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終末の笛吹き男  作者: 水月一人
第二章・愛と嘘 - AI & Lie.
34/137

制止した時間の中で②

 正午前、まだ人通りが少ない秋葉原の昭和通り沿いの雑居ビルの中。準備中の札がかかったビストロ・ル・シャ・ノワールの店内では、数年ぶりにピアノの音が鳴り響いていた。店の片隅に置かれたグランドピアノにはエイミーが座っていて、彼女は大きなリボンのついた五分袖の白いブラウスにフレアミニと言うラフな格好をしながら、うっとりするような美しいメロディを奏でている。


 それは誰でも知っているような古典的なクラシックピアノの名曲であり、誰もがハッとして足を止めて聴き入ってしまうようなものではなかったが、彼女の奏でるゆったりとした旋律は、決して音響が良いとは言えない店内の隅々まで染み入っていくような、なんとも言えない不思議な印象を抱かせた。


 厨房で仕込みをしていたシェフがひょっこりと顔を覗かせて、ピアノの彼女に向かってサムズアップして見せた。エイミーはそれに笑顔で応えると、そんな観客のためにもそろそろ集中して、自分の持てる力すべてを出し切ってやろうと、少し前のめりになって鍵盤に向かった。


 その瞬間……それまでのリラックスするような空気が一変して、腹の底にズシンと来るような大迫力の音が耳に届いた。それを間近で聴いていたクロエは突然の変調に驚いてハッと目を見開いたが、すぐにその音色の持つ綺羅びやかさに、たった一台のピアノでここまで色んな音が表現出来るのかと感嘆の息を漏らすと、目を閉じてその演奏に身を委ねた。


 夢のようなひとときは数分間続き、やがて消え入るようなか細い終局が訪れて、店内には静寂が戻ってきた。


 演奏が終わった時、店内で身動きをする者は誰も居なかった。オーナーのクロエも、未だ余韻を楽しむかのように、目をつぶってじっとしている。エイミーは日焼け対策に着てきたポンチョを胸の前でしわくちゃにしながら、


「どうでしたでしょうか……?」


 もしかして自分の演奏が気に入らなかったのかな? と、不安そうにおずおずと尋ねた。するとクロエは、ぱっと目を見開いて、あ、終わったの? と言った感じにパチクリしてから、


「ブラーヴァ! 私、映画でよく聞くこの言葉を、自分が叫ぶ日が来るなんて思いもしませんでしたわ」


 クロエが惜しみない拍手を送ると、厨房の方からもパチパチと手をたたく音が聞こえてきた。観客は少なかったが、少ないからこそその拍手の大きさは、観客の満足感を如実に物語っていた。エイミーはホッと息を吐き出すと、一緒に来ていたメイドの美夜と、縦川にニコリと微笑みを向けた。


 クロエがそんな彼女に向かって言う。


「でも、こんなに素敵な演奏をされてしまったら、みんな聞き惚れてしまって、せっかくお客様にお出しした料理が冷めてしまうわ」

「もちろん! 本番ではこんなことは致しませんわ。本当の実力を示さなければ、ちゃんとその時その時にふさわしい曲を演れると信じて貰えないと思ったんですの」

「そう……その通りね。もしも今、あなたが実力を示してくれなかったら、私はあなたの容姿だけを気に入って、あなたに仕事を依頼していたと思うわ。もしそうしていたら、きっと後悔したところね。だって、そんな失礼なことはないでしょう? こんなに素敵なピアニストに対して」

「ありがとうございますわ」


 クロエはエイミーの容姿も音楽も両方ともとても気に入ったようだ。彼女はエイミーの手を取って、満足そうに何度も上下させながら、そんな2人のことを見守っていた縦川に向かって言った。


