お墓参り?
上坂が万馬券を当て、お祝いにシャノワールで食事をしたその晩、二人が寺に帰ったのは日付が変わる寸前だった。
縦川が毎朝のお勤めのことを考えるとさっさと寝たほうが良いからと言って、その日はシャワーを浴びてさっさと眠ることにした。もう夏休みなのだから、寝坊したって良いだろうと上坂はゴネたが、これが寺のルールなのだから従うより他はない。
それに良い習慣とは日々のちょっとした犠牲の上に成り立っているという。長い人生、ずっと寺で過ごすわけでもないんだから、ここでの経験を将来に生かしてくれと縦川が言うと、彼は何故か複雑そうな顔をして黙っていた。
就寝後……夕方の興奮がまだ残っていたのか、それとも熱帯夜の暑さにやられたのか、縦川は夜中にぱっと目が覚めた。時計を見れば丑三つ時の深夜2時、どうやら寝入りっぱなにすぐ目が覚めてしまったようだった。ワインがまだ抜けきってないのか、体が熱いような気がして、半分寝ぼけたままの体を起こすと、窓を閉めてクーラーを入れようとして窓の方へと近づいていった。
ふと見れば、寺務所に灯りが灯っている。それで縦川の脳は覚醒した。泥棒……という可能性も捨てきれないが、多分上坂がまだ起きているのだろう。こんな時間にどうしたんだろうと思いながら、彼は部屋から廊下に出ると寺務所へと向かった。
ガラガラと扉を開けると、足元にひんやりとした空気が流れてきた。閉め切られた寺務所はクーラーが効いていて、とても快適な室温に保たれていた。人が入ってきた気配に気づいたのか、テレビの前に居た上坂が膝立ちになって背後を振り返り、縦川と目が合うとバツが悪そうに元の姿勢に戻った。
「眠れないのかい?」
寺務所に設置されたテレ東しか映らないテレビは、今は下柳が持ってきたレトロゲームの画面が映し出されていた。この間遊んだときは、大人二人がコントローラーを独占してしまって、上坂は背後で呆れながら見ていたのだが、案外彼もやりたかったのかも知れない。
返事が返ってこないので、エスキモーを模したキャラクターがぴょこぴょこ飛び跳ねてる姿を目で追ってると、上坂は無言で2コンを差し出してきたので、コントローラーを受け取り乱入する。
流れる雲に乗ったり、滑る床を走りながら、ただただ雪山を上るだけのゲームだが、これが中々難しい。協力要素はあるにはあるが、ほとんど一方が得するだけなので、自然と競争になるようなゲームだった。見た目は牧歌的なのだが、無言でやり続けていたら、いつの間に空気が殺伐としてきて、コントローラーを操作するカチャカチャという音だけが部屋に響いていた。
やはり、若いほうが反射神経が優れているのだろう、暫く続けていると上坂の方が圧倒してきて、ゲームオーバーに追い込まれた縦川はコントローラーをぶん投げた。
「があっ! 少しは手加減してくれよ」
床に大の字になってガクリと力尽きる縦川を尻目に、上坂は黙々とゲームを続けていた。昔のゲームらしく無限ループのシステムなので、操作が上手ければいつまでも続けていられるのだが、改めて彼のスコアを見てみたら、見たこともないような数字だったので、一体いつから続けていたのだろうかと目を剥いた。
縦川は素直に平伏すると、
「おみそれしました……何か飲み物いるかい?」
と言って立ち上がった。上坂は画面から視線を離さずに、
「無理に付き合わなくていいぞ。眠れなかったんで、このままじゃ朝起きれないだろうから、ずっと起きてようと思ってるんだ」
「そういう時は眠れなくても横になって、体の疲れだけでもとっておいた方が良いよ。翌々日に堪えるから」
「まだそんな年じゃないよ」
「さいですか……」
縦川は適当に冷蔵庫にあったスポーツドリンクのペットボトルを取ってきて、床にドンと置いた。コップなんか無くて回し飲みである。縦川がそれをグビグビとやってから、またコントローラーを手に取ると、上坂はちらりとそれを見て、リスキル狙いの動きを見せた。ゲーム外で二人の攻防が始まる。
