山の上のピアニスト
上坂の5年にも及ぶ壮絶な体験は、聞いている者の心までへし折った。縦川はその過酷な運命に絶句して言葉を無くし、エイミーは聞いてる途中から泣きっぱなしで、多分内容をちゃんと理解できていなかったのではなかろうか。彼はそんな彼女に変わって、自分がしっかり聞いてやらねばと思い、上坂の告白をじっと最後まで聞いていた。
すべての告白が終わった時、上坂は疲れ果ててダウンしてしまった。考えても見れば、彼は昨日から眠ってはおらず、それなのにこんな話をしていては参ってしまうのも仕方ないだろう。聞いてただけの縦川でさえ疲労困憊で何もする気が起きないくらいだ。
彼がダウンするとエイミーがメイドを呼んで、客間のベッドメイクをするように言った。まだ夕方にもなっていないので上坂は遠慮しようとしていたが、そんな余裕は無さそうだったので、縦川の説得もあってその日は彼女の家に泊まることになった。
尤も、縦川の方は寺を留守にするわけにはいかないから、自分だけ帰るつもりでいたのだが……そんなことを言ったらまた上坂が遠慮すると思い、彼が眠ってしまうまで何も言わずに流れに身を任せていた。メイド少女が縦川の分もベッドメイクしてしまったので、後で謝らないといけないだろう。
彼は案内された自分の客間で、ティーポッドの紅茶を飲みながら、ぼんやりと上坂の話を思い出していた。何しろ、情報量が半端じゃ無いので、未だに消化不良で飲み込めてない部分が多かった。特に、汎用AIの技術についての話はまったく歯が立たず、ただ聞き流してるような状態だった。
上坂は、自分が作ったドローン兵器が、結果的に多くの人々を殺してしまったことが後ろめたいようだったが、聞いてるこっちとしては、単に彼に作れと言ったFM商会に対する怒りしか感じなかった。何故なら上坂は兵器を作るしか生き残る手段がなく、その兵器を使って人殺しをしたのはあくまで他の連中だったのだ。彼が責任を感じる必要はない、あんなのはただの自業自得だ。縦川は、上坂は絶対に悪くないと、それだけは確信を持って言えた。
それにしても……どうして彼ばかりがこんな酷い目に遭ってしまったのか。5年前の隕石落下時、いや、今となっては本当に隕石だったのか分からないのだが……あの時に壊滅状態に陥ったお台場で、彼だけが助かったことを、縦川はそれまで幸運だと考えていた。だが、今回の話を聞いて180度見方が変わってしまった。彼を連れ去る船の上で、殺してしまえと言った軍人は正しかったのかも知れない。
上坂がどうして生き残ったのか、それはヒトミナナの最後っ屁だったのだろうか。確信は持てないが、FM社の汎用チップにナナの因子が紛れ込んでいたことからして、その可能性は高いだろう。彼女は主人が絶体絶命のピンチに陥った時、今の超能力と同じような方法で彼を守ったのではなかろうか。そして、自らの人格は消し飛んでも、なおも彼を守ろうとしていたのではないか。
上坂の能力は、他の超能力者たちと違って、彼自身もどうしてそんな現象が起きているか、良く分からないと言っていた。だが彼の能力も他の超能力者同様、ナナの因子が原因なのは間違いないだろう。そう考えなければ、彼が悉く窮地を脱している状況が説明できないじゃないか。
それはきっと、ナナが自分をこの世に生み出してくれた上坂に対して、恩を感じていたからだろう。縦川はそんな風に考えていた。例えセンチメンタルだとしても。
日が陰って、部屋が段々と暗くなってきた。上坂はもう眠っているだろうし、そろそろお暇しようかと、縦川は部屋から外に出た。
廊下に出ると、豪華な玄関の吹き抜けが目の前にあって、そこに飾られたシャンデリアが、もうオレンジがかった柔らかい光を灯していた。調度品の数々が日焼けしないように、軒が深い家の中はもう真っ暗だった。一応、上坂の様子を見ておこうかと思い、チリ一つ無い廊下の赤絨毯の上をパタパタとスリッパのかかとを鳴らしながら歩いていくと、彼の部屋の扉が薄っすらと開いているのが見えた。
メイドの子が閉め忘れたのかな? と思って近づいていくと、中からご機嫌な鼻歌が聞こえてきた。それが鼻歌にしてはやたらと上手なものだから、縦川は思わず立ち止まって聞き惚れてしまいそうになった。一体、誰だろうと思って中を見ると、上坂の眠るベッドの横で、彼の顔を覗き込むように前かがみになりながら、ウキウキとお尻を振っているエイミーの姿が見えた。