「鷹宮さんといい、縦川さんといい、お客様なのに色々とお世話になりまして、感謝の言葉もありませんわ。今度はこんなに素敵なお嬢さんを紹介していただけるなんて……」

「いえいえ、たまたまエイミーさんと知り合いになる機会がありまして、その時もしかしてと思っただけなんです。お店の迷惑になるのなら、断ってくださっても良かったのに」

「とんでもない! 正に渡りに船でした」


 するとクロエはぶるんぶるんと、ちぎれるんじゃないかと思うくらい首を振った。


「お恥ずかしい限りですが、実はあれからもどんどん売上が悪くなっておりまして……店の雰囲気を変えても、お客様が戻ってきてくれなければ元も子もありませんし、もう以前のように戻してネット広告やクーポンを利用しようかと迷っていたところなんです」

「そうだったんですか」

「味に自信はあるのですが、他にこれといった売りがない店では、やはり今の御時世厳しいようです。だからちょうど、何か変化が欲しいと考えていたところだったのです」


 クロエはそう言ってからエイミーの方を向き直り、彼女の手を取って目を見つめながら、熱っぽく語ってみせた。


「エイミーさん。あなたなら、この店に新たな生命(いのち)を吹き込んでくれると思うの。私達に力を貸してくれないかしら」

「はい。光栄ですの」


 エイミーはそんなクロエににっこりと微笑んだ。成り行きでここまで来たけれど、こんなに喜んでくれるのなら、自分のもてるかぎりの力を尽くそうと彼女は思った。


*********************************


 エイミーがシャノワールで演ると聞いた上坂は驚いて、報告してきた縦川に非難の声をあげた。


 あの日、経営難の話を聞いた時、エイミーにピアノを弾いてもらったら面白いのにと思っていたのだが、まさか縦川に先を越されるとは思わなかったのだ。おまけに彼は上坂には何も言わずにエイミーと会って、シャノワールの仕事を決めてきてしまったというのだ。


 まるで除け者にされたような気分になった上坂は、どうして自分に何の相談もせずに2人で勝手に決めたんだと不貞腐れた。縦川はそんな彼に苦笑いしながら、


「それはもちろん、上坂君を驚かすためだよ。サプライズってやつだ」

「……サプライズ?」

「だって、シャノワールでエイミーさんが演奏をしたら、上坂君は嬉しいだろう?」


 上坂は複雑そうに眉をしかめると、口をへの字に曲げてそっぽを向いてしまった。こんな風に何の屈託もなく言われてしまうと、何も言い返せない。何しろ、彼の言う通り、エイミーの生演奏がまた聴けると思ったら、彼は天にも昇るような心地になってしまったのだから。


「上坂君、いつも彼女の曲を聞いてたでしょ。スナックでも、学校の行き帰りでも、電車に乗ってる時も」

「それは……言っただろ。外界の音を遮断しておかないと、最悪の場合能力が発動してしまう危険があるからだ」

「だったら別に誰の曲でも良いじゃないか」

「………………」

「きっと上坂くんが一番喜んでくれると思ったからさ、当日はお客さんとして招待したかったんだよ。オーナーさんにはもう話を通してあるから、俺と一緒に店に行こうぜ」


 上坂は気恥ずかしさからか、縦川に向かって指を突き刺しながら、ほんのちょっとばかり目を泳がせて何か言い返そうとしていたが、結局何も思い浮かばなかったようで、鼻息荒く不貞腐れたように、


「もちろん行くよ。決まってるだろ」


 と言ってプイッと背中を向けてどこかへ行ってしまった。


 出会ったときは感情の起伏に乏しい奴だと思っていたが、それがあの過酷すぎる出来事のせいであると知って、縦川は何も言えないくらい酷く同情したものだが……そんな彼もエイミーのこととなると、年相応の反応を見せるのだから、人の縁とは尊いものだなと彼は思った。


 上坂は幸せになる権利があるはずだ。彼の過去を聞いた今、縦川はそう強く思っていた。御手洗も言っていたが、今の東京があるのは彼のお陰なんだから、そうでなくちゃおかしいだろう。彼はこれから沢山楽しい経験をして、失われた5年間を取り戻していかなければならない。だからエイミーという存在があって、縦川も救われたような気がしていた。


