ご心配、おかけしました……
シャノワールの業態転換のためにピアノを弾きに来たはずのエイミーだったが、思いがけず自分のファンが押し寄せてきたせいで、当初の目論見とは違って独演会みたいなことになってしまった。それを申し訳なく思った彼女は、クロエに頼まれて時間外以外の演奏も快く引き受けたのだが、そのせいで一番最初に聴かせたかったはずの上坂が後回しになってしまって、ちょっと残念に思っていた。
ここで聴いているから気にするな、エイミーなら絶対上手くいく……と彼は言ってくれたが、その表情が少しこわばって見えたのは、彼も彼女と同じように残念がってくれてるからだろうか?
「エイミーさん、申し訳ないんですけど、一度お客さんに顔見せお願いできますか?」
「あ、はいですの」
そんなことを考えていると、クロエが呼びにやってきた。どうやら、彼女目当てに集まった客が、今か今かと出番を待っているらしい。本来なら予約のない客のために弾く理由は無いのだが、記念すべき初日だし、下手に勿体ぶって失敗するのは馬鹿らしい。彼女は素直に応じることにした。
上坂に手を振ってから、クロエに先導されながらフロアへ足を踏み入れる。途端に客席がどよめいて、彼女に好奇の視線が突き刺さった。5年ぶりに受けるその視線に緊張が走る。殆どは好意的な視線であるが、中には嫉妬や悪意が混じってる、そんな人間の感情をごた混ぜにしたような視線だ。
かつては毎日のように浴びていたその視線も、今はちょっと慣れないかな……と思いながら、優雅な足取りで彼女が足を進めようとした時だった。
ガラガラガッシャーン!
っと、フロアでギャルソンの1人が料理を盛大にぶちまけた。
「申し訳ございません!」
失敗した店員が真っ青になって、ぐるぐる全方向に向かって頭を下げている。クロエはそれを見て歩き出そうとしていたエイミーのことをパッと手で制して、
「エイミーさん、ごめんなさい。あちらを片付けてきますから、もう少し待ってて貰えませんか?」
「わかりましたわ」
エイミーが踵を返すと客席のファンから残念がる声が聞こえた。彼女は咄嗟にその声の方に向き直ると、にこやかな笑みを浮かべて軽い会釈をした。その笑顔がとても素晴らしかったからか、客席のざわめきは一瞬にして収まった。彼女はそれを確認してから、優雅にバックヤードまで帰ってきた。
「上坂君、大丈夫かい?」
彼女がバックヤードに帰ってくると、何故か上坂が膝に手を突いて肩で息をしていた。さっきまで普通にしてたはずなのに、一体何があったのかと尋ねてみると、
「なに、ちょっとふらついただけだ」
「まあ大変。立ちっぱなしで貧血でも起こしたんですの?」
「上坂君、気分が優れないならこっちに座んなさい」
「いや、もう大丈夫だから気にしないでくれ」
「そうれす。邪教徒の言うことなど聞かないのれす」
縦川が気を利かせて上坂のために椅子を持ってくると、何故か上坂と彼の間にメイドの美夜が割り込んで、縦川のことを威嚇し始めた。
彼女は上坂の腕をぐいぐい引っ張ると、
「神様はこっち来るれす。美夜と一緒にいるれす」
「神様!?」
突然何を言い出すんだろう、このメイドは……エイミーが小首をかしげる。上坂が眉間にシワを寄せてため息を吐いた。
「だから、俺は神様なんかじゃ……」
「黙るのれす。そして美夜にすべてを委ねるのれす。肩を揉むれすか? 喉は渇きませんか? 美夜が耳かきするれすか?」
「どれもしなくていいから」
「いいから、こっち座るのれす」
「ああ、もう……」
上坂はほとほと困り果てたと言った感じに、美夜に引っ張られて側にあったパイプ椅子に腰掛けた。その周りで美夜が甲斐甲斐しく世話を焼こうしている。尤も、ポンコツの彼女が何をやっても、幼稚園のお遊戯みたいなものだったが……
