エリートとニートは紙一重、語呂もよく似ている
学校の勉強ばかりしてると馬鹿になる。あんなもんいくらやっても無駄なんだから、早めに見切りをつけた方がいい。こう言われると、大抵の人はドキッとするものである。
『いやいや、そんなことはないよ。英語はこのグローバル社会で必須だし、役に立たないと思っていたあの三平方の定理だって、社会に出たら役立てられる場面があるのさ』
おかしなもので我々は、学生時代あんなに勉強が嫌で嫌で仕方なかったくせに、そんなことを口走ってしまうのだ。多くの就活生が学歴だけで選別されることに何の違和感も感じず、東大出身と聞くとそれだけでなんだかすごい好人物のように思えてくる。大人になって親になれば、自分が頑張ってこなかったことを後悔し(もしくは棚に上げて)、子供に勉強しろ勉強しろと言ってしまう。
我々は子供の頃から競争社会に揉まれて、末は博士か大臣かと期待され、否応なしに学力を競い合うことを続けてきた。高校生くらいの頃に、友達と遊びほうけていたり、部活にうつつを抜かしていたりすると、今はそんなことをしている場合じゃないから、学業に集中しなさいと叱られた。
そして殆どの人がこう説得されるだろう。
高校のたった三年間だけでいいのだ。
長い人生のうち、この三年間は人生を決める最も重要な時期だから、がむしゃらに勉強したほうがいい。人生は長い、あと何十年も続いていくのだ。そのうちのたった三年間だけ我慢して、いい大学に入りさえすれば、もう勉強しないでいいんだ。そしたらバラ色の人生が待っているのからと……本当にそうだろうか?
昨今、若者が右傾化していると、新聞やメディアでよく耳にする。それはマスコミが左に寄り過ぎなのだと言う向きもあるだろうが、まあ、それは脇に置いといて、ちょっと世界に目を向けてみよう。
例えばアメリカでは保護主義をうたうトランプ大統領が誕生した。イギリスは自国の政策を優先するため、ついにEUからの脱退を決めた。イタリアやフランスの若者は移民政策に嫌気が差して、極右政党が台頭し始めており、ドイツだって隠れちゃいるが、若者のネオナチ化問題をずっと抱えている。ロシアはどうか? クリミアを併合し、ロシア系住民の多く住むウクライナ東部でドンパチやっている。
こうしてみると、世界中どこもかしこも保守系タカ派が目立っていて、左翼は殆ど息をしていない。先進国において若者の右傾化というのは、大して珍しい現象ではないといえるだろう。普通、若者は新しい世界に目を向け、保守的な大人に反抗して真逆のことをしそうなものなのに、どうしてこんな事になっているのだろうか。
大多数に迎合しておけば、手軽に勝利に酔いしれる事ができるから……なんて訳知り顔で言う者がいるが、はっきり言ってそんなのは嘘だ。答えは教育の中にある。
教育は各国政府の最大の関心事で、どの国も優秀な人材を育成すべく、その内容に腐心している。ところで、そのカリキュラムが産業界の要望によって決定されているのは、異論ないところだろう。
我々は、その時代に国が最も力を入れている産業に適した人材を目標として教育される。もっと言えば産業界から献金を受けている、つまり時の政権与党が欲している人材として教育されているわけである。
平和が続きこれと言った不満のない時代で、先進国の若者はわざわざ政情不安定な世界に出ていこうなんて思わず、身近な幸せをつかむことを目指すはずだ。つまり、学校の勉強をして、公務員になろうとする。事実、東大は学問の府というよりも官僚育成の場という面が強くなっており、最近の高校生は将来の夢に公務員をあげているではないか。
エリートと言うのは、その時代の政府にとって、最も従順で都合のいい人材の集大成なのだ。その椅子を巡って何年も受験戦争を繰り広げてきた者たちが、保守的になるのは当然だろう。
だから学校の勉強ばかりしてると馬鹿になるといいたいのではない。ただ、その価値観の行く末が、政府にとって都合のいい人材を作り出すことだということを、肝に銘じておいた方がいい。何故なら、政治家は万能人間なんかではなく、政府はよく間違えるし、どうしようもない未曾有の危機に国家が直面することだってあるのだ。
例えば1929年の大恐慌や、1987年のブラックマンデー。そして2008年のリーマンショックで多くの人々が職を失うことを、アメリカ政府は事前に食い止めることが出来ただろうか。
日本の氷河期世代と呼ばれた人たちは、アジア通貨危機、ITバブル崩壊と二回もの恐慌に見舞われて将来設計の変更を余儀なくされたが、彼らの学生時代に何が流行っていたかと言えば、システム工学やらソフトウェア工学やらのコンピュータ関係の学科だった。