彼女は彼の前髪を丁寧に梳いては、その顔にぽーっと見惚れたり、側頭部に刻まれたグロテスクな傷を見ては、眉を顰めて泣きそうな顔をしたり、時折じーっと考え込むようにその顔を見つめたり、百面相のように表情を変えながら、上坂の寝顔を飽きることなく眺めていた。
その姿が如実に語っていた。多分、彼女は彼のことが好きなのだろう。
相思相愛だな……と、縦川はそんな彼女の後ろ姿を見て思った。つらい過去を背負ってここまで来たんだ。二人には幸せになって欲しいと彼は願った。
その時……人の気配を感じたのだろうか。何気ない仕草でパッとエイミーが背後を振り返った。そして扉の向こうで部屋を覗き込んでいる縦川の姿を見つけて、
「え!? あ、その……これは……いっちゃんが寝苦しくないかなって、少し様子を見に来ただけですの。変なことはしてませんの」
エイミーがしどろもどろに言い訳する顔が、真っ赤に染まっている。なんというかバレバレだ。最初に見た時は大人びて見えたが、こうして見てみると、中身は年相応なんだなと縦川は思った。
彼は思わずツッコミを入れたくなったが、奥手っぽい二人のために、下手に刺激しないほうが良いだろうと考えて、すっとぼけてみせた。
「え? どうかしましたか。今来たばかりでよく見えなかったんだけど」
エイミーはホッとした様子で、
「い、いえ、何でもございませんわ」
「上坂君はよく眠ってますか?」
「はい。それはもうぐっすりですから何をしても……ゲホゲホ……側で騒いでても起きませんわ」
彼女がそういった矢先に、上坂がう~んと唸り声を上げると、寝苦しそうに寝返りを打った。エイミーは自分のせいだとばかりにオロオロと取り乱し始めたので、縦川は苦笑しながら、
「ここで話してると上坂くんが起きてしまうので、下に行きませんか?」
と言って、彼女を連れて先程、話をしていたリビングへと向かった。本当はもっと上坂の寝顔を見ていたいと思っていたエイミーは、後ろ髪引かれる思いでそのあとに続いた。
リビングへ行くと話し合いの最中は席を外していたメイドの少女が、今となっては珍しいホームテレホンの子機を持って近づいてきた。そろそろ近所に住んでいるハウスキーパーに夕飯のお願いをしたいのだが、上坂は寝てるしどうするか聞きたかったようだ。縦川はすぐにその夕飯の誘いを辞退した。
「え? 帰ってしまうんですの?」
「はい。寺を開けっ放しには出来ませんからね。エイミーさんには申し訳ないんですが、今日は一晩だけ、上坂くんのことをお願いできませんか?」
「もちろん構いませんですの……でも、お寺? いっちゃんは今、どんな場所で暮らしているんですの?」
そう訊ねられた縦川は、これまでの経緯をかいつまんで話した。アメリカから帰国した上坂が、最初縦川の親友の家に住んでたこと。その親友の家で色々あって、家を出なくてはならなくなった上坂を自分が引き取ったこと。今、彼は寺から学校に通っていることなどなど……
「まあ! それでお寺様にご厄介になっていたのですか。雲谷斎様には、返す返すもいっちゃんのことを良くしていただいて、感謝の言葉もありませんわ」
「いえ、これも僧侶としての務めですから……あとウンコ言うな」
縦川がそんな風に謙遜の言葉を口にすると、何故かその言葉に反応してメイド少女が騒ぎ出した。
「……僧侶? さっきから聞いていれば、おまえの言うお寺とは何のことれすか? 教会とは違うれすか?」
「うん? お寺を知らないの……?」
そんな馬鹿な……と縦川は目をパチクリさせたが、見た感じ外国人っぽい小さな少女は本当に知らないのかも知れない。彼は肩を竦めつつ、それが何なのか説明した。
「お寺ってのは仏教の寺院のことだよ。キリスト教の教会と同じような建物のことさ」
「仏教……? さてはおまえ、邪教徒れすね! そうとは知らない美夜のことを、利用していたんれすか!」
「邪教徒て……え~、仏教はそんなに悪い宗教じゃないよ?」
「黙るのれす! 父と子と精霊の名のもとに、退くのれす、このサタン!」
「黙るのは美夜の方ですわ!」
縦川がメイドに詰め寄られてたじたじになっていると、そんな失礼な態度を見るに見兼ねたエイミーがすっ飛んできて、彼女の頭をゴチンとやった。星が飛び出て彼女の目がチカチカしている。
「ひぎゃっ! おおお~う……おう、おう!」
メイドは叩かれた頭を抱えると、涙目になりながら床に這いつくばって変なうめき声を上げた。縦川はその哀れな姿にびっくりして、
