A.D.2029
2029年12月29日。秋葉原。
シャノワールの店内に重火器で武装した集団が押し寄せていた。欧州の騒乱を主導していたのに、あと一歩のところで失敗したヒトラー率いるネオナチが、逆恨みをして上坂のことを殺しに来たのだ。
しかし神となった彼は、普通だったら現世の者が危害を加えることなど出来ないはずだった。それでも唯一それが可能なのは、彼の残した未練である、白木恵海との縁があるこのシャノワール店内だけだった。ここならば彼が姿を現す可能性がある。ヒトラーはそう予測し、東京都内で身を隠しながらその時を待っていた。
そしてついに、そのチャンスが訪れたのである。目論見通り、シャノワールに上坂一存が姿を現したのだ。
ヒトラーはすぐさま店を襲撃すると、パニックになる客を押しのけ上坂に近づいた。不意打ちを食らった彼は凶弾に倒れ、息も絶え絶え床に転がっている。それを助けようとして縦川が時間を稼ごうとしたが、そんな彼の行動などヒトラーにはお見通しであり……
そしてついてにその銃口が上坂の頭に突きつけられた。
「さあ、死ね、上坂一存! 貴様は私をほんの少しだけ焦らせたよ。だが、それだけだ。今こそ私は千年王国を築き上げる最初の王になる。神人の神人たる神人の王。神王となるのだ。死ね! そして聞け人類よ! 今度こそ私の……ヒトラーの勝利だ!」
パンっと乾いた音がして、ヒトラーの持つ小銃から弾が発射された。それは正確にその場に倒れるその人の頭へと到達し、そして彼の頭の中身を全部床にぶちまけた。
縦川の顔に、腕に、体に……彼の頭から飛び散った中身が、液体が、ビシャっとかかり、彼の身体を汚した。縦川は自分にかかるその液体を手で拭うと……
「ああ! なんてこった、上坂君! 君は……君はとっくに」
彼は拭った自分の手のひらに、ベッタリとついていたその生暖かい液体を見ながら、大声で叫んだ。
「人間じゃ無かったのか!?」
「ふははははははは……あははははははは……はっははははははははは!!!」
彼の驚愕の叫びにかぶさるようにヒトラーの高笑いが店の中にこだまする。その哄笑はいつまでもいつまでも続き……
「……はあ?」
次の瞬間、風船が萎むような気の抜けた声が店内に響いた。
たった今まで勝利に酔いしれていたヒトラーは、そこに倒れている青年の死体を見て固まった。
額に銃弾を浴びて中身をぶちまけた死体のその傷口から、キラリと光る金属の光沢が見える。
何故、こいつの頭にこんな物が? ハッとして辺りを見回してみると、さっきの銃撃で飛び散った頭の中身に混じって、半導体やら機械部品がそこここに転がっているのが見えた。更には、縦川にかかっていた血液を良く見れば、それは真っ赤な血ではなくて、茶色い機械油ではないか!
「なんだこれは……なんだこれは……なんだこれはああああ!!??」
あまりに想定外の出来事にヒトラーは取り乱すと、手にしていた小銃を取り落として、床に転がっている上坂の胸ぐらを掴み上げた。顔を覗き込んで見れば、その瞳はもう何も映し出しはしなかったが、いつもシワの寄っていた眉間の上の部分がぱっくりと割れて、そこから機械部品が覗いている。
持ち上げた上半身がずしりと重いのは、死体特有の重さだけではなかった。きっと頭の中身が普通の人間よりも重いからだろう。こういう特殊な体をした人間ならよく知っている、人造人間だ。何しろ、自分がそうなんだから間違いようがない。
しかし、どういうことだ? この男はいつから人造人間になっていたのだ? もしかして始めからなのか? だとしたら、人ならざる人造人間が、まるで神のような振る舞いをして、この世界の終末を覆してしまったというのか。この、ヒトラーの計画を悉く潰して……
呆然とそんなことを考えていたヒトラーは、視界の片隅に何かうごめく影を捕らえた。ヒトラーはハッとして咄嗟に身構えたが、その時にはもう遅かった。
「この、ちびっ子! おとなしくしやがれっ!!」
見れば、さっきまで縦川の背後に隠れていた下柳が、今まさに飛びかかってくるところだった。どうやらヒトラーが武器を落とした瞬間、それをチャンスだと見て行動に移ったようだ。
ヒトラーは慌てて抵抗しようとしたが、間もなく飛びかかってきた下柳にゴロゴロと床に転がされて、身動きが取れなくなってしまった。人造人間と一口に言っても、その体のはただの少女そのものなので、力でねじ伏せられたらあっけないものだった。
「くそったれ! 何をしやがる! おい、おまえたち、この男をひっ捕らえろ。なんなら殺しても構わん!」
しかし、この状況で抵抗したとしても、周りは自分の部下だらけだ。この馬鹿な男を思い知らせてやろう。ヒトラーは屈辱に耐えながら狂ったように叫んだが……
ところが、いくら叫んでもその声に応えるものは何もなく、ヒトラーは後ろ手に捻り上げられた痛みに耐えるしかなかった。何故、誰も助けに来ないんだ! ヒトラーは怒りに震えながら、部下は何をしているのだと目だけで周囲を見回したのだが……
するとその目に映ったのは、更に信じられない光景だったのである。