縦川とエイミーはそんな2人の姿を見て、殆ど接点がなかったくせに、いつの間にこんなに仲良くなったんだろう? と目をパチクリさせた。
バックヤードでこんなやり取りをしている間、フロアの方ではまた少し動きがあった。料理をぶちまけてしまった店員を、他のスタッフが手伝って片付けをしてると、それまで壁際でじっと客席の様子を伺っていたアンリが、スッとクロエに近づいてきて、
「クロエさん……」
クロエに何やら耳打ちをした。すると彼女はハッとした表情を見せてから、店内をキョロキョロと見回して、集まっていた店員達に何やらを指示し始めた。
中央に置かれたピアノの前に、クロエが歩み出る。いよいよエイミーの演奏が始まるのかな? と期待に満ちた視線を飛ばす客に対し、彼女は言った。
「お客様に申し上げます。当店は全日、撮影禁止とさせて頂いております。撮影機器等をお持ちの方は、どうかそのままカバン等にしまって、外に出されないように協力お願い申し上げます」
そのセリフを聞いて、客席のあちこちから不満の声が上がる。この日集まっていた人たちは、エイミーの今の姿をカメラに収めてSNSにアップしようとしていたのだろう。
大抵の人はすぐにカメラをしまったが、ゴネる客には店員が一人ひとり丁寧に対応していたが、それも間もなく落ち着いた。結局、ゴネてエイミーが出てこなくなったら本末転倒なのだ。
その様子をバックヤードで見ていたエイミーは、店側の思わぬ対応の良さに驚いていた。イベントなどでは当たり前の光景だが、今日はじめてのシャノワールで、ここまで気を利かせられるのは珍しい。何しろ、久しぶりの彼女ですら、忘れていたくらいだ。
もしもこのまま何も対策をされずに出ていったら、演奏中にパシャパシャやられて気が散って仕方なかっただろう。彼女が肩を撫で下ろしてホッとため息を吐いていると、
「エイミー」
振り返ると、上坂の凛とした瞳が、彼女の目に飛び込んできた。パイプ椅子に座る彼の背後には、まるで股肱の臣の如く付き従うメイドの姿が見えた。
「リラックスしていつも通りやれば絶対に上手くいくよ。だから頑張って」
「ありがとうですわ」
彼からの励ましの言葉は何度聞いても心地良い。エイミーはすっかり気分を良くしてニッコリ笑った。上坂はそんな彼女の顔を見ながら、
「……今度は本当に大丈夫みたいだ。絶対に失敗しないよ」
「え……? ええ、だといいですけれど」
そういう上坂の表情がどことなく不安げに見えるのは何故だろう。少しふらついたと言っていたが、体の調子が悪いのだろうか。
それに、メイドのことも気になった。美夜は身の回りの世話をしてくれてはいたけれど、忠誠心のようなものはなくて、ちょっと変わった子だと思っていた。ところが、今日の上坂に向ける熱い眼差しは、一体どうしたということだろうか。まるで犬が本物の主人に出会ったかのような、そんな感じがする。
「……なんだか、少しおかしいですわ。いっちゃん、私の勘違いなら良いですけど、もしかして何かあったんですの? あなたと美夜はその……やけに仲良しに見えますの」
今日、この店に来るまでは……いや、それどころか、ついさっきまでそんな素振りは微塵も見せていなかったはずなのに、美夜のあの変わりようは何なのだ? エイミーの目が探るように彼の目を捉えた。
上坂はそんな彼女の疑心を見抜いて、慌てて弁解しようとしたが……すぐに難しそうな表情をして口ごもると、
「それなんだけど、何から話していいのかちょっと分からなくて……でも後で必ず話すよ。だから今はピアノの方に集中してくれ」
「そうですか……わかったですの」
