2つの塔
それから一週間が経過した。集中治療室に入れられたGBは、一度も目覚めることなく、予断を許さない状況が続いていた。
上坂と日下部は交代で集中治療室前の椅子に陣取って、いつ目覚めるか分からない彼の回復を待っていた。最初のうちは迷惑そうにしていた病院の職員たちも、彼らの友達を思う気持ちが本物だとわかってくると、段々と便宜を図ってくれるようになっていった。
残念ながら家族でないから詳しい話は聞かせてもらえなかったが……病院の職員たちの話ではGBの容態はいい意味で安定しており、急変することはないだろうとのことだった。ただし、いつ起きるかはやっぱり分からないらしく、心配なのは分かるが、そろそろ自分たちの生活の方を優先したほうが良いと諭された。
いつの間にか8月も下旬に差し掛かっており、もう少ししたら新学期が始まってしまう。そうしたら、今までみたいに交代で一日中病院に詰めているわけにもいかないだろう。新学期が始まれば日下部は登校せざるを得ないだろうし、上坂だっていい加減にドイツ行きを真面目に考えなければならない。そろそろ潮時なのだ。
ところで、自分たちがずっと集中治療室前に居たから言えることだが、信じられないことにGBの両親は一度も病院に現れることはなかった。
上坂と違って彼が天涯孤独なんて話は聞いたことなかったし、確か担任の鈴木が連絡をしたと言っていたはずだ。なのにどうしていつまで経っても現れないのだろうか?
本当に彼の両親は存在するのかと、上坂達がその実在を疑い始めていたところ、結局、またその疑問に答えてくれたのは、上坂達同様GBの様子を見に来た鈴木だった。
その理由は非常にシンプルで、シンプル故にショックが大きい、そんな類の話であった。
曰く、GBの両親は、家庭内不和が酷すぎて息子に関心を示さないらしい。彼の両親はどっちも相手を憎むあまりに、相手の生き写しである息子を好きになれないのだ。2人は結婚後すぐにお互いの愛が冷め、GBの出生後は、お互いにお互いがいないように接して現在に至るのだそうだ。
信じられない話だが、GBはそんな理由で両親から無視されて育ったのだが、それでいて二人は世間体を気にして、いつまで経っても離婚もしないから、彼の性格はどんどん歪んでいった。
サイキックになってから彼は度々騒動を起こしているのだが、両親は他人事状態を貫いており、おまけにいくら彼が補導されても、超能力犯罪は証拠が残らないせいで裁かれないから、尚更彼は両親に相手にされなくなっていったようだ。
上坂は世の中にそんな醜い親がいるのかとショックを受けたが、かと言って何か出来るわけもなく、ただ悶々とした気持ちだけが残っていた。
酷いのはGBの両親だけではない。
あの日のニュースで、全国に流された外田の悪評は留まるところを知らず、この一週間で宗教裁判じみてきた。
ワイドショーでは連日連夜暴力教師の話題でもちきりで、どの局も飽きもせずそれを繰り返し、暇な者たちがSNSで拡散した。確かに暴力は許されないし、パワハラ教師を叩くのは手軽に正義心を満たせて気分がいいのだろうが、それにしたって叩かれ過ぎで、上坂は首を捻らずに居られなかった。他に話題はないのかと言うくらい流れるのだ。
しかもその内容は偏ってて正確な情報は一度として流されたことはなかった。GBや日下部の話は全く出てこないし、不良たちがイジメを行っていたことはおろか、今となっては彼らの存在自体が全く話題に上ってこなくなっていた。
好意的に見れば、それは未成年を守るために敢えて報道していないと考えることも出来るが……ゲスな週刊誌まで同じ論調なのはどうにも解せない。何か裏があるんではなかろうか? 上坂はすっきりしない気持ちを抱えていた。
そして、それは間もなく判明した。ある日のこと、寝ずの番を日下部に任せて寺に帰った上坂が、着替えを済ませ、再度病院を訪れたときだった。
その日は病院の玄関前に、見慣れぬ黒塗りのリムジンが停められており、誰か偉い人でも来てるのだろうかと思いながら病院内に入っていくと、いつも上坂たちが陣取っていた集中治療室前の待合室に、見知った顔を見つけた。
数日前、ドイツ行きを直談判したホープ党の御手洗である。
待合室に入ろうとしていた上坂は、どうしたものかと戸惑った。あの日、彼は立花倖と一悶着あって、最終的には怒って帰ってしまっていた。だから、上坂はなんとなく声を掛けづらくて、遠巻きに彼のことを眺めることしか出来なかった。
何で彼がこんな場所にいるのだろう? 早くどっか行ってくれないかな……そんなことを考えていると、ところがそんな上坂の姿を見つけた日下部が、彼に空気を読むなんて芸当が出来るわけもなく、
