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終末の笛吹き男  作者: 水月一人
第一章・エリートとニートは紙一重、語呂もよく似ている
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ジーニアスボーイ!

 高校時代の同級生、縦川たち三人が会食をしていると、店に来ていたユーチューバーが騒ぎ出した。


「なあ、おい、聞いてんの!? 俺たち客だよ? 客にそんな態度とっていいと思ってるのかよ?」

「ですから、当店ではそのようなご注文はお受けいたしかねておりまして……」

「飯屋来て飯注文する何がいけないんだよ! おまえ、客を差別する気? 金ならあるっつってんだろ!? 俺を誰だと思ってんだ、馬鹿にするんじゃないよっ!!」


 奇しくも鷹宮は同じくユーチューバーだったものだから、三人はお互いに顔を見合わせて苦笑いするしかなかった。


 しかしそうこうしている内にも、迷惑なユーチューバーは店員につっかかり、まるで恫喝するかのように声を張り上げている。金の問題なんかではないことは、その姿を見れば一目瞭然なのだが、当の本人は頭に血が上ってしまっているのか、自分の醜い姿が見えていないようだった。


 下柳は警官という職業柄、そろそろ自分の出番かなと、席を立ち上がろうとした。だが、そうするよりも先に、激昂する男の相方らしき別の男が、慌てて彼と店員の間に入って、平身低頭しながら言った。


「すみません、そこをなんとかお願いできませんか? お店に迷惑はかけませんから」


 てっきり男を止めようとして割って入ったのかと思えば、そんなことは無かった。迷惑をかけないと言ってるが、すでにかけているのだが……周囲の視線は既に冷たいものに変わっていたが、彼らは一向に気づかないようである。


「もしよろしければお代は倍払っても構いませんから、ほんの少し考えてはもらえませんか? 俺たちが無理を言ってるのですから当然です! ここの店、すごく評判良いんですよ~? ネットでもよく話題になってて、みんなもっと知りたがってるんだ。だから俺たち、純粋に真っ当に善意だけでこの店を紹介したいんです! 新しい顧客を開拓すると思って、ここは一つ目をつぶってもらえませんか!」

「いえ、ですから、そういったことではなくて……」

「絶対良い宣伝になりますから! あなた方も、きっと俺たちに動画にしてもらえて、感謝すると思いますよ。っていうか、俺たちのこと知りませんか? ネットじゃ結構名の知れたユーチューバーなんですけどね。知ってるでしょ?」


 知らねえよ……


 同業者と知ってそろそろ居たたまれなくなったのか、鷹宮が背中のど真ん中が痒そうな絶望的な表情をしながら体をくねらせる。同じく、傍若無人な男たちの行為を見ていられなくなった縦川が下柳に言った。


「なあ、あれ、逮捕出来ないのか? 立派な営業妨害でしょ?」


 すると彼は首をふりふり溜息を吐くと、


「警察は民事不介入が原則なのは知ってるだろ。暴力を振るったとか、詐欺を働いてるならともかく、あれくらいじゃ犯罪にならないんだよ。だからまあ、放って置くしかないんだ……けど……」

「なんだよ?」

「あいつ、どっかで見たことあるような……」


 彼はそう言って記憶を辿るかのように、暫くの間自分のこめかみをグリグリ指圧しながら、難しい顔で男たちの顔を眺めていた。その険しい表情は、多分、刑事の顔というやつなのだろう。高校時代からの長い付き合いでも、お目にかかったことがないような、真剣なものだった。


 しかし、結局、何も思い出せなかったみたいで、


「わからんが……けどまあ、このまま見て見ぬふりってのも出来ないしな。注意だけでもしてこようか。こっちが警官だって知ったら、おとなしく帰るだろう」

「また来そうだけどね」

「そこまでは知るかよ。あとは店の問題だ」


 そう言って彼は席を立ち上がると、男たちの方へ歩いていこうと足を踏み出した。


「いや、その必要はないよ」


 すると、そんな下柳を鷹宮が引き止めた。


 下柳が足を止めて振り返ると、鷹宮は酸っぱい表情をしながら胸ポケットからスマホを取り出し、慣れた手付きでおもむろに男たちの姿を撮影し始めた。よく事件現場に居合わせた野次馬がやる、あんな感じである。


