兄さん! 頭が割れるように痛いよう!
お台場テレビの玄関ロビーで、ガードマンに取っ捕まってしまった上坂は、そこへ颯爽と現れた兄を名乗る人物に助けられた。しかし彼は助けてくれた相手に対して礼すら言えずに、呆然と見上げていることしか出来なかった。
何故なら上坂にとって兄とは、生まれる前に死んでしまった話の上でしか存在しない人物であり、眼の前のその人が本物かどうかさえわからないのだ。
「ほら、いつまで地べたに座ってんだよ。通行の邪魔だろ」
そう言って手を差し伸べる兄に対し、腰が抜けて立ち上がることが出来ない上坂は震える声で言った。
「に、兄さん……本当に俺の兄さんなのか?」
すると兄は怪訝そうに首を傾げながら、
「え゛? 兄さんだって? 気持ち悪い呼び方すんなよ。いつもなら汚物でも見るような目つきで、藤木って呼び捨てるくせに……」
「え? 呼び捨て? っていうか、ふ、藤木……??」
上坂は目をパチクリさせながらオウム返しに聞き返していた。
藤木って名前はなんだったろうか? そうだ、確か父方の苗字がそうだった。上坂は親戚をたらい回しにされてる間に、いつの間にか母方の姓を名乗るようになっていたからすっかり忘れていた。
もしも上坂の家族に誰一人不幸が訪れること無く安泰だったら、彼は藤木一存を名乗っていたはずなのだ。
(なるほど、兄が藤木姓を名乗るのはそういう理由だったか……ん? でも、だったら、どうして弟の自分が兄のことを藤木なんて苗字で呼ぶんだ? おかしいだろう……)
上坂がそんなことを考えていると、目の前で兄が突然、
「そうそう藤木……って、どうしておまえは兄のことを苗字で呼ぶんだ! 大体、おまえだって藤木だろうがっ!」
っと、何故か一人でノリツッコミをしていた。
上坂がわけが分からなくて呆然と兄のことを見上げていると、暫く固まったままツッコミを待っていた兄は耐えきれなくなった様子で、
「って、ここで放置かーいっ! そうやって的確にお兄ちゃんの心を抉ってくる姿勢は嫌いじゃないけど、職場でやられちゃうのはちょっとお兄ちゃん的に厳しいぞ。ほら、受付のお姉さんも冷たい目で見ていらっしゃる」
やけに説明口調な長台詞を、コメディアンみたいなオーバーアクションをしながら絶叫する兄に対し、さっき上坂の相手をしていた受付嬢がクスクスと笑いながら来客用の通行証を持ってきた。彼はそれを受け取ると、今だに地べたにへたりこんでる上坂に向かって再度手を差し伸べながら、
「ほら、いい加減に立てよ。何の用事か知らないけど、中に入りたかったんだろ? とりあえず話を聞いてやるからついてこい。そっちの彼もおいで、一存の友達なんだろ」
そっちの彼と呼ばれた日下部が、縋るような目つきで上坂のことを見つめていた。さっきから茫然自失で体に力が入らなかったのに、何だかそのハムスターみたいに心細い目つきを見ていると、自分がしっかりしなきゃと思うから不思議である。
上坂は、ふ~っと息を吐いて肩の力を抜くと、兄が差し出していた手を握り返した。
「うわっ! 気持ちわるっ!! ……おまえ、どんだけ汗かいてんの」
上坂に手を握られた兄が反射的に手を引っ込める。
よほど緊張をしていたのだろう。彼は手のひらにびっしょりと汗をかいていた。
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兄に案内されて社員用の出入り口からテレビ局の中に入った。彼らを取り押さえたガードマンの横を通り過ぎる時、無遠慮な視線でジロジロと見られて無駄に緊張を強いられた。それで呼吸まで止めてしまっていたのか、暫く進むと息苦しくなって、ぷは~っと息を吐き出したら、隣を歩いていた日下部も同じように息を吐いていた。
無駄に曲がり角の多い廊下を通り抜け、迷路みたいに階段を上がったり下がったりしていると、そろそろ夕方だと言うのに、通りすがりの人達全員がおはようございますと挨拶をしてきた。その挨拶をする相手があまりにも多いものだから、もしかして兄は大物プロデューサーか何かなのかと思わず尋ねてしまったが、そんなわけあるかと笑われた。