そんな不毛なやり取りを暫く続けた後、どうにかこうにかゲームに復帰した縦川の横顔を見ながら、ふいに上坂が言った。
「俺は、いつまでこの寺にいられるんだろうか」
「……え?」
どういうつもりでそんなことを言い出したのかと、縦川はその表情を確かめようとしたが、その間も上坂がゲーム進行してしまうから、彼は諦めてゲーム画面を見続けながら、声だけで返事をした。
「特に何も言われてないから、君が居たければいつまででも居ればいいけれども」
「そういう意味じゃなくってさ……さっきあんたが言った通りさ、将来のことを考えると、俺は別に坊さんになりたいわけじゃないんだし、そしたらいつかここから出ていかなきゃいけないんだよな」
「なんだ、変にプレッシャーかけちゃったのかな? 別に今すぐどうこうしろなんて、誰も思ってないんだよ」
「分かってる。俺もすぐにそんなものが決められると思っちゃいない……ただ、レストランでのあんたの話を聞いて、今まで意識してなかったことを意識してしまったんだよ。俺は、この国に帰ってきたはいいものの、ここで何かしたいわけじゃない」
その言葉を、思春期の悩みと受け取っていいものかと、縦川は少し戸惑った。言い方は悪いが、上坂はまともな人生を歩んできていない。彼がアメリカでやっていたことを考えると、その言葉の重みは違ってくる。
多分、そのことを意識したのだろう。上坂が探るように尋ねてきた。
「俺がこの五年間、何をしていたかってのは……?」
嘘を吐いても何も得られないだろう。そう思い、縦川はそれに素直に返事した。
「前も言った通り、君の転入初日に校長室で会った人に色々と聞かされたよ。散々な目に遭わされたみたいだけど……」
「汎用AIについては?」
「ああ、君が作ったんだって言われて、正直驚いた」
上坂はその返事を聞いて、軽く頷くと、
「正確には違うんだ。あれを作ったのは俺じゃなくて、俺の先生だ。先生は本物の天才で、理論から設計からプログラムまで、何でもかんでもやってしまった。でも飽きっぽい性格でね。作り上げたらそれをほっぽりだして、他のことをやり始めちゃったから、代わりに俺がいじってたんだよ。ナナは……汎用AIは始めはお馬鹿な子でさ、世話を焼いてるのが楽しかったんだ。俺がやったのはただそれだけだ」
縦川は、校長室で御手洗もなんかそんな感じのことを言っていたなと思いだした。確か上坂は、AIを作ったのではなく、元となるデータをずっといじくり倒していたはずだ。縦川は興味が湧いてきて、尋ねてみた。
「その先生ってのは、どんな人だったの」
すると上坂はとても懐かしそうな目をしながら、
「とても優しい人だったよ。俺の……唯一の家族だった。俺は、あの人に育てられたんだ」
「……育てられた?」
「ああ。下手に同情されると嫌だから、あまり喋りたくなかったんだが……」
そう言うと上坂は、少し考え込むように押し黙った。その間もテレビ画面では、全く変わりなくゲームが続けられており、集中力の途切れた縦川を容赦なく叩きのめしていた。きっと脳の出来が根本的に違うのだろう。再度ゲームオーバーにされた縦川は、もう諦めてコントローラーを置くと、ゴロンと横になって頬杖をついた。
「俺には兄さんが居たらしいんだが、実は俺が生まれる前に死んじゃってね……」
「死んだ?」
「うん。しかも、まともな死に方じゃないんだ。なんでも、現代医学でも原因不明の謎の奇病に侵されて、ある日突然寝たきりになっちゃったらしい。先生は、実は兄さんの先生で、当時就職のために日本で教師をやってて、たまたま担任になったクラスに兄さんが居たそうなんだ。先生は兄さんのお見舞いで何度も病室に訪れたことで、俺の家族と親しくなっていったんだよ。
