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終末の笛吹き男  作者: 水月一人
第三章・上坂一存の世界
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平均への回帰

 薄暮の中を喘ぐような息が弾んでいた。霧が立ち込め視界不良の中、自分がどこへ向かっているのかも良くわからない。


 立花倖は暮れゆく夕焼けの明かりだけを頼りに、道なき道をかき分けるようにして駆けていた。


 背後からはコツコツと何者かが追いかけてくる足音が聞こえてくる。彼女はその見えない何かから逃れるために、必死になって走っていた。助けを呼ぼうにもあたりは薄気味悪い雑木林しか見当たらず、行けども行けども人の気配は感じられない。せめて人通りの多い場所に辿り着けたら良いのに、まるで足音に誘導されているかのように、彼女は人気の無い方へと追い立てられていた。


 それからどのくらい時が過ぎたかわからない。気がつけば彼女はだだっ広い墓地の真ん中を走っていた。無機質な石の十字架が立ち並ぶ小道を、ただひたすらに前進する。出口はどこにも見当たらない。さっきから息も絶え絶えで、もう走ってるのか歩いてるのか良くわからないくらいなのに、足音はコツコツと一定のリズムを刻みながら彼女の背後を着けてくる。


 木枯らしが吹き荒び、枯れ葉が舞う。ぎゃあぎゃあと(かまびす)しいカラスの鳴き声が耳障りに響いていた。それがあたかも粘性を帯びた液体のように、耳の中にこびりついて離れない。と、彼女がそんな鳴き声に苛立っていると、いつの間にか足音は聞こえなくなっていて、彼女はだだっ広い墓地のど真ん中で行き場を失った。


 どこへ逃げればいいのか、いやそもそも、自分が何から逃げてるのか、どこから来たのかさえもう分からなくない。ぐるりと周囲を見回してみると、360°墓石しか無くて、遠くの方は霧で霞んで何も見えなかった。なのに、誰かが追いかけてくる、そんな気配だけは感じられれるのだ。


 耳をすませば、コツコツと、また足音が近づいてくる。ぎゃあぎゃあとカラスの声にかき消されて聞こえなかったそれは、徐々に徐々に大きくなってきた。彼女はここに居てはいけないと焦ったが、さっきから足音は確実に大きくなってきているのに、カラスのせいでその方向が分からない。焦りが募り、冷や汗が垂れてくる。逃げ場がないわけじゃない、ただどっちに走ればいいのかわからないのだ。


 忌々しいカラスめ……結局、彼女はとにかくここから離れなければならないという考えだけで走り始めた。せめて追跡者の姿さえ見えれば逃げやすいというのに、そう言えば足音もそうだが、カラスの方も声は聞こえど姿は見えない。


 一体、これはなんなんだ? 一体、何から逃げてるんだ? カラスなんて、本当に居るのか? と思った時、コツコツ、と言う足音が、すぐ側まで近づいていることに彼女は気がついた。


 しまった……


 逃げるつもりが、逆に近づいてしまったのか? 背筋をゾクゾクとした悪寒が駆け上る。その時……


 トン……


 っと、何者かの手が彼女の肩に触れた。額から汗が吹き出し、全身が凍りつく。


 恐る恐る、彼女が振り返る……


 するとそこには全身真っ赤な血に染まった男が巨大な斧を振りかぶり、今まさに彼女に向かって振り下ろそうとしている最中だったのだ。


「おはぎゃあああああーーーーーっっっ!!!!!」


 ガバッ……!! 立花倖は飛び起きた。


 どこからともなく聞こえてきた男の叫び声に叩き起こされた彼女は、軽いパニックを起こしながら、あたりの様子を窺った。


 カラスは? 足音は? ここはどこだ? 墓場はどこに行った? いや、そもそもなんで自分は墓場を歩いていたんだ?


