とりあえず、殴っていい?
灼熱の太陽が脳天を焦がし、意識が朦朧として蜃気楼が見える。上坂はゼエゼエと荒い息を吐き出しながら、まるで砂漠の旅人みたいな覚束ない足取りで、美空学園のトラックを走る……というか歩いていた。
「ひーこらひーこらばひんばひん」
隣には同じく今にもぶっ倒れそうなGBが、焦点のあっていない死んだ魚のような目をしながら並走……もとい並歩していた。ふくよかな彼の体からは大量の汗が滴り落ち、振り返るとトラックの上にはナメクジみたいに水たまりが続いている。
そんな2人のことを、まるでゴミでも見るような目つきで、陸上部員たちが軽快な足取りで追い越していった。陸上部員からしてみると、本来なら自分たちで貸し切りのはずのトラックを、運動も出来ない補習組に半分取られてしまったのが忌々しいのだろう。上坂はそんな彼らを憎々しく思いながら、
「ちくしょう……運動の出来るやつらは、出来ないもんの気持ちがわからないんだ」
呟いて、よろめきながら必死の形相でトラックを歩き続ける。
「上坂ー! 三千院-! ええいっ! みんな誰のために待ってるか考えろ! おまえらがどれだけ他人に迷惑をかけているのか、わからんのか! この暑い中、俺をいつまで待たせるんだっ! この程度で音を上げるとは情けない! 気合を入れろ! 気合だあーっ!!」
そんな亀のような2人のことを、遠くで腕組みしながら見ていた生活指導の外田が、手にした竹刀をバンバン地面に叩きつけながらヒステリックに叫んだ。
その、あまりに理不尽な剣幕に驚いたのか、何故か陸上部員の方がスピードを上げていった。そんな外田の周りでは、すでに課題のグラウンド10周を終えた生徒たちが、太陽にジリジリと焼かれぐったりしながら倒れ込んでいる。彼らは上坂たちがグラウンド周回を終えないと、日陰にも入れず、水を飲みにも行けないのだ。外田はさっきから、連帯責任をこれ見よがしに喚き立てて、上坂たちにプレッシャーをかけているのだ。
サドめ……
どうして体育会系という生き物は連帯責任が好きなのだろうか。誰かに責任を押し付けることで、全体に罪悪感をもたせるのが狙いなのだろうが、こういう姑息なことをしたがる連中がスポーツマンシップを語ったりするからわけがわからない。
上坂は今日、ドイツに移住したい旨を伝えるために、夏休みの学校に来ていた。先日の御手洗とのやり取りが不調に終わって、これからどうなるか分からなかったが、それでもほんの少しばかり世話になった担任や、クラスメートたちには別れの挨拶くらいしておきたかった。
そのため、上坂は登校日でもないのにクラス担任の鈴木に会うために学校に来ていたのだが、不運なことに夏休みの補習の授業をしていた生活指導の外田に見つかり、無理矢理体育の補習に参加させられてしまったのだ。
上坂は頭の古傷のせいもあり、体育は基本免除されていたのだが、それは球技に限ったもので、授業自体は必修のはずだったのだ。ところが、彼は運動が苦手なものだから、普通の授業も積極的にサボってしまっており、それを咎められた格好である。
外田は転校初日に上坂に突っかかって来たように、何かにつけて高圧的な態度を取りたがるパワハラ教師で、そんな彼に弱みを握られてしまったら為す術もない。上坂は職員室に用事があるからと言って逃げようとしたが許されず、あれよあれよという間に強制的に補習に参加させられていたのである。
そんなわけで、上坂はもはや命の炎が尽きかけようとしているGBを横目に見ながら、外田への憎しみだけをバネに足を踏み出し続けていた。GBと違って贅肉という重りがついてない分、上坂のほうがまだマシだったが……それでも、そろそろ限界のようである。目眩がして地震でもないのに、さっきから地面が揺れているような気がしてならない。