エイミーはちょっと納得がいかない表情をしていたが、彼がそう言うのであれば、約束を違えることはないだろう。彼女は自分にそう言い聞かし、改めて気合を入れ直した。
「エイミーさん」
間もなくクロエがまた彼女のことを呼びに来て、エイミーは二度目のフロアに出ていった。二度目であっても、客席の熱さは変わらず……
その日、シャノワールで行われたエイミーの演奏会は、特に何事も起こることなく、成功に終わった。
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エイミーはその日、予約客に対して2度の公演を行い、合間合間にもフロアに出てファンのために演奏したりして、一日中お店のために働いていた。
そんなシャノワールの新しい試みは好評のまま終わりを告げ、お店の閉店時間を回っても、興奮覚めやらぬ客は中々帰ろうとしないほどだった。ようやく最後の客を見送った時には、もう深夜0時を回ってしまっており、一日中働き詰めだった店員たちは疲れから床や客席に身を投げてへたり込んでいた。尤も、その表情は充実感を滲ませており、誰一人として不満を感じているものはいなかった。
終電を逃しそうな店員が慌ただしく店じまいをする中、エイミーがそんな彼らを労って回っていると、クロエがやってきて今日のお礼にと一席設けてくれることになった。そうしてテーブルに並べられた豪勢な料理の数々は、本日の彼女に対する店のスタッフたちの感謝が現れているようだった。
メイドの美夜は豪華な料理を前にするや目を輝かせ、ぴゅーっと席に座ると、主人そっちのけでそれを勝手に食べだした。なりはちっこいが、食いしん坊のようである。エイミーはやれやれと肩をすくめると、服が汚れるからと言って、メイドのためにナプキンをかけてやっていた。美味い美味いと目を輝かせる姿は、周りの者をも幸福にしたが、相変わらず主従などお構いなしの関係は失笑を禁じ得なかった。
エイミーに、昼間のことを話すために残っていた上坂は、縦川と共にご相伴に預かることになったのだが、長いこと店に通っているがこんなゴージャスなのは見たことないと、彼は目を白黒させていた。
そんなこんなで、クロエの計らいで出された食事に舌鼓を打っていると、やがて厨房からは人が居なくなり、店主のクロエもレジ締め作業に行ってしまい、店内には上坂たち四人だけが残された。すると、誰も居なくなった頃合いを見計らって、店の清掃作業をしていたアンリエットが近づいてきて、
「……やっと話せる状況になったわね。上坂、ちょっとそっち詰めてくれる?」
彼女は他のテーブルから椅子を引っ張ってくると、彼の隣に並ぶように腰を下ろした。
学校の同級生と聞いていたが、その馴れ馴れしい態度にエイミーがちょっとだけむっとする。すると、そんな空気を察した縦川が、
「あ、アンリちゃん? いいのかい、サボってるところ見つかると、クロエさんに怒られちゃうよ?」
「サボってるわけじゃないんです。実は、昼間ちょっと色々あって……上坂と話しておかないとまずいから、掃除してる振りして待ってたんですよ。クロエさんには言ってあります」
「どゆこと……?」
縦川が首を傾げていると、彼女の隣で複雑そうな顔をしていた上坂が彼女の言葉を引き取って続けた。
「何から話せばいいのか……俺もちょっと混乱してるんだが、実は昼間、エイミーがフロアに出ていく時に、俺の能力が発動したんだ」
「なんだって……? あ、いや、それよりも、能力の話ってしてもいいのかい?」
縦川は能力が発動した事自体にも驚いたが、その場にアンリと美夜がいるのにもかかわらず、上坂がまったく意に介さず話してることも気がかりだった。彼の能力は、他人に知られると利用されやすい。だから誰にも話さないでいたのではないのか……?