 ……もしかして、さっきのは夢だったのか。でも、それじゃあ今、自分を叩き起こしたあの叫び声は……寝ぼけているのか、頭がうまく回らない。


 身の危険を感じた彼女は、とりあえず布団を蹴飛ばして体を起こすと、壁を背にして部屋の出入り口をじっと睨みつけた。暫く待ってみたが人の話し声も、誰かがやってくる気配もない。


 片手は無意識にいつも枕元に置いてある護身用の拳銃を探っていた。だが、それがいつまでも見つからないことに焦った彼女は、その時になって、ようやく自分がドイツの自宅ではなく、日本の縦川の寺に居ることを思い出した。


 寝汗をびっしょりとかいた寝間着が肌に張り付いていた。それが体を動かすたびに引っ張られて、ひどく不快だった。どうやら自分は悪夢を見ていたらしい。彼女は、いつの間にか乱れていた呼吸を整えながら、ぺたんとその場に腰を下ろすと、脱力するようにため息を吐いた。


 命を狙われる生活が始まってから五年にもなる。いい加減に慣れたつもりだったが、疲れが溜まると未だに悪夢にうなされた。何しろ、自分を殺すために、あれだけの犠牲者を出すような連中が相手だ。眠っていて気が休まるはずもなく、敵がどこに潜んでるか分からない中で暮らしていくのは、生きている心地がしなかった。


 それでも仲間が居てセキュリティが万全なドイツの自宅では、ここのところはリラックスできる時間が増えてきたはずだった。きっと久々に日本まで来たことで相当ストレスが溜まっていたのだろう。上坂が生きていると知って、思わず飛行機に飛び乗ってしまったが、もっと慎重になるべきだったろうか……


 倖はブルブルと頭を振った。


 5年前、彼が死んだと早とちりして、日本を出たのは自分のミスだ。彼がどれほど酷い目に遭わされたかも知らず、彼を探そうともせずに、無責任に生き延びていたのだ。せめて、こうして迎えに来るくらいしなければ保護者失格だろう。


 しかし、護身用のテーザーすら無いのは落ち着かない。日本の反社会勢力から拳銃を手に入れる手はずは整っているから、早いうちにここを出ていった方がいいだろう……その時、上坂をどうすべきか……


 この間会った下柳とかいいう失礼な男は、彼がドイツに行くと聞いてかなりがっかりしていたようだった。それに、意外にも上坂は今学校に通っていると聞く。子供の頃、学校に通わせても殆ど友達らしい友達を作れなかった上坂が、こうしてここで自分の力で自分の居場所を作っていたのだ。


 それはすごく嬉しいことだし、ドイツに連れて行くのは仕方ないにしても、せめて最後の日までは普段どおり過ごさせてやったほうがいいんじゃないか……でも、もしかしたら危険かも知れないし、その間の連絡はどうすればいいんだろう。


 と、その時……


「ココ電逝ったああああぁぁァッーーーーーー!!!!」


 鼓膜をビンビンと震わす大声が響いてきて、倖は頭痛を覚えた。


 なんだこのしょうもない叫び声は?


 さっき、悪夢にうなされていた時、誰かの叫び声で飛び起きたような気がしたが、どうやら気のせいじゃなかったようだ。よくよく耳を澄ませてみると、寺務所の方からホモビデオみたいな喘ぎ声がチラホラと聞こえてくる。いや、ホモビデオなんて見たことないのにどうして知ってるのかと言われると困るのであるが……とにかく、縦川が一人で大騒ぎしているようだった。


 一体、何をやってるんだろう? どうせろくなことじゃないだろうが……


 倖はため息をつくと、汗だくになった寝間着を脱ぎ捨て、着替えを持って洗面所に向かった。


*******************************


「あばば、あばばば……あばばばばばば」


 寺務所の中では、もはや人語を話せなくなった縦川が、目を血走らせながらパソコンに向かい、傴僂(せむし)男みたいに前のめりになってマウスをカチカチ言わせていた。


「まだだ、まだ終わらんよ。そう、これは若さゆえの過ち、苦い経験を乗り越えた僕たちのナンピンチャンス! より多く儲けを得るために神様が用意してくれた起死回生のチャンスに違いない」


