どうしてこうなった
あの深夜のレストランでの立花倖との再会から数日間が経過して、8月も半ばに差し掛かろうとしていた。空はどこまで高く藍色で、真っ白な積乱雲がペンキをぶちまけたかのように、のっぺりとした輪郭を見せながら浮かんでいた。照りつける太陽がアスファルトを焼いて独特な臭気が漂ってくる中を蝉しぐれの洪水が襲い、すぐ隣りにいる人の声も聞き取れないくらいうるさかった。日向を歩いているとそれだけで熱に浮かされてしまい、水を飲む先から汗となって蒸発してしまうかのような、もしくはアイスキャンディーを開けたら、それを食べきるのが先か溶けるのが先か競争してるような、そんなひどい暑さだった。
上坂をドイツに連れて帰るという倖は、あれから寺に逗留し、空いていた部屋の一つを占領して何やら一人でゴソゴソやっていた。あの日、命を狙われていると語ったことを裏付けるかのように、彼女は寺に来てからは人目を避けて一歩も外に出ずに、自分の持ち込んだ素人には何がなんだかよく分からない機械を使って、どこか外部と連絡を取ってるようだった。
誰と話しているのか聞いても教えてくれなかったが、多分、ドイツに居るという白木恵海の父親だろう。彼女は対外的には死んだことになっているから、ここへ来るのには相当無理をしたはずである。上坂を見つけてすぐに飛んできたと言っていたが、きっと本名は名乗ってないしパスポートも偽造に違いない。厳しいと言われている日本の入管をどうやって突破してきたのか……答えてくれないだろうが、興味が尽きないところである。
ところで、彼女のみならず上坂も死人であるから、一口にドイツへ行くと言ってもすんなりとは行かないだろう。特に彼はアメリカから帰国する際に、日本政府にその存在を認識されているから、こっそりと海外へ出ていこうものなら大騒ぎになりかねない。出ていくには彼らの許可が必要である。
案の定、あの日の翌日、上坂は外務省を通じて政府に出国の希望を申し入れたのだが翻意を促され、更にはそれを伝え聞いた東京都に大反対されたようである。上坂を利用したいという政治的な野心と言うより、多分、アメリカとの密約なんかがあるのだろう。彼の存在が明るみに出ると、困る人間が大勢いるのだ。そもそも、倖が姿を隠してる以上、ドイツに行きたいという正当な理由がないのだから、反対されるのも当然と言えた。
だから倖は多分、そのための裏工作をやっているのだろう。部屋にこもりきりになった彼女は、クーラーをガンガンに効かせて、毎晩夜遅くまでキーボードをパチパチやっていた。あの日の勢いでは、すぐにでも上坂を連れて居なくなってしまいそうだったが、実際にはまだまだ時間がかかりそうだった。
そんなわけで、あれからも相変わらず上坂は縦川の寺で寝起きし、朝のお勤めをこなし、登校日には学校に通っていた。
学校をやめることはまだクラスメイトたちには話してないそうだが、喧嘩別れみたいになってしまったアンリには流石に言わないわけにもいかず、タイミングを見計らっているようである。だが登校日が来るたびに意気消沈して帰ってくる様子を見ると、どうも上手く行ってないようだった。
また、伝えなきゃいけない相手は、アンリだけではない。
「こんちゃ~! 雲谷斎いる? 近く来たから寄ったんだけど。今日泊めてよ」
ある日、下柳が寺に遊びに来た。
当日こそ仕事の都合で来れなかったが、友達である彼にはシャノワールで演ったイベントのことは話していた。彼自身は音楽に興味が無いので、来れないことをそれほど残念がってはいなかったが、演奏をするのが上坂の幼馴染の女の子だと言うことを知って、それについてからかえないことは残念がっていた。
だからその日も上坂をからかうつもりで、酒と肴と新しいレトロゲームを抱えて、いそいそと遊びにやってきた。彼は挨拶もそこそこ、寺に勝手にずかずか上がり込むと、
「邪魔するぜ。よう、上坂! 久しぶり! 彼女できたんだって? どんな娘よ。写真見せてみろよ」