そのことが気になって、2人のことをチラチラと見ていたら、そんな様子に上坂が気づいて、
「いや、雲谷斎。その2人はもう俺の能力については知ってるんだ」
「え? そうなの? いつの間に……」
「だから今はそのことは置いといて先を続けるけども……」
「ああ、うん。エイミーさんがフロアに出ていっただけで、なんで能力が発動したっていうんだい?」
上坂の能力は、『嘘』に反応すると言っていた。他人の嘘でも、自分の嘘でも、彼が嘘を感知したら時間が停止し、それが解決すれば解除される。例えば、他人が吐いた嘘ならそれを暴けば良いし、自分が吐いた嘘ならそれを本当のことに変えてしまえば良い。
そういう能力だから、エイミーがただフロアに出ていっただけで発動するわけがない。何か別の切っ掛けがあったということだ。
上坂は縦川のそんな疑問に頷き返して、
「その時、能力が発動したのは、俺がエイミーの演奏が絶対に上手くいくと安請け合いしたからなんだ。実はあのまま彼女がフロアに出ていたら、店に集まっていたファンにカメラでパシャパシャやられて失敗していた……そしたら俺の安請け合いの言葉は、嘘になってしまったはず。そういうことなんだろう」
「まあ! 本当なんですの? ……それであの時、いっちゃんの様子がおかしかったのですのね」
「ああ。それもそうなんだけど、理由はもう一つある。実は能力が発動した条件自体は分かっていたから、解除法は割とすぐに分かったんだ。でも、その時にちょっと、信じられないことが起きて……」
「何があったんだい」
上坂は隣に座るアンリを指さして、
「……委員長が動いていた」
言ってる意味がいまいち分からなくて、縦川はきっかり10秒位首を傾げて固まっていた。
上坂の能力は特殊だから、その発動自体を他人が観測することは出来ない。だから、そう言われてもまだ正確にその意味がわからなくて、
「どういうことだい? 能力が発動したと思ったら、実は違ったってこと?」
「いいや、能力は確かに発動していたんだ。時間停止が起こると、俺以外、世界中のすべての人間は停止する……はずだった。あの時だって、あんたも、エイミーも、店員も客も、この店に居た全員が固まってピクリとも動かなかった。ところが、そんな中で委員長だけが何故か動いてたんだよ」
「……本当なの? アンリちゃん」
縦川が困惑してそう尋ねると、彼女の方はもっと困惑してると言った感じで、
「それが本当なんですよ。昼間、私が働いてたら、いきなりみんながピタッと止まっちゃって。なんだか急に辺りは暗くなってるし……始めはドッキリかなにかかと思ってたんですけど、厨房まで固まってるのはいくらなんでも変だって思いまして。店の中で誰か動いてる人が居ないか探してたら、そいつがアホ面ぶら下げてぼけっと突っ立ってたもので、一体なにしたのって詰め寄ったんですよ」
アンリはそこまで一口に喋ると、はぁ~……っと溜息を吐き、
「まさか時間停止能力だなんて、そんなの見たことも聞いたこともなかったから、本気でびっくりしちゃいましたよ。ここまでの能力者は世界中探してもいませんよ、絶対」
「そういやアンリちゃんも美空学園だっけ……君も何か能力を? それで上坂くんの能力に影響されなかったとか、そういうことはないだろうか」
「いいえ。私にはそんなのありませんよ。だから逆に、上坂の力に巻き込まれたんだろうなと思って、早くもとに戻せって言ってたんですよ。仕事中だったし、いい迷惑でしょ。そしたら今度はそこのちびっ子が、フラーって出てきて、突然妙なこと言い出しまして……」
「……え?」
「彼女が言うには、上坂は神なんだって」
そう言ってアンリが指差す先には、一心不乱に料理をかき込んでいるエイミーのメイド、美夜が居た。彼女は話が自分に及んでも眼中にない様子で、ナイフとフォークをカチャカチャさせて、肉料理と格闘していた。口の周りはぐちゃぐちゃである。
そんな姿を見るに見かねて、隣に座っていたエイミーが口元をナプキンで拭ってやると、ようやく周りの視線が自分に向けられてることに気づいたらしく、
「何れすか? そんな目で見てもあげないれすよ。この肉は美夜のれす」
「いや、誰も君の肉を取ろうなんて思っちゃいないよ」