 彼は額に汗をびっしょりとかきながら、ヤク中みたいなヘラヘラ笑いを浮かべつつ、震える手でマウスをポチろうとした。と、その時、彼の鼻孔に石鹸のいい香りが漂ってきたかと思うと、いつの間にか手にしていたマウスが無くなっていた。


 驚いた縦川が振り返ると、立花倖が呆れた素振りで立っていた。


「あ、あれ?! ちょっ! 返してくださいよっ! 取引中なんですよ!? 1分1秒の遅れが、数億円の損失につながる株式市場なんですよ!?」

「どう頑張っても、あんた一人の損失なんてたかが知れてるわよ。それより落ち着きなさい。頭カッカさせてまともなトレードなんて出来ないでしょ。それこそ、本当のチャンスを見逃すかも知れないわよ」

「むっ、それは一理ありますが、せめてこの銘柄だけでも買わせてください! 今買わなきゃ何にもならないんだ。あ、ほら、また下がった。今度こそ底値だ! 今がチャンス!」


 倖は縦川の五厘刈り頭をベシっと叩いた。


「あんっ! アツゥイっ!」

「気持ち悪い声出すんじゃないわよ! まったくもう……いいから落ち着きなさい。そしてよく見る。あんたが底値って言ってた株は今いくら?」

「……底値を這ってます」

「嘘おっしゃい。さっきよりもっと下がってるわよね? ご丁寧に、激しい乱高下を繰り返しながら……っていうか、本当にわかりやすいわね。どうしてこんな仕手株買ってるのよ」


 倖は縦川が弄っていた銘柄の値動きを見てため息を吐いた。


 まだ前場が始まったばかりなのに数%もの激しい値動き、ところが出来高はせいぜい数百株とたかが知れている。嫌な予感がしてチャートを遡って見てみれば、ここ数ヶ月の間に、極端な出来高があるにもかかわらず値動きがまったくない日が数日あった。明らかに、なんらかの仕込みがあったのは間違いない。


「……これはまともじゃない筋が入ってるわね。さっさと撤退したほうがいいわ。あんた、どんな取引してんのよ。ちょっとポートフォリオ見せて……」

「あっ! ちょっと! 勝手に見ないでくださいよ」


 嫌がる縦川を押しのけて、彼の座っていた椅子を奪い取ると、倖はマウスを操作して彼の取引履歴を調べてみた。すると呆れるやら嘆かわしいやら、彼が買っていた銘柄はどれもこれも仕手株や新興株だらけで、通算の損益は乱高下を繰り返した挙げ句に、マイナスの一途を辿っていることが判明した。聞けば、縦川は噂を信じてマイナーな株を買いあさり、高騰した仕手株や新興株を高掴みし、それで損失が出たら、値上がりしている株を売って、その売却益でナンピンして埋め合わせていたのだ。


 ものの見事なカモネギだ。倖は呆れ返ってしまい、目眩がするくらいだった。


「普通逆でしょう? ちょっと考えれば分かるじゃないの。儲かってる株は調子がいいから値上がりしてるのに、それを売って、値下がりした問題の多い株の方を買い増すなんて、普通に考えておかしいでしょ」

「え? ……そうかな? でも、株は売らなきゃ損じゃないんだし」

「それで買い増しした株で収益出たの? せいぜい、収支がプラマイゼロになったくらいで、満足して撤退しちゃったんじゃないの?」

「………………」


 きっと身に覚えがあったのだろう。縦川は視線を宙を泳いでいる。倖はその表情を見て、本日何度目か分からない長い長い溜息をくと、


「あんたのそれは投資じゃなくてギャンブルっていうのよ」

「う……でも、これで儲かるときもあるんですよ? それに虎穴に入らずんば虎子を得ずともいいますし、多少冒険をしなければ何も得られないじゃないですか。格言にもあるでしょう、リスクを取らないのが最大のリスクだって」