と、その時、
「おまえら、いつまでちんたら走ってやがるっ!! 本当におまえらはどうしようもないクズだなあ!? 駄目だ! 駄目すぎる! 脆弱で、貧弱で、何もかもがダメダメだ! これだけ言われて悔しくないのか! 悔しかったら死ぬ気で走ってみろ! 死ぬ気になれば何でも出来る! 罰として2周追加だっ!! みんなおまえたちを待って、水も飲まずに我慢してるんだぞ! もっと必死にならんかあー!!」
サディストが何か奇妙なセリフを吐いているのが聞こえてきた。
上坂は一瞬、それが日本語かどうか真剣に悩んだが、どうやらまだ彼の頭は正常で、その信じられないセリフをちゃんと聞き取れていたようである。目眩がして、遠くが霞んで見える。隣を走っていたGBが、一瞬だけビクッとして、昇天しかけていた。
補習そのものも堪ったものじゃなかったが、2029年にもなって、未だに炎天下で水も飲まさず生徒を走らせる教師がいるなんて思いもよらなかった……昭和と言うか、時代錯誤と言うか、脳みそがミジンコ並みの男である。明らかに常軌を逸している。
こんな男の指導を受けていては、遅かれ早かれ、本気で殺されかねない。上坂は腹をくくると、
「……GB……GB……まだ意識はあるか?」
隣で半分死にかけているGBに小声で話しかけた。
「ひーこらひーこら……ばひん? え、なに?」
「俺はもう耐えられない、このままでは死んでしまう」
「お、俺もだ……でも、どうしようもないだろう?」
「いや、どうしようもなくない。俺は逃げることにした」
「……なんだって?」
まさか授業の真っ最中に、サボタージュの予告を平気で言い放つような者がいるなど思いもよらず、GBは目を丸くした。権力と暴力に弱い彼は、そもそも反抗するという精神自体を持ち合わせていなかったのだ。
上坂はそんな風に驚いているGBに向かって、一緒に逃げないかと持ちかけた。
「今ちょうど俺達は外田から見てトラックの反対側に居る。いくらあいつでもこっからなら追いつけまい。逃げるなら今がチャンスなんだ」
「で、でも、そんなことしたら、後で外田に殺されるぞ?」
「俺たちは今死にそうなんだよ。後で殺されようが何しようがどうせ死ぬなら、じゃあいつ逃げるの?」
「……い、今でしょ! なんかそんな気がしてきた」
「逃げたあとのことは、逃げたあとに考えればいい。俺はクーラーの効いている本校舎に逃げるぞ」
「なら俺は隠れやすそうな茂みの多い校舎裏へ……」
「健闘を祈る!」
「サラダバー!」
瞬間、2人は別々の方向へと走り出した。さっきまで倒れそうなくらいよろよろしていたのに、どうして逃げ足だけは軽快に動くのだろうか。颯爽と姿を晦ます2人を見て、まさか自分相手にそんな舐めた真似をする生徒が居るとは思わなかった外田は一瞬反応が遅れると、
「こ、こらー! 貴様らっ!! どこへ行くつもりだっ!!!」
慌てて2人の方へダッシュしてきた。その速さは、流石に運動不足の2人とは雲泥の差である。どう考えても捕まるのは時間の問題だ。しかし2人は別々に逃げている。追いかけられるのはどちらか1人だけ。果たして生贄になるのはどちらか……上坂は何となくGBの方に行くのがお約束ってもんだろうと、余裕しゃくしゃくで彼の姿を尻目に捕らえていたのであるが、
「こらー! 上坂ぁー!」
「げえ~!?」
予想に反して外田は上坂をロックオンすると、一目散に彼の方へと向かってきた。そう言えば彼は基本的に運が悪いのだ。不幸体質だ。極悪と言ってもいい。
彼は焦りつつも、ここで捕まってなるものかと、どこから湧き出てくるか分からない不思議な力で加速すると、開いていた窓から校舎の中に飛び込んだ。