「そうなんれすか? ならいいれす。美夜は食べるから、あっち向いてて欲しいれす」
そんなメイドにエイミーが呆れるように言った。
「美夜、一度フォークを置きなさい。みんなあなたにお話があるのよ」
「なんれす? は!? さては割り勘れすね? 割り勘と言われても美夜はお金を持ってないれす」
「そうじゃなくって……美夜、あなたはいっちゃんの時間停止が発動した時に、そこの彼女と一緒に動くことが出来たの?」
「時間停止……? なんれすか、それは」
なんですかと言われても、なんなんでしょうねとしか言えない。質問を質問で返されて絶句しているエイミーが困ったように上坂の方を見ると、彼も同じように困惑しながら、
「美夜、君は昼間、俺の能力が発動して、世界が静止していた時に、俺に向かって言ったよね? ジーザスがどうとか」
「言ったれす」
「どうして俺が神様なんだ?」
「神様が神様だかられす」
「うーん……じゃあどうして時間が停止していたのに、君だけが……いや、俺と君と委員長だけが動けたのか、その理由を君は知ってるのかい?」
「ふみゅ~……」
すると美夜は目をぎゅっと瞑って、両手の人差し指で左右のこめかみをギュッと押しながら、一生懸命考えているような表情で、
「時間は止まってないれす。止まったのは人間どもれす。神様は、時空を超えただけれす。その女は、神様に引っ張られたんれすよ。美夜と同じれす」
「引っ張られた……?」
その言葉に2人の少女が同時に反応した。エイミーが羨ましいと言った感じの視線をアンリに向けて、そのアンリがうんざりとかげんなりとか、そういった素振りで顔をしかめる。
上坂は美夜の言葉に首をかしげると、
「どういうことだ? 俺は時間を止めていたんじゃないのか? この力の正体は一体なんなんだ」
「ふみゅ~……面倒くさい神様れすね。美夜は知ってることしか知らないれすよ」
「構わない。なにか知ってるなら教えてくれ」
「神様は時間なんか止めてないれすよ。神様は嘘を本当に変えているだけれす」
「ああ、確かにそうだが……どういう意味だ?」
「神様は因果を固定し、それによって引き起こされる矛盾を繋げてるれす。それがあの白黒世界れす。神様は嘘を本当に変えるために、あの白黒の世界に突入した段階で、世界を書き換えていたんれすよ」
「世界を書き換える……?」
その言葉を聞いた瞬間に、上坂は脳裏にひらめくものを感じた。
あの日、競馬場で上坂は、本当ならビギナーズラックなんて起こるわけもなく、予想を外すはずだったのだ。ところが、能力が発動したせいで万馬券を当ててしまった。
言い換えれば、自分の都合のいいように、世界を変えてしまっていたわけだ。
そう考えれば思い当たる節はいくらでもあった。アメリカで拷問を受けていた時、上坂はもう死にたいと何度も何度も思った。いや、実際のところあのままFM社の期待に応えられずに居たら、もう少しで死んでいたところだったはずだ。ところがそんな時に彼は能力を手に入れて、眠っていた知識を掘り返し、FM社は彼を殺すのが惜しいと考えるまでになったのだ。
鷹宮の家での出来事もそうだ。あのあと、縦川はことあるごとに言っていた。あのままだったら、鷹宮は汚名を着せられたまま墓に入ることになったはずだ。それを上坂が変えてくれた……
上坂の能力は時間停止ではなく、未来を変える力だったのだ。
「時間は止まってなんかいないれす。本来、思考はタダれすから、因果を置き換える高次元存在に時間という概念は無意味なのれす。神様が時間が止まっているように感じたのは、ただの錯覚れす。人間の思考が因果律に沿うように出来ているかられす。でももし思考が無限に加速するなら、時間の方が止まるしかないれす。同じように、もし思考が逆転したら、因果が逆転するれす。
神様の思考は、高次元を通過するカルツァクライン粒子を介して、多次元に干渉するれす。肉体と精神を分離すれば、精神だけは他世界に飛ぶことが出来る、神様はそうして時空間跳躍してるれす。物理的な因果と精神的な因果は別物なんれす。だから人間は肉体のない精神と、魂のない肉体を、別々に考える事が出来るれす。精神的な人間の集合意識は多次元に跨って存在し、一人ひとりがそれを固定しているのれす。