「雲谷斎さん。それはあなたがそういうつもりで投資してるからそう見えるだけであって、株式投資は本来はもっと手堅い貯金みたいなものなのよ。下手な売買を繰り返さず、黙って買った株を持ち続けていたら、必ず儲かるように出来ている」

「そんな馬鹿な。あなた、リーマンショックやブラックマンデーを知らないんですか? ……っていうか、あなたもその名前で呼ぶんですか、そうですか」


 縦川がブツブツ言ってると、倖はパソコンを操作して何やらチャートを表示した。なんだろう? と画面を覗き込むと、


「ま、あなたの言う通り、確かに市場はバブルと恐慌を繰り返す面もあるわ。でも、これを見て? これはダウ平均の全期間チャートなんだけど、これを見てどう思う? あなたの言う通りところどころ、乱高下している部分はあるけれど、長い目で見ると殆ど一直線に上がり続けてるわよね」

「……ええ、そうですね」

「その間、1929年の大恐慌や、ブラックマンデーやリーマンショックもあったわ。でも、このチャートを見れば分かる通り、それさえ過去のものにして、ダウ平均株価は上昇し続けてるわよね? 株は売られすぎれば買われ、買われすぎれば売られる。必ず平均に回帰する。ところどころでは上下するけど、全体を通してみれば必ず線形回帰し上昇し続けるように出来ているのよ。四の五の言わずに、買った株をずっと持ち続けていれば、誰でもこれだけ儲かったわけよ」

「いや、でも日本株はこんな綺麗なチャートを描いてないでしょう。寧ろ、バブル崩壊後は下がり続けていた。これはアメリカだから成り立ってるだけで、日本で同じことしたら失敗したはずじゃないですか」

「いいえ、そうじゃないわ。実は日本も同じようなチャートを描いてるの。そう見えないのは、日経平均株価が今みたいに記録され始めたのが1970年代のことで期間が短く、その直後にあのバブルがあったり、失われた20年もあったからね。でもよく見ると、日本のチャートとアメリカの大恐慌期のチャートって良く似てて、暴落後の停滞期を抜けたら、同じように一直線の上昇を描き始めているわ」

「そう見えなくもないですが……じゃあ、あなた。これからもずーっと株価は一本調子に上がり続けるって言うんですか?」

「ええ、間違いなく」

「それが本当なら凄いですけど。なんでそう言い切れちゃうんですか?」

「それが政治の目的だからよ。ダウ平均株価はどうして上昇し続けていると思う? それはアメリカを含む資本主義国は、経済成長をし続けるように出来ているからよ。私達は国を富ませるために、毎年GDPを数%成長させるように政策を行ってる。


 ちょっと昔に遡って考えてみましょうか。


 例えば……戦前の日本では1円あれば何でも買えた。高度経済成長期、大卒の初任給が1万円なんて時代もあったわよね。今は不況だと言っても、大卒の初任給は20万くらいで、これ以上、下がることはないわ。これはどうしてかと言うと、経済成長はインフレを伴うからね。使えるお金がどんどん増えれば、それだけお金の価値も下がるってわけ。


 じゃあ、株はどうなの? 経済成長するとインフレが起きるのに、株価が変わらなかったら持ってるだけで損するわよね。当然、株価も経済成長率に合わせて値上がりすることになる。しかも経済が好調なんだから、株価の方はもっと上がることになる。


 経済成長がインフレを伴うなら、そのまた逆も然り。現在、先進各国は緩やかなインフレターゲットを設定して需要を喚起し、それによる経済成長を実現しようとしてるわけよね。すると、株価もぐんぐん上がることになる。


 で、結論から言うと、実際にそうなってるらしいわ。『21世紀の資本』を書いたトマ・ピケティによると、ここ数百年の先進各国のGDP成長率と金融資産が生み出す資本収益率の関係は、常に『GDP成長率<資本収益率』を描き続けてきたらしいわ。