さっきまでヒトラーの部下に銃を突きつけられて、半泣きになっていた店のオーナーのクロエが、今は冷徹な眼光を鋭く光らせながら、その部下に向けて逆に銃口を突きつけていたのである。彼女の足元では、関節でも外されたのだろうか、屈強なネオナチの男が痛みにのたうち回っている。
呆気にとられたのはそれだけではない。慌てて他の部下へと視線を走らせれば、店内のあちこちに散らばっていたはずの部下たちの姿が見えず、代わりに返り血を浴びた厨房のコックが立っていた。
それでも、逃げ惑う客の中に隠れていたネオナチの最後の一人が、すきを見てヒトラーを救出しようと飛びかかってくる。ところが、その最後の一人も、上司の元に辿り着く前に、四方八方から飛んできた従業員たちの手によって地面に這いつくばらされた。
強かに殴りつけられ、地面でのたうち回っているネオナチの腕がおかしな方向に曲がっている。とてもレストランの従業員の手腕じゃない。それを見た客が恐怖から悲鳴を上げた。すると小銃を持っていたクロエがいつもの柔和な表情で、パンパンと上空に向けて銃をぶっ放しながら、
「お客様。店内ではお静かにお願いします」
と営業スマイルをしてみせると、店に残っていた客たちは硬直して黙りこくってしまった。
入り口に殺到していた客たちは、やってきた従業員たちに一人ひとり抱き起こされると、そのまま店の外へ丁寧に誘導されていく。彼らは何が起きているのか分からなくて、何度も何度も振り返ったが、一人として店内に残ろうとするものは居なかった。
縦川はその迫力に気圧されながら、唖然と呟いた。
「な……なんなんだ、一体。クロエさん、あなた達は……一体、何者なんです?」
「その人はイスラエルの方よ。彼らもまたヒトラーの行方を追ってたの」
すると彼のつぶやきに答えたのはクロエではなく、店のバックヤードから出てきた一人の女性だった。
どことなく聞き覚えのある声にハッとして顔を上げると、そこにいたのは本当に見覚えのある顔だった。しかし、それが余りにも想定外過ぎたものだから、縦川はその人がどこの誰であるのかを思い出すのに、ものすごい時間が掛かってしまった。
と言うか、結局彼は思い出せなかったのだ。何故なら、彼よりも先に、その人物が誰であるかに気づいた者が、素っ頓狂な声を上げたからだ。
「お、おまえは……立花倖!? 何故だ! 何故、死んだはずの貴様がここにいる!!??」
バックヤードの中から現れた立花倖は、コツコツと踵を鳴らしながら、下柳に羽交い締めにされているヒトラーの前へと歩み出た。そして彼女は哀れなものでも見るかのような目つきで相手を見下ろしながら、
「第二次世界大戦の亡霊であるあなたに、そんなこと言われたくないわよね。あなたこそ、どうしてここにいるわけ? アドルフ・ヒトラーさん……いいえ、あなたはヒトラーだけどヒトラーじゃない。彼と結婚してヒトラーとなった、エヴァ・ブラウンなんじゃないの?」
彼女にそう言われたヒトラーは……いや、美夜の顔をした何者かは、目を見開いたまま固まった。その驚愕の表情が、彼女が何者であるかを如実に語っていた。ずっと欧州に潜伏し、ネオナチを率いていたのは、かの悪の代名詞ヒトラーではなく、その伴侶エヴァ・ブラウンだったのだ。
縦川は唖然としながら言った。もう、どこから何を聞けばいいやら、まるで分からなかった。
「ちょ、ちょっと待ってください、立花先生? どうしてあなたが生きてるんですか? ってか、彼女がエヴァ・ブラウンですって? なんでそんな風に思うんですか。あー、もう! なんなんだ一体。一体何が起きてるんですか?」
すると倖は、混乱するのも仕方ないだろうと言わんばかりの苦笑をしながら、
「それはまたあとで話すから。それより、下柳君。その子をお店の人に引き渡してもらえるかしら?」
彼女を羽交い締めにしていた下柳はそう言われて少し躊躇しながら言い返す。
「いや、しかし……先生さんよ。こいつは上坂を殺した殺人犯だぞ? それを目の前で見ていた警察官である俺が、はいそうですかって引き渡すわけにはいかないぜ……相手が例えクロエさんといえども、まずは警察に連絡をしてからじゃないと、納得がいかん」
「あら、あなた意外と職業倫理ってものがあったのね」
「馬鹿にすんなよ、そんなの当たり前だろ!?」
「怒んないでよ、もう……けどまあ、その心配は無いわよ。だって上坂君は死んでないもの」
「……はあ?」
下柳の素っ頓狂な声に応えるかのように、たった今、立花倖が出てきたバックヤードに続く扉から、また別の影が出てきた。一人はどことなく呆れた素振りのアンリエット。もう一人は半べそをかきながら誰かにしがみついている恵海、そしてもう一人は……
「上坂君!?」
縦川の絶叫のような声が店内にこだまする。上坂はその声の主に視線を送ると、いつもの眉間にシワを寄せた顔を綻ばせて、にやりと笑った。
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「くそう! 離せ! 離せえええーーーっっ!!」