「あ、いや、暴力はいけませんよ、暴力は」
「この程度、暴力の内には入りませんの。美夜! 私の前で、私のお客様に恥をかかせるなんて許しませんわ! ちゃんと謝りなさい!」
エイミーがプリプリしながらそう言って叱ると、メイドは泣きそうな顔をして立ち上がり、縦川に向かって上目遣いでおずおずと……
「あう、あう……ごめんなのれす。美夜が悪かったのれす……と言うとでも思ったれすか!」
謝るふりをして、すかさずその背後にいたエイミーに向かってポケットに入っていたクッキーをぶん投げた。硬いクッキーが額にジャストミートしたエイミーが仰け反る。
「ぎゃんっ!」
「ばーかばーか! お嬢様の馬鹿なのれす~!」
「こらっ! 美夜ぁ~!!!」
メイドは主人に逆襲すると、アカンベーをしてリビングの窓から飛び出していった。袖で目をゴシゴシしていたから、多分泣いていたのではなかろうか。エイミーはそんなメイドの後を追っかけて、リビングの窓までかけていったが、裸足のまま庭に飛び出ることも、手にしたクッキーを投げることもしなかった。
嵐のような出来事に呆然としていたが……いきなり邪教徒扱いされたとは言え、その無邪気なやり取りに毒気を抜かれた縦川は苦笑いしながら言った。
「えーと……彼女は熱心なキリスト教徒なんですか」
エイミーは興奮して肩をいからせていたが、やがて諦めたようにがっくりと項垂れてから部屋の方へと振り返り、
「あの狂信者がお見苦しいところをお見せしたのですわ。後できつく言っておきますので、今日のところはお許しくださいですの」
「いえいえ、どうぞ程々でよろしく。彼女も悪気があったわけではないでしょう」
「だと良いのですが……あの子ったら、いつもあの調子なんですの。我が家の庭師も運転手も、ハウスキーパーも、日本人はみんな仏教徒でしょう? そのせいか中々馴染んでくれなくて」
ため息混じりにエイミーが言った。
「プロテスタントっていうんですの? 私は古い因習にとらわれない自由な人たちだと思ってたのですが、あの子を見てるとどうも違うようですわね」
「ああ、基本的に原理主義者なんですよ。アメリカの歴代大統領もみんな合理主義者でしょう」
「……確かに。でもあの子の場合は度を越してますわ。あの子が言うにはもうじき神様が復活して、異教徒はみんな滅ぼされるから、今からでも遅くないんで改宗しなさいって……会う人会う人に言って回るものですから、使用人たちもあまり本邸に近づかなくなってしまったんですの」
「そりゃまた……筋金入りですね。どうしてそんなのいつまでも雇ってるんですか」
「使用人は私が雇っているわけではないのですわ。私がここで一人暮らしをするために、お父様が雇ってくださってるのですから、中々言い出せなくて」
それでも父親に別の人に変えてと言ったこともあるのだが、彼女の何を気に入ってるのか、父親は取り合ってくれなかったらしい。エイミーもわがままで一人暮らしをしている手前、強くは言えず、そのうち諦めて受け入れたそうである。使用人とぶつかる以外は、普段は仕事のない時に勝手に麓の教会にお菓子を貰いに行ってしまうくらいで、特に害はないらしい。
しかし、見ての通り異教徒には容赦がないので、日本での暮らしはあまり向いていないようである。本当に、どうして父親は彼女に拘るのかとエイミーはため息を吐いた。
「昨日、上坂君に少し聞きましたが、ご両親は欧州で暮らしているんでしたっけ」
「ええ、父も母も、あの隕石落下後、国内の事業を畳んで欧州へと引っ越してしまいましたの。私はその……」
「上坂くんのことを待ってたんですか?」
縦川がズバリそう聞くと、エイミーは最初苦笑を見せて、次にはにかみながら、
「はい。きっと戻ると信じてたんですの。お父様は駄目と言ってましたが、お母様が味方してくれたのですわ」
「へえ……」
そりゃあ父親も、自分の娘が喪に服すような生き方をしようとしてたら、反対するだろう。逆に、そんな父親を説得した母親の肝っ玉に感心した。お台場の壊滅状態は、信じて待てるような状況ではなかったのだから。
「お母様もお父様の立身出世を信じて待ってらした方ですから。私が産まれた時、AYFカンパニーは学生サークルみたいな小さい会社だったんですの。将来の展望なんてまったくなくて、お父様も事業を畳んで私のために働こうとしたそうですが、それに反対したのがお母様だったのですわ。お父様なら絶対成功するから、頑張ってって。お父様が働くくらいなら、自分が働くからって」
