。お父さんいつ帰ってくるのかって心配してるけど」
「はい」
「ちゃんと顔見せに来なさいよ? あんたが大学通えるのも、一人暮らし出来るのも、お父さんが働いてくれてるおかげなんだからね?」
「はい」
「返事だけは良いんだから……それで、今日はどうしたの」
「……その」
「はぁ~……言わないでもわかってる。あんたがそんな殊勝な態度なときは、どうせお金の無心よね!?」
「……はい」
「もう! 仕送りは計画的に使いなさいって言ったでしょう! 何にお金使っちゃったの!」
「はい……すみません」
「大学生は付き合いもあるから仕方ないけど……それでいくら必要なの? 仕送り日まで5日あるけど、1万円で足りるわね?」
「はい……はい……」
「もう……アルバイトなんかしてないで、しっかり勉強しなさいよ!」
「はい」
「はぁ~……返事だけはいいんだから。それじゃ明日振り込んどくから、今日はもう寝なさい」
「はい」
「あんた、ちゃんと食べてる? 体壊してない?」
「はい」
「もう少し頻繁に電話しなさい。あんたの帰ってくる家はここなんだからね」
「はい」
「それでいつ帰ってくるの、お父さんが心配してるから。9月中には帰ってくるわよね」
「はい」
「そう……お父さん喜ぶわね。ご飯食べてる? お肉ばっか食べないで、お野菜もちゃんと食べるのよ」
「はい」
「病気には気をつけなさい」
「はい」
「勉強をしっかりやんなさい」
「はい」
「はぁ~……生返事ばっかで仕方ない子ねえ」
「は、はい……」
「それじゃお母さん眠いからそろそろ切るけど。あんた、元気でやんなさいよ!」
「は、はい」
「じゃあね」
「お……お!」
「お?」
「お……かあさんも、お元気で」
「うん」
プツッと音声が途切れる音がして、ツーツーと耳障りな機械音が聞こえてきた。
上坂は耳に当てていたスマホを離して顔の前に向けると、画面に映った切断中という文字列を呆然と見つめた。通話時間は4分35秒。たったそれだけのはずなのに、まるで一日中走り続けていたかのような疲れが、全身にどっと押し寄せてきた。
鼻が詰まって呼吸が出来ない。はぁはぁと口で息をしながら、震える手でスマホの画面を消した。涙でボヤケて、もう何も見えなかった。
胃がキリキリと痛むような気がして、彼は体を丸めると、眠ってる日下部に背中を向けて、必死に呼吸を抑えようとした。息を吸い込むたびに横隔膜がシャックリのようにピクピク動いて、油断すると涙が零れてしまいそうだった。
何でこんなに、悲しいんだろうか……いや、苦しいのだろうか? それとも嬉しいのだろうか。
自分の胸のうちに物凄い感情の奔流が溢れかえってくるのに、彼はその感情の正体が全く分からなかった。
胃がビクビクと痙攣している。
奥歯がカチカチと鳴っている。
酸欠した脳みそがガンガンしている。
息が苦しくて、胸が張り裂けそうなくらい痛かった。
「駄目だ……こんなとこにいちゃ駄目だ……」
彼は独りごちた。
こんな夢みたいな世界があっちゃいけない。
頼れる兄がいて、優しい義姉がいて、あんな風に無条件に愛してくれる母がいて……こんな都合のいい世界があっていいはずがない。
自分は天涯孤独なのだ。生まれた時から家族は一人も居なかった。母に抱かれたことは一度もなく、誰からも愛されることはなく、どこへ行っても厄介者扱いされた。学校へ行っても友達なんか一人も出来ず、好きな女の子に好きと言えず、気のおけない話し相手は人工知能しかいなかった。
生きるために必要なことは、全部先生が教えてくれた。その先生が殺されて、何もかもを失った。悪い奴らがやってきて、殴られて、頭を割られて、脳みそをかき回されて……人殺しの道具を作ることでしか、自分の存在価値を見いだせなかった。
それが自分だ。
上坂一存の世界だ。
こんな優しい世界があってたまるか!
「先輩……先輩……」
背後から声をかけられて、体がビクッとなった。
ぜえぜえと、息切れするくらい荒い息を吐き出しているのが自分でもわかった。体はブルブルと震えてまともじゃないことも。
だけど彼は平静を装って、振り返らずに、何事も無かったかのように言った。
「悪い、起こしちゃったか……?」
日下部は少しその言葉に返事をしそびれているようだったが、暫くするとなんだか焦るような口ぶりで、
「あ、いや、そうじゃなくって……起きてください。俺たち、囲まれてますよ……」
聞こえるか聞こえないかというくらい、すごく小さな声でそう言った。
囲まれてる……? そんなアクション映画じゃあるまいし……
そう思って周囲を見回すと、自分たちから10メートルくらい離れた場所で円を描くように、複数の人影が見えた。月明かりにかろうじて見えるのは、黒いスーツに黒いサングラス。こんなに暗いというのに、その胸板が厚く見えるのは、彼らが屈強である証拠だろう。見たところ、映画や政治ニュースなんかでたまに見かけるSPみたいな感じだった。
なんでそんな連中が自分たちを囲んでるんだ……?
上坂はピンチでかえって集中が増す物語の主人公みたいに、急速に平静を取り戻すと、呼吸を落ち着かせて体を起こした。
背後を振り返れば同じように10メートル位の距離に、等間隔で男たちが囲むように佇んでいる。
どう考えても自分たちに用事があるのは間違いない。あの格好で公園の用務員というわけはないだろう。じゃあ、どうしてこんないかつい男たちに囲まれるんだ……?
上坂はかつて自分を拉致した連中のことを思い出し、ハッとなった。
まるで映画にでも登場しそうなこの連中……もしかして、倖が言っていた秘密結社かなにかじゃなかろうか?
しかし、ここはあちらの世界とは違って平和な世界のはずだ……上坂には普通に家族が居て、頭は真っ黒、超能力も使えない。おかしな連中に狙われるような理由は無いはずなのだが……
「そんなに警戒しないでください」
上坂達を取り囲む男たちの背後から、凛とした女性の声が聞こえる。警戒するなと言われてもそうせずにいられない2人が中腰で身構えていると、黒服の男たちを制するように、間を割って一人の金髪の女性が現れた。
「驚かせて申し訳ございません。あなたは上坂一存様ですね……?」
「そ、そうですけど……あなたは?」
驚きながらも上坂がそう返事すると、真っ白なサマードレスを着たその女性は、彼の前まで一直線に歩み寄ってきて、
「申し遅れました。私は、マリー・フランソワーズ・テレーズ・デュ・ローゼンブルク。お気軽にテレーズとお呼びください」
そう名乗り、まるで王侯貴族にでもするかのように、膝立ちになって深々とお辞儀をした。
「お迎えに参りました、上坂様……いいえ、私の救世主様」