連行されていくヒトラー……エヴァは大声で抵抗していたが、欧州をあれだけ混乱せしめ、多くの人々の命を奪った彼女も、今となっては結局ただの少女でしか無いから、いくら大暴れしようともはやまったく意味を成さなかった。
彼女の部下であるネオナチたちも、元々はただ世界を恨むだけのアウトローな若者でしか無かったからか、訓練を受けた本物の諜報員の前では子供みたいなものだった。彼らの殆どは制圧の際に実に的確に痛めつけられたせいか、抵抗する気力をごっそりと奪われていたようである。大人しく連行されていく血だらけのスキンヘッドの集団を見ていると、なんだかゾンビ映画でも見ているようだった。
そんな中、クロエとアンリはバックヤードから何やら寝袋みたいなものを持ってきて、床に転がっていた上坂の死体を、飛び散った部品や何もかもを拾い集め、丁寧にその中に包んだ。いわゆる死体袋と言うやつである。ファスナーがジーッと音を立てて上げられると、顔の部分だけが切り取られた窓みたいになっていた。そこからだと頭の傷は見えないから、まるで眠っているようだった。
上坂は自分の死体を上から覗き込むと、両手を合わせて南無阿弥陀仏と唱えた。見れば、彼の隣で縦川もまた目を瞑って手を合わせている。本職の彼が祈ってくれるなら、きっと天国にいけるだろう……まあ、上坂はこの通り生きているのだし、天国というところがあればの話だが。
上坂は死体を従業員たちに運ぶように指示しているアンリの背中に向かって言った。
「……ちゃんと懇ろに弔ってくれよ?」
「分かってるわよ! こんな物騒なもの、下手な扱い出来るわけないでしょ。念入りに火葬して、然るべき場所に撒いてやるわよ」
「あと、エヴァに関しては、出来るだけ丁寧に扱ってあげてくれよ。出来るなら死刑にはせず、更生の機会を与えて欲しい」
「なんであんたにそんなこと言われなきゃならないのよ」
「それが彼の最後の希望だったんだよ。彼は混乱する世界の中心で、全ての人々を助けると誓った。だから今日この場で殺された。新しい世界へ人々を導くためには、そうすることが必要だったんだ……エヴァ・ブラウンの悪夢を終わらせると言うことがね。人類の罪を背負って死んだ彼を思えば、それくらいしてあげても罰は当たらないだろう」
「2000年ぶり二回目ってやつね。生憎だけどね、私はクリスチャンじゃないから、そんなことに従う道理はないわ」
「分かってるよ。だから、友達としてお願いしてるんだ」
「友達ぃ~? あんたと私がぁ~?」
アンリは上目遣いの三白眼で、いかにも胡散臭いものでも見るような目つきで上坂のことを睨みつけてから、フンッとそっぽを向いてしまった。その仕草からすると、返事は保留するが、悪いようにはしないと言ったところだろうか。
「エティ、そろそろ……」
上坂とアンリが話をしていると、上坂の死体を運んでいたクロエが話しかけてきた。アンリは彼女の方を振り返ってすぐ行くと応じてから、
「それじゃ、私は行くわ。あまり彼女に心配かけるんじゃないわよ」
「ああ、悪かったよ。それじゃまた新学期にな」
「……新学期って、私がまだあの学校に通う理由なんてあると思う?」
「でも来るんだろう? もう君は自由なんだから」
そのセリフに一瞬虚を突かれたアンリは、はぁ~……っと深い溜め息を吐いてから、やれやれと肩をすくめてお手上げのポーズをし、そしてそれから、やっぱり何も言わずに去っていった。去り際、二人のやり取りを横でポカーンとした顔で見守っていた縦川にお辞儀すると、彼女はクロエの後に続いて店を出ていった。
ぐちゃぐちゃに散らかった店内を従業員がせっせと片付けている。中央に置かれたピアノだけがピカピカで場違いみたいに輝いて見えた。縦川はそんな状況に困惑しながら、何か知っていそうな上坂に尋ねた。
「なんか口を挟みづらい雰囲気だったから黙ってたんだけど……一体、彼女は何者だったんだい? クロエさんといい、ここの従業員といい……」
「ああ、それなら先生が言っていただろ? 彼らはイスラエルの諜報員、有り体に言えば、モサドだよ」
「モサド……??」
上坂はこっくりと頷いてから、
「彼らは何年も前から、それこそ雲谷斎達が店に通い始めた頃から、ここで一般人のふりをしながら潜伏していたんだよ。今日、この場に、ヒトラーが現れるのを待つために」
縦川も下柳も開いた口が塞がらないと言った感じに、
「はあ!? それじゃここの従業員って、みんなスパイだったの? アンリちゃんも、クロエさんも??」
「ああ、別にイスラエルに限らず、どこの国の情報部にも、海外にこういったセーフハウスを設けているところはあるんだよ。基本的に彼らは現地の人々から浮かないように、何かしら社会的な活動をしている。それがここだったってわけ」
「いや、でもクロエさんって前のオーナーの奥さんなんじゃなかったっけ? 確か、その旦那さんのために、10年以上前からこの店を続けてるって言ってたと思うけど……」
「それ、確かめたの?」
「……え?」
「彼女が前オーナーの奥さんってことや、今のオーナーだってことを。会社の登記簿とかを調べてみたの?」