「あ、上坂先輩! おかえんなさいっす」
と声を掛けてきたことで、まだこちらに気づいてなかった御手洗とバッチリ目が合ってしまった。
御手洗はそんな上坂の姿に気付くと、一瞬だけバツが悪そうな顔をしてから、すぐに政治家らしい何を考えているか分からない自信満々な笑みを浮かべながら歩み寄ってきた。
こうなっては仕方ない。上坂もペコンと頭を下げて、
「どうも……」
「これはこれは上坂君。こんな場所で会うなんて。病院に何か御用ですか? 私は所要で少し立ち寄っただけで、すぐに党本部に戻らなきゃいけないんですけど」
おそらく御手洗は上坂がドイツ行きについて、また話を蒸し返しに来たと思ったのだろう。時折、腕時計を気にする素振りをしながら、あまり長居したくないといった雰囲気を演出しているようだった。
だが、今日ここで会ったのはただの偶然であり、ドイツ行きについてあれこれ言うつもりはまったくなかった上坂は憮然とした表情で、
「俺は友達の見舞いに来ただけですよ。実は先日、学校で事件があって……」
「事件……? あ、もしかして、被害者の少年に一晩中付き添っていたのって、君だったのか?」
「……あなたの言ってる被害者が、本物の被害者の方ならね」
上坂がふてくされるようにそう言うと、御手洗は少し考えてから、さっきまでの忙しそうな素振りをやめて話し始めた。
その表情は最初の何を考えてるかわからないような笑顔とは違って、どこか真剣味を帯びたものに見えた。
「その様子だと、報道を見て憤ってる感じですね」
「……と言うと、御手洗さんもニュースで言ってることは、嘘っぱちだってことに気づいてるんですか?」
すると彼は首肯して、
「あれはリバティ党の攻撃です」
上坂はまさかそんな言葉が出てくるとは思わず面食らった。政治家が、外田なんかを叩いて何の意味があると言うのか。上坂がポカンとして首を捻っていると、御手洗は実に不快そうに眉を顰めながら、
「都知事選が近いからですよ。現在の知事の任期が間もなく終わるのですが、知事は3選をかけて出馬する予定なのです。リバティ党は対立候補を立てるつもりですが、都政が盤石な状態では現知事に勝てる見込みはありません。ところが、こんなときに都立高校の美空学園で、教師が暴力事件を起こしたらどうなるでしょう? 彼らは知事の責任を追求できる攻撃材料を探してるわけです」
上坂は唖然としながら、
「そんなことで……? だったら、尚更のこと、本当のことを話したほうがいいんじゃないですか。確かに外田は悪かったけど、あんなの喧嘩両成敗でしょう」
すると御手洗は首を振って、
「教師と生徒、大人と子供じゃ立場が違いますよ。それに、困ったことに外田先生には前科がありまして……それも攻撃対象になってるんですよ」
「前科?」
「おや、外田先生の経歴をご存知ない……? まあ、入学したばかりですもんね」
御手洗は一人で納得したように頷いてから、
「外田先生は今から10年くらい前まで、甲子園常連校の監督だったんですよ。ところが、彼らしいと言ったらなんですけど、この野球部がものすごいスパルタだった。そのせいで、結構恨みも買ってたみたいで、ある時、匿名でスポーツ庁に告発されちゃったんです。
当時は五輪前で世間の目が一時的に厳しくなっていたのか、スポーツ界のパワハラ告発が頻発していて、それを面白おかしくワイドショーが煽ってたんですよね。外田先生もこの流れでテレビで取り上げられて、批判を恐れた学校からあっさり解雇されてしまい、浪人の憂目にあった。
以来、彼は高校野球界に戻ることなく、淡々と教職を続けていたのですが、過去はどうあれ、不良を更生させる手腕は確かでしたから、そこを買われて美空学園に指導教員として赴任したんです。もちろん、体罰はいけないことだと思ってますが、こうした荒事に長けた方も、時には必要ですからね」
「そんな過去があったんですか……」
美空学園の特殊性もあっただろう。何しろ、生徒のほとんどが、過去に何かしらの事件をやらかした経験があるのだ。
「ええ、ところで我が美空学園は見ての通り、グラウンドやスポーツ設備にかなり力を入れてるんです。不良を更生させるには、何かに集中させるのが一番ですし、やっぱり汗を流すのがいいでしょう? 当然、外田先生にもそのことをお願いしておりましたし、彼がやるからにはやっぱり野球部じゃないですか。それで、彼には生活指導の他に、野球部の監督をやってもらっていたんですが……あの不良生徒たち、そこで落ちこぼれた連中だったようですね」