 現在だと、大体どの国もインフレターゲットを2%に置いてて、言い換えればそのくらいのGDP成長率を目指してる。それに対して、株などの金融資産が生み出すリターンは、アメリカの例だとここ数十年間はおよそ年5%で推移してるそうよ。つまり、私達がせっせと働いたよりも、何らかの金融資産に投資してた方が、3%くらい効率が良かったわけ。


 ところで、その差は年に3%程度だって言っても、複利を知ってる人ならこれがとんでもない数字だって分かるわよね? 今、人類全体が生み出すGDPがどのくらいかわからないけど、もしこれから先、この差が殆ど縮まらないなら、多分100年もしないうちに金融資産が生み出す資本、いわゆる不労所得の方が勝るようになるでしょう。そしてその差は拡大し続ける。ピケティはこれが格差の正体だと言ったわけね」


 倖はそう言ってから片目をつぶり、ウィンクしながらニヤリと笑った。


「ま、今の東京は人間だけじゃなくて、機械がせっせと働いてくれるし、ベーシックインカムもあるんだけどね。話が脱線したわ……とにかくまあ、株式投資も長い目で見れば手堅い投資方法なわけよ。ギャンブルじゃないわ。ギャンブルになっちゃうのは、下手な売買を繰り返すからね。もし、本当に余剰資金があるなら、定期預金するより何か手堅い株を買いなさい。そして買ったことを忘れなさい。株価に一喜一憂しなければ、そうすれば必ず儲かるから」


 縦川は確実に儲かると言われても納得行かず、腕組みをしながら申し訳なさそうに反論した。


「う、う~ん……お話は理解できましたが、それでも納得しきれないものがあるんですよね。手堅い株って言っても、東京電力だってあんなことになってしまったわけですから」

「そりゃ、東電だけ買ってたら大損したでしょうね。でも、そのためにポートフォリオがあるんじゃない? 分散投資ってのはナンピン資金をプールするためにあるんじゃないわよ」

「うっ……おっしゃる通りで」


 縦川はシュンと項垂れた。倖は肩をすくめると、


「まあ、あんたに止めなさいっていっても無駄なのかしらね……上坂くんに聞いたけど、競馬とかギャンブル狂なんですって?」

「ギャンブル狂とまで行きませんが……ええ、まあ、確かに、株価に一喜一憂するのを楽しんでた面は少しはあるかも知れませんね」

「なにその政治家みたいな答弁は」


 倖はクスクスと笑った。


「それじゃあ、まあ、私から言えることは、もう少し冷静に、機械的に取引をするよう心がけなさいってことくらいね。小型株はもう金輪際やめなさい。さっきから見てたけど、あなた完全に鴨にされてるわよ。いくらギャンブルが好きって言っても、負けるよりも勝つほうがいいわよね?」

「そりゃ、もちろん」

「だったらこれからは大型株を買いなさい。ローリスク・ローリターンの」

「うーん……でも、大型株の方が寧ろ機関投資家が多くて、値動きがよく分からないんですよ。人間心理が見えないっていうか」

「その人間心理でこてんぱんにやられてたんでしょうが、まったく……というか、そんなもの見えなくていいわよ。機関投資家なんてどこもかしこも機械取引なんだから」

「機械取引……それじゃますます分からないじゃないですか」


 何しろAIは賢いのだ。東京都はそれを活用できてるが、未だに多くの人たちが、いつかAIに仕事を奪われると思ってるくらいだ。しかし倖は首を振ると、


「バカねえ。逆でしょ? 機械なんてそれこそ機械的にしか動かないんだから、予想は立てやすいはずよ。人間みたいに逸脱した動きはまずしないわ」

「そうなんですか? でも、見た限り何をやってるかさっぱりわかりませんよ?」

「それは機械の取引が人間と比べて速いからそう見えてるだけよ……例えば裁定取引(アービトラージ)なんて聞いたことあるでしょ?」

「裁定取引。はいはい、聞いたことあります。よく怪しげな広告サイトに書かれてますね。かなり危険な取引なんでしょ?」

「……本当にバカね。違うわよ。絶対に儲かる投資法のことよ。しかも一瞬で利益が出る」

「そんな方法があるんですか!?」


 興奮した縦川が目を血走らせて乗り出してくる。倖は若干引きながら、


「あるけど、私達には絶対無理な方法だから諦めなさい。裁定取引ってのは……例えば外国為替取引を例にすると、円は世界中で売買出来るわけじゃない? NYでもロンドンでも」