縦川と下柳はお互いに顔を見合わせた。もちろん、そんなことをするわけがない。どうしてそれを知っていたのか言えば、本人がそう言っていたのを聞いただけだ。
「もしも調べていたら面白いものを見つけたと思うよ。ここの本当のオーナーは、テレーズ様だ」
「……はあ!?」
「大公陛下は知ってたんだよ。雲谷斎がローゼンブルクにやって来ることも、眠り病になってしまったテレーズ様が目覚めることも、そしてここにヒトラーが現れることも」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 君は本気で言ってるのかい?」
「まあね」
「そんな……一体、どうして……」
「それは私が説明しましょう」
あまりのことに唖然とするばかりの二人に対し、背後から凛とした女性の声が掛けられる。縦川が後ろを振り返ると、鼻の穴を大きくした立花倖が、待ってましたと言わんばかりの表情で立っていた。その顔を見ていると思わず結構ですと言いたくなりかけたのだが……ここで聞かないという選択肢はないだろう。
と言うか、この人に関しても謎だらけなのである。縦川は言った。
「そう言えば、もう一つ解せないことがありました。立花先生、あなたはどうして生きてるんですか? いや、こんな言い方もないですけど……俺は確かにローゼンブルクであなたの遺体を確認したんですよ。おまけに、葬式を挙げたのは俺だし、火葬場に連れてったのもそうです。流石に見間違いとは思えないんですけど……」
「その節はどうもね……まあ、説明の過程でその件も含めて疑問が解決すると思うわよ。だからまずは話を聞いてちょうだい」
倖はそう言ってコホンと咳払いをしてから、
「話がややこしくなるから、出来るだけ時系列順に説明するわね。事の発端は今から約8年前。私の研究室に美夜がやってきたことに遡るの。聞けば彼女は数万年後の未来から、この時代に戻ってきたんだって言うのよ」
「数万年!?」
「ええ。最初は私も信じられなかったわよ。なんせ、美夜はその時まだ誕生していなかったですからね。でも色々質問したり話したりしている内に、どうやらこの子が言ってることは本当だって思えるようになってきた。美夜の話によればこれから先の未来……つまりは今なんだけど、世界は終末に向けて転がり始めるらしい。彼女はそれを食い止めるために、自分の創造主である上坂君のことを頼ろうとした。ところがその上坂君は、彼女が何度会いに行こうとしても、アメリカで起きたテロに巻き込まれて死んでしまうの……」
そして美夜は上坂を救うために同じ時間を何度も繰り返し、ついに諦めて過去を振り返ったことで、立花倖の研究室にたどり着く。彼女はそこで倖と話し合い、自分がヒトミナナになることで、未来を変えられることに気がついた。
それから二人は協力しあい、来るべき日のために行動に移る。美夜はナナとして上坂に育てられている振りをしながら、逆に彼に知識を与え、倖は後に完成するはずの人造人間の開発を急ぐ。
途中、東京インパクトでナナを失うというアクシデントがあったが、逆にあの事件のおかげで、倖はそれを調査に来たモサドと接触し、その背後にいたローゼンブルクと知己を得た。現代のイルミナティである彼らは彼らで、自分たちの周りで起きている不審な出来事を調べていたのだ。それがヒトラーの仕業だと言うことを、彼らは意外なほどあっさりと信じてくれた。
こうしてパトロンを得た彼女は白木会長率いるAYF社と共にドイツへ渡り、イルミナティと戦っているふりをしながら、実際にはそのイルミナティと裏取引をしつつ、来る日を待った。ナナとの約束通り、上坂の作ったAIから人造人間・九十九美夜を作り出し、そんな彼女が「神様を探しに行く」と言って日本へ向かうのを不思議に思いながら見送って、自分は上坂の新しい体を用意し、アメリカでテロが起きるのを待った。
「でもまだ問題があったのよね。美夜を作ったお陰で機械の脳に体を制御させる方法も確立していたし、上坂君のDNAから体を再生するまでは出来た。だけど、具体的に上坂君の人格というか、魂というものをどう扱っていいのか……聖杯ってものから、どういう風に彼の魂を移せばいいのかが分からなかった。私が作っていたのは人工知能であって、人間の魂じゃないですからね。
だからもしかして、この方法じゃ駄目なのかなって思いもした。けど、ナナの話を総合して考えると、これしか方法はないのよ。実際、ネオナチはAYF社からこっそりと美夜の体を調達して、ヒトラーの復活を実現している。彼らにそんな技術的な優位性はあるとは思えなかったから、多分、聖杯と体があればなんとかなるんじゃないかって、私は半ば出たとこ勝負でその日を迎えることになった。
で、結果から言えば、それで正解だった。聖杯っていうマジックアイテムは、よほど人類にとって都合のいいように出来ているみたいね。あの日、私はテロリストが制圧されたらすぐ聖杯を回収出来るように、FM社の外で待機していた。