 あとは出来れば、彼の先生が眠るドイツにも連れて行ってやりたいところだが……こればっかりお手上げだった。御手洗に言えばなんとかなるかも知れないが、下手に借りを作ると上坂を巻き込んでしまいそうだし、残念ながら今の所、これといっていいアイディアは浮かばなかった。


 それはさておき、それからの数日間、上坂は心ここにあらずと言った感じで、ずっとそわそわしていた。きっと彼女の生演奏が聴ける日が待ち遠しくて仕方ないのだろう。そこまで楽しみだったら、友達なんだし電車に乗って会いに行けばいいのに、それが出来ないのだから思春期とはままならないものである。尤も、自分もかつて通った道なのだから、その気持ちは良く分かったが。やっぱりあの時、自分が声をかけておいて良かったと、縦川は苦笑せざるを得なかった。


 多分、このまま放っておいたら2人の仲はいつまで経っても進展しないだろう。上坂は勝手なことをするなとぶつくさ文句を言っていたが、これからも機会があれば2人が一緒にいられるように気を配ってやろう。このくらいのお節介はいいだろう? と縦川は思った。


 ところが……そんな2人のために焼いたはずのお節介が、思わぬ結果を生むことになった。


 クロエが演奏会の告知を店のホームページに掲載してすぐのことだった。ピアニスト・エイミー・ノエルの演奏を聴きたいと、シャノワールに問い合わせが殺到したのだ。


 本来は、店が新規の客を開拓するために、クラシックファンなどを想定して広告を打ったつもりだったのだが、更新した店のホームページにエイミーの名前があるのを見つけた昔ながらの彼女のファンが、それをSNSで拡散してしまったのだ。


 それがいつの間にか口コミで広がって、気がつけば店の電話が鳴り続ける事態となった。お陰で当日の予約はすぐに満席になったのだが、逆に演奏会の時間に予約が取れなかった客たちの対応に追われて、店はてんやわんやになってしまった。


 これを嬉しい誤算と捉えれば良いものか……? エイミーもまさか5年も経って自分のことを覚えている人が、そんなに大勢居るとは思いもよらず困惑した。彼女はこの5年間、上坂のことを思う以外は、ずっとピアノにしか向かっていなかったのだから、自分の人気というものがよく分かっていなかったのだ。


 まだ幼さを残していた5年前の彼女は、妖精みたいな可愛らしさもあって、実は一種異様な人気があった。それが人気絶頂時にテレビから居なくなるというミステリアスな消え方をしたため、事情を知らないファンがある意味神格化していたのだ


 ところで、エイミーは確かにテレビからは消えたが、彼女が“物足りない”と言っていた演奏の動画は、実はまだネット上に沢山残っていた。それがこの5年間で、徐々に徐々に再生数を増やして、今では1千万再生を超えるほどになっていたのだ。


 子供の頃の彼女は、請われるままに耳コピしたアニメやゲームの音楽を、まるで曲芸みたいに正確に速く弾いていた。いくら本人がそれを物足りなく思ってても、いくらクラシックの重鎮が聞くに耐えないと言っても、やっぱり大衆にはこういう方が受けがいいのだ。彼女は自分でも知らない内に、ユーチューバーみたいなことになっていたというわけだ。


 フロアデビュー当日の朝、彼女の乗った黒いベンツが秋葉原のシャノワール前に到着したとき……店の周りには入待ちのファンが大勢詰めかけていた。メイドと運転手が道を切り開く中、彼女の復帰を祝う花束を受け取ったエイミーは、面食らいながら店へ続く階段を上った。


 店には先に来ていた縦川たちが待っていた。


「いやあ、凄いことになっちゃったね。お願いした手前、こんなこと言っていいのかわからないけど、エイミーさんにここまで人気があるなんて知らなかったんですよ。悪いことしちゃったかな」