「ば、ばか! エイミーはそんなんじゃないんだから、本人の前でそんなこと言うなよな」
「くくくっ、照れんじゃねえよ。雲谷斎から聞いてんだぞ、おまえ、彼女にくびったけなんだって?」
「んなこたねーよ! からかいにきたなら帰れ。雲谷斎も適当なこと言ってんじゃねえ、しばくぞ!」
「えー、俺そんなこと言ってないよ。上坂くんがエイミーさんのファンだって言っただけだって」
学校のクラスメイトの影響か、それとも下柳のせいなのか、上坂もだいぶ口が悪くなっちゃったなと思いつつ、縦川が弁解していると、そんな彼の背後から、ヒョイッと小さな影が飛び出して来て、
「おまえ、何れすか! 無礼な奴れす! 神様にあやまるれすよ!」
「あっ! いてっ! いててっ! なんだ、このちびは……?」
美夜が下柳に突撃していって、ポカポカと叩き始めた。きっと下柳が上坂をイジメていると思ったのだろう。人造人間と言っても肉体的には10歳前後の彼女に叩かれても痛くも痒くもないだろうが、攻撃が攻撃になってないせいで逆に反撃が出来ない彼は一方的に叩かれる羽目になった。
下柳は腕をぐるぐると回転させる泣いた子供アタックを必死に捌きながら、
「おい、上坂。もしかしてこれが彼女か? 犯罪じゃねえか」
「馬鹿! そんなわけないだろっ! 恐ろしいこと考えてんじゃねえよっ!」
「むきぃー! このゴリライモ! どこまでも冒涜的な奴れす」
下柳のセリフが最低極まりなかったおかげで、上坂までもがムキになって声を荒げると、美夜はいよいよ怒り心頭と言った感じで腕の回転を早めた。当たったらものすごく痛そうだ。バチバチと下柳の腕や胸を叩かれる音が部屋中に鳴り響く。その、痛みすら顧みぬ、いじめられっ子の逆襲アタックに、堪らず下柳が身をよじると、攻撃をすかされた美夜が勢い余ってでんぐり返って部屋の中をゴロゴロ転がっていった。
ドタンバタンと古い家屋が音を立てる。
「ああ、おい、こら、下やん、やりすぎだ、やりすぎ。相手は子供だろう!?」
「いや、だって、子供相手って言ったって、結構痛いんだぞ? サンドバックは勘弁してくれよ」
「あんたがからかわなきゃこんなことにはならなかったんだっ!」
上坂は下柳に強く抗議しながら、転がっていった美夜を抱き起こした。すると転がっていくときどこかにぶつけたのだろうか? 目を回した美夜の鼻からドバドバと鼻血が溢れ出し、
「ぎゃー! ティッシュティッシュ!」
「わ、やべえ、お嬢ちゃん大丈夫か?」
流石にやりすぎたと思ったのか、下柳が真っ青になって手近にあったティッシュを投げてよこす。上坂はこよりを作ると、美夜の鼻にギュッと突っ込んだ。
「ああ、ああ……こりゃひどい。雑巾取ってくるから、血が止まるまで鼻をつまんでおいてあげて」
「わかった」
縦川は上坂の返事を受けると、オロオロしている下柳を置いて洗面所に向かうために廊下に出た。下柳はどうも照れ隠しからか、久しぶりに会う友達をからかってしまう傾向がある。
上坂はあんまり人付き合いに慣れてないんだから、もう少し優しくしてやれよな……とぶつぶつ言いながら廊下を歩いていると、横合いからいきなりひょいと手が出てきて、
「うわっ! 立花先生ですか……びっくりするじゃないですか。どうしたんです?」
丁度、倖の部屋の前を通りかかった時、部屋の中に潜んでいた彼女が突然現れた。彼女は縦川をぐいっと部屋の中に引っ張り込むと、騒がしい寺務所の方をこそこそと覗いながら、
「……お客さん? あれは何者なの?」
どうやら、突然の来客に対し警戒しているらしい。縦川は、そう言えば彼女は命を狙われる危険があると言ってたっけなと思い出し、
「ああ……あれは、俺の古くからの友人で下柳って男です。ああ見えて警察官なんで、大丈夫ですよ。怪しいやつじゃないです」
「……そうなの?」
「ええ、10年以上の付き合いなんで、怪しい宗教とかやってたらすぐわかりますよ」
「上坂くんとも仲良さそうだけど……」