部活動に興味のない上坂は知らなかったが、美空学園の運動部は結構本格的なようである。そんな中でも外田の野球部は群を抜いてスパルタで有名だったらしい。となると当然、落ちこぼれも出てきて、むしゃくしゃしている彼らは、影でコソコソ弱い者いじめを始める……
外田はそんなことを知らずにGBを追っかけて校舎裏に行き、そこで自分が指導している野球部員が日常的にイジメを繰り返していることに気がついた。そして元々怒りっぽい彼は、手がつけられないほど興奮してしまった。
「そんなわけで、事件のことを話したがらないのは、外田先生もそうなんです。彼もやりすぎてしまったと自覚してらっしゃいますし、あれだけ鉄拳制裁したからには、不良生徒たちももう十分反省しているので、これ以上の罪を追求するつもりはない。責任は自分で取るってことでしょう。
それに、美空学園に転入してくる子達は、基本的に元の学校でもトラブルを起こしてる生徒だらけなので……もしも今回のことが発覚すると退学か、下手したら少年院送りになってしまうので、教職員の方々もそこまではしたくないと、事件を公にするのを嫌ってるんです」
頭では理解できる。だが心情的には納得が行かない。上坂は下唇を噛みながら、
「それじゃあGBや日下部のことはなかったことになってしまうじゃないですか……」
そりゃ、不良生徒たちも痛い目を見て十分に制裁を受けたと言えなくもないだろう。だが、そんなのは外田の自己満足に過ぎず、本当の被害者は何も救われてないではないか。このまま事件をなかったことにしては、彼らの気持ちが晴れることはないだろうし、被害者と加害者が、何事もなくまた同じ学校に通い続けるなんて、おかしいのではないか。
だが、学校としても、それを運営している東京都としても、ことをこれ以上荒立てるつもりはないようだ。それは今後行われる選挙戦を見越してのことなのだろうが……そのせいで犠牲になったんじゃ、GBは浮かばれない。
「御手洗先生、医師の準備が整ったようです。よろしいでしょうか?」
上坂がそんなことを思って義憤にかられていると、2人の元へ看護師がやってきた。
彼は看護師に向かって軽く頷くと、思いついたように上坂の方を向いて、
「実はこれから、お医者様に入院中の三千院君の容態について説明を受ける予定なんですけど、一緒に来ますか?」
「良いんですか?」
「私に出来るのはそれくらいですが……力になれなくて申し訳ない」
上坂は頷くと、彼を待っていた日下部と共に、御手洗の後に続いた。
集中治療室からほど近くにあった、パソコンが一台置かれただけの簡素な談話室のようなところへ彼らは通された。そして上坂達は、ディスプレイに映し出されたGBのレントゲン写真や脳のスキャン画像、血圧や心拍などの情報を示されながら、現在の彼の容態を説明された。
上坂は、昨日校舎裏で殴られてからそろそろ一週間にもなるのに、いつまでも目覚めないGBの容態は、よっぽど深刻なものだと覚悟をしていたのだが……
ところが医者が示した彼の体の調子は深刻どころか、もっと意外なものだった。
「……どこも悪くない??」
「はい。患者は外傷も少なく、レントゲンを見る限り骨折などもしておらず、傷はあと2週間もすれば綺麗に治るでしょう。ところが、いつまで経っても目を覚まさないので、私達は始め脳の異常を疑ったのですが……こちらの方も全く何の問題もなく、いたって健康そのものなんです」
上坂は困惑して医師に尋ねた。
「それじゃ、どうしてあいつは起きないんですか? 本当に、どこも悪いところはないんですか?」
「ええ、私に言わせれば起きないほうが不思議な状態です……ただ」
「ただ?」
「思い当たることが一つだけありまして、確か、患者は美空学園に通う超能力者なんですよね?」
そのことに何の関係があるのだろうか? 医師は御手洗に確認するようにそう尋ねて、彼が頷くのを見ると、
「実は似たような症例がありまして……」
そう前置きしてから、実に言いづらそうに話を続けた。その素振りからして、彼自身はそんなものを信じてないと様子がはっきりとわかった。
「実は最近……国内の、主に都内の若者に限った話なのですが、今回と同じようになんらかの怪我や精神的なショックで気を失った患者が、その後体の方が回復しても意識を取り戻さないという症例が相次いでいるんです。体は健康そのもの、脳に異常もない。なのに目を覚まさない、まったく原因が不明なことから、ついた名前が眠り病と……」
「眠り病……?」
上坂は眉を顰めて記憶をたどった。それって、つい最近、どこかで聞いたような……すぐに思い出せないのは、記憶違いか、よっぽど他愛のない会話に紛れ込んでいたかだろうか……?