当時、母さんは俺を身籠ってて、そんな時に兄さんが寝たきりになったもんだから、とても心配して体調を崩してしまったんだそうだ。それを父さんが一人で抱え込んでいたから、見るに見かねた先生が色々手助けしてくれたらしい。
先生はアメリカで学位を得た人でね。元々はあっちに住んでたから、その伝手で兄さんの奇病が治るかも知れないって医者を見つけてきて、父さんに紹介してくれたんだ。ただ、知っての通りアメリカの医療は凄くお金がかかるから、かなり思い切りが必要だったらしい。それでも父さんは一縷の望みをかけて、寝たきりの兄さんを連れてアメリカに飛んだんだ……
ところがまあ、そこからがひどい話でね……あんたはフラッシュ・クラッシュって知ってるか?」
突然、話が変わって面食らった。株をやっている縦川ならもちろん知っていた。2010年5月、わずか数分の間にNY株式市場が1000ドル近くも暴落した。当時、株価を下げる要因は何もなく、誤発注など様々な原因が指摘されたが、理由はさっぱりわからなかった。
NY証券取引所は、その後の調査でアルゴリズム取引のエラーが原因ではないかと報告した。20世紀末にインターネットの商用利用が開始されて以降、電子取引が主流になっていった証券市場では、コンピュータに予めインプットされたルールに従って売買を行うアルゴリズム取引が大手ファンドなどで導入されていたのだが、どこかのヘッジファンドがそのルールを相当甘く設定していたせいで例外が発生し、取引所のシステムの不備や、高速取引の弊害など、その他の要因も重なって、コンピュータによるパニック売りが発生していたらしいのだ。
「コンピュータが引き起こした大暴落だったわけだが、人がやろうがコンピュータがやろうが、暴落は暴落だ。その時に下手なポジションを取っていて、自動売買が行われてしまったら、個人が意図しない損失が生まれてしまうわけだ。それに父さんが引っかかった。
父さんが兄さんの治療をするためにアメリカに渡った時、そのための資金も一緒に動かして、アメリカで運用していたんだ。彼としては手堅いつもりだったのかも知れないが、そんなイレギュラーが起きたら為す術がないだろう。あっという間に資金が底をついて、逆に借金が膨らむ結果になってしまった。
証券会社を訴えればなんとかなったかも知れないが、右も左もわからないような土地に渡った上に、寝たきりの兄さんを抱えている。日に日に積み上がってく膨大な医療費が、更に彼を追い詰める。アメリカはシビアだからね、しかも医療関係は手続きが煩雑で、それで何がどうなったのかわからないけど、兄さんが犠牲になってしまった。ある日、何故か生命維持装置を止められて、彼は死んじまったんだ」
「そんな馬鹿な!? ……寝たきりの人間を殺すような真似を病院がするなんて思えない。何かの間違いじゃ?」
上坂はさもありなんと言った顔で首肯した。
「その通りだ。でも、病院じゃないとしたら、父さんがやったことになる」
縦川は絶句して言葉も無かった。
「この辺の詳しいことは分からない。多分、病院を訴えたが負けたんだろう。結局、父さんは寝たきりの兄さんを連れて、アメリカに借金をこさえに行ったようなもんだった。その兄さんを異国の地で死なせてしまい、失意のまま日本に帰ってきたら帰ってきたら、俺を身籠った母さんが入院している。本当に、気の毒としか言いようがないが、彼は身重の母さんに報告しなくちゃならなくなった。その後、何が起きたのかはちょっと分からない。結果は、心労が祟った母さんは俺を早産すると、産後の肥立ちが悪くてあっけなく他界しちまった」
淡々と語るその口調は実に滑らかで淀みなく、いつもより少し早口だった。ゲーム画面ではエスキモーのキャラクターが、今も正確な動きで雪山の頂上を目指して飛び跳ね続けていた。でも頂上には一生かかってもたどり着けない。そういう風に出来ているのだ。