「へえ……きっと、お母さんには先見の明があったんですね」
「いいえ、そんなものありませんわよ。あったのは愛だけですわ。だって、お父様ったら、そんな信用が置けるような人じゃないんですもの」
そう言ってエイミーはクスクスと笑った。その笑顔を見てるだけで、なんだか元気が出てきそうなのは、よっぽど彼女が家族のことを愛しているからだろう。縦川は、そんな彼女が家族と離れ離れになってまで上坂のことを待とうとしたことが、とても尊いことだと感じた。彼女は上坂のために、色んなものを犠牲にしてきたのだ。
「もしかして、ピアノを辞めてしまったのも、上坂くんのためだったんですか?」
彼はふと思い立って尋ねてみた。この家を訪ねてきたとき聞こえてきたピアノの音色は、思わず聞き惚れてしまうほどだった。彼女の腕前は衰えるどころか、寧ろ昔よりもずっと上達しているように思える。なのに表舞台から消えてしまったのは不思議だった。
エイミーは辞めたと言われて一瞬だけ心外そうな顔をしてみせたが、すぐに彼の言わんとしていることを理解して、
「ピアノを辞めたつもりはないんですの」
「そうなんですか?」
「いっちゃんのせいでも何でもないですの。単に、私のピアノがこの国では受け入れられなかっただけですわ」
受け入れられないとは、なんだか穏やかでは無い。縦川が返答に窮していると、彼女は伏し目がちに遠くを見ながら、過去を思い出しながらぽつりぽつりと話した。
「私がテレビに出始めたのは、今から8年ほど前のことでしたわ。あの頃の私はまだ10歳で、ピアノのことは何も知りませんでしたの。ただ、小さい頃から立派な先生方に師事し、技術だけはしっかりしたものを身につけさせていただいていたので、“子供”が弾く分には、とても魅力的なものだったかも知れませんわね。私は天才と持て囃され、調子に乗って、テレビで請われるままに色んな曲を披露しましたわ。ですが、段々と自分なりにピアノのことが分かってくると、自分のピアノはとても物足りないものだと分かってきたんですの。
そんな時にテレビの企画で、欧州のオーディションを受けることになったんですの。私は自分のピアノがどのくらい本場で通用するのか知りたくて、腕試しのつもりでそれを受けましたわ。でも結果は散々なもので、私は審査員にボロクソに言われて、テレビの前で泣くまで貶されてしまいましたの」
「それでテレビに出なくなっちゃったんですか」
そう言えば、テレビ企画がどうのこうのという話はスナックのママが言っていた。彼女はこの時、酷いことを言われて傷ついてしまったのだ。縦川はそれを思い出し、こんなこと聞くんじゃなかったと反省した。しかし、そんな彼の反省とは裏腹に、エイミーの話の続きはもっと意外なものだった。
「いいえ、それはまったく関係ありませんでしたわ。私はその時、自分の実力不足を感じてましたから、それを痛感させてくれたことに、寧ろ感謝したくらいですの」
「それじゃどうして……?」
「それはその後の撮影の続きで、テレビは最初から私が挫折する姿を撮りたかったのだと言うことが、分かってしまったからですの。更には、私がショックを受けたところで、審査員に実は私が日本で売れっ子のピアニストだと暴露する。私はその頃、トップアーチストやアイドルと並んでランキングの常連でしたから、トップセールスとは無縁のクラシックの世界の人たちは驚いたでしょうね。そして、それを知ってこんなのが売れるのはおかしいと顔を真っ赤にして怒る審査員や、手のひらを返して私を褒め始める審査員の姿を撮影して、笑いものにするのがその番組の趣旨だったんですの」
「それは……趣味が悪い」
「まったくですわ……でも、大衆はこういうのを求めているんですわ。実際に、その番組は高視聴率を叩き出して、私には同情と励ましのファンレターが山程届きましたの。そして彼らは口々に私にこう言うんですの。クラシックの大家なんて、あいつらは偉そうに権威を振りかざしてるけど、実態はこんなものなんだ。結局、彼らは売れないものしか作れないから、金をちらつかせたら何も言い返せない。流行と金を生み出している俺達の方がずっと偉いんだぞって……」
そんなはずはないだろうと縦川は思った。クラシックの名演奏家が聴衆に与える心的影響は計り知れないものがある。いい音楽を聞いた時、我々は強い感銘を受けて気分が良くなる。