医者は暑くもないのに額に浮かんだ汗を拭いながら続けた。
「はい。何のひねりもありませんが。それで眠り病らしき患者を抱えている病院同士で意見交換を行っているのですが、それによると、どうやらこの病気にかかる患者は、思春期特有の自己承認欲求が強い傾向が見られまして……もっと言ってしまえば、超能力者の資質が極めて高いんです」
「三千院君は、その可能性が?」
「……正直なところ、患者の容態で1週間も目が覚めないことは、現代の医学ではありえないことなんです。このまま目覚めないのであればあるいは……」
上坂は歯切れの悪い医師に向かって尋ねた。
「それはどのくらいで治るんですか?」
すると医師は黙って首を振り、
「わかりません」
「……わからない?」
「この病気の患者は、現在都内に相当数いるのですが、少なくとも私が聞いた限りでは、眠り病にかかって目覚めたという患者は、まだ一人もいないはずです」
「そんな……」
上坂は絶句した。
GBとは別段親しいというわけではない。付き合いだってそんなに長いわけでもない。冷たいようだが友達と呼べる間柄でもない。だが、それでもここ2ヶ月、いつも学校で一緒だったのは彼だったのだ。
上坂とGBは2人とも人付き合いというものが苦手で、そんな2人がたまたま同じ日に転校してきたということから、なんとなくセットで扱われていた。グループを作らなきゃいけないようなときに相手を利用するというような、そういう消極的な関係だったけれど、だからこそ無くてはならない相方だったのだ。
ドイツに行くということも、いずれ彼には言わなければならないと思っていた。本当だったらあの日も鈴木に報告した後に、彼に話すつもりだったのだ。なのに、そんなGBが下手したらもう目覚めないなんて……
そんなこと、あっていいのか?
彼は別に、何か悪いことをしたわけじゃない。ただ単に、イジメを止めようとしただけじゃないか。寧ろいいことをしようとしてたんじゃないか。なのに、彼をイジメた者は罰されることもなく、外田は勝手に自己犠牲に浸ってて、なんで一番の被害者であるGBがこんな酷い目に遭わされなきゃならないんだ。
「おかしいだろう……」
奥歯を噛み締めながらそう呟くと、顔面蒼白の日下部と目が合った。上坂の方はただ悔しがってればいいだけだが、彼の方は自分の責任だという思いがどうしても拭いきれないだろう。
いや、上坂だってそうなのだ。あの時、外田のシゴキに耐えきれず、GBを誘ったりしなければ……補習を受けて何事もなく帰ってさえいれば……
でも、その場合は日下部のイジメがずっと続いたということだし、そっちの方がマシだと思ってしまうことが、また彼の良心を苦しめた。
どうして、そんなことを被害者である日下部や自分が考えなきゃいけないのか。
どうして、彼の両親は見舞いにすらこないのか。
どうして、加害者である不良たちがここにいないのか。
今更、あの不良たちのことを、どうこう言うつもりはない。外田に責任を取れなんて思ってもいない。両親が来ようが来まいが、不良たちが謝罪しようがしまいが、もはやそんなの関係ない。
ただ、GBが回復すればそれでいい。彼さえ回復すればそれでいいんだから……と、上坂は居もしない神に向かって祈りを捧げた。
その時……
「……上坂君? 上坂君。大丈夫ですか!?」
ズキンと頭に激痛が走って、上坂はフラフラと体から力が抜けていくのを感じた。
頭痛のせいで体にまったく力が入らない。
弛緩した腕がだらりと垂れ下がり、全体重を背もたれにもたれるように脱力すると、首がすわらなくなった彼は焦点の合わない視線を天井に向けた。