私のすぐ手元には、聖杯が手に入り次第、上坂君を復活させるための新しい体があった。美夜の話では上坂君は鎮圧に来た米軍に助けられたって話だったから、彼をこの場で復活させなきゃいけなかったわけよ。私は上手く出来るかどうか、不安に思いながら時を待ったわ。
ところが……襲撃が始まってからしばらくすると、その用意していた上坂君の体が突然動き出したのよ。いきなり彼に繋いでいた計器類に反応があって、そんなはずないと思って調べてみると、その時にはもう彼の心臓が動いていたの。びっくりしたけど、もしも上坂君が復活しているのであれば、私がこの場にいることはまずいから、彼の体を米軍に任せて私は外からモニターしたわ。結果は上坂君の魂はちゃんと新しい体に定着していて、彼は自分がテロリストに殴られ気絶しているところを、米軍に助けられたと勘違いしてるようだった。
その後、上坂君は近くの病院に運ばれていって、私は残った仲間と一緒にFM社内を調べてみたの。するとその中には上坂君の遺体と、美夜の予言どおり聖杯があった。つまり、聖杯は彼が死んだ直後、すぐ近くにあった新しい体に上坂君の魂を送ってくれたってわけよね。これが聖杯の力なのかと思った私は俄然興味が湧いてきたわ。これは一体、どんな仕組みで出来てるんだろう……?
私はそれを欧州に持ち帰って調べてみることにしたわ。美夜の話では、もうじき私は死ぬことになっていたんだけど、仮に死んでもすぐ聖杯を使って復活できるならって思ったのよ。それで結構必死になって聖杯を調べていたんだけど……
そしたらとんでもないことに気づいちゃったのよね。空っぽだと思っていた聖杯の中に、どうやらまだ何かが詰まっているらしいことが分かってきたの」
「何かって……何が入ってたんですか?」
「それが分かれば苦労しないんだけど……ただ一つ分かったことは、その情報量がとてつもない数字だってことだった。
まず聖杯ってのが何かって説明しなきゃなんだけど、それはドラえもんの四次元ポケットみたいなもので、その中に何でも入れておくことが出来るの。中に入れられた物は外から見えなくなるかわりに、入れた情報量の分だけ聖杯の表面積が大きくなる……入れたものはその持ち主が、同じほどの熱量を加えることによって任意に取り出せる、そんなアイテムだったのよ。
で、これは面白いなーって思った私は、色々と中に放り込んだり取り出したりして、その中身を推測しようとしたわ。でも無理だった。
私はいろんな物を投げ込んだ結果、その表面積の増え方から、元々中に入ってる物の情報量の大きさを探ろうと考えたの。ところがその結果わかったことは、もしもそれだけのものを取り出してしまったら、この地球が……いいえ、太陽系が押しつぶされてしまいそうなくらい、桁違いの情報量がその中には詰まっていることだった。
そんなものが何故こんな場所にあるのか……そもそも、これを作ったのは何者なのか……私は自分の目を疑ったわ。こんなことあり得ない、もしもそんな存在が居るとするなら、私達はもうこう呼ぶしかないでしょう。それは神であると」
それを聞いていた縦川はゴクリと唾を飲み込んだ。
「まさか? その中にあったのは……」
「それは俺から話そう」
唖然とする彼に答えたのは、立花倖ではなく、その側に立っていた上坂だった。たったの数日間会わなかっただけなのに、彼のことを見ているとどうしようもなく懐かしく感じるのは何故だろう。
いや、それはそうか、何しろ先程彼が死んだ場面を目撃したばかりなのだ。その直前には彼の存在自体を忘れていて、いきなり出てきた彼は妙に神々しく思えて……今もその佇まいが神聖なもののように思えてくるのは何故だろうか。
その理由は、彼の話してくれたことの中にあった。
「一説によるとキリストが磔刑にかけられた時、彼は他の刑死者が死んでいく中で最後まで生き残り、なかなか死ぬことが無かったらしい。まあ人間だから、最終的には長い時間をかけて息を引き取ったんだけど……あまりにも長生きしたものだから、もしかしてまだ生きているんじゃないかと不安に思った執行官は、聖ロンギヌスにに命じてその生死を確かめさせた。
聖ロンギヌスはキリストに槍を突き立てたあと、すぐに後悔して彼の足元に駆け寄り、その流れる血を受け止めた。その血を受け止める時に使ったのが、最後の晩餐で使われた聖杯だったって話があるんだけど……もしもそうなら、キリストの魂はこの聖杯の中に封じられているのかも知れないわけだ。
聖杯はその後行方がわからなくなり、有力な説ではテンプル騎士団が十字軍のどさくさに紛れて欧州へ持ち帰ったと言われてる。その後、騎士団にゆかりのあるスコットランドの寺院にあるんじゃないかと言われていたが……この世界ではヴァイスハウプトが所持していたり、ヒトラーが手に入れたり、最終的にはFM社のテロ事件の際、俺の近くに転がっていたってわけさ。
ところで、もしもその聖杯に、彼の人の魂が封じられていたとしたら……その人は眼の前で殺された哀れな少年を見てどう思っただろうか? 例えば世紀の極悪人とされる男に恋をして、その男が敗れると、恋に殉じた乙女がいたらどうしただろうか?