曰く、この業界はとにかく挨拶が基本だから、通りすがりでもなんでも、取り敢えず挨拶しておくのが無難なのだそうだ。実は兄もさっきから、それっぽく挨拶を返しているが、本当は誰が誰だか半分も分かってないらしい。
そういう目で見てみると、逆に全く知らない相手に対して、まるで無二の親友のような親しげな挨拶を交わしている兄のスキルは、ある意味大物と呼べたかも知れない。時折、彼を重役かなにかと勘違いしたタレントなんかがバカ丁寧に挨拶してきたりして、誇らしいやら、鬱陶しいやら、バレたりしないかとハラハラして退屈しなかった。
そんな具合に、上坂とはまるで正反対のフレンドリーな兄に案内されて、2人は局内の中程にあった社員食堂へとやってきた。局を訪れた関係者にも解放しているらしく、食堂のあちこちに番宣ポスターやら高視聴率番組を表彰する張り紙やらが貼られていて、なんとなくわちゃわちゃした雰囲気を醸し出していた。
兄はここでも通行人に捕まっていたが、今度は本当に上司や同僚みたいで、挨拶ついでに打ち合わせのような会話が始まってしまい、2人は手持ち無沙汰に待たされた。それにしても、上坂の兄は見るからに出来る男のようだ。ここが大企業の本社であることからしても、多分、その印象は間違ってないだろう。
日下部はそんな兄に感心しながら、
「上坂先輩のお兄さんってなんか凄いっすね。明るくて頼りになるっていうか」
と言っていたが、上坂が複雑な表情をしながら、
「そう、だな……俺もそう思う。実は俺、彼と初めて会ったんだよ。あっちの世界で兄さんはとっくに死んでるんだ」
と返すと絶句していた。日下部もまさか死人が相手だったとは、思いもよらなかったのだろう。
見れば食堂の壁の一番目立つ場所には、局一番のご長寿アニメのポスターが貼られているのが見えた。そう言えば、どうでもいいことだが、フグ田タラオには妹が居て、ヒトデちゃんと言う名前までついてるらしい。ただ、あそこの家庭はサザエさん時空とかいう謎の時間が流れていて、何十年経っても登場人物が年を取らないから、ヒトデちゃん自体が生まれてこないのだそうな。
ふと思ったのだが、こうやって東京インパクトの無い世界に迷い込んだと言うことは、あっちの世界に居ない人物が生きていたり、逆にあっちにいる人が死んでいたりすることも有りうるのだ。
そう考えると、美夜を見つけるのは多分絶望的だろう。何しろ上坂はこっちの世界でFM社に捕まっていないのだ。すると彼女の開発者が居なくなることになる。頼りになるのはやはり立花倖ただ一人。先生がこっちの世界でもちゃんと先生をしていればいいのだが……
「おう、待たせたな。好きなもん食えよ。そっちの彼も遠慮しないでね」
そんなことを考えていると、打ち合わせを終えた兄が帰ってきた。
2人は兄の好意に甘えて定食を注文すると、まるで餓鬼さながらにそれを貪り食った。何しろ、持ち合わせが上坂の持ってるスマホの電子マネーしかないから、出来るだけ節約してお金を使わないようにしていたのだ。ところが、お台場まで来るのに10キロ以上歩き、レインボーブリッジを渡るなんて大運動会をしたものだから、とんでもなく腹が減ってしかたなかった。
そんなこんなんで腹を満たした2人は食後の満腹感に幸せになりながら、兄が持ってきてくれたコーヒーを飲んでまったり会話をはじめた。
日下部はこの短時間で、すっかり兄に魅了されたらしく、やたらと恐縮しきっていた。逆に上坂の方はどう接していいのか距離感が掴めず、そっけない態度をとってしまうせいで、兄に少し不審がられてしまっていた。
「で、今日はどうしたんだ? わざわざ職場まで会いに来るなんて。いきなりだったからびっくりしたぞ」
「いや、その……迷惑をかけるつもりはなかったんだけど……」
「っていうか、本当にどうしたんだ、おまえ。今日は一段と無口っつーか……様子がおかしくね? ダウン系のヤクでもキメてんのかよ?」
「いや……そんなことはないんだけど……つーか、人をヤク中扱いすんな。あんたホントに俺の兄さんなのかよ」
「ほら、それだ。おまえが本当に俺の弟なら、心の底から憎しみの籠もった声で藤木と呼び捨てるはずだろう。兄さんなんて呼ぶわけがねえ」
「どんな兄弟だよ、それ……」
