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終末の笛吹き男  作者: 水月一人
第一章・エリートとニートは紙一重、語呂もよく似ている
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誰がうんこやねん


 A.D.2029




 今日の縦川(たてかわ)雲谷(もや)はツイていない。


 朝起きたら、寝ぼけ眼でタンスの角に足の小指を(したた)かにぶつけ、痛みに耐えながらひげを剃れば剃刀負けした顎から血が吹き出して、朝食のパンがカビていて、仕方なくコンビニに買いに出たら、何故か客がレジでキレていて、平謝りするばかりの店員じゃ埒が明かないと思った彼が割って入って、どうにかこうにか宥めすかして、ようやく食パンを手に入れて家に帰ったら、ラジオNIKKEIからニューヨークのテロのニュースが流れる始末。


 金曜日に持ち越した銘柄は、果たして月曜日に寄りつくだろうか……


 真っ青になりながら電車に乗れば、総武線が人身事故で止まっていた。かつては日常風景だったそうだが、今じゃとんとお目にかからない事件に鉄道マンたちも慣れていなかったのか、やたらと復旧に時間がかかり、通勤ラッシュみたいな混雑に揺られて船橋法典へ到着した頃には、13時を回って第6レースがもう出走していた。


 今日は一日、競馬場で羽根を伸ばそうと思っていたのに(ちなみに先週も先々週も羽根を伸ばしていたのだが)、ウキウキ気分が台無しである。


 ともあれ、まだ午後の5レースは残っている。日曜日はまだ始まったばかりなのだ。それに今日のメインレースは第89回皐月賞、牡馬のクラシック第一弾である。競馬場にはむしろこれからどんどん人が集まってくるのだし、あの程度の混雑で済んで良かったのだと、気持ちを切り替えねばならないだろう。何しろ今日はそんじょそこらの皐月賞じゃないのである。


 縦川はパチンとほっぺたを叩いてヨシと気合を入れると、売店で競馬新聞を購入し赤鉛筆を耳に挟んでパドックへ向かった。そしてお馬さんのケツをじっくりと見つめながら今日のメインレースのことを思った。


 メインレースの馬券については、もう買う馬を決めている。ゴールデンジャーニー、3年前に急逝した最後の三冠馬オルフェーヴルのラストクロップ、前日発売では単勝1.1倍の大本命。大種牡馬ディープインパクトも居なくなって久しく、低迷する日本競馬会の中で久々に出てきた大物である。昨年のフューチュリティステークスでは他馬に影を踏ませない圧倒的な走りを見せたかと思えば、休み明けの弥生賞では祖父ステイゴールドを思わせる鋭い末脚を披露してみせた。父譲りの熱い闘志を秘めながらも、鞍上との意思疎通も疎かにしない聡明さを併せ持つ、これぞ名馬中の名馬、三冠はおろか悲願の凱旋門賞制覇も夢じゃない。


 こいつになら全財産を突っ込んだって後悔しない。銀行馬券とはこのことだ。


『縦長の展開、先頭集団が一団となって第4コーナーカーブを曲がって直線に入ってまいりました。先頭は大本命、ゴールデンジャーニー。さあ! 偉大なる父を超える第一関門皐月賞、あとは坂を残すのみだあ~!! 他馬はまだ後方……いや、あっ! あああ~~っと! これはどうしたことかあ~! ゴールデンジャーニーずるずると後退していきますっ! ゴールデンジャーニー故障発生か!? 他馬が避けるようにしてどんどん追い越していくぅ~! このレースは審議! 早くも審議のランプが灯っておりますっ!!』


 縦川は崩れ落ちた。


 あちこちで阿鼻叫喚の地獄絵図が展開している。


 メインスタンドのゴール前では紙吹雪のように馬券が舞っていた。

 

**********************

 

 その後、最終レースを待たずして素寒貧になってしまった縦川は、茫然自失のまま帰宅客の波に揉まれつつ、駅までトボトボと歩いていった。改札とくぐろうとしたら、電子マネーのチャージが無くなっていることに気付かされ、迷惑そうな目つきで睨みつける後続の人々に謝りながら、慌ててチャージしようと券売機の方へ行ったところで、自分が一文無しであることに気づいて顔面蒼白になった。


 交番で必死になって事情を説明して、どうにかこうにか住所氏名電話番号を書いた紙と交通費をトレードしてもらい、やっとのことで帰りの電車に乗り込んだときには、もう競馬場帰りの客も少なくなっており、車両はガラガラだった。


 隣駅の西船橋で総武線に乗り換え、ギャーギャーとでかい声でしゃべくりまくる中国人達の横に座るのは気が進まず、乗車口とは反対側のドアにより掛かるように体を預け、覗く窓から景色を見ていた。