そのころの内閣は神の国発言のあの人だったと記憶してるが……1945年。その神様が人間になってしまった日に、皇居を占拠したのは神州不滅を叫んだ青年将校たちだった。そんな彼らが学生時代に何をやっていたかと言えば、神学だったわけである。
一夜にしてそれまでの価値観が全く通用しなくなる事例は、歴史を紐解けばいくらでも見つかるだろう。こういうことが起きた時、その価値観を他人に委ねていた人はどうなるだろうか。処刑されたり自殺したり、今の時代そこまで酷いことにはならないだろうが、これから何をしていいか分からず、呆然と立ち尽くすより他ないのではないか。
エリートとニートは紙一重、語呂もよく似ている。そう考えるとニートとは、道を外れたエリートに他ならないのだ。
鷹宮家の面々はそういう人たちの典型だった。
かつてはエリートと呼ばれて自信満々に生きていたのに、隕石落下を境に、まずマネーというものの意味が変わり、続いて自分たちの仕事の意味が変わりつつあった。
AI技術は日々飛躍的に進歩し続けており、いつ人間を超えるかわからない(実は2029年現在、とっくに超えているのだが)。その時、ホワイトカラーの多くが仕事を失うことになり、自分がそうならないかどうか、彼らは戦々恐々しているわけだ。
普通に考えて、午前3時まで仕事をしなきゃいけない今の生活が間違っているのは、彼らだって承知してるだろう。だが、青春を投げ捨ててまで、一心不乱に公務員になるためだけに生きてきた彼らにとって、今の生活は人生の目標そのものだった。それが失われる恐怖のほうが、彼らにとっては勝るのだ。
彼らは誰かに認められてなければ、何も出来ない人たちなのだ。
マズローの欲求段階説によれば、人間は生存に必要な欲求が満たされると、次に誰かに認められたいという承認欲求に駆られるそうである。
その承認欲求が満たされれば、それで終わりかといえばそうではなく、最終的には自己実現欲求というものが湧いてくるという。なりたい自分になれるまで、欲望のヒエラルキーは続くのだ。
ところで先進国で暮らす我々は、昔とは違って生命の危機を覚えるような生活はしていない。すると自己形成が不完全な人や人生の目標がない人は、その目標が見つからない限り、承認欲求だけがどんどん肥大化し、永久に欲求が満たされることはないのではないか。
かくして、承認欲求を満たすためだけに、何でもするモンスターが量産されるのだ。なりたい自分というものを持ってる人は、例えそれがどんなに荒唐無稽でも、何もない人よりマシなのかも知れない。
人間というものは、思春期にこうなりたいと思っていた自分に不思議と近づくものらしい。世の成功者たちに話を聞いてみると、大体、高校生くらいに漠然とそうなりたいと考えていたそうである。例えば、アインシュタインは16歳の時に光速度不変の原理を思いついたそうだし、マックスプランクは物理学に未来は無いと言った恩師の言葉を蹴って物理学の道に進んだ。
まあ、そこまで凄い例をあげなくても、その辺を歩いてるおっさんを捕まえて聞いてみればいい。みんなこう言って苦笑いするのではないか。「俺、高校の頃からなんも変わってないや」って。案外、そんなもんなのである。
高校の三年間というものはかけがえのないもので、人生にとって最も重要な時期である。だからその三年間は自己形成に費やすべきであって、あてもない勉強なんかで浪費すべきでない。もちろん、勉強が好きならそれは素晴らしいことだが、そうでないならそんなに頑張んないでいい。
それよりも早く目標を見つけたほうがいい。今でしょ先生も言ってた通り、教育とは本来お金がかかる有り難いものなのだ。それを当たり前と思って漫然と受けていては、人生を棒に振るのと同じではないか。
部活や遊びをもっと積極的にやったっていい。ゲームで徹夜したり、恋をしたほうがずっといい。やりたいことをやって、好きなことを見つけて、それからちょっと受験勉強もしたほうがいい。高校で出来た友達は、生涯の親友になるともいう。出来れば友達を大切にして、充実した毎日を過ごして欲しいものである。
人生は自分探しの旅なんかではなく、自分作りの旅なのだから。
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その後、鷹宮家の事件は、多少の醜いやり取りの末に幕を閉じた。
兄を殺したとされる鷹宮栄二郎は、下柳に手錠をはめられた瞬間に大人しくなった。彼は内心では兄を殺してしまったことを後悔していたらしく、自分の罪を認めると泣き崩れ、それ以上抵抗することなく連行されていった。