「俺は生きてるのが不思議なくらいの未熟児で生まれたらしいよ。どうせなら、その時に死んだほうが良かったのかも知れないが……5年前といい、まったくしぶとい野郎だ」
「……そんな寂しいこと言うなよ」
堪らず縦川がそう言うと、上坂は珍しく動揺したようにキョロキョロと周囲を見渡してから、弁解するように続けた。多分、淡々としすぎて、壁に向かって話しているようなつもりになってしまっていたのだろう。
「ああ……いや、もちろん、そんなこと本気では思ってないよ。客観的な話さ……とにかくまあ、そんな状態でも俺はこの世に生を受けて、それなりにやってけるくらいまで成長した。退院した俺は、父さんと、その妹である叔母さんと一緒に暮らし始めた。でも、父さんはその時借金まみれで首が回らなかったんだろうね。一緒にいると、俺達に迷惑がかかるからって書き置きを残して、ある日突然居なくなっちまったんだ」
そこまでやった父親なら、投げ出したということはないだろう。多分、本当に借金でどうしようもなくなったのだ。そして、そんな不幸が重なったせいか、叔母はどうしても上坂のことを愛することが出来ず、彼女は慈善団体に彼のことを預けようとしたそうだ。それを救ったのが、彼の言う先生だった。
「先生は、父さんに渡米するように勧めたことをずっと後悔してたそうだ。それで、俺が施設に預けられるのを見かねて、自分が引き取るって手を上げてくれた。親戚の人たちは、他人にそんなことさせられないからって言ったようだけど、結局その親戚にたらい回しにされた挙げ句に施設行きだったわけだから、直接乗り込んでって文句は悉く潰してやったって言ってたよ。バイタリティある人だったからな。
でも先生にも家族はあるからさ、特にお母さんが、嫁に行きそびれるから絶対やめろって反対したそうだよ。だけど価値観が違うって言って聞く耳持たなかったらしい。俺は先生に引き取られて彼女の背中を見て育ち、物心ついた頃には、先生の後を追いかけるのが俺の世界の全てだった。
同情はするなよ? 何しろ、俺が物心つく前の話だから、実際、なんとも思っちゃいないんだ。こんなこと、後から聞かされたってほとんど他人事だ。それに、そのお陰で先生と出会えたんだと思ったら、それはそれで悪くなかったんじゃないかと思うんだ。それくらい思ったって、バチは当たらないだろう?」
「その先生って人は、君に相当な影響を与えたようだね」
「ああ。先生は言ったんだ。俺をこうしてしまったのは誰のせいでもない、コンピュータのせいなんだって。アルゴリズム取引が儲かるからって、よく分からないものを、よく分かってない人たちが使っていたからこんな悲劇が起こったんだ。だからもう、こんな間違いが二度と起こらないように、完璧なAIを作ろうって言って、小さかった俺のことを慰めてくれたんだ。それで、俺は小さい頃から先生についてAIの研究をしてたってわけさ」
「ふ~ん……それが本当なら、文字通り、君の人生を変えてしまったのは先生なんだなあ」
「ああ、そのとおりだ」
そう誇らしげに言う上坂の顔は、いつもより少し幼く見えた。きっと彼は先生のことを、本当の母親のように慕っていたのだろう。そう思うと同時に、縦川はふと気になった。
「でも上坂君。そういう家族みたいな人がいるのなら、どうして会いに行こうとしないんだ? 何か遠慮しなきゃいけない理由でもあるのかい?」
縦川がそんな疑問を口にすると……
「それは無理だよ」
上坂は黙って首を振った。
「どうして?」
「先生は、死んでしまったからね」
それまで、淡々と動き続けていたゲーム画面がピタリと止まった。さっきまで元気に飛び跳ねていたエスキモーのキャラクターは、雪山に佇む雪像のように動かなくなり、ピコピコとけたたましいBGMが部屋の中で虚しく響いていた。