 しかし下柳の言うとおりならこれは犯罪じゃないから、撮影したところで証拠にもなんにもならないだろう。こんな不快な場面を動画に収めたところで、後で見返しても気分が悪くなるだけだろうに、一体何がしたいんだろうか? と思って眺めていると、


「……おい! てめえ! 何勝手に撮ってんだよ!!」


 さっきから激昂していた男が、鷹宮がスマホを掲げているのを目ざとく見つけて、今度はこっちを威嚇するように睨みつけてきた。店員相手に交渉をしていた男も、それに気づいて慌てた素振りを見せている。


「勝手に撮るなって言ってるんだ! そのスマホを下ろせ!」


 キレた男がズカズカとこちらへ近寄ってくる。腕っぷしは強くなさそうだが、何しろさっきからキチガイみたいに怒鳴りまくってるものだから、縦川は気圧されてあたふたしてしまいそうだった。


 そんな立川とは対象的に、警官である下柳は慣れた調子で間に割って入ると、


「こらこら、暴力はいかんぞ、暴力は」

「うるせえ! そっちのやつが悪いんだろ! おまえもこいつの仲間か?」

「そうだが、おまえさん、さっきから怒鳴りすぎだ。ちょっとは落ち着けよ。周りのお客さんが迷惑してるだろう?」

「これが落ち着いてられるかよ! 勝手に人のこと撮影しやがって、こいつが悪いんだ、肖像権の侵害だ! そいつをよこせ! 削除してやる!!」


 すると鷹宮がヘラヘラしながら言った。


「俺は単に店の風景を撮ってるだけだぞ、そしたらおまえがたまたまカメラの前に立ってただけだ」

「なんだとっ!?」

「けどまあ、そうだな、どうしても消して欲しいって言うなら、おまえたちがお利口さんになって、お店の人に謝罪して、俺の前から消えてくれれば、考えてやっても、いい、かも、な」


 彼が挑発するかのように、わざとらしく区切って喋ってみせると、男はいよいよ堪忍袋の緒が切れたと言わんばかりに口角につばを飛ばして怒鳴り散らした。


「ふざけんじゃねえ、てめえ! 何様のつもりだ。俺を誰だと思ってんだっ!! あとで吠え面かいても知らねえぞ!?」


 もちろんそんなこと知ったこっちゃないが……ただし、弱点だけは良く知っている。そう言わんばかりに、自信満々な様子で鷹宮は言った。


「吠え面かくのはお前の方だ。なあおい、これがネットに拡散したら、大物ユーチューバーさんはさぞかしお困りなんじゃないか?」


 すると、たった今までキレまくってた男が、歯ぎしりしながらピタリと固まった。


「まったくいい時代になったもんだよな、ボタン一つ押せば、この映像が今すぐSNSに投稿される。おまえたちが本当に有名ユーチューバーとやらなら、あっという間に動画が拡散するはずだ。俺の機嫌を損ねないほうがいいんじゃないのか?」


 その顔はゆでダコみたいに赤くて、異常なくらいに汗をかいている。鷹宮の狙いが分かったもう一人の男が慌てて駆けつけてくる。


「す、すみません! 悪気はなかったんです、ほんの出来心だったんです。すぐに撤収しますから、動画だけは勘弁してください」


 縦川はぽかんとしてしまった。さっきから店員に駄々をこねて、さんざん恥ずかしい姿を晒していたくせに、それがネットに流されると思ったら急に慌てだしたのだ。周囲の客席を見回せば、みんな迷惑そうな表情を隠そうともしていない。現実にこれだけの人間に不快な思いを抱かせてることが分かってるはずなのに、彼らはネットでだけの見栄えを良くしようとしか考えてないのだ。


 おまえたちは動画を撮りに来たんじゃなかったのか……? だったら、この醜い交渉シーンも一緒に撮ったらどうなのだろうか。


 男たちが連れていた他のカメラマンなんかのスタッフが、慣れた感じに撤収の準備を始めていた。その様子を見るからに、どうやらこういうことは日常茶飯事なのだろう。あまりに醜悪で自分勝手で、人間こうはなりたくないなと言うお手本みたいだった。


 なんか変な時代になっちゃったなと縦川は思った。素人がどうしてテレビの真似をしなきゃならないんだろうか。と、そんな時だった。


「……お、俺は……俺は、帰らない……」


 さっきから激昂し、今は顔を真っ赤にして、プルプル震えている男がぼそっと呟いた。


「おまえ……ふざけんなよ? お、お、俺をこんなに怒らせやがって。俺には70万のフォロワーが居るんだぞ。年収は1千万を超えてるんだぞ。俺は偉いんだぞ。俺は凄いんだぞ」


