東京湾上
上坂が寺にきてから約10日。新しい生活にもそろそろ慣れはじめた頃に、その通知はやってきた。
ある日、寺務所に送られてくる様々な連絡の手紙や光熱費の領収書などに紛れて、見慣れない封書が混じっていた。いちょうのマークに東京都の文字、差出人を見れば東京都教育委員会と書かれている。縦川が驚いて封書を開けてみたら、それは上坂に学校に通うようにと言う東京都からの通達だった。
上坂を引き取った時、本山はユーチューバー迷惑条例違反と言っていた。それ以外には特に何も言っていなかったから、いずれ何らかの連絡が来ると思っていたが……それが外務省ではなくて東京都からとは思わなかった。
確か、下柳が言うには、上坂は外務省絡みで鷹宮家に引き取られていたはずだ。栄二郎に聞いた時も、理由こそ話さなかったが、それ自体は否定しなかった。今の東京都と、政府を支える各省庁とは仲が悪い。だから連絡が来るとしたらそっちからだと思っていたのだが、何らかの裏取引でもあったのだろうか?
まあ、そんなこと考えていても詮無いことであるし、取り敢えず、上からのお達しに従っておけば間違いないだろう。縦川は上坂を呼ぶと、こんなのが来てたよと手渡した。
彼は受け取った手紙の内容を見て複雑そうな顔をしてから、どうしても行かなきゃ駄目か? と嫌そうな表情をして見せた。
学校とかあまり好きじゃないタイプだったのかな? と思いつつ、縦川は、
「義務教育じゃないけど、ユーチューバー迷惑条例の罰則らしいから、行かないと駄目だよ」
「ユーチューバー? そうか……俺はそんなことになってるのか」
上坂はそんなことを呟いてから、また複雑そうな顔をしながらどっかに行ってしまった。その様子を見るからに、彼自身も相当周囲に翻弄されているらしい。実際、上坂自身が超能力者かどうかは分からない。彼が何故アメリカにいたのかも、外務省が絡んでいるのかも。本当に何をやっちゃったんだろうねと思いつつ、縦川は何も聞かなかった。
問い詰めるような真似はしたくなかったし、多分、気にしてるのは上坂も同じだろうから、言いたくなったら向こうから言ってくるだろうと思ったからだ。
その対応は、間違っちゃいなかった。もしもこの時、根掘り葉掘り聞いていたら、後の信頼を得られなかったろうから。
明けて翌朝。
縦川は朝のお勤めを終えると、上坂と一緒に寺を出た。一応、保護者であるから、学校に挨拶に行くのが目的だったが、実際には上坂に土地勘が無くて、学校へ行くには案内が必要だという事情があった。
東京都立美空学園は、旧羽田に作られたメガフロートに出来た、学園都市にある新設高校の一つだった。あの隕石落下後、東京湾岸は最も壊滅的な被害を受けて、5年経った現在でも復興の目処が経っていない。
爆心地に一番近かったとされる羽田空港は蒸発し、大井ふ頭も消し飛んだ。お台場はその上に建っていた建物が綺麗サッパリ吹き飛ばされ、その他東京沿岸部は被害が深刻過ぎて、生き残った住人達も泣く泣く立ち退きを余儀なくされるほどだった。
山手線の南部にある、五反田~浜松町までの駅は使い物にならなくなり、今ではショートカットされている。ゆりかもめも東京モノレールも全線が消失し、新幹線は橋本までリニアと並行して走り、首都高湾岸線はもはや過去の記憶にしか存在しない。
つまり現在、旧羽田にある学園都市にアクセスする電車が無いのだ。この旧羽田、現在は美空島と呼ばれている島へ行くには、限られた交通手段しかなく、最近、東京に帰ってきたばかりの上坂にはチンプンカンプンだった。
ところで、何故この美空島が作られたのかと言えば、それは一も二もなく復興のためだった。瓦礫の撤去と資材の搬入を同時に行うには、とにもかくにも広い土地が必要だったが、被害の大きな沿岸部に空いたスペースなど存在せず、それを確保するにはメガフロートが一番理に適っていたからだった。