 縦川が苦笑交じりにそう言うとエイミーは首をブンブン振って、


「私だって知りませんでしたわ。私が芸能活動をしていたのは、たった3年程度のことですし、もう5年も前にやめてしまったんですのよ?」

「どうやら本人が知らないところで、有名になっていたみたいですね」


 エイミーが店に来たことに気づいたクロエが近づいてきて、この5年間で彼女の知名度が上がっていった経緯を話して聞かせた。クロエはひっきりなしにかかってくる電話や客の対応に追われ、上手く化粧で隠しているが、目にはクマができていた。


 彼女はエイミーの荷物を受け取ると申し訳なさそうに、


「それで、エイミーさん。今日の予定なのですが、お願いしていた時間帯だけじゃなくて、何回かフロアに出ていただけませんか? 本来の予約客の相手だけでは、もう収まりがつきそうもないので……」

「もちろん構いませんわ……私の方こそ、こんな騒ぎにしてしまって、ごめんなさいですの」


 元々、営業再開したシャノワールが宣伝を打ってなかったのは、入り口を広げすぎてGBみたいな客が来るようになってしまったのを避けたかったからだった。それで閑古鳥に耐えながら、客層を変えようとして頑張っていたのに、今回のエイミー目当ての客も似たようなものだから、本末転倒の結果になってしまったと言える。少なくとも彼らの内、何人かは料理を食べに来てるわけではないのだ。


 それは残念なことであったが、今更中止に出来るわけもなし、クロエは苦笑しながら、


「大丈夫ですよ。当初の予定とは変わってしまいましたけど、お客様をお迎えしたら、あとは私達の腕の見せ所なんですから。エイミーさんの演奏に負けないくらいの料理を出して、またこの味を求めに戻ってきてくれるように頑張ればいいだけなのです」

「そう言って頂けますと有り難いですわ」


 そうして段取りが決まると、クロエはまた忙しそうに店内を駆け回っていた。


 忙しい店の中には、今日はアンリの他にも初めて見る給仕たちがちらほら見えた。多分、今日のために雇ったか、知り合いの店からヘルプを呼んだのだろう。


 店の隅っこに置かれていたピアノは、今日の主役と言わんばかりに今はピカピカに磨かれて店の中央にあり、その周りを取り囲むようにテーブル席が並んでいた。いつも縦川たちが座っているカウンター席は、ピアノに背を向ける格好になるから、今日はあまりいい席とは呼べないだろう。


 縦川たちは邪魔をしないように、店のバックヤードへと移動した。いつもは客として通っていた店に、今日は関係者として関わってると思うと、なんだか変な気分になった。


 それから間もなくして店が開店し、客が続々と入ってきた。この間の貸切状態とは打って変わって、店内はガヤガヤと活気のあふれる声が響いていた。給仕があちこちで注文を取っては恭しく礼をし、厨房の中では忙しそうにコックたちが飛び回っていた。


 バックヤードのドアを半開きにしてその様子を眺めていた上坂は、まるで別の店に来てしまったような錯覚を覚えた。しかし一緒に見ていた縦川が、前はこんな感じだったと言っていたから、GBの功罪は大きすぎる。


 そんな風に2人が店の様子を覗いていると、従業員用の更衣室で着替えをしたエイミーが帰ってきた。彼女の体に密着するようなスリムなドレスを着て、髪にはコサージュが乗っていた。綺麗だとか可愛いとか言えたらいいのだが、そんなことは口が裂けても言えない上坂が、ポリポリと後頭部を掻いている。その横でメイドが縦川を威嚇していた。この2人はどうやら仲が悪いらしい。


 上坂がそわそわしながら、後で同じテーブルで食事をするはずなのだが、大丈夫なんだろうかと思っていると、5年ぶりに人前で演奏する予定のエイミーが、こわばった表情で話しかけてきた。


「う、ううーん……ちょっと緊張してきましたわ……この5年間、練習を欠かした日は一度もありませんけど、人前で弾く練習は出来ませんでしたの」


 そう言って彼女が見せる指先が、ほんの少しばかり震えていた。上坂はその手を取って温めてあげたかったが、もちろんそんなことは恥ずかしくて出来ないから、彼女の方をちらちらと見ながら、なんとかして彼女を勇気づけようと頭をフル回転させた。