 どうやら、鷹宮にいいようにあしらわれたことに、えらくプライドを傷つけられたようだった。多分、自分は大物ユーチューバーで、何をやっても周りがちやほやしてくれると思っていたのだろう。あてが外れて癇癪を起こす、まるで子供みたいだった。


 いや、実際、子供なのだろう。見た目の年齢は20歳前後といったところだろうか。もしかしたらその世界が狭すぎて、自分の価値観全部を否定されているように感じているのかも知れない。


 それはともかく、いつまでもぶつぶつと呟く男に、呆れた鷹宮が諭すように言った。


「なあ君、いい加減にしたらどうだ。まだ若そうだから仕方ないかなと思いもしたが、流石にこんな騒ぎになっちまったら、もう冗談じゃ済まされないぞ。さっきの動画、本当にアップロードしてやろうか? そうしたら君の70万のフォロワーは、どれだけ減るだろうなあ?」

「そんなことにはならない。そんなこと絶対させない。何故なら、お前が動画を拡散するよりも早く、俺の信者たちがそれをもみ消すからだ」


 もはや言ってることが支離滅裂で、鷹宮は付き合ってられないといった感じで肩をすくめた。しかし、こうして自分がしゃしゃり出て来てしまったせいで、かえって店に迷惑をかけてしまったのだから、いまさら投げ出すわけにもいかないだろう。彼は、仕方あるまいと、ため息混じりに続けた。


「あのなあ、君はフォロワー数を戦闘力か何かのように勘違いしてるようだが、フォロワーがたくさんいるからって、君が偉くなったわけじゃないんだぞ? あまりしつこいと本当に警察沙汰になるぞ。いい加減にしないか」

「うるさいっ! 俺は偉いんだ! おまえは知らないんだ。これだけのフォロワーを集めるのに、どれだけの才能が必要かを。おまえみたいな一般人のクズじゃ、一生かかってもこんなに集めることは不可能だ。まずはやってから言え、バカが」

「ああ、そうかい……なら教えてやるよ」


 鷹宮は面倒臭そうに吐き捨てた。そしておもむろにスマホを操作すると、何かのページを開いて男の顔の前に突き出して言った。


「私の戦闘力は210万です」

「なん……だと……」


 その数字を聞いて、男は驚愕の表情を浮かべた。それからスマホと鷹宮の顔を交互に見やってから、愕然と膝を折った。さっきまで真っ赤だった顔色が、今は真っ青に変わっていた。


 更に、驚いた男の相方がやってきて、鷹宮のスマホをひったくるように奪うと、そこに映っていた画面を見て、ワナワナと震えだして叫んだ。


「ジーニアスボーイ! こ……こいつ……A1(エーワン)だっ!! 有名ゲーム実況者のA1!!」

「な、なんだってー!?」「マジA1さん?」「ぱねぇっす!」「ジーニアスボーイじゃ敵わねえ」


 すると男の連れまでもが騒ぎ出した。っていうか、ジーニアスボーイってなんだ。A1は鷹宮栄一のハンドルネームであるが。二人とも、もう少し捻った名前はつけられなかったものだろうか。それにしても現実世界でハンドルネームを呼ばれると、こそばゆいのは何故なのだろう。縦川が冷たい視線を投げかけると、鷹宮はほっぺたを赤くしていた。


 この雰囲気にいたたまれなくなった客が、逃げるなら今しかないと続々と店から出ていく。縦川も席から立ち上がると、まるで捨て猫みたいな目をした鷹宮を置いて距離を取った。下柳はとっくに野次馬の中に紛れていた。


 友達に見捨てられた格好の鷹宮は、ゴホンとわざとらしい咳払いをすると、


「こ、これでわかっただろう? 仮にあの動画が無くても、俺がライブ配信で話題にでもすれば、それだけで君たちはピンチだろう。でも俺はそんなことしない。だって楽しくないもんな。誰も楽しくないようなことを俺はしたくない。君たちだってそうだろう? そうやってみんなから受け入れられて来たんじゃないのか。初心を思いだせよ」

