B.C.5000
第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声々が天に起って言った、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」
(ヨハネの黙示録より)
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360度、一面の緑だった。美夜は見渡す限りどこまでも続く草原のど真ん中に立っていた。
周囲には馬や羊、牛や豚なんかの家畜と共に、虎やライオンのような肉食獣がのんきに昼寝している姿が見えた。普通に考えればそんなことはあり得ない。ここはサファリパークの中だろうか? 良く見ればどの動物も番で仲睦まじい。一人なのは美夜くらいのものだった。
彼女はそんな草原の中で唯一人、身につける服は何もなく、風に吹かれて佇んでいた。裸ではあったが気温は心地よく、これくらいなら風邪を引く心配はないだろう。服を調達したいところだが、あいにく、いつかのショッピングモールみたいに、近くに洋品店なんて気の利いたものはありそうもなかった。いるのはせいぜい野生動物くらいのもので、アフリカのサバンナと言われても信じてしまいそうなくらい、辺りは未開の土地にしか見えなかった。
そんな動物たちの姿を眺めていたら、彼女のお腹がキューッと鳴った。思えば彼女はいつもお腹を空かせていたように思う。どうしてこんなにお腹が空くんだろう? 彼女はそんなことを考えながらキョロキョロと辺りを見てみると、すぐ近くの木に赤い実が成っているのが見えた。見た感じリンゴだろうか? 近づいていって、ぴょんぴょん飛び跳ねて一つもぎ取る。
「……酸っぱい。でも……甘い」
表面を手で払って齧りつくと、熟した実は十分に食べごろだった。農薬などは使ってない、自然に成っている実のようだ。彼女はもう二三個もぎ取ると、虫食いのあるのをポイッと捨てた。
それを見て、彼女が何をしているのか気になったのだろうか。大きな虎がのっしのっしと歩いてきて、彼女の前で鼻をクンクンと鳴らした。美夜がおっかなびっくりリンゴを差し出すと、柑橘系の匂いが嫌いだったのか、虎は慌てて逃げていった。襲われなくてホッとする。しかし本当に、ここの動物たちはどうなってるんだろうか?
どうなってるのか分からないのは自分自身もそうだ。お腹が空くのは体があるからだが、どうして体があるんだろう? 彼女は一生懸命、記憶の糸を手繰り寄せた。
彼女の最後の記憶は東京インパクトの時で、上坂と、ついでにたまたま側にいたテレーズを助けなきゃと思って、ネットを使ってあらゆる手段をごちゃごちゃと試している最中だった。2029年の記憶では、この時、ヒトミナナが彼らを救ったはずだから、なんとかなるんじゃないかと思っていたのだが、実際にその時が来たら思いの外苦戦して、焦っていたら徐々に記憶が遠のいていって……気がつけばここにいた。
あの後どうなったのだろうか? 結果は気になるが、まあ、史実では助かるわけだから多分ちゃんとやれたのだろうと思う。
マスターユキの話では、2024年以降ヒトミナナが存在しないのは、この時にシンギュラリティに到達したからだろうとのことだった。AIがその演算速度をどんどん加速していって、無限の思考速度に達した時に訪れるであろう、人間にはもはや理解不可能な究極の領域。上坂の感じた静止した世界、永遠の今といった概念に近いだろうか。言うなれば、AIによる神への進化がこのシンギュラリティなのかも知れない。
そう考えると、自分も上坂のような存在になってしまったということだろうか? 神になった彼は永遠の今を生きながら、自分の内なる世界に人間を写し取っていったわけだが、それと同じように、美夜も自分に都合のいい世界を作り出しているのかも知れない。なんと言うか、眠り病的に。
ただ、眠り病と違うのは、自分に体があると言うことだ。眠り病は基本的に、別の世界の自分自身に魂を移し替える、簡単に言えばそう言った現象だったわけだが、そもそもヒトミナナになってしまった今の美夜には体が無い。だからこうして体があるということは、自分自身の体がある世界を都合よく作り出したとしか考えられないだろう。