ズキンズキンと頭痛はひどくなる一方で、吐き気までしてくる有様だった。
「----!! ----!!」
隣に座っていた御手洗が何か叫んでるようだったが、もはやその言葉は聞き取れない。
突然ハアハアと呼吸を荒げて冷や汗を垂らした彼を見て、医者が驚いて駆け寄って来る。次の瞬間、眩しい光が目に差し込んで、彼は視界を奪われた。どうやら、医者がペンライトで瞳孔反応を見ているらしい。
だが、そんなことをしても無駄だろう。多分、彼の体はどこも悪いところはないはずだ。何故なら、彼はこの頭痛の正体を知っていた。
上坂の能力が、今、発動しようとしているのだ。
******************************
キイイイーーーーーン……
っと酷い耳鳴りに見舞われて、彼は意識が飛びそうになった。いつもは能力が発動するなり、頭痛は消え去ってしまうはずなのに、今日に限っては何故かいつまでも頭の中から不快な耳鳴りが消えることがない。
キイイイーーーーーン……
っといつまでも鳴り続ける耳鳴りのせいで、彼は平衡感覚を失っていた。眼の前は真っ暗で何も見えない。自分がどこにいるのかも、立っているのか座っているのかも、今の彼には分からなかった。
キイイイーーーーーン……
っと、しつこい音はいつまでも続く。それがなんだが移動しているように思えてきて、彼は困惑した。どうしていつまでも頭痛がやまないんだ? ……いや、今、自分は本当に頭痛がしているか? よくよく落ち着いて考えてみたら、頭はそんなに痛くないような気がする。
じゃあ、さっきから聞こえてくるこの耳鳴りの正体は、一体何なんだ? どうしてさっきから目の前が真っ暗なんだ?
これは何かおかしいぞ。変だ。そう思った時、彼は単に自分が目をつぶっているだけだと言うことに気がついた。
そして、何だ、そんなことだったのかと思いながら、パッと目を開けた時、
キイイイイイィィィーーーーーン!!!!
っと、巨大なジェットエンジンの音を響かせて、手が届きそうなくらい目の前を、巨大な機影が通過していった。
「うわあああーーーーっっ!!!!」
上坂の頭上を、ボーイング787が通過していく。
その巨大な姿と、あまりに突然の出来事に驚いて、彼が悲鳴を上げて飛び上がった。
すると、たまたますぐそばを散歩していたらしき犬が、キャンキャンと吠えかかってきた。びっくりして身をすくめる上坂に向かって、ごめんなさいと繰り返しながら、飼い主が犬のリードを引っ張っている。
何だこれは? 何だこれは? 一体、何が起こってるんだ?
周囲を見渡せば、いつの間にか上坂は開けた公園の芝生の上に寝転がっていた。
辺りにはヤシの木が生えていて、すぐ近くに砂浜が見えることから、どうやらここはどこかの海岸らしい。
彼はいつまでも吠え続ける犬から逃げるように後退ると、飼い主に頭を下げて走り出した。
気になっているのは場所だけではない。さっきの飛行機、あれはなんだ?
困惑しながらたった今、彼の頭上を通過していった飛行機を探すと、公園を飛び越えた先にある埠頭に見える空港に着陸しようとしている姿が見えた。
彼はその機影が吸い込まれていく空港から伸びる2つの管制塔のシルエットを見て、腰を抜かしそうになった。
その2つの塔には見覚えがあった。
かつて、毎日のように見ていたから見間違いようがない。だが、だからこそ、それがそこにあることが、彼には信じられなかったのだ。
それは5年前、公式発表では隕石に……立花倖が言うには反物質爆弾に吹き飛ばされたはずの、羽田空港だったのだ。




