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終末の笛吹き男  作者: 水月一人
第三章・上坂一存の世界
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私は見逃されたんだ

 静止した世界の中で、上坂とアンリは2人きりで話をしていた。彼女があの日、シャノワールで上坂にぶつけようとした怒りの原因は、やはり彼女の身の上に関係があった。彼女の父親は、上坂が作ってしまった兵器によって、その生命を落としたのだ。


 彼女は父親を失った後、紆余曲折を経て東京のクロエの店の厄介になることになったらしい。そこに至るまでの彼女の半生に、一体どんなことがあったのか……彼女はどこか他人事みたいな口ぶりで淡々と話し始めた。


 どうしてそんなに他人事みたいなのか? それは彼女の心境を吐露するには、あまりにもそれが過酷だったからに違いない。


「私のパパはテロリストだったのよ……って言っても、パパは私の本当のパパじゃなくて、国籍も人種も違う、フランスに出稼ぎに来ていたクルド人だったのよ。とても真面目な人で、最初はレストランの厨房で皿洗いの仕事だけをやってたんだけど、少しずつ他のことも任されるようになっていって、気がつけば一人前のシェフと同様に扱われるようになっていった。


 お店のオーナーさんはとても良い人で、パパに出稼ぎじゃなくてフランスに定住し、ちゃんと契約しないかって持ちかけてたんだけど、パパはそれを固辞して安い賃金のまま働き続けていたの。今にして思えば分かるけど、多分、そうしてしまったらお店に迷惑がかかるって思ってたのね」


 彼女はそう言うと、目を伏せて唇だけで笑ってみせた。その顔がすごく穏やかなのは、きっと思い出しているその人に対する信頼がそうさせるのだろう。


「私のママは娼婦でさ、それもプリティ・ウーマンに出てくるような上等なのじゃなくて、本当にカネさえ貰えればどこにでも行く、便所みたいな人。私が生まれたのも、単に彼女が避妊を怠っただけの話で、私は本当の父親が一体誰なのか、はっきり言って全然わからないのよ。


 でさ、パパは店の悪い先輩たちに連れられて、ある日私達の住んでた貧民街に遊びに来たのよ。先輩たちは良かれと思って、真面目なパパに女遊びを教えようとしたのね。彼は戒律があるから嫌だったみたいだけど、逆にそんなだからすごく初心でさ、はじめての相手だったママにどんどん入れ込んでいったみたい。それからは非番の日になると、先輩たちが居なくっても一人で街にやってきて、何度もママのところに通ってさ、ママに他の客を取らないで欲しくてせっせと貢いでたみたいね。


 でも、ママはそんなパパのことを始めはお客だと思って親切にしてたけど、どんどんなおざりになっていった。終いにはもう来ないでくれって拒絶されて、それでも諦めきれないパパはしつこくママに付き纏って、よく突き飛ばされたり罵られたりしてたわ。その時、私はまだ9歳だったけど、もう客を取らされていてね……」


 話の流れで当たり前のような口ぶりで言ったが、彼女の口からそんな言葉が出た瞬間、上坂はびっくりしすぎて思わずゲホゲホとむせ返った。その反応が大げさ過ぎたから、アンリは驚きよりも、何だか罪悪感のようなものを抱いたようで、上坂の背中を擦りながら、拗ねた子供みたいに口をとがらせ、言い訳するように続けた。


「そんなに驚かないでよ……世の中にはさ、みんなに見えてる綺麗な世界だけじゃなくって、見えないところに汚い世界が転がってるのよ。私はまだ年端もいかない子供で、セックスなんて出来っこ無かったけど、そういう子供を裸にしていやらしいことをするみたいな、そういう需要はあったんだ。


 私はそんな仕事をママに言われてやっていた。別にそれがおかしいとか、嫌だって気持ちはまったくなかったわ。だって、自分の周りはみんなそうしてたんだもん。友達なんて呼べるような子はいなかったけど、子供は子供の付き合いがあるからさ、おまえがやってるなら、じゃあ私もやってても別にいいやって。