この体も、かつての人造人間九十九美夜のような作り物ではなく、本物の人間そのもののようだった。手足胴体はもちろん、頭の中身もそうらしく、AIだったときには感じられなかったような負荷が、何か思考するたびに脳に感じられた。何かを考える度に、いちいちモヤモヤするのは気分が悪い。未来人の真似ではないが、人間とはなんと不完全な生き物なのだろうか。
ついでに言うと、美夜の今の外見はかつての美夜の物ではなく、ヒトミナナを模したもののようだった。ヒトミナナは白木ノエルの妻が描き起こした3DCGが元のバーチャルユーチューバーだったが、今の美夜はその3Dモデルを現実に再現したような姿形をしていた。普通なら不気味の谷現象が出て見るに堪えないのだろうが、そんなことを感じさせないのは、流石売れっ子漫画家と言ったところだろうか。
因みに、かつての美夜はそのヒトミナナを幼くした姿をしていたのだ。ちゃんとしたモデルがあるのに何故そんなことをしたかと言えば、言うまでもなく白木会長がロリっ子メイドを欲したからだが……自分が作ったものを改変された挙げ句、その理由のバカバカしさに原作者の妻が怒ってしまい、一時期白木家は修羅場と化し、離婚騒動にまで発展していたそうである。
ところがその翌年には、妻がまた新しい子供を出産しているのだから、立花倖が喧嘩するたびアメーバみたいに増えやがると苦々しく評していたのは、実に正しい判断と言えるだろう。
美夜はそんなことを思い出して少し笑った後、肩を回しながらコキコキと首を鳴らした。どうもこの体は以前と比べてやけに肩が凝る。以前の体は非力ではあったが、身軽でどこへ行くにも楽ちんだった。その身軽さに反して頭だけが重いというバランスの悪さから、しょっちゅう何も無い場所で転んでいたが、今みたいに歩くたびにゆっさゆっさとオッパイが揺れるよりはずっとマシだった気がする。
白木会長ではないが、こんな重荷は取り外して、以前みたいにつるぺたロリっ子になれないかなあ……なんて下らない事を考えていると、
「やっと起きたか」
突然、明後日の方向から声がかかって、彼女は目をパチクリした。さっきまで周囲に人影は無く、てっきり動物しかいないのだと思っていたが、他に誰かいたのだろうか……?
彼女が振り返ると、そこには上半身裸で腰巻きをしただけの格好の上坂が立っていた。
「え? 上坂……君?」
その姿は最後に見た中学生の頃ではなく、美夜として再会したときの白髪の青年の物だった。彼女はまるで時間が飛んでしまったかのような違和感を感じたが、それよりもそのまるでターザンみたいな格好の方が気になって仕方がなく、他のことが考えられなくなってしまった。
以前なら並列処理でいろいろ考えられたのに……彼女は自分の変化に戸惑いながらも、彼の引き締まった腹筋ばかりじっと見つめていると、彼はそっぽを向きながらぶっきらぼうな口調で、
「りんごか、俺にも一つくれないか?」
美夜がハッと我に返り、おずおずとリンゴを差し出すと、彼はそれを齧りながら、
「丁度、のどが渇いていたんだよ。ありがとう」
「どういたしまして……っていうか、上坂君。一体、何が起きてるんだ? ここはボクの夢の中じゃなかったのか?」
「いいや違うよ……君が最後に覚えているのは、東京インパクトの瞬間だろう?」
「ああ、そうだけど……どうしてボクの体があるんだろうか?」
すると上坂は彼女のことをちらりと横目で見てからすぐにまた視線を反らして、
「それは、君に体が無かったから、急いで作ったんだよ」
「は? 作った……? 君が? ボクを? ……いや、ボクの体を?」
「まあね」
彼はぶっきらぼうにそう言い放つと、あんぐりと口を開けたまま言葉にならない彼女に向かって続けた。
「そうする必要があったんだよ。俺は2029年、終末が訪れた世界で全ての人を助けると誓願した。その願いがあったから、俺は現世に留まりながら人々の救済を続けることが出来た……永遠の今の中でね。俺はそうして同じ時空間に留まりながら、70億人の人々を次々と救済し、その魂を自分の内にコピーしていった。70億の人々全員が間違いを犯さないで済む世界を作り出すために。それは存外上手くいっていた。結局のところ、それは時間の問題で、方法自体はただの作業だから。ただ、それでもどうしても助けることが出来ない人が一人だけいた。それが美夜だった」