イルミナティの創始者ヴァイスハウプトと言う人は、グノーシス主義者だったことが祟って異端の烙印を押されたわけだが、今となってはグノーシス主義とは仏教のようなものだったと分かっている。そう考えると彼がやっていたのはただのプロテスタント運動であり、言われているような悪人ではなかったわけだ。そんな彼が晩年、非業の死を遂げたとしたら、聖杯の中に封じられた人はどう考えるだろうか?
出来れば助けようと思ったんじゃないか? 例え自分の魂を削ったとしても。何しろその人は博愛の人であり、全ての人類の罪を背負って死んだような人だ。
そう考えるとこの聖杯ってのは、意外と助ける人間を選んでもいるんだよ。ここ数ヶ月は復活したナチスのせいで欧州は大混乱に陥ったわけだけど、その中にヒトラー以外の旧ナチス幹部の姿は全くなかった。それどころか、実はヒトラーだと思っていた人物さえ、ヒトラーじゃなかったんだから、聖杯はどんな人間の魂をも記録することが出来る便利道具じゃなかったってわけさ。
そう、彼はただ気まぐれに人を救っていたわけじゃない。ちゃんと目的があったんだ……全人類の救済という目的がね」
上坂は続けた。
「もし、中東で戦争が起こらず、ヒトラーも現れず、世界に何の混乱も起きなかったとしても、人類は遅かれ早かれ眠り病によって終末を迎えていただろう。結局、人類は脳をインターネットに繋ぐ……その思考を機械的な電気信号に変えた段階で、滅亡する運命にあったんだ。
理由はこれまで散々言われてきた通り、人間っていう生き物は楽を求めるから、自分に都合のいい世界を作り出せると分かったら、中々そこから抜け出せないんだよ。AIの発達により、まずは思考する機械が生まれて、次に人間の電脳化が始まる。もう熟考する時に苦しむことはない。代わりにAIが考えてくれる。人類はどんどん怠惰になり、ついには滅びてしまうってわけさ。
それを回避するには、一人ひとりが悔い改めるしかない。GBが平行世界に逃げ込んでも、結局、虚しさを感じてこっちの世界に戻ってきたように、人間は辛い現実に立ち向かう勇気を持たなければならない。電脳化が進んだら、いずれ人類は死すらも超越する可能性がある。そうなったとき、その勇気が無ければ、もうどこにも進むことが出来ないじゃないか。今が楽しければそれでいいんだから。
だからあの人は、全ての人々が悔い改めるための時間を稼ごうとしたんだ。人間が神に似せて作られたのなら、神はどんな人間にだってなれる。主客一致。神とは即ち全人類の心の中にある究極の理想だ。あの人は人類全ての人々と出会い、その魂を自分の中にコピーした。そして聖杯の中に世界を作り出し、全ての人々の失敗を再現したんだ。全ては、たった一つの正解を作り出すために。
結局、人間悔い改めるには、失敗をするしかない。成功の前には無限の失敗がある。例えば俺や雲谷斎が眠り病に罹らないのは、そんな世界に逃げ込んでも虚しいだけだとすでに気づいているからだ。彼は俺達と同じ考えを全人類が共有できるように、全人類の魂を再現して、その一人ひとりが失敗する世界をシミュレートしたんだ。
それは戦争の果ての壊滅的な未来だったかも知れない。人々がみんな眠り病に罹ってしまう静かな終末だったかも知れない。何万年も後の行き詰まった機械文明かも知れない。ありとあらゆる可能性の果てにある失敗を彼は示し、そうすることによって、正解を作り出した。
そして彼は最後に自らの死をもって、聖杯の中に構築した全ての人間の魂を解放した。要するに、浄化された魂を俺達に植え変えたわけだ。その魂は、彼の犠牲によってもう失敗を経験しているから、これから起きる時代の変化に靡いてしまうことはない。俺たちは間もなくやってくるシンギュラリティによって、次世代の人間へと進化することが約束されたわけだ」
縦川は目を丸くしながら尋ねた。まさか、自分とずっと一緒にいた彼が、そんなことになっていたなんて思いもよらなかった。
「それじゃ、上坂君。君はずっと神様に体を貸していたのかい?」
「貸していたって認識はないんだけどね。俺は俺の記憶をちゃんと持っている。さっき、あそこで殺された記憶も」
「そう言えば、何故君は殺されなきゃならなかったんだ? 話を聞いている限り、あの時の君ならばもう、そんなもの回避するのは何でも無かっただろうに」
「それがエヴァの失敗なんだよ。彼女は聖杯を使ってこの世に復活した時、最愛の人がもうどこにも居ないことを知った。ネオナチはリーダーを求めて彼女を復活させたわけだが、彼女にしてみればそんなのは、ただのありがた迷惑でしかなかったんだ。