 もちろん、今はこんなこと絶対ごめんだって思ってるわよ。そういう当たり前のことを、パパが教えてくれたからさ」


 彼女はそういうと、少しだけ表情を固くして続けた。


「でも、結局のとこ、私がパパと一緒にいられるようになったのはこういう境遇のお陰だったのかも知れないわ。パパはずーっとママのとこに通ってたんだけど、ある日面倒臭がって、私をパパのとこに行かせたの。あの人、お金くれるからよくしてやってあげなさいって。私は言われたとおりにパパのとこへ行ったんだけど、パパはそんな私を見てショックを受けたみたい。


 すぐにママのところへ飛んでいって、こんなことはしないでくれって懇願したのよ。でも、そんな彼の行動が、ママには煩わしくて仕方なかったのね。それから先、2人はずっと口論ばっかりしてて、私はおまえのせいだってママに叩かれて酷い目にあったわ。だから最初はパパのことが嫌いだったんだ。


 パパはそれ以来、ママを抱くこともせずに、ただお金を貢いでたみたいね。ママは嫌がってはいたけど、結局お金をくれるからパパのことを遠ざけずに、そういう関係が暫く続いたわ。


 でも、こんなこといつまでも続かないでしょう。パパは給料の殆どを故郷に仕送りもせずにママに貢いでいたせいで、日に日に生活が困窮していった。だから、ある時、パパのレストランのオーナーさんが見るに見かねて密告したらしいわ。それで人権団体みたいのが動いて、私達子供は一斉に保護されて、ママたちは逮捕されて連れて行かれたわ。


 その後、ママたちに子供を養育する能力が無いと判断された私みたいな子供たちは、みんな保護施設に入れられたり、誰か親切な人にもらわれていったわ。私もそれで田舎の施設に預けられそうになったんだけど、そうなりそうだったところをパパに引き取ってもらったの」


 上坂はそれを聞いて胸が苦しくなった。彼女も自分と同じだったのだ。子供の頃に、理不尽な力に引き剥がされて、彼らは天涯孤独の身となった。それを、上坂の場合は立花倖が、アンリの場合はパパが助けてくれたのだ。


 そう考えると、今までは特になんとも思っていなかった相手に、すごく親近感が持てるように思えた。だが、それはフェアじゃないだろう。何しろ、上坂にとって大事な先生は生きていたけれど、多分、彼女のパパはそうではないからだ。


「引き取られた当初、私はパパのことが苦手だったわ。ママと私、それからみんなのことをバラバラにした人だって思ってたから。でも、一緒に暮らし始めて暫くすると、自分の方がおかしかったんだなって段々分かってきたの。あの生活が凄い悪いことだってのがわかったし、ママが私にしていたことも酷いことなんだなって、理解できるようになっていった。


 そしてパパはとても親切な人なんだって分かってくると、今度はどんどんパパのことが好きになっていったわ。本当は自分の生活だけで精一杯だったはずなのに、私のことを引き取って、いつも私のために時間を割いてくれる。フレンチのシェフだったから、料理がすごく上手で、私は今まで見たことも聞いたこともないような料理をいっぱい食べさせて貰ったわ。神様みたいな人って居るんだなあって、その時は本当にそう思ったよ。レストランのオーナーさんも、パパの職場の先輩達も、みんな親切にしてくれた。とても幸福な日々だった。