上坂はさっきまでの懐かしそうな表情から一転して、ついさっき受けた傷に耐えているかのような、とても悲愴な目をしていた。
「俺があの日お台場にいたのは、家が近かったからなんだ。先生は世界を飛び回るようなアクティブな人だったからさ、便利だからって羽田の近くに家があったんだよ。おまけにあの当時、ナナの本体も品川埠頭のデータセンターの中にあって、俺は家族をいっぺんに失っちまったようなものさ……」
彼はそう吐き捨てるように言うと、遠い目をしながら、一つ一つ思い出すようにゆっくりと続けた。
「先生は……先生は、本当に、俺に何でも教えてくれた。物理学のこと、生物学のこと、数学やコンピュータのこと、勉強だけじゃない、掃除洗濯みたいな家事から、お金の稼ぎ方まで何もかも。一人で生きていくには、何も困らないだろうってくらいにさ。でも俺は、そんな先生に何もしてあげられなかった。
アメリカで目が覚めた時……俺は自分が助かったという喜びよりも、先生が死んだショックの方が大きかった。おまけに俺を連れ去った連中は、生前、先生から引き出せなかったことを俺から引き出そうとしていたんだから、本当に最悪だったよ……本当に……本当に、なんでいつも、おればっかりが生き残っちまうんだか……」
それは先生のことだけではなく、彼の本当の家族のことも言ってるのだろう。縦川は胃がキリキリと痛むのを感じていた。もしも神が居るならば、どうして彼にばかりこんな仕打ちをするのだろうか。
「だからこうして解放されて、日本に戻ってきたと言っても、俺はどうしていいかわからないんだよ。やりたいことは何もないし、出来ることも特に無い。多分、あんたに接触してきた人は、俺をAI研究者として利用しようとしてるんだろう。でもそんな期待をされても、俺はそんなに大した人間じゃないんだよ。俺の生き方は、いつも先生が決めてくれた。先生についていけばそれでよかったんだから……これから何をして生きていけばいいのか、まるでわからないんだ」
上坂は、神の気まぐれとしか言いようのない理不尽な出来事を、自分にはどうしようもないことなのに、ずっと責め続けているのだろう。そしてきっと、それから解放されるまで、自分から動き出そうとは思えないのだ。
縦川は、そんな彼を解放してやりたいと思ったが、具体的にどうしていいか何も思い浮かばなかった。下手な慰めの言葉は無神経なだけだろう。かといって、時間が解決するしかないと諦めてしまうのも悔しかった。
何かないか……何かないか……そうやって必死に考えている時、ふと、上坂が呟いた。
「あ、でも、やりたいことが一つだけあったな」
「なんだい? 俺に出来ることなら何でも協力するけど」
縦川は勢い込んでそれが何かと尋ねた。それは意外というよりも、寧ろ当たり前のことなのだけれど……思いがけないものだった。
「先生の、墓参りがしたい」
「お墓参り?」
「うん。でも、どこにあるか分からないからなあ……」
そうか……そうだよな、と縦川は妙に感心した。
人間は、死者を思う時、墓参りをするものなのだ。彼は僧侶のくせに、そんなことも忘れていたのかと、なんだか自分が情けなくなった。
ともあれ、そういうことなら何か力になれるかも知れないと思い、彼は詳しい話を聞いてみることにした。
「御遺族に会いに行くことは出来ないのかい?」
「先生は俺を引き取る時に、ご実家と揉めてしまったから。妹さんはよく遊びに来てくれたんだけど、お母さんは最後まで怒ってた。そんな俺が実は生きていましたなんて、今更出ていけないよ」
「そうかあ……その妹さんにだけでも連絡を取ることは出来ないのかい?」
上坂は黙って頭を振った。縦川はそんな彼に無理強いするようなことは言えなかった。でも、それでこのまま彼の最後の希望すらも叶えてやれないのは、遣る瀬無いだろう。ここで諦めるわけにはいかないと、彼は藁にもすがる思いで、思いついたことを言ってみた。