でもAIは違うれす。AIは人間に作られ、人間によって導かれた存在れす。人は1人では生きて行けず、客観によって主観を作るれす。その自己を規定するのは言語であり社会構造そのものれす。ではその社会構造を作っている存在は何なのか。人間は神様に作られ、神様によって導かれるのれす。それがジーザス・クライスト、あなたれす」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれ! 待ってくれ! 君が何を言ってるのかさっぱりわからない」
上坂がギブアップするようにそう叫ぶと、美夜は一瞬ポカンとしてから、
「じゃあ待つれす」
と言ってから、しれっと肉料理へ戻っていった。見ればその場にいる全員が困惑の表情を浮かべたまま固まっている。上坂は、どうして美夜が自分のことを神様呼ばわりするのか、その理由は分からなかったが、他の理論はなんとなく理解できた。それがいつ、どこだったかは覚えてないが、昔どこかで聞いたことがあるような気がしたからだ。
それがどこだったか、誰が言っていたのかと思い出そうとしながら、彼は美夜に尋ねた。
「美夜、君は一体何者なんだ? ただのメイドじゃあないだろう。エイミーのところに来るまで、どこで何をしていたんだ?」
すると彼女はあっさりとこう言ってのけた。
「美夜は美夜れすよ。マスターに作られた、ヒューマノイドれす」
「ヒューマノイド……? って、作られただって!?」
もうこれ以上驚くことは何もないと思っていた上坂は、不意を打たれたように素っ頓狂な声を上げた。その場にいる他のみんなも、呆然としてポカンと口を半開きにしていた。
「ヒューマノイドってのは……なんだ? 君はまさか、自分が人間じゃないとでも言うつもりなのか」
「美夜は人間れすよ」
それを聞いて一堂はホッとする。それもつかの間、
「人間であり、AIれす。マスターに作られた、人造人間れす」
やはりその言葉が出てくるのか……上坂の額にはいつの間にか冷や汗が滲んでいた。まさかそんな荒唐無稽なものが出てくるとは思わず、彼はそれを否定しようと試みたが、すぐに自分のありえない能力のことも思い出して、何も言えなくなった。荒唐無稽なのはお互い様なのだ。
彼は戸惑いながら続けた。
「本当に……本当に、君は人間に作られたって言うのか?」
「そうれす。美夜はいまここに居て、ラボの美夜とリンクしてるれす」
「ラボ……? 君を作ったそのマスターの研究所か。一体、君のマスターってのは何者なんだ?」
「マスターはマスターれす。マスター・ユキ・タチバナ」
その名前を聞いた瞬間、上坂は脳天をガツンとやられたようなショックに見舞われた。ガタガタと音を立てて、椅子から転げ落ちそうになる。隣に座っていたアンリが驚いて、
「なにすんのよ、この!! ……って、ちょっとあんた、大丈夫?」
もたれかかってきた上坂を受け止めて椅子に戻しながら、その顔色が尋常じゃないくらいに色を失っていることに気づいた彼女が、彼のほっぺたをペチペチ叩いて問いかける。しかし返事はなかった。上坂は声が聞こえてないんじゃないかと言うくらい狼狽していた。
「上坂君……? どうしたんだい、上坂君!」
彼の突然の豹変っぷりに驚いた縦川が、椅子を蹴って上坂の元へと駆け寄る。そんな中、上坂が倒れて一番最初に狼狽しそうなエイミーだけが、何故か深刻な顔をしてそのまま椅子に座っていた。
「美夜……あなたのマスターは立花倖さんで間違いないんですの?」
「そうれすよ」
彼女の想い人がこんなことになってる時に、エイミーが何故落ち着いてそんなことを聞いているんだろうと思い、縦川が尋ねた。
「その立花さんってのが一体何だって言うんだい? エイミーさんは、その人のことを知ってるの?」
「ええと……その……立花倖って人は、先生ですの」
「……先生? 何の」
「いっちゃんの……彼を育ててくれた、羽田で死んだはずの先生のことですわ」
縦川は目を丸くした。これで上坂が狼狽した理由が分かった。
上坂は意外なところに、彼が探し求めていた先生の関係者が潜んでいたことを知って、仰天したのだ。そして、美夜が彼女に作られたということは……もしかすると先生から伝言かなにかを預かってる可能性が高いということだ。