 でも、そんなパパには秘密があったのよ。そう、彼は中東のとある国からやって来た、テロリストだったの」


 穏やかな日々が終わるのはいつも唐突なものだ。彼女はやっと性的虐待から解放されたと思ったら、また別の問題に巻き込まれていったのだ。


「パパは主に故郷からやってくる工作員の世話をしていた。潜伏場所や仕事の紹介をしたり、工作員同士の連絡係なんかもやってたみたいね。で、そんなところに私が転がり込んできたから、パパは仲間たちにすごく責められてた。どこから足がつくかわからないような仕事をしてるのに、私みたいな子供が居たんじゃ当たり前よね。このまま黙っていたら私はパパと引き剥がされる。だからそう思って、私は自分が使える子供だってアピールし始めた。


 私は生まれはどうあれ生粋のフランス人だったし、子供だったから、使いようによってはテロリストたちにとって便利な存在だった。私は足手まといにならないように必死に勉強したわ。仲間から武器の使い方を学んだり、コンピュータの扱い方も独学で勉強して、解剖学と人の殺し方を覚えた。色仕掛けで実際にロリコン親父を罠にはめたこともあった。そうして私は組織の中での居場所を確立していった。


 でも、パパは私が裏の仕事をすることをすごく嫌っていた。パパは自分と一緒にいるからこうなってしまうんだと思ったみたいで、この頃から私のことを遠ざけようとしはじめた。良かれと思って引き取ったけど、その子供が自分のせいで手を汚すのが嫌だったのね。この時の私はそんなパパの気持ちが分からなくて戸惑うばかりだった。


 私はきっとパパが褒めてくれると思ってたのに、どうして意地悪するのってパパを責めたわ。パパは私に裏の仕事はやめてって言うけど、私が仕事しなければ、私がパパと一緒にいられる理由は無かったのよ。なのにパパは私にそんな仕事はやめろ、やめないなら家から出て行けっていうの。私はどうすればいいのか分からなくて、悲しくなって泣いたわ」


 そう呟く、彼女の瞳にも同じように輝く涙が溢れていた。


「だって、私はパパのことを愛していたから。一人の男として、あの人のことが好きだった。だから私はパパに捨てないでって泣いてすがった。一緒に居られなくなるなんて絶対に嫌だ。ずっとそばに居て欲しい。パパのことが好きだから、抱いて欲しいって……パパはそんな私のことを受け入れることも突き放すことも出来ないで、ただショックを受けてる感じだったわ」


 涙の滴が落ちて、コンクリートの地面に黒い染みを作っていく……この静止した世界の中で、そんな悲しい涙が、波紋のようにじわじわと広がっていった。


「当たり前よね。親に体を売らされてる可哀想な子供を助けたと思ったら、今度はその子供に抱いてってお願いされるのよ。そんなの悪夢よ。抱けないわよ。それじゃ何のために助けたのか分からないじゃない。でも私はその気持ちが分からなかった。


 パパはただ困った顔をしていた。それから彼は、私に仕事をやめろって強く言うことは無くなった。でも私はどうしてそうなったか分からなくて、なんだかパパに突き放されたような気持ちになったの。


 どうして急に心変わりしたの? どうして私を抱いてくれないの? 私が子供の頃に体を売ってたから? 今でも色仕掛けをして男に抱かれても平気だから? でも、パパだってママのことをお金で抱こうとしてたじゃないの。それなのに、どうして私のことは駄目なの? もしかして私のことを汚らわしいって思ってるのかな……だったら、なんで優しくなんかしたの……私はパパを責めた。


 それからずっと微妙な空気が続いたわ。私はパパのことを意気地なしって責めたけど、パパは何も答えてくれなかった。私はいつも怒っていたけど、でもパパから離れることは出来なかった。パパも私に出てけなんて言わなかった。


 どうしていいか分からないまま、数年が過ぎて、私達はいつも余所余所しい会話だけをしていたわ。毎朝ほんの少し、一言二言の会話を交わすだけで、お互いに相手に対して苛立っていたのに、でも共同生活をやめることは出来なかった。私は相変わらずパパのことを愛していたわ。でも彼が何を考えているか分からなかった。だからもう、こっ酷く振られることばっかり考えてた。そんな時、東京に隕石が落ちたってニュースが飛び込んできたのよ」