「はい」

「ある時、NYで大量の円買いが入ったとする。するとNYでは円が高騰するわけだけど、同じ時刻に取引を行ってるロンドンでは、NYで大量の円買いが入った情報が入るまでは、まだ円は安いままよね? するとこの瞬間、一時的にNYとロンドンで円に値段の差が生じる……」

「はい」

「じゃあ、この瞬間を狙ってロンドンで買ってNYで売れば、確実に儲かるわけじゃない」

「はい……って、え? そんなことが出来るんですか!?」

「昔はそれが出来たのよ。コンピュータがまだ導入されてなくて、取引所で証券マンが手でサインを送ってた時代ね。それを知ってた人たちはボロ儲け出来たわけだけど、みんなが同じことをやれば規制されるし、インターネットが普及しコンピュータが導入されると、情報がリアルタイムで送られるようになって、それもできなくなった。


 でも、頭のいい人たちは、すぐに別の抜け穴を見つけてくるものよね。彼らは今度はインデックスに目を付けた。


 インデックスってのは株価指数取引、日経400とか、225とか、コア30なんかの複数銘柄の平均株価に投資する商品のことね。これらは数が違うだけで、どれも同じ銘柄を組み込んでるから似通った動きをするの。けど違う商品でもあるから、時に値動きが連動しないで値ざやが発生することがあるわ。


 ところで、アメリカにはNYだけじゃなく、ナスダック、アメリカン、シカゴの取引所があって、それぞれの取引所で株価指数を販売してたの。どこも独自の銘柄を組み込んだ商品を販売してたんだけど、組み込まれる銘柄はやっぱり似通ってたのね。だったら値動きもに似てくるはずと思うんだけど……


 ところが、以前はこれらの動きに大きな違いがあったのよ。これらの証券取引所はそれぞれ独立してて、それぞれ独自に運営してるから、さっきの為替取引みたいに、昔は情報交換が上手く行ってなかったのね。そしたらやることは簡単じゃない。


 とあるファンドは、それで証券取引所間で値段の違うインデックスの売買を頻繁に行うようになった。ところが、そういう動きはやっぱり周りにすぐバレちゃうのね。当然、真似するファンドが出てきて、我も我も後に続いた。


 それで何が起きたかと言うと、みんながそれぞれの取引所に拠点を構え、専用線で連絡を取り合い、コンピュータで売買をする、つまり機械取引が始まったのよ。先を越されたら儲けが無くなっちゃう。私達は機械取引とかアルゴリズム取引って聞くと、きっと数学を駆使して凄いことをやってるんだろうって想像するけど、実はやってることは機械によるスピード合戦だったわけ。


 で、最終的にこれがどこまでいったかっていうと、ある時、NYとシカゴの間に引いた専用線が曲がってると気づいたとあるファンドが、一直線の光ファイバーを通すことを考えた。電話線を思い浮かべれば分かるでしょうけど、電話線は電柱に沿って引かなければいけないし、山があれば迂回する。そうすると、一直線に引いた場合よりも百分の一秒とか二秒とか遅れちゃうから、まっすぐに引いたらボロ儲け出来るんじゃないかって。結果、そんなもの引かれたら勝負にならないからって、全てのファンドがその会社に莫大な使用量を払ってその専用線を使ってるそうよ。