だが、実際に流行というものはこういう連中に操作されてるのは否定できず、そして唸るような金の束の前で人は黙るしかないのだ。何を言っても負け惜しみにしか聞こえないからだ。
しかし、日本でたった3曲しかない300万を売り上げたCDに、名前すら聞いたこともない曲が混じってるような現状が、果たして許されて良いのだろうか。
彼らの生み出した流行とやらが、一体何を我々に与えてくれたというのか。単に市場を完膚なきまでに叩き壊しただけじゃないのか。もちろん、負け惜しみでしかないのであるが。
「それは改めて自分を取り巻く環境を見つめ直す切っ掛けになりましたの。今も昔も日本はマーケティングが優先で、売れる音楽は販売本数で決まってしまいますわ。例えばネットで売上が好調だとAIが判断すれば、サイトのトップの目立つ場所で宣伝され、それが流行になり人々はそれを信じてしまう。自分で自分に合う、自分だけの音楽を探そうという人はもういません。アーチストは、聞こえの良いだけの音楽を大量生産して、それを小出しにして、売れるまでそれを続ける。いつから音楽は消費財になってしまったのでしょうか。
この国ではもう、誰もピアノなんて弾いてません……いるのは音楽をがなり立てる、雑音の中でも耳に残りやすいものだけを弾く、なんていいますかフォルトとかフォルティッシモニストばかりなんです。じっと耳を傾けなければ聞こえないような“ピアノ”を大胆に弾ける人が、もうこの国には居ないんですわ。そう考えた時、私は自分がいるべき場所はここじゃないって思ったんですの」
そして彼女はすっきりとした表情でこう言った。
「私はピアニストになりたいんですわ」
縦川は思った。多分、これが本物のピアニストという人種なのだろう。彼女はテレビや大衆に傷つけられていつの間にか居なくなったのではなく、栄光を突き進んでいたはずの芸能界を捨てて、自らの道を選び取ったのだ。上坂が、自分より年下なのにずっと大人びてしっかりした子だと言っていたが、彼がそういった理由が分かる気がした。
縦川はそんなエイミーと暫く歓談した後、日が落ちる前に駅までいかないと帰れなくなると言って、彼女の家を出ることにした。
結局、メイドの少女は飛び出したまま帰ってこなかったが、夕飯がどうとか言っていたので、多分今頃はハウスキーパーの家にいるだろうから、心配しないでとエイミーは言った。
メイドのことも気になるが、今は上坂が二階で眠っているから、留守にするわけにはいかないのだと、彼女はどことなくそわそわしながら言っていた。多分、縦川が帰ったら、また彼の眠るベッドの横で一人ニヤニヤするんだろう。
去り際、玄関を出ようとする縦川に彼女はこんなことを言った。
「いっちゃんが起きたら、明日はお寺までお送りした方がよろしいでしょうか?」
「上坂くんも子供じゃないんだから、一人で帰ってこれるでしょう。女の子に気を使われると、男の子としてはプライドが傷つけられると思いますよ」
「そういうものですか……」
「それに、あのメイドさんが嫌がるでしょうしね」
「それもそうですわね。ですが、機会があれば、一度本当にお邪魔したいと思っていますの。雲谷斎様には、ちゃんとしたお礼をしたいですし、いっちゃんがどんなところで暮らしているのかも、ちょっと気になるんですの……」
そう言ってチラチラと上目遣いで見つめるエイミーに対し、縦川は自然に笑みがこぼれるのを感じた。こんな子が彼女になってくれたら、上坂も少しくらいは報われるんじゃないかと彼は思った。
「お礼なんかどうでもいいですから、いつでも気軽に遊びに来てください」
「ありがとうございますわ」
エイミーはほっとした表情をしてはにかんだ。縦川もにっこりと微笑み返しながら、でも、男の家に遊びには来づらいだろうし、何か切っ掛けを作って上げたほうがいいかなと考えた時、ふと、シャノワールのピアノのことを思い出した。
昨日、上坂はシャノワールのピアノを見た時、本物の演奏家なら店の雰囲気を壊したりしないと憤慨していた。多分、彼があの時思い出していたのは、エイミーのことだったんだろう。縦川はそのことを思い出し、
「エイミーさん……お礼って言ったら申し訳ないんだけど、一つ頼まれてくれませんか?」
彼女の腕前なら問題は無いだろうし、何より、上坂が喜んでくれるに違いない。中々悪くない考えだぞと思った彼は、気がつけば彼女に頼んでいた。
彼女は困った顔をしていたが、折れるまでそう時間はかからなかった。