上坂がドン引いていると藤木の目が一段と疑わしげになった。どうやら本気で弟がおかしくなったと思っているようだ。自分としてはまともな反応しかしてないはずなのに、すればするほど怪しまれるのはどうしてだろう。
上坂が苦虫を噛み潰したような顔をしていると、兄から見えないテーブルの影で、日下部がくいくいとシャツを引っ張って耳打ちした。
「……上坂先輩。話を合わせとかなきゃまずいんじゃないですか? また警備員に突き出されたら、今度こそ警察行きっすよ」
「しかし、彼のことが何も分かってないのに、合わせようにも合わせられんぞ?」
「う~ん、そうですね……さっきから見てるとお兄さんは業界人。逆に、こっちがボケれば向こうが合わせてくれるかも知れません」
「そういうもんか?」
しかしボケろと言われても上坂にはハードルが高かった。彼がそんなに器用なら、恵海相手にももっと上手くやれているだろう。この場合、どうボケればいいのかなと思いながらあたりの様子を窺っていると、食堂の壁に昔見たドラマのポスターが貼られていた。確か、あのドラマの主人公は記憶喪失……これだ!
上坂は突然、頭を抱えて苦しがると、
「に、兄さん……兄さん! 頭が割れるように痛いよう!」
「お? おお、突然どうした弟よ?」
「実はついさっき、居眠り運転していたトラックに跳ねられて、死んだと思ったらそこは異世界。見知らぬお台場王国なる場所に迷い込んだかと思ったら、そこに居たのは生まれたときに離れ離れになってしまった生き別れの兄さんだったんです!」
上坂は苦しんでいるふりをしながら、片目を薄く開けてちらりと兄の顔を見た。流石にこんな強引な設定ではノッてくれないかな……と思ってると、
「な、なんだと!? するとおまえはあの時魔王に連れ去られた弟。勇者フジーキーの血を受け継いだ宿命の子、一存なのか!?」
「兄さん、会いたかった!」
「弟よー」
そして2人は何の変哲もない社員食堂のど真ん中でガッシと抱き合った。こんなアホな設定にその場の勢いだけでノッてくれる兄も凄いが、こんな寸劇が始まっても誰一人として気にする素振りも見せない業界人も恐ろしい。
ただ一人、このノリについていけずにあわあわしている日下部に対し、自分が振ったくせについてこないなんて裏切り者め……と内心罵りながら、
「それで兄さん。こいつは俺がこの世界で知り合った魔法学園の後輩、暗黒騎士クサカベ。俺は今、彼の呪いを解くべくギルドのクエストをこなしている最中なのです」
「魔法学園なのに騎士なのか。ならばこの兄が力になろう。なんでも言ってくれ、なんでも」
「本当ですか? 実は彼の呪いを解くには、神聖魔法の使い手ジーニアスボーイの助力が必要なのですが、彼は警備兵に守られていて近づけず……兄さんの力で、彼と会うことは出来ませんか?」
「あ、それは無理」
兄はあっさりと却下した。上坂は思わずずっこけた。ノリと勢いだけでなんとかなりそうな手応えを感じていたのに……
「どうして! 今、なんでもするって、言ったよね!?」
「いやあ、どうかなあ、言ったかなあ……もし裸で四つん這いになれってんならするけど、特定のタレントさんに会わせるなんてことは、例え身内相手でも出来ないぞ」
そう冷静に言って、兄は手にしていたコーヒーに口を付けた。その瞳がじーっと上坂の顔を覗き込んでいるのは、事情だけなら聞いてやると言っているようだった。彼はため息を吐くと眉間にシワを寄せながら、
「実は、ジーニアスボーイと俺は本当に友達なんだよ。俺たちは彼を追いかけて来たんだけど、あいつ、なんでか知らないけど俺達のこと知らないって言って近づけようとしないんだ。ちょっと事情があって、早めにあいつと話し合わないと困ったことになるんだけど、これじゃどうしようもなくてさ」
「それで下の受付で揉めてたのか?」
「うん、そうなんだ」
「ふーん、ジーニアスボーイと友達ねえ……ジーニアスボーイって、最近売れだしたメンタリストだろ? ユーチューブやってたってやつ」
ユーチューバーなのはこっちでも変わりないようだが、メンタリスト……GBは今、そういう肩書になってるらしい。手品師みたいな活動をしてると言うことは、彼のサイキック能力は失われてないのだろうか?