 日は陰り、薄暮に月が浮かんでいる。


 西の空はまだオレンジと紫の間の子のような色をしていた。


 電車が発車すると、間もなくどこまでも開けたコンクリートの地面むき出しの、殺風景な湾岸の景色が見えてくる。かつての行徳や浦安と呼ばれる地域は、今では人がほとんど住んでいない。


 5年前の東京湾への隕石落下(トーキョーインパクト)で、首都圏は湾岸のみならず、内陸部にまで絶望的な被害を受けた。落下地点に最も近かったとされる羽田空港は蒸発し、お台場は壊滅。西は調布、東は市原、北は川口のあたりまで、その被害は広範囲に及んだ。元々、江戸は埋立地だらけの都市だったから、建物は残っても、その地盤が歪んでしまって建て替えを余儀なくされたのだ。


 また、湾岸付近はクレーターにえぐられ、山手線は半分くらいの駅が破壊され、地下鉄はほぼ全滅。仮に線路が無事でも、送電線が軒並みやられて、被災後はほとんど使い物にならなくなってしまった。


 被害が大きかったのは交通機関だけではない。そもそも、東京は世界最大の人口を抱える巨大都市で、ニューヨークに次ぐ経済の中心でもあった。それが一夜にして機能不全に陥ってしまったのだから、あの日世界中から失われた富が一体どれほどだったのか、5年経った今でもその全容は計り知れなかった。


 東京都民はその後3年以上の被災生活を余儀なくされた。そして世界中から支援物資が届いた頃に判明したのは、東京の復興費用が2000兆円を越えるであろうという概算だった。あの東日本大震災の被害総額ですら17兆円である。文字通り桁が違いすぎる額を前に、京都で行われた仮設国会では日夜侃々諤々の論戦が繰り広げられたが、いつまで経っても何の結論も出なかった。


 別に日本人らしい何も決められない病気が出たわけではない。


 何しろこの時、総理大臣は行方不明(その後、死亡認定)だったし、国会議員のかなりの数が亡くなっていた。議員の補欠名簿にも限度があり、また、そんな状況で何かを決めるわけにもいかず、民主主義国家としてはまず選挙が必要だったのだ。


 こうして復興そっちのけで日本は選挙戦に突入した。自衛隊と米軍が瓦礫の山を片付ける横を、公約をがなり立てて選挙カーが通り過ぎていく。その馬鹿げた光景は世界中の物笑いの種になったが、やってる本人たちは必死だった。東京都民は一日も早い復興を願って、かつてない数の人々が投票所へ向かった。首都圏の投票率はなんと90%を超えていたそうである。


 ところが、ここまでして出来た新政府は、更に世界をあっと言わせるような決断することになる。新政府は発足するや否や、首都を京都へ移す……ここまでは理解できるだろう。だが話はここで終わらない。そしてその上で、東京を復興特区として独立させ、復興事業を東京都に一任し、国政は手を引いてしまったのである。


 つまり、日本国は口も出さないし手も出さない。東京だけで自力で復興してと言ったのだ。


 何故こんなことになってしまったのか。


 政治の方は悠長に選挙戦を行っていても、経済の方はそうは行かない。隕石落下(トーキョーインパクト)後、多くの企業が倒産の危機に見舞われつつも、数日後にはもう事業の立て直しに動き始めていた。


 そしてほとんどの企業は、いつ機能が回復するかわからない東京から本社機能を他の大都市に移転した。それは全国の政令指定都市に分散したが、ほとんどが関西に集中していた。更には本社が移転するならばと、東京で被災していた社員たちもみな移住した。被災者として東京に留まるより、一家で疎開したほうがよっぽどマシだったのだ。


 こうして、選挙戦が終わった頃には、既に多くの人口が東京から流出してしまっており、もう2000兆円をかけて何もかも元通りに戻す必要がなくなっていたのだ。


 それに、東京の復興を優先すると、国家予算のほとんどすべてが復興だけに注ぎ込まれることになる。経済にも大打撃を受けていた当時の日本では、そんなことをする余裕がなかった。復興と言っても1年2年で終わるはずもなく、これから何年間もそんな状態が続いたら国家が破綻してしまうだろう。


 そのため、経済界の強い要望により新政府は東京の復興よりも、まずは国内経済の立て直しを優先する公約を掲げ、選挙戦に勝利した。そして発足した内閣が、公約どおりに脱東京宣言を行ったというわけである。経済動物(エコノミックアニマル)の面目躍如である。


 これには東京都民も怒ったが、彼らがどんなに声を張り上げても無い袖は振れないと一蹴される。せいぜい、政権与党の都知事をリコールし、都民ファースト(笑)を標榜する新都知事を当選させるくらいのことしか出来なかった。かといって新都知事に何が出来るわけもない、単に政権与党との溝を深めるという結果にしかならなかった。