旧羽田に作られたのは、被災地のど真ん中で便利だったというのも理由だが、復興の目処がついたら、後に羽田空港を再建するのにも丁度良いと言う理由もあった。だが、実際にはその後に成田へのリニア延伸が決まって、計画は頓挫してしまった。それで、こうして出来た土地をただ遊ばせておくのはもったいないからと、東京都がそこに学園都市を作ったのだ。
東京沿岸が壊滅して利用不能になったのは電車だけではない。そこにあった学校などの公共施設も軒並みやられていたため、それを一箇所にまとめてしまおうとしたのだ。
場所を変えてしまったら通いづらくなると言う声もあったが、そもそも、元の場所など瓦礫の山で、元通りになるのはどのみち復興作業次第なのだ。そしてこの頃から、資材搬入の経路として水路が活用されはじめたために、それほど交通の便は悪くなかった。
現在の東京では、沿岸部の交通網として水路が活用されており、多摩川、荒川、隅田川を中心にかなりの量の船便が行き交って物資を運んでいる。加えて、目黒川にも水上バスが乗り入れて、こちらは人間の移動手段として使われていた。
目黒川は生活用水として水深が浅くて船便はあまり利用できそうに無かったが、下流付近はそれでもそこそこ水深があって、春先は花見客を乗せたクルーズ船が走っていた。
縦川達の住む池尻大橋から、川沿いに歩いて中目黒までやってくると、すぐ近くに舟入場という公園があって、現在では水上バスのターミナルになっていた。
二人はそこで水上バスに乗って、ビルに囲まれた桜並木を仰ぎながら、のんびりと川を下り、五反田、大崎と通り過ぎて、やがて天王洲アイルにたどり着いた。元々、この河口付近を品川と呼んだらしい。
その品川埠頭を通り過ぎて、隕石の被害で半分吹き飛んだ大井ふ頭を抜け東京湾に入ると、水上バスはそれまでの優雅な速度から一転して高速走行に切り替わり、水しぶきを上げて速度をグングン増していった。
上坂はそんな水上バスの上から、じっと東京の町並みを見ていた。
眼の前を通り過ぎていくお台場は、あの日彼が星を見ていた公園も、建ち並ぶビルも何もかもが無くなってしまい、広大な更地だけが残されていた。復興当初は瓦礫の山で、それを撤去するだけで精一杯であり、また元通りの町並みに戻るには、10年以上はかかると言われていた。
「上坂君。潮風が染み付くから、中に入りなよ」
縦川は水上バスの甲板で、熱心に東京の風景を見ている上坂に声を掛けた。速度を上げた水上バスは風を切って走り、彼の白い頭髪がなびいていた。
縦川が声を掛けても、上坂はなにかに気を取られている様子で、一向にこちらを振り向こうとしなかった。縦川は肩をすくめると、自分も甲板に出ていって、彼の隣に並んだ。
すると上坂は視線をお台場に向けたままチラリとも動かさず、まるで独り言でも呟くように、隣に並んだ縦川に言った。
「……あの日、隕石が落下したと言われている日、俺はあそこに居たんだ」
「え!?」
何を熱心に見ているのだろうと思ったら、突然そんなことを言い出す彼に縦川は戸惑った。お台場は爆心地に近く、あの日、羽田や大井ふ頭に準じる被害を受けたはずだ。最初の爆発でほとんどの者が即死し、生き残っても、直後に逃げる間もなくやってきた津波に飲まれて、ほぼ全滅と聞いていた。生存者の話は全くといっていいほど聞いたことがない。
「それが本当なら、君、ものすごい強運だったんじゃないか。どうやって助かったの。上坂君以外にも生存者は居たのかい?」
「分からない……気がついたら俺は船にのせられてて……その後はアメリカに連れて行かれたから」
縦川はびっくりして思わず甲板から落っこちそうになった。慌てて手すりに掴まりながら、上坂の横顔をまじまじと見つめた。彼は視線を動かさず、まだじっとお台場の方を見ている。