校舎の中は空調が効いていて、涼しい風が彼をほんの少しばかり応援してくれた。汗が気化して熱を奪っていくたびに、力が湧き出してくるような気がして、彼のスピードがぐんぐんと上がっていく。
しかしそれでも、もやしっ子の上坂がまっすぐに逃げていては捕まるのは時間の問題だろう。背中を追われたら勝ち目がないから、視線を切るようにジグザグに逃げるしかない。彼はそう判断すると、曲がり角は必ず曲がり、階段があれば必ず上り下りして、校舎の中を必死になって逃げ続けた。
「こらー! どこにいる上坂!」
キュッキュッとリノリウムの床を蹴る音が響いている。夏休みの校舎は人気がまったくなく、そのせいでお互いの位置が丸わかりのようだが、意外にもその音が乱反射して外田を惑わしているようだった。上坂はその幸運を利用して、一瞬のすきを作ると、履いていた靴を脱いで手に持った。
「む!? 足音が消えただと。上坂! どこに居る! 上坂! 返事しろ!」
案の定、外田は姿の見えない上坂の足跡を頼りに追っていたようだ。返事しろと言われて返事する馬鹿がどこに居るか。彼はほくそ笑むと、手近にあった教室に忍び込み、そこにあった掃除用具入れの中に隠れた。
「上坂! 上坂ぁ~!!」
ドスドスとけたたましく地面を蹴る音が彼の隠れている教室へ近づいてくる。ガラガラとドアを開ける音が響き、教卓の影やカーテンの裏を探してるような気配がした。上坂は用具入れの中で手で口を覆うと、必死になって息を殺した。ドキドキと心臓が高鳴ってはち切れそうだ。
「ちっ……どこ行きやがった。上坂ぁー!」
意外としつこい外田は長い間教室の中をうろつきまわっていたが、ついに諦めると舌打ちをして去っていった。ガラガラピシャッと扉がしまって、足音が遠ざかっていく。
上坂はそれでも外田が舞い戻ってくる可能性を考えるとすぐには動けず、暫くの間用具入れの中であたりの様子を窺っていた。それから1~2分が経過して、危機は去ったとようやく判断すると、彼ははぁ~っと安堵の息を吐いて用具入れの中で背中を持たれた。
ガタガタと音が鳴って、汗を吸い込んだ背中がびしゃっとして冷たい。その気持ち悪さにのけぞりながら、彼は体勢を入れ替えようとしたが、入った時にバケツに突っ込んでしまった片足が邪魔して動けない。用具入れにはモップやホウキ、バケツなんかが詰め込まれて、立っているのが精一杯だった。いつまでもこんなところにいられないと、彼が用具入れの扉を開けようとした時……
ドタドタバタバタ……と、廊下の方から誰かが歩いてくる足音が聞こえてきた。1人ではなく何人も居るようで、時折甲高い笑い声が聞こえてくることからすると、女子の団体だろうか。その中に外田が混じっている可能性は低いだろうが、上坂は一応警戒して、用具入れの中から外の様子を窺っていた。
すると、運がいいのか悪いのか、一団はちょうど上坂が隠れている教室へと入ってきた。ガラガラガラっと教室のドアが開く音がして、一瞬にしてワイワイと騒がしい喧騒に包まれる。
最悪~とか、日焼けする~とか、目つきがいやらし~とか言う言葉を聞いていると、どうやら彼女たちは体育の補習授業から帰ってきた生徒たちのようだった。上坂たち男子が補習を受けていたのだから、同じ時間に別の場所で女子も同じ体育の補習を受けていてもおかしくはない。どうやら、彼が逃げてる間に、一限分の時間が経過していたようである。補習の時間が終わったのなら、もう追いかけられる心配もあるまい。上坂はほくそ笑むと、用具入れの中から外へ出ようとした。
だが、用具入れの扉に手をかけたとき、彼はふと思った。