 でも何も思い浮かばない。出てくるのはせいぜい気休めの言葉くらいだった。けどまあ、気休めでもなにもないよりはマシだろう。上坂は震えている彼女の目を見つめながら言った。


「大丈夫だよ。エイミーなら」


 と、その時……上坂はなんだか頭がズキズキするような感覚を覚えた。あれ? おかしいな……と思いながら、彼は続けた。


「絶対に上手くいくよ」

「……ほんとう?」

「ああ、俺は小さい頃から君の腕前をよく知ってるし、誰よりも君が出来る子だって信じてる。それに、ずっと練習してきたんだろう? 今日ここにはエイミーの味方しか来てないんだから、リラックスしていつもの調子を出せれば、みんな喜んでくれるさ。みんな、君のことが好きで集まったんだから」

「……いっちゃんもですの?」


 そう励まされたエイミーは感激しながらも、上坂の気持ちを探るように上目遣いでそう問いかけた。彼は困ったような顔をして、冷や汗を垂らしながら、


「知ってるだろう? 俺が嘘を吐けないことを」


 と言った。


 エイミーははぐらかされたと思って少しがっかりしたような顔を見せたが、でも改めてその言葉をよく吟味してみると、まんざらでもないことを言ってるような気がして、上坂が直前に言ってたことを一字一句、一生懸命思い出そうとしていたら、いつの間にか緊張はほぐれていた。


「エイミーさん、申し訳ないんですけど、一度お客さんに顔見せお願いできますか?」

「あ、はいですの」


 上坂の言葉を思い出そうとしてエイミーがうんうん唸っていると、フロアからやってきたクロエにそう言われて、彼女は返事した。結局、上坂の言葉の意味はよく分からなかったが、でもほんの少しばかり元気が出たエイミーは、振り返って笑みを浮かべつつ、


「本当は、いっちゃんに一番最初に聴いて欲しかったんですけど……」


 彼女がそう言うと、上坂は仏像みたいなアルカイックスマイルを浮かべながら、


「いいよ、別に。ちゃんとここで聴いてるから、同じことさ」


 エイミーは彼のその言葉を無言で受け取ると、薄っすらとした微笑を浮かべてから、ちょこんとお辞儀をしてフロアの方へ振り返った。


 クロエに先導されたエイミーがバックヤードの扉を潜ると、今日は賑やかだった客席の方が一層どよめいた。彼女を一目見ようと集まった人々の幸せそうな声が聞こえる。


 2人の会話を邪魔しないように少し離れて見ていた縦川は、そのどよめきに釣られるようにして上坂の隣へ歩み寄った。店内のライトが丁度逆光になって、黒いシルエットになったエイミーの背中が、まるでステージに出ていくアーチストのそれみたいに見えた。実際、それは比喩表現では無いだろう。


 彼女の成功を信じている青年の目には、それがどういう風に見えてるんだろうと思いながら、縦川は上坂の方へと向き直った。エイミーを見送る彼の表情が、少しこわばって見えるのは、もしかして緊張してるのかな……? と、最初は思ったのだが、


「……上坂君? 少し顔色が悪いんじゃないか?」


 バックヤードの薄暗い光の加減でよく分からなかったが、よく見れば上坂の額には玉のような汗が浮かんでいた。その表情はどことなく険しい。肩が小刻みに震えているのは、拳をギュッと握りしめて何かの痛みに耐えているからだろう。


 縦川が心配の表情を向けると、上坂はニヤリと不敵に笑い……


「嘘じゃないんだ。エイミー、俺は本当に君が成功すると信じている」


 彼がそう呟いた時、最後の激痛が彼の頭を襲った。その痛みに耐えかね、ふらりと体が揺れると、慌てて彼の体を支えようと手を伸ばした縦川の動きが不意に止まり……


 そして世界は静寂に包まれた。

 