結果、目的のない彼女は、死の間際に恋人が言っていたことを忠実に再現しようとしたのさ。機械文明によって人類は滅ぼされ、神人となれた者のみが生き残るという未来を。恋人はそれをヒトラーの時代と呼んでいたから、全てを滅ぼした後、きっとヒトラーが現れるって信じていたんだな。
けど、彼女はあの時、俺を殺したことでそんなものはどこにも無いってことを悟ったわけだ。彼が殺されてから今に至るまで、俺たちは連続しているように感じているけど、実際にはあの瞬間世界は分岐したんだ。そして彼女はその先にある終末を見届けてきたんだよ。だからもう、二度とこんなことは起こらない」
つまり彼は失敗した世界を作り出して、それを本人に見届けさせることで、その本人が悔い改めるのを促していたと言うことだろうか。
縦川は開いた口が塞がらなかった。すると、上坂はこういう作業を70億人分繰り返したということになる。
彼は自分と神が別物のように語っては居るが、その記憶はあると言ってもいる。もしもそうなら、それだけ長い時間自己を保ち続け、なおかつ他人の失敗を肩代わりしてきて、なお平然としている上坂も、すでにただの人間とは呼べないのではなかろうか……さて、そういう存在をなんと呼べば良いのだろうか?
縦川はふと思い立って尋ねた。
「そうか。だから君は彼女が連行されていく時、アンリちゃんに彼女のことを許してやれって言ったんだね……あれ? でも、どうしてアンリちゃんにお願いしたんだ? クロエさんならわかるけど」
「ああ、それは……なんつって良いのかな。実は彼女が本物の救世主だったんだよ」
「……はあ!?」
縦川が素っ頓狂な声を上げる。上坂はそりゃそうだろうなと苦笑しながら続けた。
「眠り病によって世界は滅亡の危機に瀕していた……ユダヤ教では人類の終焉が近づくと、救世主が現れてユダヤ人を導くとされているだろう? 今回は彼女がそうだったってわけさ。彼女が妙な力を持っていたのもそれが理由だ。
ところが、彼女は人類が滅亡しそうになったから救世主として目覚めたわけだけど、その終末を彼が解決してしまった。これじゃ自分が何しに出てきたのかわからないから、彼女はいっつも怒っていたんだな……それにユダヤ教ではキリストは罪人だったし、彼女の義父のこともあって、ずーっと俺のことを懐疑的な目で見てたみたいだ」
基本的に面倒見が良い姉御肌で、誰に対しても愛想が良かったのに、何故か上坂に対してだけは態度が厳しかったのはそういうわけである。
彼女は欧州のテロ事件で養父を失ったあと、天涯孤独の身となったが、娼婦だった母親がユダヤ人だったということで、イスラエルに保護された。その後クロエに引き取られた彼女はスパイとして東京に潜伏していたのだが、その時に上坂の力に巻き込まれたことで能力が開花したらしい。
「それ以来、ヒトラー逮捕のために独自に動いていたらしいよ。エイミーと仲良くしてくれたのも、北海道についてきてたのもその一環だったみたいだな」
「ふーん……あの国の人にとっては、そこまでしても自分たちで方を付けなきゃならない相手だったんだね」
「じゃなきゃ、私みたいなぽっと出の科学者なんて相手にしてくれなかったわよ、きっと」
縦川がしみじみ言うと、倖が横槍を入れてきた。彼女は東京インパクトでモサドと接触した後、ドイツに潜伏しながらイルミナティと連携をとって人造人間の開発を続けていた。それもこれも、今日のためだったわけだが、
「となると立花先生があの日、シャノワールに来たのも予定調和だったんですか?」
「まあね。でも、大体はあの時に話したとおりなのよ。美夜はいずれ上坂君と接触するって分かっていたけど、その日付までは分からなかった。だから、実際に彼女からの連絡が来てから飛んできたってのは本当よ。因みに、アンリエットが妙な力に目覚めたことも知らなかったわ。美夜の話では、彼女のことなんて全然出てこなかったから」
「そうだ。立花先生はこの後、美夜ちゃんに殺されるって分かってたんですよね? でもこうして生きてるってのはつまり……?」
倖は縦川の疑問に答えて頷いた。
「その通り、殺される時と場所が分かっていたから、予め自分の新しい体を用意して待っていたのよ。正直、痛いのは嫌だったし、聖杯を使っても必ず復活出来るとは限らなかったから、殆ど出たとこ勝負だったんだけど……」
「なるほど。そして先生は、その勝負に勝ったんですね?」
縦川がしたり顔でそう言うと、倖の方はゲラゲラ下品な笑い声を上げながら、実にあっけらかんとした表情で続けた。
「それがさあ……ものの見事に失敗しちゃってね?」
「……え!?」