 もはや言うまでもないが、それは隕石なんかじゃなくて……立花倖とヒトミナナの謀殺を狙った爆弾だった。これにより東京は壊滅的な被害を受け、そしてその復興のために導入した様々な政策によって、世界に多大な影響を与えたのだ。


「東京インパクトは東京だけじゃなく、世界中の色んな人達の生活を変えたわ。金持ちの国に移住するチャンスだって、被災地に向かう人達。東京が復興する過程で暴落した石油価格に対応しきれない中東諸国。各地で暴動が起こり、難民が発生して、それが国境に殺到して、混乱するEU諸国。


 世界がどうしてこんなに混乱に陥ってしまったのかは分からない。特にフランスでは中東の戦争に介入した軍に抗議する暴動が頻発していて、いわばテロの見本市みたいになっていた。フランス警察は鎮圧に躍起になったけど、でもこのときは何故かテロリストの方が優勢になってしまったのよね。


 今にして思えば、あんたの先生が言う通り、おかしな連中が裏で糸を引いてたのかも知れない……中東で起こった暴動の火種は結局欧州に飛び火して、欧州で起きるテロ事件も、どんどん過激なものになっていった。


 そしてそれがドイツに波及した時、何故かドイツ国内の移民たちが一斉に蜂起して、クーデターを起こそうという動きになってしまったのよ。EU圏内は平和そうに見えて、実はずっと独り勝ちを続けているドイツに対して不満があった。東欧から出稼ぎに来ていた人たちや、人道支援で受け入れた移民が沢山居たのも原因だったかも知れない。首都ベルリンでは100万にも届こうかという人々が気勢をあげたわ。こんなこと、ドイツで起こるなんて誰も想像してなかった。


 多分、アメリカもそうだったんでしょうね。こと事がここに及んで、アメリカが重い腰をあげた。混乱を収めきれない欧州のNATO軍は米軍の介入を要請して、そしてドローン兵器が投入された」


 上坂の眉間に刻まれた深いシワがピクリと動く。


「あんたは聞きたくないかも知れないけど……あの兵器が登場してからの各地の戦況は酷いものだったわ。それまで優勢だったゲリラ戦術は一切通用しなくなって、軍事拠点を持たないテロリストたちは各個撃破されていった。どこへ隠れても写真一枚あれば、ドローンがそれを見つけ出し、容赦なく射殺される。


 私達のグループも、それで大半の者がやられたわ。そのやられた者たちの潜伏場所で情報を仕入れて、また別の仲間がやられていく。味方は芋づる式にどんどん殺されていって、私達には為す術がなかった。


 そしてついに、私達の番が回ってきた。私達の潜伏先に、ドローンに追われた仲間が飛び込んできて、建物は兵器に囲まれた。


 悪夢よ。私達は必死に戦ったけど、まるで無意味なことを思い知らされるだけだった。数百から千にも及ぶドローンは、いくら撃ち落としても代えがやってきてそれを埋めるだけ。逆に私達の方は攻撃すれば居場所が特定されてしまう。抵抗すればするほど、自分たちを追い詰めることになっていった。


 私達はあっという間に劣勢に立たされ、仲間が一人、また一人と殺られていって……そしてついに、私の番がやってきた……」


 彼女はその時の体験を思い出しているのだろうか、その顔は血の気が通ってないようで真っ白く見えた。細かく震える腕の先では、爪が手のひらに食い込んでいる。


「私の目の前で仲間たちがただの血の詰まった肉塊に変えられていった。撃ち落としても撃ち落としても、ドローンはどこからともなく湧いて出てくる。私たちは必死に抵抗した。でも何の意味もなかった。四方八方から撃ち出される銃弾の前に仲間たちは次々と倒れていって……