「おまえと、どこに接点があるんだ? まあ、おまえが嘘を吐いてるとは思わないけどさあ」
兄は弟の話を無条件で信じてくれるらしい。さっきから話してる限りではおかしな関係だと思っていたが、それなりに信用はあるみたいだ。
「でも、だからって俺に会わせろって言われても無理だよ。そもそも俺にそんなコネは無いし、仮にあったとしても、身内だからって特別扱いしてたらタレントさんが大変だろう? こういう業界で働いてるからこそ、そういうことはやっちゃいけないんだ。職業倫理ってやつ?」
「そこをなんとか。俺たちが困ってるってことだけでも取り次いでくれると有り難いんだけど」
「それも出来ないなあ。下手に苦情が来たりなんかしたら、部署に迷惑が掛かっちまう。悪いな」
「そう……か……」
食い下がればまだなんとかなるかも知れないが、上坂はそれ以上何も言えなかった。何しろ、相手は生まれて初めて会った実の兄なのだ。
そんな相手を困らせて、もしも喧嘩別れみたいになったら嫌だという、そういう気持ちが勝っていた。
それよりもっと話がしたい。彼がどんな生活をしてるのかが知りたい。期待しているであろう日下部には悪いが、ここは一旦話を引っ込めるしかないだろう。上坂は下唇を噛みながら、
「それじゃあ、もう一つ聞きたいことがあるんだけど」
「なんだ?」
「立花倖先生の居場所を知らないか? 兄さんの……藤木の担任だったんだろう?」
「立花……? 立花ねえ……誰だっけ、それ??」
兄はそう言って首を傾げた。本気で誰のことか分からないといった感じの表情に、上坂は血の気が引くような思いがした。
GBが駄目ならあとは先生だけが頼りなのだ。どうにかして彼女を見つけないといけないのだが、まさか兄が知らないなんて言い出すとは思わなかった。
上坂の記憶が確かなら、兄も倖の教え子のはずなのだ。でも、それは人づてに聞いただけだったし、もしかしてそんなこと無かったのだろうか? もしくは世界そのものが違ってて、この世界で立花倖と藤木藤夫は何の関係も無かったということだろうか。この世界に兄が生きているという事実自体が、そういう可能性を示しているのだ。
上坂がその可能性を考えて顔面蒼白になりかけていると、
「立花って、あんたの高校の時の担任でしょ? ほら、文芸部によく出入りしてた」
すると首をひねっている兄の背後から、一人の女性が近寄ってきた。彼女は定食を乗せた盆を両手に持ちながら、兄をお尻で横にどかすと、上坂達の正面に当たり前のように座った。
そしてすごく親しげな笑みを浮かべて、上坂に向かって言うのだった。
「一存、久しぶりねえ。新居が完成してから一度遊びに来たきりで、全然会いに来てくれないんだもん。元気してた? 私に遠慮しないで、たまには遊びにいらっしゃいよ」
「え? あ……うん……」
上坂は曖昧に返事した。その女性は物凄く親しげに話しかけてるくるのだが、誰なのかさっぱり分からない。それにしても兄が登場したときも思ったが、相手だけが一方的に知っている人に話しかけられるのがこんなに苦痛だなんて……
一体誰なんだろう、この人は……? 彼が脳みそをフル回転しながら、なんとか記憶の中から情報を引っ張り出してこようと苦心していると、それは思わぬ方向からやってきた。
「な、ま、まさか……あなたは!」
ガタガタガタっと椅子を蹴立てて日下部が立ち上がる。彼は目の前の女性の顔をガン見しながら、尋常じゃなく狼狽えていた。それはまるでライオンを見る子供のように、恐れとあこがれを抱いた畏敬の表情であった。
「あなたは、馳川小町! 馳川小町選手じゃありませんか!?」
日下部の絶叫のような声が食堂に響き渡ると、さすがの業界人たちも何事かと彼のことを一瞥した。しかしそれも一瞬のことで、すぐに興味をなくすと各々の世界に戻っていった。