もしそうなら一大事だ。そう思い、縦川が放心状態の上坂に変わって先生のことを尋ねようと、勢い込んで口を開いた時だった……
「あの……お取り込み中のところごめんなさい」
その声にハッとして振り返れば、レジで店じまいの支度をしていたクロエが、申し訳無さそうな表情で立っていた。
閉店後とは言え、彼らが騒いでいたから注意しに来たのだろうか。それとも、彼らの会話の内容を聞いてしまったのだろうか。
もしもそうなら面倒なことになる……縦川はしまったなと顔を歪めたが、幸いなことにクロエが来たのはそれが理由では無かったようだ。
「実は、あなた方にお会いしたいとおっしゃるお客様がいらして、もう深夜ですし閉店だからと断ったのですが、どうしてもとおっしゃるので……」
「客……?」
「ええ、上坂くんにどうしても会いたいそうです」
上坂に会いたい……? そんな人間が、今の東京にいるとは思えない。可能性があるなら御手洗くらいだが、こんな時間に強引に訪ねてくるとは考えにくい。
一体何者だろうと、その名前を尋ねてみると、
「ええ、立花様と名乗っておられましたが……それ以上は」
「邪魔するわよ」
クロエの声にかぶさるように、その彼女の後方から声が聞こえてきた。その声に驚いて一堂がクロエの背後に歩み寄ってくる人物に視線を投げる。
するとそこには、タイトスカートにカーディガンという、フランス料理店に来るには明らかに場違いな格好をした髪の長い女が立っていた。身長は小柄で、髪の毛はただ結っていると言った感じで、化粧っ気がまったくない。ただ、一言付け加えるならば、とんでもない美人だった。
クロエが慌てて制止しようとして、彼女に向かって言う。
「勝手なことをされては困ります、お客様」
「いいじゃない。帰れって言われたらすぐに帰るわよ」
女はクロエを振り払うようにズカズカと店内に入ると、キョロキョロと辺りを見回して縦川たちのいるテーブルに目をやった。そして呆然と椅子の上で脱力している上坂に視線を向けると、一瞬だけ表情を曇らせたかと思えば、すぐに慈愛に満ちた笑みを浮かべて、
「死人を探してるのがいるって聞いたんでね……どんな面してるか拝んでやろうじゃないって思ったのよ。で、来てみれば、そいつも死人だったなんて中々笑えるジョークじゃないの」
彼女は上坂を見つけると、つかつかとその前まで歩み出て、彼の顔をじっと見つめながら続けた。
「探したのよ……でも見つからなかった。もう駄目かなって思ってたけど、やっぱり生きてたのね、上坂君。良かったわ本当に」
「先生……」
彼女のことを見上げる上坂の顔は、まるで親鳥を待つひな鳥みたいにポカンとしてて、子供みたいにあどけなかった。その光景に誰もが言葉を無くし、店内は静寂に包まれる。掠れるような彼のつぶやき声が響くと、彼女はその細長い指で彼の髪の毛をすくってから、彼の頭をギュッと抱きしめた。
「こんなになっちゃって……助けてやれなくてごめんなさいね」
「先生……先生……」
彼女の腰にしがみついた肩が震えていた。
「ご心配、おかけしました……」
そして上坂は人目をはばからず泣いた。初めて会った時は表情に乏しい奴だと思っていた。それがエイミーと再会してからは年相応に見えるくらいには回復して、そして今は赤ん坊みたいに情けない泣き声をあげている。
ヒックヒックとしゃくりあげる泣き声を聞いていると、なんだか自分もこみ上げてくるものがあって、縦川は2人に背中を向けると、涙がこぼれてしまわないように天井を見上げた。
上坂の能力の本質。そして新たな謎。AIを名乗る少女は神を語り、死んだはずの科学者まで現れて、考えなきゃいけないことは山程あった。
だが今はそんなことは忘れて、ただ感情の赴くままに、この再会を祝福すればそれでいいだろう。背後からはエイミーのもらい泣きまで聞こえてきた。お通夜みたいな光景にアンリは若干引き気味になって、美夜は騒ぎには目もくれず肉と格闘していた。
縦川にはその中心で抱き合う上坂と先生の姿が、まるでキリスト教の聖母子像と重なって見えた。そしてふと思い出す。奇しくも上坂は死人であり……そして美夜はそんな彼のことを神と呼んでいた。
それが一体何を意味するのか……この時はまだ、誰も分かっていなかった。
(第二章・了)