気がつけば鷹宮家の周りには、あの秋葉原の事件のときのように、いつの間にか警官隊が集まっていた。鷹宮栄二郎が超能力者だということが、このときにはもう知れ渡っていたと言うことだろう。
何が起きたかさっぱり理解出来ていなかった葬式の参列者たちは、取り敢えずの驚異は去ったらしいと胸を撫で下ろした。
他方、栄二郎に殴られて茫然自失状態であった鷹宮父は、しばらくして我に帰ると、連行されていく息子に向かって、とても人の親とは思えない罵詈雑言を投げかけた上に、それに飽き足らず殴りかかろうとまでする始末だった。
多分、このコンプレックスの塊である父親は、息子に殴られ、体力面でも越えられたと思ったことにショックを受けていたのだろう。目を真っ赤にして眉を吊り上げて自分の息子に殴りかかっていくさまは、どうしようもなくちっぽけに見えた。
どうしてこんな男に尻込みしていたのだろうかと、縦川は不思議に思った。東大出身で、エリート官僚で、大金持ちというステータスに覆い隠されていた彼の本性を見るにつけ、そんなものに惑わされていた自分もまだまだだなと彼は思った。
ともあれ、放っておいても警官に止められるだろうが、このみっともない男をいつまでも好きにさせてはおけない。縦川は参列者に目配せすると、興奮する父親を羽交い締めにすべく飛びかかっていった。
しかし、それはすぐ無駄足に終わった。何故なら、縦川たちがどうこうするよりも前に、近くにいた鷹宮母が、手にした石で鷹宮父の頭をかち割ったのだ。
ゴツン……っと、重々しい音がして、鷹宮父が糸の切れた人形みたいに崩折れた。ドクドクと頭から流れ出る血が、地面を真っ黒に染めていく。
誰も彼もが唖然として見守る中で、鷹宮母はいつものヘラヘラした笑みを浮かべたまま、悪びれもせずに言ったのだった。
「あなた、もういいじゃありませんか。刑事さんも、息子は元々殺意があったわけじゃないんですし、逮捕はせずに在宅起訴には出来ませんか? 我が家も稼ぎ頭が居なくなって、これから大変なのですし。被害者の親がそう言ってるんだから、ねえ、いいでしょう?」
「いや、お母さん……あんた、何やってんだ?」
血まみれで倒れる夫には見向きもしないで、そんなことを口走る鷹宮母を前に、下柳は驚愕し真っ青になった。周囲の警官が慌てて救急車の手配をする。
しかし、鷹宮母は一向に気にした素振りも見せずに、
「ユーチューバーって、私にも出来るんでしょうか? パソコンのことは詳しくないから、二郎さんがいないと困ってしまうわ」
彼女はいつもどおりの表情でそう言っていた。最初は言ってる意味が理解できなかったが、どうやら彼女は死んだ栄一のチャンネルを続けようと思っているらしいのだ。
それが続けられると思っていることにも、誰にでも出来ると思っていることにも、更には栄二郎にやらせようと思ってるところにも愕然とさせられるが、何よりも自分の息子たちが大変なことになっているのに、こんなことを考えていたのかと、その場に居た全員が呆れるよりも恐怖を感じていた。
一見すると柔和で人好きのする女性であったが、その張り付いた笑顔の裏には、どんなどす黒い感情が渦巻いているのだろうか……縦川はゾッとして、それ以上彼女の顔を正視することが出来なかった。
それから数日が過ぎた。
事件後のドタバタの中で、縦川はもはや当てにならない家族を見切って、親友の供養のために奔走していた。流石に一族の恥と思った親戚の一人が手伝いを買って出てくれたが、本家でもある当の遺族がへそを曲げて非協力的であったため、段取りにはとても難儀した。
ただ、あの鷹宮父の威圧的で子供じみた態度が、旧時代的な価値観に裏打ちされたものだと気づいてからは対処もしやすく、例えばネットを通じてマスコミに訴えかけるぞと言ったり、外務省に直接クレーム入れてやろうかと脅しつければ、案外何でもすぐに言うことを聞いてくれた。
その際、いつまでもブツブツと嫌味を言い続けていたが、結局、この父親に出来ることなどせいぜいこの程度なのである。10年前、鷹宮が引きこもった時、なにか言ってやろうと勢い込んでやってきておきながら、この男の威圧感に恐れをなして逃げ出した過去を思い出すと、縦川は自分が情けなくなった。
あの時、勇気を出して何か言っていたら、今は変わっていたのだろうか。栄一は死なずに済んだのだろうか……そう思うと、本当に遣る瀬無くなった。
下柳が事件の後処理について報告しに来たのは、そんな具合に父親と対決したり、法要の準備で忙しくしていた頃だった。
「いやもう、警察内でも上へ下への大騒ぎだぜ」