「はい。ここは男所帯で気兼ねなく遊びにこれるから、あいつよく来るんですよ。何度か泊まりにきたり、一緒に遊びに行ったりで、いつの間にか仲良くなったんでしょうね」
「へえ……」
倖は感心したようにため息を吐くと、もう一度目をパチクリさせながら寺務所の方を覗き込んだ。彼女は上坂にあんな気安い知人がいるとは思わなかったのだろう。話しによれば上坂は、あまり学校には通わずに倖の職場に入り浸っていたようだから、比較的おとなしい人種としか付き合いが無かったのだ。
彼女は珍しいものを見たといった感じに、
「そう……上坂くんに良くしてくれたんなら、保護者として挨拶しにいったほうが良いわよね?」
「いや、あいつにそんな気は使わなくっても……」
「いいわよね?」
「……はい。そうしてください」
倖の目が興味津々なのを見て取ると、縦川は苦笑いしながらそう返した。血はつながっていないとは言え、物心付く前から育ててきた子供なのだ。なんやかんやその成長や交友関係に興味があるのだろう。縦川は実家のお母ちゃんのことを思い出して、なんともしょっぱい思いがよぎった。
それにしても……さっきからやけに大人しいなと思っていたら、下柳が来るや否や部屋に引きこもって、ずっと息を潜めていたのだろう。
彼女の言葉を信じるならば、5年前のあの隕石は偽物で、裏世界で暗躍する秘密結社のことを知ってしまったせいで、彼女は命を狙われてるそうなのだが……この警戒っぷりはただごとじゃない。イルミナティだったか? 本当にそんなものが存在するのだろうか。
その後、二言三言交わしたあと、縦川は雑巾を取りに洗面所に向かい、倖は部屋から出ていそいそと寺務所の方へと向かっていった。さっきから息を殺していたせいか、それとも緊張からか、無用に足音を殺してしまった彼女は部屋の前まで差し掛かると、ごほんと咳払いしてから、思春期の娘の部屋に入る父親みたいに、わざとらしく口笛を吹きながら中に入っていった。
鼻血を出した美夜を介抱していた2人は、雑巾を取りにいった縦川が帰ってきたのだ思い振り返る。ところが、そこに見たことのない女性が立っているのに気づいて、下柳は目をまん丸く見開いた。
「え? あれ? どちらさん? まさか、今度こそ本当におまえの彼女か?」
下柳がぽかんとしながらそんなことを口走ると、上坂は飛び上がらんばかりに狼狽し、辛抱堪らずその背中にモミジを叩き込みながら、
「馬鹿! 気色悪いこというんじゃねえよ! あの人は……そう! なんと言うか、この子の主人で、俺の……俺の、家族?」
「いや、聞いてるのは俺の方だろうがよ。つーか、おまえの家族……? へえ、お姉さんかな??」
下柳が首を傾げてそう言うと、
「あらやだ、そんな、姉弟にみえるなんて。うふふふふ」
若く見られた倖は実に嬉しそうにニヤニヤとした笑みを浮かべた。彼女はぽかんとしている下柳の前に進み出ると、10人居たら10人が惚れてしまいそうな愛想の良い笑顔を見せて、
「いつもうちの上坂くんがお世話になってます。さっき縦川さんから聞きました。私が居ない間、とても仲良くしていただいたそうで……」
「え!? いやあ~! 俺なんかそんな。上坂君はとってもしっかりしてて……」
下柳はまるでその笑顔に焼かれてしまったかのように、顔を真っ赤にし、慌てて胸の前で両手をプルプルと振って謙遜するように返事した。あまり女に縁がない職場ではあるが、それでも女性が不得意なわけじゃない。なのに気がつけば男子高校生みたいにメロメロになってしまうなんて、下柳は目の前にいる女性の美しさに舌を巻いた。
きっとこんな綺麗な姉ちゃんがいたら、並の女の子じゃ何とも思わなくなっちゃんだろうな……などと上坂のことを羨んでいると、しかし下柳はすぐに彼が鷹宮の家に預けられたり、ここで暮らしているのは、引き取り手が居ないからだったと思い出し、
「あれ? でもおまえ、確か身内が居ないんじゃなかったか? だからえっちゃんちに居候してたり、ここで暮らしてたんだろう?」