しかし、このままいきなり出ていったら、変なやつだと思われないだろうか? 一応、出る前に中に入ってますと声を掛けたほうがいいだろうか? いや、それもなんか恥ずかしいし、いきなり話しかけたら気味悪がられるのでは? ここはこのままやり過ごして、誰も居なくなってから出たほうがいいんじゃないか……
そんな風に出ようかどうしようか彼が逡巡していると、教室の中からなにやら聞いてはいけないセリフが聞こえてきて、彼は背筋が凍りついた。
「ねえ、挟まっちゃった。ブラのホック外してくれない?」
「いいよ。なにこれ? かわいい~! 新しいの買ったの?」
「うん。体育なの忘れて付けてきちゃった。最悪」
ブラのホックとな……? ラッキースケベが信条の少年漫画なら、迷わず用具入れの隙間から教室の中を覗く場面である。尤も、上坂が入り込んだそれには残念ながらそんな都合のいい穴は開いていなかったのであるが、少なくとも、教室の中で女子が着替えを行っていることだけは、その会話から判断できた。
耳をすませば何気ない会話の中に、衣擦れの音が聞こえてきた。薄いスチール製のドア一枚隔てた向こう側で、今、たくさんのJKが肌着姿になっているのだ。上坂はその事実に思わず顔が真っ赤に火照ってくるのを感じたが、それは瞬く間に真っ青に変わってしまった。
ラッキースケベを喜んでいる場合ではない。どう考えてもこの状況は、さっき外田に追いかけられてた時なんかよりもまずいんじゃないか? もしバレてみろ……袋叩きにされるのは間違いないだろうし、下手したら警察に突き出され兼ねない。先生や恵海に知られたらなんて言われるだろうか……もしも彼女らに、変態なんて呼ばれたら、もう生きていけない。
彼はザザーンと白い波頭が粉雪のように舞う日本海の荒波のごとく、全身の血の気が引いていくような目眩を覚えた。体がフラフラと揺れて倒れそうになったが、下手に音を立てたら終わりだと思い直し、必死になって体を支えた。いつの間にか息を殺して、全身に冷や汗をかいている。炎天下の中、グラウンドを何周も走らされた時よりも、ずっとひどい。
どうしてこんなことになった? 授業をサボタージュするなんて悪いことをしたからバチが当たったんだろうか。というか、どうしてこいつらは教室で着替えてるのだ。更衣室を使え更衣室を……しかし、今更そんなことを恨んでも仕方ない。そんなことよりも、この窮地をどう脱すればいいか考えねばなるまい。幸い、上坂が用具入れに隠れてることはまだ誰にも見つかってない。このままここに隠れてやり過ごせば、いつか彼女らも教室から居なくなるだろうし……
ガシャーーン! パリンパリーンッ!
その時、なにか陶器のような物が割れる音がして、教室の中の喧騒が一瞬止まった。
「いっけなーい! 教室の花瓶、割っちゃったよ。てへぺろ?」
「あ~あ~、もう~……可愛く状況説明してる場合じゃないぞ。早く用具入れからホウキとちりとりを持ってきて片付けなきゃ」
「メンゴメンゴ」
おめえらいつの生まれだよっ! ……上坂は腹の底から湧き上がってくるどす黒い炎のようなものをメラメラと感じながら、心の中で思いっきりツッコミを入れた。だが、突っ込んだところでこの状況を打開することは出来ない。
コツコツと、誰かが用具入れに近づいてくる足音が聞こえる。
内側からドアを引っ張って、開けられないようにしたらどうだ? 鍵がかかってると勘違いしてくれたら、諦めてよその教室にいってくれるかも知れない……いや、でも体重をかけられたら持ちこたえられないだろう。こっちはドアを引っ張ろうにも手がかりが少なくて、向こう側から思いっきり引っ張られたら、いくら女子が相手でも為す術もない。
やばい、死ぬ。このままじゃ、死んじゃう、社会的に。いっそ殺して!