鷹宮栄一を結果的に殺してしまった今回の事件の犯人(と呼べるかどうかわからないが)、弟の栄二郎の処遇について、どうも政府と東京都、それから関係各省や海外の機関までもが入り乱れて、それぞれ自分勝手な意見を表明して、相当面倒なことになってるらしい。
鷹宮栄二郎は、現職の外務官僚であり、逮捕される直前に見せた通り超能力者でもあったから、この能力を調査したい、もしくは利用したいと考えている者たちが、争奪戦を繰り広げているようなのだ。
下柳が言うには、栄二郎は起訴はされるだろうが、おそらく殺意は認められなくて、無罪か、せいぜい執行猶予付きの判決になるんじゃないかとのことだった。その結果、外務省は懲戒免職になるだろうが、その後、彼がどういう機関に拾われるかはわからないそうである。
超能力者と言うものが居て、政府機関が調査をしているだろうことは薄々想像がついていたが、彼らを集めて利用しているような機関が既にあるのだろうか? 縦川はふと疑問に思って尋ねてみた。
「それは分からないが……考えてもみればこんなのを放って置く手はないよな。何かおかしなことを企てようとする奴らが出てきてもおかしくはないと思う。それを阻止しようとするのと、利用しようとするのと、2つの勢力の綱引きがあるんじゃないか。どうもこの事件、色々と変な影が見え隠れしていて、さっぱり分からん」
「海外の機関ってのは?」
「ああ……アメリカと中国は露骨にちょっかい出してきてるぞ。彼らが何を期待して超能力者なんて手に入れようとしてるかは分からんが、どうせろくなことじゃないだろう。とにかく調査したいから貸せって言ってきてるが、超能力者は今のところ邦人しかいないからって、政府はきっぱり断っているようだ。ただ、外務省はどうも以前から彼らと何かの取引でもあったんじゃないか。自分とこの職員が超能力者だったと知って、かなり動揺してるようだ」
なんだかスパイ映画みたいな世界である。いつの間にこんなものに巻き込まれてしまったんだろうと、縦川は頭が痛くなってきた。
「そうそう、あの白髪のガキが居ただろう」
「ああ、上坂君か」
上坂とは最後に火葬場で別れたっきり会っていない。縦川はその後も法要のことで何度か鷹宮家を訪れたが、そのときも彼を見かけることはなかった。もしかして彼は、栄二郎が兄を殺したことを見抜いてしまったせいで、居心地が悪くなり追い出されてしまったのではなかろうか。
下柳が難しそうな顔をして続けた。
「あの日さ、俺がおまえと話してる最中、例の超能力者を見つけたもんだから、追いかけていったろう?」
「ああ、葬式始まってもいつまでも帰ってこないから、何かあったのかと思った」
「何かあったといえばあったんだ。実はな、俺がGBをとっ捕まえて、何してやがんだと問い詰めてた時なんだ。携帯がピロピロ鳴り出して、見知らぬアドレスからメールが来たもんだから、一体誰だろうかって確かめたんだよ。そしたら本文に上坂一存って書いてあって……」
「彼が? へえ……葬儀中はそんな素振りは見せなかったと思うけど。一体いつメールなんて送ったんだろう」
「いや、問題はそこじゃないだろ。なんで俺のアドレスをあいつが知ってるんだよ」
言われてみれば確かにそうだ。
「そりゃ……おかしいな。なんでだろう?」
「さあな。とにかく、その時は俺も変だって思ってたんだが、本文に書かれてる内容の方がずっと無視できなくて、一旦それは忘れることにしたんだ」
「なんて書いてあったんだ?」
「そのものズバリだ。ゲーム制作会社に警察から連絡して、鷹宮家で今起きてることを伝えろって。えっちゃんはBOTなんてものは使ってないからと。あとは知っての通り、実際にやってみたら、外の騒ぎがいっぺんに解決した」
縦川は目を丸くした。そういえば、違和感はあった。上坂が栄二郎を追い詰める時、彼は何故か公式サイトのことも、外の騒ぎが収まったことも知っていた。そんなもの、いつ調べる暇があったんだろうか……
「他にも、超能力者がいるなら、そいつを連れて戻ってこいって。俺がGBを追いかけていたなんて、あいつは知らないはずだろう? なのにそんなこと書いてあるから、なんだか狐につままれたような気になったが、取り敢えず言うとおりにしてみたんだよ。嫌がるGBを引っ張って中庭に行ったら、ちょうど栄二郎が暴走してたところでさ。驚いてると、そのGBが耳を塞げって言いだして。それでとっさに叫んだんだ」
縦川はいよいよ困惑してきた。あの時、強烈な頭痛と吐き気に見舞われた彼は、下柳のその声を聞いて事なきを得たのだが、それはGBの入れ知恵だったと言うのだ。まるで示し合わせたかのようなこんな偶然が起こりうるだろうか?