「すみません、俺達が間違ってました」


 茫然自失の男を除いて、相方と彼のスタッフたちは頭を垂れて、やりすぎてしまったことを反省しているようだった。鷹宮はその姿を見てホッとすると、今度こそ事態を収拾すべく、さっきから男に絡まれていた女性店員に声をかけようと手を上げた。


「う、う、うるさい! 俺は……俺は、認めない!!」


 しかし、事態はまだ終わっちゃいなかった。一旦は表情を失くした男だったが、我に返ると今度は押し寄せてくる屈辱の波に抗えないと言った感じに、また顔を真っ赤にして体をプルプルさせはじめた。それもさっきとは段違いで、額には青筋が浮き出て、目は悪魔のように釣り上がり、瞳孔が開いてしまってなんとも不気味だった。


 鷹宮は背筋がゾクリとした。流石にここまでの憎悪の視線を向けられたことなんて、生まれてこの方一度もない。身の危険を感じた彼が気圧されるかのように席から立ち上がると、男の相方がハッとした表情を見せて男を羽交い締めにし、


「あ!? おい、ジーニアスボーイ……? おいってば! やめるんだ、ジーニアスボーイ! くそっ、A1さん、逃げてください! 早くっ!!」

「あ゛あああ゛あああ゛あ゛あ゛あ゛~~~~~~……」


 羽交い締めにされている男が奇妙な声を発する。


 鷹宮は逃げろという言葉に弾かれるように駆け出すと、縦川のいるテーブルの方にスライディングタックルをするかのように飛び込んできた。


 男の様子は明らかに尋常ではない。入れ替わりに下柳が加勢しようと男に近づいていくと……


「がああああ゛あ゛あ゛あぁぁぁぁぁーーーーーっ!!!!」


 すると、男の奇妙な咆哮と同時に、いきなり相方がものすごい勢いで吹っ飛んできた。


 加勢しようとしていた下柳は、まったく反応が出来ず、相方に巻き込まれて店の端っこまでゴロゴロと転がっていく。


 まるでダンプカーにでも跳ねられたかのような勢いに、縦川は我が目を疑った。人間がこんな風に吹っ飛ぶ姿なんて映画でしか見たことがない。それどころか、激昂する男は相方を振りほどくような素振りを見せず、殆ど身じろぎしなかったのだ。


 なんだこれは?


 あまりに異様な光景に唖然としていると、ゴロゴロと転がってきた下柳が一緒に吹き飛ばされて目を丸くしている相方の男を振りほどきながら言った。


「思い出した! あいつ……ユーチューバーだっ!!」

「何をいまさら、そんなこととっくに知ってるよっ!!」


 吹き飛ばされたショックで頭が混乱しているのだろうか? 突然、当たり前のことを当たり前に叫んだ下柳に縦川が突っ込むと、彼はブルブルと首を左右に振ってから、


「違う、そうじゃない、警察で言うユーチューバーってやつは……」

「ぢぢ、ぢじぢっぢじぢちぢぢぐしょうっっっ!!!! ばっばばばばば、ばかっ、ばかにしやががっててっっっ!!」


 下柳が言い終わるより前に男が奇声を発する。さっきから大声を張り上げ続けていたせいか、その声はとっくに掠れてて全然迫力がなかったが、何故か異常な圧迫感を持って耳障りに響いた。その違和感に戸惑っていると、縦川は何故かゾクリと背筋に冷たいものが走るのを感じて、とっさにその場から飛び退いた。


 すると、次の瞬間……


 パンッ! パリンッパリンッ!!


 っとガラスが割れる乾いた音が店内に轟いた。


 見れば、テーブルの上のグラスやら皿やらが粉々に砕け散っており、厨房の中ではワインセラーの瓶がことごとく割れて洪水のようにワインが吹き出していた。その異常事態に怯えたシェフたちが飛び出してくる。


 男は何にも触れていない。ただ顔を真っ赤にして絶叫しているだけだった。なのに、店のあらゆるガラス製品が、バリンバリンと砕け散るのだ。何が起きてるのか、さっぱりわけがわからない。それでもそれを言葉で説明するなら、超常現象が起きていた。


「きゃあああーーーーっっ!」


 っと、あちこちで悲鳴が上がり、レジに並んでいた客が外へと飛び出していった。下柳は腰を抜かして呆然としている縦川をグイッと引きずり倒すと、その反動を使って立ち上がり男を制圧すべく駆け出した。