上坂はパニックになりながら、何か逃げ出す方法は無いかと周囲をぐるぐる見回した。しかしここは掃除用具入れの中。そんな物が都合よく転がっているわけがない。それでも諦めきれない彼は、必死になって状況を打開しようと足掻き始めた。
思い出せ、こんなこと、今まで生きてきた人生の中じゃ大したことないじゃないか。今まで命がかかった状況を、何度も覆して生き抜いてきたんじゃないか。絶対に不可能だという状況でも、諦めること無く戦い抜いてここまで生きてきたんだ。こんな危機とも呼べないようなことで、簡単に諦めてしまったら昔の自分に笑われる。
その時、彼はハッとした。
そうだ。いつも自分はどうやって窮地を乗り越えてきた? ヤケクソになって、絶対に出来ないことをやれると嘯いて、そして発動する時間停止能力を駆使して来たんじゃないか。
でもそれは時間停止能力ではなく、美夜に言わせると世界を変える能力なのだ。彼はいつも嘘を吐くことによって、不可能を可能に変えてきたのだ。思い出してみろ。縦川と行った競馬場で、能力が発動した時、自分はなんて口走った? 確か、絶対万馬券当ててやると、軽口を叩いただけだった。たったそれだけのことで、自分の能力は発動する可能性を秘めているのだ。
考えろ! この場を切り抜ける嘘を……
思い出せ! どうして自分はこの状況に追い込まれたのかを……
状況は最悪だ、外にいる女生徒は、今まさにこの用具入れの扉を開けようとしている。彼女が用具入れの中にいる上坂を見つける世界線を別の世界線に変えるには、自分は世界に向かってなんてすっとぼければいいんだろうか?
「外田先生、ごめんなさい! 俺は心を入れ替えました! つきましては、先生の仰る通り、体育の補習を頑張ることを誓います!!!」
ギンッ! ……っと、金属が割れるような音がして、次の瞬間、上坂の頭に激痛が走った。
ガタガタガタン……っと用具入れがけたたましい音をたてる。ぐらぐらと揺れる上半身を支えきれず、よろけた上坂が扉を押し開けてしまったのだ。キィ~……っとドアがきしむ音がして、開けた視界に今まさにその扉を開けようとしている女子高生の姿が飛び込んできた。
上坂はゴクリとツバを飲み込んだ。
女子高生は、そんな彼の方を向いてはいたが、その瞳はどことなく虚ろで焦点があってないように見えた。彼女の体は微動だにせず固まっていて、さっきまで騒がしかった周囲の喧騒も、今はしんと静まり返ってなにも聞こえない。窓から差し込む太陽は眩しいのに、世界はどことなく白黒にぼやけてみえて、そこに動く者は何一ついない。
間違いない。上坂の能力が発動したのだ。
彼ははぁ~……っとため息を吐くと、四つん這いになりながら用具入れの中から外に出てきた。片足を突っ込んでいたバケツを蹴飛ばし、グワングワンと円を描くように転がるそれを忌々しげに見ながら、彼はポケットの中からスマホを取り出すとタップして起動した。デジタルの時計は止まっているが、アプリもブラウザも起動する。世界は静止しているのに、コンピュータだけが使える、そんな不思議な空間に彼は居た。
以前は生き残るのに精一杯で気にしてなかったが、今にして思えばこの必要ならば情報は仕入れられるという能力も、世界改変能力の一部なのだろう。彼はこうして自分だけの時間を得て、今まで世界を変え続けてきたのだ。
それにしても……今回、ここまで上手く行ったのは僥倖であった。自分の能力は嘘を切っ掛けに発動する時間停止能力と思い込んでいたのだが、美夜のお陰で考えが変わっていたのが幸いした。彼の能力は時間停止ではなく世界改変、つまり、もしかしたらあったかも知れない別の世界に移動することだったのだ。