「本当に、奇妙だな……彼は一体、何者だったんだろう」
「それは俺もえっちゃんの死体が上がった時から気になっててな、実はこっそり調べていたんだよ。鷹宮家や外務省に彼のことを問い合わせても何も教えちゃくれない。警察の上層部が頼んでみても同じことだったらしい。それで一旦は諦めてたんだが、ここ数日で状況に変化があったらしくて、忘れていた頃に公安を通じて情報が入ってきてさ」
「公安が?」
なんだか穏やかでないと思っていると、話はもっと意外な方向に転がっていった。
「それによると、上坂一存が鷹宮家の居候になったのは今年の4月。つい最近のことだったんだ」
「それじゃあ、俺たちが秋葉でGBと遭遇したころ、えっちゃんはまだ上坂君のことを殆ど知らなかったんだな」
超能力者だなんて疑うこともなかっただろう。ラーメン屋での話は、やはり栄二郎のことを話していたのだ。
縦川はもう一つ気になって、下柳に尋ねた。
「鷹宮家に来る前は、どこで何をしてたんだい?」
すると彼はそれこそが本題だと言わんばかりに、口を引き結びながら難しい顔をして言った。
「それがどうもアメリカに居たらしいんだよ」
「へえ、アメリカ」
「それも、どっかの機関に拘束されていたらしいって言うから、穏やかじゃないだろう?」
「どっかの機関って……え? 拘束!?」
「ああ。あいつの国籍は間違いなく日本国で、年齢も18で嘘じゃない。友好国の未成年を拘束するなんて、普通考えられないだろう? だからなのか、政府も穏便にとりかえそうとしたのか、外務省を通じて接触していたってのが本当のところらしい。で、多分、なんらかの裏取引でもあって日本に帰ってこれたんじゃないか」
さっきもそう思ったが、本当にスパイ映画じみてきた。縦川はあまりにも荒唐無稽な話に、目が回る思いがした。いくらなんでも、あんな年端もいかない子供を拘束して何になるというのだ……
だが、あの真っ白な髪の毛と、年輪みたいに深く刻まれた眉間のシワを思い出すと、案外しっくりくるような気もする。少なくとも、彼は尋常じゃない何かを体験をしてきたような雰囲気はあるのだ。
「……一体、何をやったんだろう」
「さあな。そこまでは分からんよ」
「彼はこれから、どうなっちゃうんだい?」
「あんなことがあったから、鷹宮の家からは出て、今は都内のどっかのホテルに滞在しているらしいぞ。外務省が彼の身柄を持て余してしまって、もう手を引きたがってる。それで今後の処遇が決まるまで、公安が周辺をうろうろしてるんだそうだ。俺のとこまで話が降りてきたのは、そういうわけさ」
「厄介者扱いされてるわけか」
今の鷹宮家から出れたのは寧ろ喜ばしいことだが、代わりに別の場所で軟禁されているのであれば、気の毒な話だと縦川は思った。ほんのちょっとしか話していないが、見た目とは裏腹に中身は案外普通の少年っぽかった。こんなに不自由な思いをさせられるような謂れは無いだろう。
しかし、鷹宮の事件を解決した鋭さといい、普通に考えたら絶対に知らないはずの情報を知っていたり、栄二郎が暴走するのを見越して指示を出していたことといい、上坂には不審な点が多々見受けられる。多分、何かがあるのだろう。それが何なのかはさっぱりわからないが……
だが、少なくとも彼が居なければ、鷹宮栄一は今でもネット上で不正者として糾弾されて、築き上げてきた全てを否定されて、不名誉な死を遂げていたことは確かだった。縦川はあの時、鷹宮が不正をしているということを、まるで疑うこと無く受け入れてしまった。親友だと思っていたくせに、その死を汚されても、何とも思わなかったのだ。