上坂はこくりと頷いて、
「ああ、先生は今まで日本に住んでなかったから。それで」
「先生? なんだよ、学校の先生か何かかな」
「いや、そうじゃない。説明がめんどくさいなあ……先生は、子供の頃に、親戚をたらい回しにされていた俺を引き取って育ててくれた人だ。なんつーか……そう、恩人だよ。今までずっと海外に居たから会えなかったんだけど」
「へえ! じゃあ育ての親ってやつか……でも、家族が居るんならなんで別々に暮らしてんの? え? 独身なの? って、ん!? いや、それよりもおまえ……この人おまえの保護者だっつーなら、それなりに年いってるよな??」
「ああ、先生と俺は丁度二回り違う。俺が18だから……」
「42!? うそだろ!?」
下柳は今度こそ目をむいた。眼の前の女性はどこからどうみても若くてとてもそんな年には見えなかった。だから、彼はどちらかと言えばポジティブな意味でそう言うつもりであったのだが、あまりにも驚いてしまい思わず、
「ババアじゃねえか!」
と口走っていた。
その瞬間、上坂は、ビシビシ……っと空気が凍りつくような音が聞こえたように感じた。心なしか、周囲の気温が下がったような気がする。恐る恐る、倖の表情を窺ってみると、満面の笑顔のこめかみに青筋が立っていた。彼は生まれてからこのかた、見たこともないようなその顔に恐れを成して半歩後退った。
「ピギャッ!」
膝枕していた美夜の頭が落っこちて、ドクドクと鼻血が床に広がっていく。
お年を召された女性に言ってはいけない言葉がある。歳のことと、結婚のことと、あとオバサンだ。下柳はそれを軽々と踏み抜いた。
倖の目が次第に釣り上がっていく……
だが空気の読めない下柳は、そんな彼女の方など見向きもせず、上坂に向かって言い訳するようにNGワードを連呼していた。
「いやあ、信じられないな。よんじゅう!? よんじゅうに? はえぁ~……っげえ美人だから俺、思わず舞い上がっちゃったけど? 四十路なんて詐欺じゃねえかっ! うっかり胸キュンしちゃったら危ないところだった! 危うくおまえの父ちゃんになるところだったよ~……いやあ、でもすごいよお前の母ちゃん、とてもそんな歳には見えないな。いや、母ちゃんじゃないな、こういうのなんていうんだ? おばちゃん? ばあちゃん?」
「だ……だ……だ……誰がババアだ、クソガキがああぁぁっっ!!」
死角から飛んできた渾身の蹴りが、無防備を晒していた下柳の脇腹に突き刺さる。
「ごっ……ぐっふぅ~……な゛、な゛にをする!?」
「何をするかってこっちのセリフじゃあ! さっきから黙って聞いていたら人を四十路だおばさんだって!!」
「え!? だって、本当のことじゃないですか……ぎゃああああーーーー!!!」
懲りない下柳がなおも減らず口を叩くと、倖は信じられないスピードで彼のガードをかいくぐり、みぞおちに肘打ちをお見舞いした。下柳は警官のくせにろくに反撃も出来ず好き放題にやられている。
ドスン、ドカドカ、バタン、ドッタン!
洗面所に雑巾を取りに行っていた縦川が戻ってくると、寺務所の中から賑やかな声が聞こえてきた。離れにある洗面所にまで聞こえてきたその大騒ぎに、縦川は鼻血が止まった美夜がまた暴れてるのかなと半ば辟易しながら扉を開けると、
「……どうしてこうなった?」
寺務所の中央では応接セットをひっくり返して倖と下柳が追いかけっ子をしている。そのすぐ側で床を真っ赤に血で染めながら、貧血を起こした美夜が真っ青な顔して倒れていた。
部屋の隅っこでは上坂が、「見えない、見えない、何も聞こえない」と、体育座りをして耳をふさいで、何やら念仏みたいにつぶやいていた。
縦川は目に飛び込んできた部屋の光景に目眩を覚えると、まず何から手をつけていいのかわからなくなって、とりあえず床の血を雑巾で拭い始めた。
それを死んだ魚のような目をした美夜が見つめている。
いいから早く助けろよ……その瞳が如実に物語っていた。