どんだけ非日常的な刺激に対して免疫があるんだ、ここの業界人は……上坂は呆れながらも、興奮する日下部を宥めすかすように尋ねた。
「おまえ、彼女のことを知ってるの?」
「当たり前ですよ!」
すると日下部は上坂を真正面に見据えて、目をキラキラさせながら、今まで見たことのないような生き生きとした表情で語り始めた。
「馳川選手はオリンピックイヤーに彗星の如く現れた格闘家で、レスリングとボクシングの異種目二冠を達成したという超人伝説の持ち主ですよ! その後総合格闘技に転向して国内大会を三連覇。ロサンゼルスで行われた世界選手権でも初出場初優勝を遂げたと言う、紛うかたなきレジェンドですよ!? 先輩、まさか知らないんですか? 彼女のことを知らない日本人がいるなんて、信じられない!」
「えーと、もちろん知ってたよ。知ってた。知らないわけがない」
相手の方から話しかけてきて、新居に遊びに行ったことがあると言ってるのに、知らないなんて言えるわけがないではないか……
上坂は興奮して周りが見えなくなっている日下部にタジタジになりながら、そう答えた。
しかし上坂と親しい女性格闘家だということはわかったが、彼女と自分の関係がさっぱりわからない。その辺を突っ込まれると困るな……と思っていると、都合のいいことに彼女に興味津々の日下部が、上坂に変わって尋ねてくれた。
「お会いできて光栄です。まさか先輩の身近にこんなすごい人がいらっしゃったなんて……まじ凄いっすネ! あ、お兄さんも馳川選手とお知り合いなんですか?」
「ああ」
「へえ! お二人はどういった関係なんです?」
「どういったもこういったも……」
兄はポリポリと指先でほっぺたをひっかきながら、なんとなく言いづらそうに、
「妻だよ。俺たち結婚してるの」
その言葉を聞いた瞬間……
「えええええええええええーーーーーーっっっ!!!!」
上坂と日下部は同時に叫んだ。上坂の方が若干大きいくらいだった。その驚きっぷりに兄は若干困惑気味に、
「な、なんだよ。小町のことは知ってるのに、どうして結婚のことは知らないんだ。っていうか、一存まで一緒になって……って、あ、もしかしておまえら、からかってるのか? からかってるんだな!? ちくしょう……そう言えば記憶喪失って設定だったっけ」
兄はそう言いながらブツブツと恥ずかしそうに何か呟いている。ノリは男子高校生のそれなのに、女のこととなるとからっきしのようである。その照れる姿は上坂の中でも高感度急上昇中であったが、気になるのはそこではない。
「それじゃ、この方は俺のお義姉さんなの……? まさか、こんな綺麗な人が、こんな中途半端な顔した男の物になるなんて……世の中間違ってる!」
「おい、こら、軽く兄をディスってんじゃねえよ」
「あらやだ、綺麗だなんて……うふふふ。小町さん、嬉しくてお小遣い上げちゃうわよ、お小遣い」
上坂が呆然としていると、小町はニコニコしながら手にしたハンドバックから財布を取り出して。その分厚い財布から、指先をぺろりと舐めて札束を取り出すと、ひーふーみーと万札を数えだす。
「あ、こら! 財布を取り出すな。いつまでも一存を甘やかすんじゃない!」
「いいじゃないのよ、あたしが稼いだあたしのお金をどう使ったって」
2人は押し問答しながら財布を出したり引っ込めたりしていた。まさか小遣いをくれるなんて思いもよらず、最初は辞退しようと思ったが、手持ちが無いことを思い出してありがたく受け取っておいた。
金の使い方で夫婦喧嘩が始まりそうな雰囲気になってしまったので、上坂は慌てて話を切り替えようと、
「ああ、ああ! 喧嘩しないでよ! それよりちょっと小町さんに聞きたいことがあるんだけど」
「小町……さん?」
彼が彼女をさんづけで呼ぶと、小町は訝しげに首を傾げた。これは兄のときと同じパターンだろう。
「小町……ねえさん? 小町……ちゃん?」
「うん」
「小町、ちゃん……小町ちゃん。聞きたいことがあるんだけど、さっき立花先生のことを知ってるって言ってたよね?」