下柳に上坂がアメリカにいたとは聞いていた。それも、何かの機関に拘束されていたとも……それじゃまさか、彼は5年前のあの日から、ずっと拘束されていたというのだろうか? 気にはなったが、無理に聞き出そうとはせずに、努めて明るくふるまいつつ、縦川は言った。
「そっか……しかしまあ、生きていたならそれで良かったじゃないか」
「そうだな……」
「あの日、ものすごい数の人々が死んだ中で、君一人が生き残ったのは奇跡に近いよ」
「俺もよく生き残ったと思う……どうやって生きながらえたのか、それが不思議だった……だが不思議なのは、あんたも同じだ」
「え? ……俺?」
縦川はいきなり話を向けられてポカンとしてしまった。何かおかしなことを言っただろうか? 彼が首を傾げていると、上坂が続けた。
「鷹宮の家で、あんたは俺のことを超能力者じゃないかと疑っていた。その後、刑事さんから色々聞いてもいるんだろう。俺がアメリカに居たことも、政府や東京都が何か画策してることも。なのに、あんたは俺から何も聞こうとはしない。どうしてだ?」
「ああ……」
「不審に思っていないのか?」
上坂の視線が動いて、その日初めて縦川の目を見たような気がした。
何故聞かなかったのかと言えば、無理やり聞き出そうとして、そんなことで関係を悪化させるのは馬鹿らしいと思っていたからだ。だが、今そういっても、彼は多分納得してくれないだろう。彼が気にしているのは、そんなことじゃないからだ。
上坂が今気にしているのは、単純に縦川という人間が信用できるかどうかだ。縦川は少し考えてから答えた。
「……まあ、聞く必要がないと思ってるからかな。俺は君に限らず、面倒を見ると決めた子たちのことは、全面的に信用することにしてるんだよ。自分のことを信用してくれない人を、誰も信頼なんかしてくれないでしょう。だから君が話してもいいと思えるまで、俺から聞こうとは思わないよ」
「……それはただの理想じゃないか。絶対とは言い切れない」
「それならそれで構わないさ。第一、君、俺たちは知り合ってまだ10日程度しか経ってないんだぞ? そんな俺が無理やり聞き出そうとしても、君が真面目に答えるかどうかわからないでしょう。聞いた内容が正確かどうかも判断できない。結局、君が言うことを信じられないなら、聞いても聞かなくても同じことじゃないか。俺たちの付き合いなんて、まだそんな程度なのにさ」
縦川がそう言っても上坂はそれじゃあ納得いかないと言った感じで唇を尖らせていた。彼がどんな人生を歩んできたのかは知らないが、その真っ白な頭髪や眉間のシワを見るからに、なかなか他人を信用することが出来ないのかも知れない。
だったらかえって、無理矢理でも聞き出そうとした方が良いのかな? とも思ったが、縦川は少し考えると、彼に友人ではなく、僧侶として話しかけることにした。多分、今はまだそういう付き合いのほうがいいんだろうと思った。
「上坂君。人間ってのはね、罪を告白せずにはいられない生き物なんですよ。ツイッターなんかにいっぱいいるでしょう。聞いてもいないのに、わざわざ犯罪自慢するようなのが。怒られるって分かってるのにね。どうしてあんなのが後を絶たないのかって言うと、あれは許されたいって気持ちのあらわれなんだよ。
インターネットが普及して、誰でも簡単に情報発信が出来るようになったから、突然ああいう人が増えたように感じるかも知れないけど、実は大昔からあんなのはいくらでもいたんだ。彼らが昔はどうしてたかっていうと、教会に行ってたんだよね」
上坂は突然始まった説教臭い話に首を傾げている。坊主の説教なのに、教会の話を出すのはどうかと思いつつも、縦川は特に気にすること無く話し続けた。