 かくして日本は旧首都圏(トーキョー)とその他に分断され、被災地は事実上放棄され、経済の立て直しの目処も立たない、暗黒時代へと突入しようとしていた……


 ところが、そんな時に思わぬ方向から光明が差し込んだのである。


 復興の資金がないのであれば、中国が融資しますよと。中国にはアジア開発のための投資銀行があり、その枠でなら有利な条件でお貸し出来ますよと。


 東京の復興は、日本単独では無理と判断した政府は、世界に支援を呼びかけていたのであるが、それに中国が飛びついたのだ。


 これには日本全国が動揺した。いや寧ろ、東京都民こそが動揺したのではなかろうか。何しろ、今まさに経済的な事情で土地を離れざるを得なくなったところである。日本には先立つものがなく、都民は明日を生きるための決断を迫られていた。そんな時に、強力な支援を呼びかけてくれる者があれば、それがなんであっても受け入れることに吝かではないだろう。おまけに、新都知事は中国にアレルギーがない。東京都民は彼女を当選させたことを後悔し始めた。


 しかしこれにも待ったがかかった。たまらず米国が名乗りを上げたのである。


 隕石落下(トーキョーインパクト)後、第7艦隊を派遣し東京の復興支援を行っていたアメリカであるが、資金援助に関しては議会がはっきりと反対を表明していた。前世紀から長く続く財政赤字が、今でも彼らに重くのしかかっていたのだ。だが、このままでは日本を失いかねないと判断した二大政党は、態度を翻し、一転して全面協力を確約したのである。


 こうして大国の綱引きに巻き込まれつつも、幸運にも資金繰りの目処が立った東京都は、復興計画を前進させる。金があるならと経済界が口を挟んできたが、もはや言うことを聞く必要はない。一度は東京を捨てようとしていた人々も、仕事があるならばと舞い戻ってきて、どうにかこうにか東京は復興への道へと歩き始めた。


 しかし、インフラを再整備するにあたっては、早くも支障が出ていた。何しろ、被害範囲が尋常ではないのだ。直撃を食らった湾岸地域はもちろんだが、地盤がやられた内陸部もまた再整備が必要だった。それには新宿や渋谷、池袋、丸の内の高層ビル郡も含まれていた。復興にあたってはこれらを取り壊して、また新たに建てねばならない。


 つまり圧倒的に労働者が不足していたのだ。日本は裕福な上に少子高齢化社会で働き手が少なくなっていた。そのため、東京都は新たな手を打たねばならなくなった。海外から移民を受け入れる必要に迫られたのである。


 もちろん島国日本、政府も東京都民もそれを嫌がったが、他にこれといった選択肢はない。そもそも、水面下では外国人実習生という実質移民を受け入れ、外国人だらけになっていた東京だったから、結局はしぶしぶそれを受け入れた。


 かくして中国やアメリカからはもちろん、インド、中東、南米、欧州、オセアニア、更にはアフリカからも、東京復興のための移民労働者がやって来た。東京はかつての単一民族の都市から、世界でも有数の国際色豊かな他民族が暮らす都市へと変貌したのだ。


 この際、移民を受け入れるにあたって一番のネックが言語の問題にあった。だが、これを解決するにあたってAIの機械翻訳を利用した東京は、これにより思わぬ副次的効果を獲得するに至るのであるが……


*******************


 ググッと重力が電車の進行方向へとかかり、ぼんやりしていた縦川はたたらを踏んだ。


 どうやら電車が駅に到着して減速を始めたらしい。縦川はもたれていたドアから背中をどけて手すりにつかまると、乗降客のために脇に寄った。間もなくドアが開くと、ぺちゃくちゃうるさい中国人たちが出ていき、代わりにアラブ人の団体が乗り込んできた。


 日曜も夜が迫っていたが、これから都心へ遊びに出かけるのだろう。明日は月曜日だが仕事の心配はしなくていい、何しろ彼らは働かなくても暮らしていけるのだから。さっきの中国人だってそうだろう。縦川だって、そうしたければそうすればいいのだが……


 そんなことを考えつつ、ニコニコ顔のアラブ人のヒゲから覗く真っ白な歯を眺めていると、


「……おいっ! うんこくさいっ! うんこくさいっ!」


 その時、後方の車両からでっかい声が聞こえてきた。


 車両の半数を占める日本人客がギョッとして一斉に振り返る。もしかして誰かが漏らしてしまったのだろうかと不安そうな表情の人々の間を、悠々とした足取りで一人の男が近づいてきた。


 縦川雲谷(もや)は額に手をやって首をふりふり溜息を吐くと、


「誰がうんこやねんっ!」


 と突っ込んだ。


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