上坂がそう言うと、彼女は一瞬何のことかな? といった感じの表情をしてから、すぐになんのことかを思い出して、
「ああ、あんたの言う立花先生ってのが立花倖なら、知ってるわよ」
「そうか、良かった。兄さんの……藤木の担任って聞いてたのに、彼が知らないっていうもんだから」
「そんなわけないわよ。あんたたち結構仲良かったじゃない。藤木、覚えてないの? ほら、文芸部にさ、いつも学年主任に追っかけられて逃げ込んできた……」
小町が兄にそう言うと、彼は困惑気味に眉を顰めた。というか、どうして妻にまで藤木呼ばわりされてるんだろう、この兄は。
兄は少し考えた後、何かを思い出したかのように、手のひらをぽんと叩いて、
「立花倖……倖ねえ……ああ! ユッキーのことか! おまえ、ユッキーのこと聞いてたの? いやあ、懐かしいなあ。まさか高校の頃の担任のことを聞いてるなんて思わなくってさ。普通、大学か院の話だと思うだろ?」
兄は一人で納得したように頷いてる。一度は途切れそうになった道が繋がった。上坂は勢い込んで彼に聞いた。
「やっぱり、立花先生のことを知ってるんだな?」
「ああ、高校の時の担任の先生だよ。一応部活の顧問でもあったな。いつもあだ名で呼んでたからすっかり忘れてたよ」
「よかった……実は先生に連絡が取りたいんだ。彼女の連絡先を教えてくれないか?」
「はあ~? そんなの知ってるわけ無いだろうがよ」
「ど、どうして!? 凄い仲良かったんじゃないの??」
兄はまるでバカでも見るような表情で目をパチクリさせながら言った。
「担任だったからって、その連絡先なんか普通知らねえよ? 大体、俺の担任だったのって……かれこれ17~8年前のことだぞ? 寧ろ、そんな先生のことを弟に聞かれるなんて、そっちの方がわけわからんよ。一存……おまえ、本当にどうしたんだ? さっきから、記憶喪失だとか、ジーニアスボーイだとか……何かヤバイことにでも巻き込まれてるんじゃないだろうな?」
彼の瞳が探るような目つきに変わる。どうやらさっきからの煮え切らない態度のせいで、ついに兄に疑われ始めてしまったらしい。上坂は慌てて話題を変えようと考えを巡らせたが、それを制するかのように兄が言った。
「そう言えば、そっちの彼はさっきからおまえのことを先輩って呼んでるよな? 今年、大学に進学したばかりなのに、どうしてもう後輩がいるんだよ?」
「え!?」
そのセリフに日下部の方が反応した。彼はあっちの世界で美空学園にいるから、上坂が年齢的にも高校生だと思っていたようである。実際には大学一年のはずなのだが、色々と事情がありすぎて高校に通っているだけなのだ。
だが、そんなことを知らない日下部が不用意に反応する。兄はその表情を見て、いよいよ不信感をつのらせたようだった。上坂はとっさに、
「高校の時の後輩なんだよ。去年まで一緒の学校に通ってたんだ」
「へえ、そうなのか。日下部くんだっけ……? じゃあ、君も成美高校なの?」
「え、あ、はい。そうです。そうなんです」
「なら、俺の後輩でもあるな。社会科の佐藤ってまだいるの?」
「え? えーっと……どの佐藤でしょうか」
日下部は若干戸惑っていたようだが、流石にここで違うといってしまうほどバカではなかったらしい。上坂はだらだらと冷や汗を垂らしている日下部の尻をつねりつつ、これ以上この話題を掘り下げられないように話題を変えようとした。
「まあ、そんなわけでさ! 俺たち、ジーニアスボーイに何とか会えないかと思って、お台場テレビまで来たわけ!」
「ん? ああ、そうなんだ。ふーん。力になれなくて悪かったな」
「いや、こっちこそ、兄さ……藤木が局内に居るって知らなくってさ、ダメ元で受付を突破しようとしたら、ガードマンに捕まっちゃったんだよ。迷惑かけないつもりでかえって迷惑かけちゃったならごめんね」