 そしてパパが死んだ。パパは血を吹き出しながら倒れていった。倒れる瞬間、一瞬だけ、私の方を見た。彼は私が無事なことを確認して、笑いながら死んだ。


 頭がおかしくなりそうだったわ。なんでこんなことが……どうして仲間たちが……どうしてパパが殺されなきゃならないのって……自業自得なんて考えられなかった。ただ、理不尽な力の前に、無力を味わわされただけだった。私は発狂して絶叫して無我夢中で、パパの死体に銃弾を浴びせたドローンの前に躍り出た。そいつを撃ち落とし、そして周囲を取り囲むドローンの編隊に向けて、銃撃を開始した。


 いつまでもいつまでも……私はぐるぐる回りながら、360°回転しながら、機関銃の弾を撃ち続けた。それを撃ち尽くしたら、今度は手にしたピストルでもって。ずーっとドローンを落とし続けた。


 そして全ての弾を撃ち尽くしたときに気づいたのよ。


 私は、この地獄の中でたった一人だけ無傷で立ち尽くしていた。あれだけ激しい戦闘だったのに、私だけが無傷で生き残っていた。周りには憎たらしいドローンが飛んでいる。なのに、私がそいつらはどれだけ撃ち落としてやっても、私を攻撃することは絶対にしなかった。


 私は……見逃されたんだ。


 それは子供だからか、女だからか、それとも一人だけフランス人だったからかわからないけど……みんな死んだのに、私だけが生き残った。理不尽に生き残った。


 その後、後始末に来たフランス軍に、私は保護された。軍は私を簡単に取り調べた後、更生施設に送ることを決めて、あとは特に何のお咎めもなかった……


 私は、何もかもを失い、自分だけが生き残ったことが許せなかった。だから殺してって彼らに懇願した。でも殺してはくれなかった。施設に送られた私は、じゃあ自分で死のうって思った。でも、そしたら今度は、自分でも死ねなかったんだ」


 彼女はそう言って穏やかな表情を見せると、上坂の目をじっと見つめながら続けた。


「怖かったのよ。単純に、私は死ぬのが怖くなってしまったの。死のう死のうって考えても、いつも最後の最後で躊躇してしまう。そんなときは大抵、パパの最後の顔を思い出しててね……彼の最後の笑顔が、何だか生きろって告げていたような、そんな風に思えるのよ。そんなはずないんだけどね……


 私はそんなふうに自分に言い訳しながら生きてきた。やがて時が過ぎると一人だけ生き残った罪悪感も薄れてきて、あの悔しかった気持ちも思い出せなくなってきた。私はあの日、自分だけが許されたことに、どこかホッとしている自分がいることに気がついた。


 その後、更生施設を出た私のことを、パパが働いていたレストランのオーナーさんが面倒を見てくれた。私は暫くそのレストランで何も考えずに働いて……オーナーさんの伝手で、シャノワールにやってきたのよ。亡くなったクロエさんの旦那さんは、そのレストランで働いていたから、その縁でね……


 だから、私はあんたの気持ちが分かるわよ。死ぬのは怖い。自分が悪い、殺されても仕方ないって思ってても、なかなか自分では死ねないわ。自分の罪を、他人に委ねたい気持ちも分かるわよ。私もおんなじだから、だから私はあんたを責められない。でも……あの美夜ってのだけは許せないわ。あの日、あの時、どうして私も一緒に連れて行ってくれなかったのか……パパと一緒に死なせてくれなかったのか……それを忘れることは、出来ないと思うから」