 ところが、勢い込んで駆け出していった彼は、何故か途中で腰砕けになって、まるでずっと正座していた人みたいに足をばたつかせ、よろよろとあらぬ方向へと転げていった。


 何をやってるんだ、あいつは? と呆然と見守っていると、突然、縦川の耳にキーンという耳鳴りが響いてきて、次の瞬間、差し込むような痛みが鼓膜に走った。彼がたまらず耳を塞ぐと、鷹宮や取り残された客たちも同じように耳をふさいでいるのが見えた。


「お゛お゛お゛でばお゛れ、おれ、おれ゛おれおれは俺はおれはおれおれは俺は俺俺は俺は……っっっっ!!!」


 目を血走らせ、男が頭を抱えて悶絶するように叫ぶ。


 すると今度は、あろうことか店の全面ガラス張りの窓がバリンと割れて、粉々になった破片が外へと落下していった。


 外からパニックになった人々の悲鳴が聞こえてくる。


 縦川はその惨事を想像して、背筋が凍りつくような恐怖を感じた。このままここにいたら殺される……と、ゾッとする考えが脳裏を過ぎり、彼はもはや辛抱たまらんと言った感じに逃げ出そうと足を踏ん張った。


 だが、立ち上がろうとした足が踏ん張りきれない。さっきの強烈な耳鳴りで、三半規管がやられてしまったらしい。下柳がフラフラになってたのはそのためだろう。しかし、それがわかったところでなんにもならない。どうにかして逃げなければ……


 彼がガクガクと震える膝を叩いて立ち上がろうとすると……


 その時、興奮している男と目が合った。


 男は苦悶の表情を浮かべ、ぜえぜえと肩で息をして、目を血走らせて、まるで不倶戴天の敵にでも会ったかのような憎悪の眼差しをこっちへ向けている。


 得体のしれぬ捕食者が、縦川をロックオンしたようだった。冷や汗がびっしりと額に浮かんでいた。指先がブルブルと震えている。


 男の憎悪の視線を浴びながら縦川は、あ、こりゃやられる……と覚悟した。


 諦めが全身を支配して、脳みそが弛緩して何も考えられない。体が全く動かない。彼は耳の中でドッドッと鳴り響く鼓動を聞きながら、せめて命だけは助かればいいなと、まるで映画でも見てるように他人事みたいに己の運命を受け入れていた。


「俺はお゛れ゛ば……お? おで!? あ゛あ゛あ゛~~~!!!! ひぎゃ!?」


 しかし、そこまでだった。


 突然、興奮していた男が目を剥いたかと思うと、まるでゲロでも吐きそうな顔をしながら、非常に情けない悲鳴を上げて飛び上がった。


 何が起きたのだろうかと思って見ていると、わなわなと震える男の手が股間へと伸びて……よく見れば彼の股の間から、スラリと細い足が突き出しているのが見える。


 そのスラリと伸びた足は、一旦地面に下ろされたかと思うと、次の瞬間、また勢いよく男の股間を目指して蹴り上げられた。


 キ~ンと蹴られた股間を押さえて、男が悶絶して倒れると、彼の背後から店員のアンリの姿が現れた。


 彼女は冷静な表情を崩さずに、床に転がった男の股間を執拗に狙うと、男はたまらず体を丸めて自分の急所を守ろうとした。すると今度は、彼女は的確に容赦なく肛門を狙い、男の尾骨を蹴り上げて、そのあまりの痛みに男が悶絶してのけぞると、またすかさず股間を狙うという、悪魔のようなコンボを披露した。


「ぎゃっ! いやっ! やめてっ! お願い! お願いしますからっ! ひぎっ!」


 尺取り虫みたい腰をばたつかせ、男が情けない悲鳴をあげる。


 そのおぞましい光景に、縦川はさっきまでとは別の恐怖が胸にこみ上げてくるのを感じた。


「あっ! やめっ! ひぎゃあああああ~~~っっ!!!!」


 やがて男は痛みに耐えかね、泡を吹いて気絶した。


 それでもアンリは休むことなく、二度、三度と男に追い打ちをかけてから、ようやく白目をむいて失神している男のことを、汚物でも見るような目つきで見下し、動かなくなったことを確認してから、


「これ、正当防衛ですよね?」


 そばで腰を抜かしていた下柳に向かって、いつもの営業スマイルで尋ねたのだった。


 店内は静まり返るばかりで、誰一人として声が出なかった。


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