「懺悔って言葉があるでしょう。仏教では『さんげ』、カトリックでは『告解』とか、呼び方は違うけど中身は同じです。世界中どの人種も、宗教が違っても、人間は神様の前で罪を告白して許しを請うことを、大昔からやっていたんだね。
カトリックではある時、その延長で免罪符なんてものを売り出したことで批判が出たけど、これは付随的な問題に過ぎなかった。現に、プロテスタントは原理主義的な立場から、それを痛烈に批判し、聖書に書かれていない告解の儀式を行わなくなったんだけど、そうしたら信者が困ってしまったから、結局同じことをやり始めた。
人間ってのは、罪の意識を背負ったまま生きていくのが難しいんだ。黙ってたら誰にもわからないのに、でも原始的な恐怖心からそれを告白せずにいられない。神様は何でも知っているはずだから、その神様に嘘をつくのが怖い。だから神様に告白して罪を許してもらいたいと思ってしまう。そんな弱い生き物なんです」
甲板の手すりにもたれかかっていた背中に、ぐっと重力がかかってきた。そろそろ目的に近づいて、船が減速を始めたらしい。結局、ずっと潮風に当たることになってしまったなと思いながら、縦川は続けた。
「まあ、中にはとんでもないのもいるけどね。だから上坂君。もし君が今、俺に対して何か後ろめたい気持ちを持ってるなら、君は既にそのこと自体で罰を受けているんですよ。本当は誰かに言いたいのに言えない、それはとても苦しいことです。なのに言えないならそれなりの理由があるのでしょう。
でも忘れないで欲しいんだけど、神様も仏様も、罪を告白して悔い改めようとする人を、決して許さないなんてことはありませんよ。俺は宗教家だから、君に悔い改めようと言う気持ちがあるなら、君が過去に何をしていても必ず許します。どうせ許すしかないんだから、わざわざ俺から問い詰めて、それを責めようなんて思わないんだよ」
そう言うと縦川は、手をパタパタと振って、荷物を取りにキャビンへと戻っていった。上坂は、自分の過去を気にしていないと言う彼の言葉が最初は信じられなかったが、どうやら本当にそう思っているのだなと納得した。
縦川とはそういう男なのだ。元々、日本人として宗教とは無縁の生活をしてきた上坂は、そんな無宗教国家でわざわざ僧侶になろうなんて男がどんな人物なのか気になっていた。だが、これで少しわかった気がする。
アメリカから解放されて3ヶ月。成り行きで共同生活をすることになってしまったが、これなら鷹宮家にいた頃と比べてもずっとマシだろう。あっちは上坂に本心から興味がないと言った感じで、ある意味気楽ではあったが、その住人の人間味の無さは息が詰まるようだった。
対して縦川は善人ではあろうがどこまで信用していいか判断に困っていた。自分とは物の捉え方や価値観が違っていて、評価が難しかったのだ。だがもう、少しは警戒を解いても良さそうだ。彼は本当に、いずれ話してくれればそれでいいと思っているのだろう。気が長いというか、こだわらないと言うか、本当に僧侶なんだなと感心する。
縦川は確か30そこそこのはずだが、この歳でよくこんな人格が形成されたものである。彼はどんな人生を送ってきたのだろうかと上坂は気になったが、思うだけで彼はすぐその考えを捨てた。自分だってその真逆の方向に振り切ってるような、酷い人生を歩んできたではないか。人にはそれぞれの事情があるだろう。
いずれ二人が仲良くなったら、自然と人生について語り合うことになるだろう。焦らずとも人付き合いとはそういうものだと、あの僧侶は言いたかったのだろう。
上坂はそんな日が本当に来るのか想像もつかなかったが、意外と早く来るんじゃないかとも思っていた。そうなればいいとも、そうなってしまったら彼に迷惑がかかってしまうとも、相反した感情を綯い交ぜにしながら、もう遠くなって陽炎にしか見えないお台場の風景をいつまでも見つめていた。