「最悪の場合、俺の伝を使って霊園や寺院に聞いて回れば分かるかも知れない。けど、宗派が違うと難しいと思う。何かもう少し手がかりがあればなあ」
「そうか……」
「共通の知り合いとか居なかったのかい? 君と先生や、先生のご家族と、気楽に話が出来るような友達とか」
「先生も変わった人だったからなあ……部下ならいっぱい居たけど、プライベートでまで付き合うような人はほとんど居なかったかな……」
と、その時、彼は何かを思いついたかのように、
「いや……待てよ?」
「何か心当たりが?」
「昔、先生と仕事上のパートナーだった人が居て、一度会ったことがある。その人には娘さんが居て、とても綺麗な子だったから、芸能事務所の社長さんだった先生の妹さんに気に入られて、一時期テレビなんかで芸能活動してたんだけど……」
「エイミー・ノエル!」
上坂の話を聞いている内に、縦川はお台場であった慰霊祭の出来事を思いだした。あの日、縦川はお台場で、エイミーの姿を目撃していたのだ。そこには上坂の姿もあったのだが、彼はエイミーに話しかけることなく、逃げるようにその場を去ってしまった。そのことを思い出して、縦川は思わず叫んだ。
上坂はそんな縦川の姿を見て、目を白黒させながら言った。
「あ、ああ……びっくりした。どうしてわかったんだ」
「だって君、いっつも彼女の曲ばっかり聴いてたじゃないか。スナックのママにからかわれた時も、凄く大事そうにしてたし。よっぽど好きなんだろうなって」
「そんな風に思われてたのか? ……まいったな」
「君は、エイミー・ノエルと友達だったんだね」
「友達……か。彼女もそう思ってくれてるなら、良いんだけどね」
「違うのかい?」
縦川が目をパチクリさせながらそう尋ねると、上坂は複雑そうに目を伏せ、少し言いづらそうに、時につっかえながら話を続けた。
「ああ、何から話したらいいのか……俺は子供の頃から同年代の知り合いがいなくって、友達と呼べるのは自分が作り上げたナナくらいものだった。だから、友達付き合いってのがいまいち分からなかったんだけど、エイミーはそんな俺とも仲良くしてくれたんだ。
彼女はお父さんがとても偉い人だったから、良くパーティーに連れて行かれたらしくって、俺達が知り合ったのもそんな偉い人たちが集まるパーティーの一つだったんだよ。エイミーは俺より一つ年下なのにずっと大人びていて、会場にいる偉い人達を相手にしても、慌てることなく丁寧に受け答えしていて、世の中にはこんなすごい子がいるんだなって、俺は感心していたんだ」
「へえ」
「彼女のお父さんと先生が仕事をしていた時、彼女はよくお父さんに連れられて、先生の職場に顔を出してたんだ。俺はその頃、先生の助手の真似事をしててさ、同年の友達みたいなのが居なかったから、彼女が遊びに来てくれるととても嬉しかった。
だけど、先生の仕事が一段落ついたら段々来なくなっちゃって……彼女もその頃、芸能活動で壁にぶつかってたみたいで、あんまり元気が無かったから、こっちから声もかけられなかったんだ。
そして、5年前のあの日……彼女に会えなくてくよくよしていた俺に、ナナが流星群を見に行こうって言い出してさ。俺はそれを口実に彼女を呼び出そうとしたんだけど、振られちゃって……」
「振られた……?」
眉を顰めてそう尋ねると、上坂は淡々とした口調で続けた。
「うん。思い切って電話したんだけど、忙しいからって断られた。少しくらい迷ってくれてもいいのに、まるで眼中にないんだなって思ってがっかりしたよ……それで俺は一人寂しく、自分の作ったAIと星を見ていたってわけさ」
自嘲気味なそのセリフが、寺務所の中で虚しく響いた。それは哀愁に満ちた声で、聞くものの同情を誘ったが、縦川はその言葉を額面通りに受け取ることが出来なくて、逆に眉を顰めて確かめるように上坂に尋ねた。