そう考えを改めれてみれば、能力の発動条件……世界線を変える方法が見えてくる。外田から逃げ回って女子高生の着替えを覗いてしまうと言う世界を変えたいなら、外田から逃げ切れず捕まってしまった世界を想像し、そういう世界があると宣言すればいいのだ。そうすれば、彼は嘘を吐いたことになり、結果、能力が発動してこの静止世界……世界を移動する準備が整うという寸法だ。あとは宣言通り、目的を達すればいい。
しかも、その目的というのは、どうやらどんな些細なものでもいいらしい。万馬券を当てることでも、嘘を吐いた栄次郎追い込むことでも、何なら女子高生の生着替えが見たいと言ったら、この世界に来ることが出来るんじゃなかろうか。
万馬券を当ててやると言ったら世界が停止したのだ。なら、女子高生の生着替えを見てやると言っても同じようなことが起こるだろう。そして時間が停止したら、ここの用具入れの中に忍び込めば目的を達したことになって、また世界が動き出すはずだ。まあ、そんなことしたいとは思わないが……
ともあれ、今までも窮地を脱するたびに、自分の能力は破格だと思ってはいたが、その認識はまだまだ甘いものだったかも知れない。この能力、使い方を間違えたら、とんでもないことが起こりかねない……悪魔の技なんじゃないだろうか。
どこまで無茶な使い方が出来るのか、一度実験してみるのもいいかも知れない。多分、倖なんかは嬉々として協力してくれることだろう。あと、美夜は何故か静止した世界に一緒に来れるようだから、やる時は誘ったほうがいいかも知れない。そう言えば、もうひとり、動けるやつがいたなあ……
そんなことを考えつつ、起動していたスマホをスリープすると、ポケットに戻そうとして、
「おっとっと……?」
お手玉してしまい、スマホが床に転がってしまった。
シャーッと擦過音を立てて上坂のスマホが滑っていく。それはやがて、1人の女子高生の足にぶつかって止まった。彼が慌ててそれを拾おうとして、前かがみになりながら歩いていくと、その女子高生はひょいと転がってきたスマホを拾い上げて、上坂の方に差し出してきた。
「あ、どうもありがとう」
彼は拾ってくれた彼女に礼を言うと、今の衝撃で壊れてないかと再度スマホを起動して、無事なことを確認してから、またスリープして胸ポケットにいれようとして、馬鹿みたいにそれをまた取り落とした。
カランカランとスマホが床を跳ねる音が響く。
普通ならギャースカ喚いて大慌てで拾いに行くところだが、上坂は身動きが取れなかった。
今、このスマホ、拾い上げたのは誰だ?
寒くもないのに奥歯がカチカチと音を立てる。
驚愕に震えながら顔をあげると、能面のように表情を失くしたアンリエットが、じっと上坂のことを見下していた。上半身をはだけた彼女は脱いだばかりの体操服で胸元を隠してはいたが、肩口までは隠しきれずに覗いた真っ白い肌とブラ紐が生々しくて、とんでもなくエロかった。
彼はサーッと青ざめると、
「ち、違うんだ! 別に覗こうとしてあの中に入ってたわけじゃない! 外田に追っかけられて、たまたま飛び込んだのがあの用具入れで、中に隠れてたらおまえたちが教室に入ってきたもんだから出るに出れなくなったんだ! それに、あの中にいたら何も見えなかったんだぞ? なのに、あの女子が用具入れを開けようとするから、仕方なく……そう! 俺は仕方なく外に出てだね!? こうして着替え中の女子高生の間を抜けて、こう……つまり……仕方なかったんだ!!」
必死になって言い訳したが、それで許されるわけもない。アンリはじーっと彼のことを蟻ん子でも見るような無表情で見つめながら、
「とりあえず、殴っていい?」
「……顔はやめて? 体に……って、ぐげぼはっ!?」
もはや言い訳は通用しない。諦めた上坂が言い終わるよりも先に、アンリの腕が深々と彼の腹に突き刺さっていた。彼は床でのたうち回りながら、こみ上げてくる吐き気と痛みに耐えるしかなかった。