*******************************


 猛烈な痛みに耐えながら、上坂はエイミーの背中を見送っていた。瞳孔が開いて光量の調節が覚束ない視界には、ホタルみたいな残光が浮かんでいる。黒いシルエットになった彼女の背中が遠ざかっていくと、彼女に悟られまいとしてやせ我慢していた彼の額から、汗がダラダラと吹き出してきた。どうやらそろそろ限界のようだ。


 隣に並んだ縦川が、彼のそんな様子に気づいて慌てて何か話しかけている。


「嘘じゃないんだ」


 残響で殆ど聞き取れない縦川の声を無視して、彼はそう弱々しく呟くと、重力に引っ張られるように深いところに落ちていきそうな意識に逆らうのを止めた。


 次の瞬間、彼の視界はぐるんと回転して、先程まではあった世界の色が、セピア掛かった白黒へと変わっていた。


 崩れ落ちそうな体が倒れないように足を踏ん張ると、すぐ目の前に縦川の顔が迫っていた。どうやら上坂が倒れそうなのを見て、それを防ごうとしているようだ。


 エイミーに悟られまいとして平静を装っていたが、縦川に心配をかけてしまったかな? と思いながら、上坂はそれを押しのけて背筋を伸ばした。


 さっきまで絶えず襲っていた頭を締め付けるような痛みは、今はもうスッキリと無くなってしまっていた。縦川が中腰のまま、不安定な格好で固まっており、あれだけ騒がしかった店は静寂に包まれていて、身動きする者は1人もいない。


 つまり、あれだ。


 上坂の能力が発動したのだ。


「さて、困ったぞ」


 彼はその静寂の中で独りごちた。


 まず考えなければならないのは、自分の能力が発動した理由は何だろうかということだ。これが分からなければ、自分は一生この静寂の中に取り残されることになる……そうならないように、この状況を脱する方法を見つけなければならない。


 尤も、今回のことはもうある程度察しはついていた。彼の能力は嘘に反応して発動する。じゃあ、どんな嘘に反応したのかと思い返してみると……エイミーと会話している時、彼女を励ます度に自分の頭に激痛が走っていたことから、原因はこれしかないだろう。


 上坂は緊張する彼女に、「絶対上手くいく」と言った。


 つまり、このまま行くと、エイミーの演奏は失敗に終わると言うことだ。


 正直、それはありえないと思った。上坂は本心から彼女が成功すると信じていた。エイミーの実力は間違いないし、いくら緊張しているからって、基本的に彼女のファンしか居ない店内で失敗は考えにくい。


 だったら、彼女が失敗する原因は彼女自身以外にあるのだろう。例えば、ピアノの調律がおかしいとか、椅子の高さが変だとか、店の中で誰かが騒ぎ出すとか……


 多分、一番最後の可能性が高そうだ。しかし今、店に集まっているエイミーのファンが、彼女の演奏を邪魔するとは思えない。だとすると、彼女が演奏をしようとする前後にサインをねだったり、写真を撮ろうとしたり、そういうことが起きるのではないか? 誰かそんな風に騒ぎだしそうな人物は居ないだろうか。また、その人が騒がないようにするにはどうすればいいだろうか……


 彼はそんなことを整理しつつ、エイミーのあとに続くような格好で、フロアへと足を踏み入れた。


 その時……


「な、な、な……なによこれええーー!!!!」


 上坂の耳に自分以外の声が聞こえてきて、彼は度肝を抜かれた。


「ど、ど、どうなってるの? クロエさん? エイミーさん? みんなも! からかってるの??」


 キンキンとしたヒステリックな叫び声があがる。あまりの静寂からそれは反響となって店内をこだました。


 ドクン、ドクン……上坂の心臓が早鐘を打った。彼の視界は相変わらず白黒で、周りに動くものは何もない。振り返って縦川を確かめる。もちろん、彼は固まったように動かない。念のために体を押してみてもびくともしない。なのに、目の前では相変わらず素っ頓狂な声を上げながら、動きまわってる人がいる。