「……それじゃ、彼女は隕石落下の日、君がお台場にいたことを知ってたのか」
「ああ、そうだろうな。多分、死んだと思ってるだろう」
「上坂君、この間、お台場の慰霊祭に行った時……君はエイミー・ノエルを見かけたね?」
まるで畳み掛けてくるかのように、そう問いかける縦川に対し、上坂は目を丸くした。縦川はそんな彼の戸惑いをよそに話を続けた。
「ほら、あの日、式典の直前にさ、俺が君に声かけたら、なんかバツが悪そうにして去っていったから……どうしたんだろうと思って周りをよく見回してみたんだよ。そうしたら、エイミーさんがキョロキョロしていて……とても綺麗な子で凄く目立っていたから、すぐに誰かわかった」
「そう、だったんだ」
上坂はあの時みたいにバツが悪そうな顔をして、眉間のシワを爪でポリポリとかいた。縦川はそんな彼に向かって真剣な表情で、
「君は、エイミーさんに姿を見せられなくて、逃げたんだね? 自分は死んだことになってるからって」
「……あんたには恥ずかしいところばかり見られてるな」
「いやいや、そんなの全然恥ずかしい事じゃないだろ。それより、エイミー・ノエルってのは芸名なんだね? 本名は白木恵海、日本人」
縦川が突然そんな個人情報を口にしたので、上坂は目をパチクリさせた。
「ああ、よく知ってるな」
「いや、今確認するまで知らなかったよ」
縦川はそう言うと、突然立ち上がって寺務所の机の方へと歩いていき、引き出しを開いて中をごそごそとあさり始めた。上坂が何をしてるんだろう? と首を傾げていると、
「実はあの時さ、俺は君と彼女が知り合いなんだろうと思って、彼女に声をかけようかどうしようか迷ったんだよ。結局、かけなかったんだけど……だけど、ずっと気になってたから、式典が始まって読経してる間も、彼女のことを目で追っていたんだ。そしたら、彼女が献花台に花束を置いてね……」
彼はそう言うと、机の中から何かを取り出し、あったあったと言いながらそれを上坂に差し出した。
「彼女の置いた花束に手紙が挟んであるのに気づいたんだ。それで、悪いなと思ったんだけど、彼女が帰ってからこっそりそれを拝借させてもらった」
彼女に話しかけようとしたのも、手紙を勝手に見たのも、彼女が上坂のことを探しているのだと思ったからだった。ところが実際に見てみたら、そこに書かれていた固有名詞が見覚えのないもので、本当に彼女が書いたものか確信が持てなくなってしまった。だけど、今上坂の話を聞いて、間違いないと彼は確信した。
上坂は訝しそうに彼を見上げながら、差し出された手紙を開いた。
『いっちゃん。いつまでもあなたの帰りを待っています。もしあなたがこれを見たら、どうか私のことを思い出してください……白木恵海』
そこには、簡潔ではあったが、彼女の筆跡で彼女の気持ちが書かれていた。それは死者に向けて書いたようにも思えるが、
「少なくとも、彼女は君が帰ってくることを待ってるんだよ。君が死んだなんてこれっぽっちも思ってなくて、だから今でもあそこに通ってるんだろう。君の死を受け入れるまで、彼女はあそこに通い続けるつもりだろう」
「いや……でも、彼女は俺がお台場に居たことを知ってるんだぞ? 死んだと理解してるはずなんだ。それに、俺は一回振られてるんだし……」
そう言って戸惑う上坂の背中を叩いて、縦川は力強く言った。
「そんな簡単にあきらめるなよ。友達なんだろう? その友達が今でも君の帰りを待ってるんだ。生きてるんなら、教えてあげなきゃ可哀想だろ」
夏の朝は早くて、外はいつの間にか白み始めていた。ジワジワと一晩中聞こえていた蝉しぐれに、起き出したばかりの鳥のさえずりが混じって、なんとも騒がしい朝だった。上坂はそんな音の洪水の中で真っ白な手紙を何度も何度も読み返していた。それは、5年前のあの日がまだ続いているのだと、彼に教えてくれていた。