 アンリの長い独白が終わり……また静寂が戻ってきた。


 屋上にも、グラウンドにも、それどころか世界中に2人以外に動ける者は無く、耳鳴りがするくらいの静けさが場を支配していた。


 上坂がそんな中で動けずにいると、自分の過去を話したことで、少しスッキリした感じのアンリが言った。


「まるで古い映画を見てるような気分ね。この白黒の世界にいる限り、元の世界では時間が止まっちゃってるんでしょう?」

「……ああ」

「だったら、ここで起きたことはみんな夢みたいなもんよね。現実に帰ったら、もう忘れちゃいましょう。そうしてまた、私は普通に生きていければそれでいいんだ」

「そうか……そうだな」

「さあ、それじゃそろそろ元に戻りましょう。ここでこうしてるのも中々得難い体験なのかもしんないけど……って、戻せるのよね? どうやったら戻るの?」

「ああ、それなら多分、外田(とだ)を見つけてお縄を頂戴すれば戻ると思うけど……もう少し休んでいかないか? 俺、動き出したらグラウンド何周もしなきゃなんないんだけど」

「アホなこと言ってないでさっさと帰るわよ! 外田だったらさっき校舎裏に向かうのを見かけたわね」


 そう言ってアンリは上坂の返事を待たずにさっさと歩き出してしまった。彼はため息を吐くと、死刑台に連行されるような気分でその後に続いた。


 リノリウムの床がキュッキュッと音をたてる。そう言えば今まで考えもしなかったことだが、時間が止まってるのに音波はそのまま届くんだなと思ってると、先を歩いていたアンリが振り返りながら言った。


「そう言えば……あんたドイツに行くんだって?」

「ん? ああ、エイミーに聞いたのか。せっかく知り合えたのに残念だけど」

「別に、それほど親しいわけでもないから、あんたが居なくなったところで私は悲しくもなんともないけどね」

「だったら聞くなよ」

「それより、あんたが居なくなったらこの能力ってどうなるの?」

「……え?」

「よく分かんないけど、今のこれってあんたの力に巻き込まれてるのよね? あんたがドイツで今回みたいに時間を止めたら、私の方はどうなるわけ? あんたが能力を使うたびに同じように止まっちゃうのかな」


 上坂は返答に窮した。言われてみれば、どうなっちゃうのだろうか。


「あんたの都合でいきなり止められちゃ堪ったもんじゃないわよ。こっちにだって心の準備が必要だし、あんまり長い時間止められたら、生活のリズムだって狂っちゃうでしょう。嫌よ、私。勤務中に居眠りなんかしたら、クロエさんに殺されるわ」

「どうだろうなあ……ちょっとよく分からないが、多分、俺が近くに居なければ巻き込まれないんじゃないか? ほら、以前、競馬で勝った後に店に行ったことあるだろう? あの時、実はこの能力が発動したんだけど、別段おまえに変わりはなかったはずだ」

「そうなの? じゃあ平気なのかな……あれ? でも確か、あんたのこの能力って時間停止じゃなくて世界改変とかなんとか言ってなかったっけ? どうして競馬場で発動したの? 万馬券当てたって言ってたけど、あんたまさか……」


 そこに気づいてしまったか……上坂が渋面を作ってそっぽを向くと、アンリは回り込んでキラキラした瞳で彼の目を覗き込んだ。今までに見たこともないような乙女全開の表情で、何も知らない男だったら自分のことが好きなんじゃないかって、勘違いしそうなほどだった。


 上坂は、衣食住が保証されてるというのに、どうしてこの女はこんなに金が好きなんだろうと思いつつ、しらばっくれようとして足を早めながら言った。


「とにかく、能力に巻き込まれるかどうか、一度試してみたほうがいいかもな」

「そうね、じゃあ競馬場で試しましょう」

「どうして競馬場限定なんだよ!」

「競輪場でも競艇場でもいいわよ」

「いや……だからな?」


 上坂がほとほと呆れながら彼女に説教を垂れようとしたときだった。


 2人はしゃべくりながら校舎から出て、校庭を通って間もなく校舎裏に差し掛かろうとしていた。アンリが言うには、外田はこっちに向かっていたそうだった。上坂と別れる時、GBもこっちに逃げると言っていた。


 だから多分、2人ともこっちに居るんだろうなあ~、くらいに思いながら、漠然と校舎裏へと続く曲がり角に差し掛かった時……


 ドンッ!!!!! ……っと、強烈な振動音がして、グラグラグラ……っと、続けて地面が揺れだした。


 地震か!? と思い、2人は慌てて建物から離れて姿勢を低くした。揺れは間もなく収まり、ホッとしたのもつかの間、2人はすぐにおかしなことに気付いた。ここはメガフロートの上なのだ。どうしてそんな場所で地震が起きるんだ?