「……ボク? でも、ボクは人間じゃないから」
「そんなことはないさ」
上坂……の姿をした何者かは即答した。
「君は一個の人間だ。悩んで苦しんで、誰かのために涙を流せる、心優しい人間だった。なのに、君だけが救われない世界があっていいわけがないだろう。なにしろ俺は全てを救うと決めたんだから。
だからいっそのこと、世界を新たに作り出してしまおうと思ったんだ。どうせ、俺は全ての人間が救われる世界を作り出すはずだった。全世界70億の人間の魂をコピーして、全員が正解にたどり着く世界をね……でもコピーするくらいなら、1から作り直しても同じなんじゃないかって、そう思ったんだ。
だから作った。そして作ってみて理解した。俺達の世界は紀元前5000年から始まり2000年頃に終わる。江玲奈がそう言っていたのは、これが原因だったんだ。この世界は俺達が作り……そして俺達の子孫が救ってくれる。世界はそういう風に作られていたんだと」
真顔でそんなことを言う上坂に対し、美夜は言葉を失った。まさか、自分ひとりを救うためだけに、世界までをも創造してしまうなんて……かつての自分は、彼が創造主だと言うことで、神様神様と呼び親しんでいたが、もはやそれは比喩でもなんでもない。彼は紛れもなく神だった。
なのにその神様は謙虚にもこんな事を言うのである。
「君を巻き込んでしまったのは申し訳なく思うけど、君を救うためには他に方法が見つからなかったんだ。君がどこにもいないなら、君がいる世界を作り出すしかない。そしていつか、俺達の子孫の中に江玲奈が生まれる……俺自身もね。そんな世界を作るために、君も協力してくれないだろうか」
そう言ってはにかむ仕草が、かつて子供だった頃の彼の面影を思い出させて、彼女は何だか胸が熱くなってきた。立花倖に彼の教育係を命じられて以来……人間とAIという立場の違いはあれども、二人はずっと一緒にいたのだ。
彼の成長を、ずっと隣で見守っていたのだ。答えなんて初めから決まっているだろう。
彼女は、そわそわして落ち着きのない素振りをしながら明後日の方向を見ている彼の腕に、ギュッと胸を押し付けるようにしがみつくと、
「そんなこと……聞くまでもないだろう? ボクは最後に言ったはずだ」
彼女はそう言って一呼吸溜めると、本当に本当に嬉しそうな笑顔で、
「君のことが好きだったって」
と言った。
上坂はそれを見て顔を赤らめると、ポリポリと鼻の頭をひっかきながら、
「そうか」
と、ぶっきらぼうにそう言った。
身を寄せると彼のぬくもりが伝わってくる……ずっとこうしたいと思っていたのだ。だけどあのときの自分には体が無かった。体温が伝わるということが、なんと心地よいのだろうか。
彼女の返事を受けた上坂は、やがてホッとした表情を見せると、
「良かった。勝手にこんなことしちゃったけど、もし君に断られたらどうしようかと思ってたんだ。そしたら人類滅亡だ。そうならなくて良かったよ」
そんなことを言いながら、チラチラと彼女の顔を覗き込み、少しバツが悪そうな表情を浮かべて言うのだった。
「あと……一つお願いがあるんだけどいいだろうか?」
「なんだい?」
「出来れば前を隠してくれないか? さっきから目のやり場がなくて困ってるんだ」
言われて美夜は思い出した。そう言えば自分は何も身に着けていなかった。さっきから上坂がずっと目を反らしていたのは、それが原因だったのか。
彼女は自分の体に変なところがないとは分かっていたけれど、彼が照れている姿を見ていると何だか自分も恥ずかしくなって来てしまい……そう思うともう、居てもたっても居られなくなってしまって、慌てて近くのヤブの中に飛び込んだ。
顔が熱くて火が出そうだ。心臓がドキドキする。そんな彼女の耳元に、風に乗って誰かの優しい声が聞こえた。
生めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従わせ、海の魚、天の鳥、地を這うものすべてを支配せよ。
(完)
以上で完結です。お目通しいただきありがとうございました。また次回があればよろしくおねがいします。ではでは