「用意しておいた体に、私は復活出来なかったの。だから、あなたが愛と一緒に欧州に来た時、私は正真正銘死んでいたのよ。協力してくれたローゼンブルク大公は相当ショックだったみたいだけど、最後まであんた達を騙さなきゃいけないからって頑張ってお話をしてくれたそうよ。尤も、演技なんかしなくても、私は本当に死んでたから、その点では良かったんだか悪かったんだか」
「そ、それじゃどうして先生は生きてるんです? いや、こんな言い方もないけども」
「いいわよ別に……それもまた、凄いことでね」
倖はそう言うと、それまでのどことなく軽薄な薄ら笑いから、少し真面目な表情に顔を引き締めて、
「ローゼンブルク大公は私が死んだって聞いて、本当に残念がってくれたらしくてね。あの国では、国の発展に貢献した人の蝋人形を作って残す風習があったそうなんだけど、大公は私のことを推してくれたんだって。で、葬儀を終えた後に、私の蝋人形が作られて展示されたそうなんだけど……そしたら、その翌日に、その場に私が倒れていたんだってさ」
「……は? どういうことです?」
「ええ、だからね? 蝋人形館の蝋人形が無くなって、代わりに私が倒れていたのよ。まるでおとぎ話みたいにね」
「そんな馬鹿な!? じゃあ、あなたの体は蝋で出来ているとでも言うんですか?」
「それこそまさかよ。もちろん、発見された私はすぐさま病院で検査されたわ。すると……私の体は健康そのもの。見た目も体の中身も普通の人間と何ら変わりが無かったのよ。こんなことってあり得ると思う?」
縦川は力なく首を振った。倖はそれを見て自分もそうだと言わんばかりに引きつった笑みを浮かべながら、
「私が上坂君の体を用意したことも、エヴァが美夜の体を使って復活したのも、実はそれほど意味は無かったのよ。そんなことせずとも、彼らは来るべき日に何事もなく復活していたんでしょう。結局の所、私達人間が何を画策したところで、神の前では無力だったってことね。
思えば私達は宇宙の始まりさえ暴こうとしているというのに、お釈迦様の言う生老病死のような苦しみから逃れる方法をまだ見つけられていない。そう考えると2500年も経ったと言うのに、人間はお釈迦様の時代から実はあんまり変わっていないのかも知れないわ。
科学は私達の生活を豊かにしてくれたけど、それによって生み出されたのは幸せだけじゃなかった。戦争、環境破壊、経済的格差、新しい病気、私達は相変わらず苦しみ悩み続けている……生きるとは何か、愛とは何か、科学はまだそれに答えられない。それは未だに神の領分にあるのよ」
倖はため息混じりにそう呟いてから、ふと思い出したように続けた。
「そうそう、それからもう一つ、上坂くんが眠り病に罹ることは知っていたけど、そこに江玲奈という女の子が出てくることを、私は知らなかったのよ。その彼女が、まさか自分の担当教授だったエレナだったってこともね……」
「え? そうだったんですか?」
「ええ、だから最初は疑ってたのよ。何せこの後、私は欧州に帰った直後、美夜に殺されて死ぬ運命にある。余裕そうに見えても、心臓なんかバックバクよ。で、そんなタイミングで美夜と入れ替わるように出てきたこの子のことを警戒しない理由はないでしょう? まあ、杞憂だったんだけどね。彼女はこの後、上坂君が言うには、彼の人が神の力を取り戻すための切っ掛けを与えてくれたわけよね?」
上坂は厳かに頷いた。
「はい。彼女が居なければ、俺は……俺達は涅槃にたどり着くことは出来なかったかも知れません。彼女は俺達の最後の迷いを打ち払ってくれた導師でした」
彼女は立花倖が美夜から聞いた話の中には出てこなかったが、間違いなく必要不可欠な人物だったというわけだ。
「……一体、彼女は何者だったんですかね?」
縦川が首を傾げる。倖はそんな彼に向かって苦笑交じりに言った。
「それは神のみぞ知るね……上坂君には分かるかしら?」
すると上坂は黙って首を振って。
「俺にもよくわかりません。分かるのは、彼女が神に近い存在だった、ということくらいでしょうか」
「そう言えば、彼女はどこへ行ってしまったんだろうか? 選挙が始まった頃から、ずっと御手洗さんが探していたけど……」
「それならきっと、彼女は天に召されたんだろうと思うよ」
縦川と倖はお互いに顔を見合わせた。
「……江玲奈さんは死んでしまったってことかい?」
すると上坂はまた首を振って、苦笑交じりに、
「そうじゃない。それは文字通りの意味でさ。今頃きっと、彼女は神様と一緒にいるんだろうよ」
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