 周囲を見回せば、いつの間にやら静止した世界は色を取り戻しており、グラウンドの方ではさっきの音を聞き及んだらしき陸上部員たちが、こちらの方角を指さしてざわついているのが見えた。


 どうやら、時間が動き出しているようだ。なら、すぐ近くに外田が居るということだろうか? 上坂がそう思ってキョロキョロと周りを見回した時……


「ちょっと、あれ見て!?」


 隣にいたアンリが校舎裏の方を指さしながら、素っ頓狂な声を上げた。


 見れば、そちらの方角から、もうもうとした煙が立ち上っているのが見えた。炎の気配がしないのを見ると、それは火事ではなくてただの土煙のようである。何か重いものが地面に落ちて、砂を巻き上げたのか……まさか、隕石でも落ちたのかと冗談交じりにそういいかけた時、再度……


 ドンッ!!!!!


 っと、音が鳴って、今度は続けざまにガラガラと音を立てて眼の前の校舎の外壁が崩れ落ちていくのが見えた。


 ドスンドスンっと瓦礫が地面に落ちる音がして、その音と混じって、誰かのワーとかギャーとか言う叫び声が聞こえてきた。


 まさか、誰かが建物の崩壊に巻き込まれてるのだろうか? もしそうなら助けなきゃ……2人が驚いて声のする校舎裏へと駆け出すと、続いて誰かを恫喝するような、とんでもなく大きな怒鳴り声が鼓膜を震わせた。


「こんのおおおっ!!! バカどもがあああーーーーーーっっっ!!!!」


 ビシャンっと怒鳴りなれてる人特有の、足をすくませるような一喝が響いてくる。


 上坂は驚いてその場で足が竦んでしまった。彼を追いかけていたアンリは、彼を追い越したあたりでたたらを踏んで止まると、手を翳して土煙の先の方を睨みつけた。


 もうもうと立ち込めていた土煙が晴れると、校舎裏に複数人の人影が見えてくる。


 上坂は瓦礫の山のすぐそばに誰かが倒れているのに気づいて驚きの声を上げた。


 そこに居たのは、顔中あざだらけで、全身血まみれのGBだった。彼は意識がない様子で、全身が弛緩してまるで死んでいるように見える。


 その、気絶した彼を覗き込むようにして、顔を真っ青にしながら彼に一生懸命話しかける一年生の男が見えた。上坂が転校してきたあの日、この校舎裏で殴られていたやつだ。


 上坂は彼の方に駆け寄って、何があったのか尋ねようとした。するとその時、


「この、バカ! バカ! クズどもがああああああぁぁぁぁーーーー!!!!」


 また猛烈な怒鳴り声が聞こえてきて、彼の足はビクッと止まった。


 見れば、瓦礫の向こう側で、生活指導の外田が大暴れしている。彼の周りには、いつぞやのイジメを行っていた不良たちが居て、怒り狂う外田にボコボコに殴られては、地面にへたり込んでいた。


 それでも気が収まらない外田が追い打ちをかけるように不良に殴りかかっていくと、周りの不良仲間たちが、もうやめてくださいと半泣きになりながら外田のことを必死になって止めていた。


 上坂とアンリは呆然としながら、お互いの顔を見つめ合った。


 一体、ここで何があったんだ? 重傷を負ったらしきGB……暴れまわる外田を見ていても、何一つ状況は掴めなかった。


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