 何故だ? どうして彼女は動いてるんだ……? こんなこと、今まで一度も経験したことがなかった彼は、恐怖にも似た感情に襲われ、声を忘れてゴクリと生唾を飲み込んだ。


「み、みんな一体どうしちゃったのよ? ちょっと、なんとか言いなさいってば。わひゃっ!!」


 パリンと音が鳴って、他の給仕が運んでいた料理が床に落ちた。騒いでる彼女がぶつかって、料理をひっくり返したのだ。


「ごめんなさい、ごめんなさい! ……どうなってるの? これ」


 慌てて料理を片付けようとしゃがみ込む彼女。そんな彼女を前にしてもピクリとも動かない店員達。流石にそろそろ落ち着いてきた彼女が訝しげな視線を周囲に飛ばした。


 静止した時間の中で、何故か上坂の同級生であるアンリエットだけが動いている。


「委員長……なんでお前は動けるんだ」


 冷や汗を垂らしながら上坂が呟くと、その声に気づいたアンリの視線が彼を捉えた。


「あ! 上坂! 良かった、あんたは動けるのね!? って言うかこれ、どうしちゃったのよ! 何か知ってるなら教えなさいっ!!」

「い、いや……俺も、何がなんだかさっぱり……」


 上坂の胸ぐらを掴んでブンブンと前後するアンリに、上坂は脳みそがシェイクされてフラフラになりながらそう応えるのが精一杯だった。


 周囲を見回しても、上坂とアンリ以外の人たちはピクリとも動かない。だから自分の時間停止能力が発動したのは間違いないのだろうが……能力が発動した時に、自分の以外の人間が動いていたことなんて、今まで一度もない。


 何が起きているのだ? どうしてこの状況で彼女は動けるんだ?


 理由がまったくわからなくて、上坂の混乱はピークに達した。


 その時だった。


「カルツァクライン粒子観測……エルゴ領域拡大……ワームホール開きます……因果律トリガー、ゼロポイントにリセット。時空間跳躍……2……1……今」


 アンリに胸ぐらを掴まれていた上坂の背後から、小さなつぶやき声が聞こえてきた。


 2人はギョッとして固まると、声のする方から飛び退いて、店内の中央で身構えた。すると、たった今、上坂が出てきたばかりのバックヤードの扉が、スーッと音もなく開いて、中から1人の少女が出てきた。


 コツコツとパンプスのかかとを打ち鳴らし、白と黒のエプロンドレスの裾をひらひらと翻らせて、緑髪の小さな少女が歩み出てくる。


 上坂は未だに胸を掴んでいたアンリの腕を振り払うと、呆然と佇む彼女と一緒に、この時間停止の中でありえないはずの、もう一人の闖入者を凝視した。


 アンリが動いていただけでも、わけがわからないというのに……


 九十九美夜。エイミーの家で住み込みで働いているメイド少女。どうして彼女までが……?


 足音を響かせて美夜は店内に歩み出てくると、身動き一つ取れず呆然とする上坂を見つけ嬉しそうに近寄ってきた。その瞳はまるで親猫を見る子猫みたいに無邪気で毒気が抜かれる。美夜は演技がかった仕草で、左手でスカートをちょんと摘んで、右手を大きく振り上げると、彼に向かって恭しくお辞儀をした。


「やっと見つけたのれす。美夜の……ジーザス・クライスト!」


 そう言って深々と頭を下げる彼女のつむじを、上坂は黙ってみていることしか出来なかった。


 隣には、そんな2人を胡散臭いものでも見るような目つきで、交互に見やるアンリがいる。


 時間停止能力……自分の能力をそうと決めつけていた彼の定義が、今、ガラガラと音を立てて崩れ去った。


 本当に、この能力はなんなんだ? どうして、上坂にだけこんな力があるんだ? そして、どうして、彼女たちはこの状況でも動けるのだ?


 その疑問に答える者はどこにも居ない。彼は困惑しながらその場に呆然と立ち尽くし、じっと目の前の少女を見ていることしか出来なかった。


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