「まあ、いいさ。でも今度から電話してからこいよ?」
「うん、わかった。それじゃそろそろ、俺たちは帰るよ」
「出口わかるか? 下まで送っていくよ」
上坂が日下部に目配せして立ち上がると、兄も一緒に立ち上がった。口では送っていくと言っているが、多分局内を勝手にぶらつかないように見張るつもりだろう。ワンチャン、GBに接触できる可能性を模索したが、もうこれ以上は迷惑もかけられない。上坂は諦めると、先を行く兄の後に続こうとした。
「ジーニアスボーイって、あのペテンデブのことかしら? メンタリストとかいう」
すると、上坂達と話していて、すっかり食事を食べそこねていた小町が、パスタをフォークでくるくるしながら言った。
「あれならあたしの後輩に当たるから、事務所通せば会えるかも知れないわよ?」
観念してテレビ局を立ち去ろうとしていた2人は、驚いて背後を振り返った。先を歩いていた兄が若干迷惑そうに言う。
「おい、小町ぃ~……そうやってタレントのプライベートを勝手に売り飛ばすような事言うんじゃないよ」
「いいじゃない、別に。うちの事務所の問題でしょ」
「しかしだなあ」
「可愛い一存の頼みだもん。なんだって叶えてあげたいわ。大体、テレビ局の人が思うほどタレントのプライバシーなんて大した値打ちもないわよ。寧ろ使えるコネを、使える時に使わないほうが損失ってもんよ。そんなんだから、あんた万年サラリーマンなのよ」
「う、うっさいなあ。おまえの収入が不安定だから、俺がこうして安定した職に就いて養ってやってるんじゃねえか」
「あーら、それはどうもありがとう。ところで、ねえ、あたしの去年の納税額言ってみ? ん? 去年の納税額言ってみ?」
「くっ……この女、仕事ないときはマジ無収入のくせしやがって……」
兄夫婦がこっちの存在を忘れてイチャイチャし始めそうだったから、上坂は割り込むようにして言った。
「っていうか、小町ちゃん、それほんと? ジーニアスボーイに会わせてくれるの?」
「いいわよ」
「そうしてくれるとマジ助かるんだけど……つか、事務所? 小町ちゃんもテレビ局員じゃなかったのか」
思わずそんなことを口走ると、小町は何言ってるんだろうこいつ、と言った顔で、
「当たり前じゃない。もう何年女優してると思ってるの? まあ、確かに、仕事ないときはホントに無いけどさ……」
「女優! そうか、女優さんか……格闘家って聞いて最初はびっくりしたけど、女優さんなら納得だ。小町ちゃん、凄い綺麗だもんねえ」
感心した上坂が思わずそう本音を漏らすと、小町の表情が一瞬にしてパーッと輝いたかと思うと、すぐに真っ赤に染まり、涙目になってプルプルと震えながら、彼女は手にしたハンドバックから財布を取り出して、
「一存……? あんた、本当にいい子に育ったわね。お姉さん、お小遣いあげる。あげちゃう」
「ちょっ! おいこらっ! 財布ごと差し出そうとするんじゃないっ!!」
慌てて兄が止めようとするが、彼女はもはや眼中にないと言った感じに、
「放して! あたし、この子に貢ぐ。この子に貢ぐって決めたのよ!」
「だから、甘やかすなっつってんだろ! おい、一存も不用意なこと言ってんじゃねえ!!」
「え? 俺!? えーっと……小町ちゃん、そんなお金はもういいから」
「遠慮しないで! あの日この子が生まれた日、あたしは病院でこの子を抱いた時、一生大切にするって神に誓ったのよ!」
その後、騒がしい寸劇に慣れてる業界人たちもドン引きして遠巻きに眺める中、警備員に追い出されるまで、三人は揉みくちゃになりながらラグビーボールのように財布を投げあった。
小町の持つ財布はずしりと重く、どのくらい稼いでいるのか想像もつかないほどだった。兄はそんな美しい彼女に愛されて、毎日楽しく暮らしてるんだと思うと、上坂は何とも妙な感じがして、体がふわふわと浮いてくるような気分だった。