 機械取引ってのはこんな具合に、ただ愚直に、決められたことを最速で行うシンプルなものなのよ」


 縦川は話に感心しつつも、苦い顔をしながら、


「機械が絶対に儲かる取引をするなら、一般人は絶対に儲からないじゃないですか」


 すると彼女は首を振って続けた。


「そうでもないわよ。もちろん、スピード勝負しようっていうなら勝ち目はないけど、それ以外なら共存できるわよ。いま言った通り、機械は決められたことをただこなしてるだけなのよね。その決まりごとは至ってシンプル。安く買って高く売ること、もしくはその逆ね。これをどう判断してるかって言えば、そりゃファンドごとに独自のルールはあるでしょうけど、私達と殆ど変わらないわよ。だから、あなたはただ移動平均線を見てればいいわ」


 縦川はぽかんと馬鹿みたいに口を開けてしまった。


「移動平均線? 移動平均線って、あの移動平均線ですか?」

「多分、その移動平均線よ。トレンドに逆らわず、ボリンジャーバンドから逸脱しそうになったら売買しなさい。コンピュータも同じものを見て取引してるんだから、売られすぎてたら買い、買われすぎてたら売るわ。それがコンピュータの存在意義なんだから、株価は必ず平均に回帰する。そして長い目で見れば、ダウ平均の長期チャートみたいに一直線の上昇を描くはずよ」


 縦川はぶるんぶるんと首を振って苦笑いしながら、


「いや、でも移動平均線での取引なんて、誰でもやってることじゃないですか。そしたら、みんなが儲かってなくちゃおかしいじゃないですか」


 すると倖はじっと彼の目を覗き込みながら、


「本当にそうしてる? あなた、移動平均線を見てあの株を売買してた?」


 縦川はそう言われて、今まで自分が扱っていた銘柄を思い出してみた。


 言われてみれば、確かに見ていない。というか、見ても仕方ないのだ。小型株は出来高が少なすぎて、テクニカル指標は極端な数値しか現れない。


 じゃあ、何を見てあれを買ったんだ? 彼はサーッと血の気が引いていくのを感じた。


 思い返せば株を始めた当初は、移動平均線どころかもっと色んな指標を見ていたはずだ。一日中、あーでもない、こーでもないと悩んで、悩んで、悩み抜いて、おっかなびっくり買っていたはずだ。今はそんな気持ちはまったくない。彼は自分のことなのに信じられない思いがした。


「何事も初心忘るべからず。世阿弥の言葉よ。名人でさえこう言うんだから、私達凡人は尚更のことね」

「いや……あなたが凡人ってことはないでしょうけども……」


 縦川はボリボリと後頭部を掻きむしった。


「……中々有意義なお話を聞かせて貰いました。今日は今あるポートフォリオを手仕舞って、もう一度いちから考え直してみることにします」

「さっきも言った通り、余剰資金を手堅い株に突っ込んで、忘れちゃうのが一番楽よ。こんなのに気を取られるのは時間の無駄なんだし」

「まあ、趣味ですから、そこは一つ……ね?」

「そ? ところで、お腹空いたわね。あら、もうこんな時間? 朝も食べてないし、どうりでお腹がへるんだわ」


 パソコンの画面を確認すると、いつの間にか前場が引けていて、昼近くになっていた。だいぶ話し込んでいたらしい。


「上坂君はどうしたのかしら? そう言えば、朝から見かけないけども」

「彼なら今ごろは境内の掃除をしてますよ。美夜ちゃんも一緒でしょう」

「あら、働き者なのね」

「……朝のお勤めはこの寺のルールなんですけども。クリスチャンの美夜ちゃんは仕方ないとしても。あなたは初日から、一度も参加しようとしませんね」

「私もクリスチャンってことで」

「嘘おっしゃい」

「それよりお腹へったわよ。上坂君を呼んでご飯にしましょ。今日は何食べようかしら。いつもの出前でいいわよね?」

「まったく……それじゃ、上坂君呼んできます」


 彼はそう言うと、寺務所から境内にいる2人を呼びに外に出た。


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