だから、その自分の親友の名誉を回復してくれた者として、上坂が何者であっても、感謝の気持ちしか抱いていなかった。もしまた会える機会があるなら、その時は何かお礼をしたいとそう考えていた。
そしてその機会は思ったよりも早く訪れた。それからまた数日後に本山からかかってきた電話の内容に、彼は運命のようなものを感じていた。
縦川の所属している宗派は社会貢献の一環として、少年犯罪者の保護司のボランティアを行っていた。縦川自身も都から保護司の委託を受けており、今までにも何回か仕事を引き受けていた。
仕事の内容はそう難しいものではなく、罪を犯してしまった少年がまた社会に溶け込めるように、奉仕活動やレクリエーションを一緒に行うだけだ。こういった罰を受けた少年は、大抵は自分の罪を後悔しており、思いのほか素直に言うことを聞いてくれるものである。
そりゃ中には不貞腐れているのも居て、時には説教をすることもあったが、殆どの場合は期間中に罪を償う決心をして、また社会に戻っていくのだ。
確かに彼らは罪を犯したが、立ち直ろうとするその姿は素直に立派だと思えるので、そう伝えると殆どのものが照れくさそうに俯いた。彼らは多分、周りに褒めてくれる大人が居なかったのだろう。
そうして縦川に面倒を見てもらった少年の中には、時が経ってまた会いに来てくれる者もおり、今でも付き合いのある子たちも居たりする。お陰で縦川自身も仕事に悪い印象を持っていなかったので、積極的に引き受けていた面もあった。
だから今回も彼のところにも真っ先に電話がかかってきたのだろう。
「……住み込みですか?」
ある日、本山から頼まれた保護司のボランティアは、それまでとは少し毛色の違うものだった。
「うん。他のお寺にも声をかけたんだが、お子さんがいるところじゃ思春期の男の子を預かるのはちょっとってね、断られてしまって。縦川くんまだ独身だし、部屋余ってるだろ? 居候させてやってよ」
「そりゃ構いませんが……親はどうしてるんですか? どうして子供を寺に預けようなんてするんですか」
内容次第ではきっぱり断ろうと思っていたが、もちろんそれには理由があった。
「うん、それがねえ。どうもその子はご両親が他界なされているらしくて、最近海外から帰ってきたばかりだから頼れる親戚もないみたいで」
「はあ……そりゃ難物ですね。一体、何をしちゃったんです?」
「詳しくはわからないけれど、ユーチューバー迷惑防止条例違反だそうだ」
「え!? それはちょっと……」
それは確か例の超能力騒動の後に出来た条例だ。とすると、相手は超能力者の可能性が高い。これは慎重に考えたほうがいい。縦川が口ごもっていると、
「縦川くん、罪を憎んで人を憎まずだよ。悔い改める気持ちがあるなら、どんな人でも対等に接しなきゃ」
言ってることはご尤もだが、押し付ける側が言うセリフでは無いだろう。多分、本山はユーチューバーの正体を知らないからそんな呑気に構えてられるのだ。縦川が、どうしようか、断ろうか……と悩んでいると、本山の僧侶はお構いなしにこう続けた。
「まあ、取り敢えず一度会ってみてよ。手に負えないなって思ったら、連絡してくれたらまた考えるんで。とにかく行き先決まるまで一時的にせよ預かって欲しいんだ」
「穏やかじゃないなあ……でもまあ、とにかく会うだけなら」
「そう? 悪いね。それじゃ先方に連絡しておくから、今から出てこれるかい?」
「今日ですか? 人を預かるなら部屋の片付けもしなきゃいけないでしょ」
「男の子なんだから、そんなの気にしなくていいよ。君のとこからだと……恵比寿まで出てきてもらえるかな」
「はあ……せっかちだなあ」
「警官が一人付いてるけど、相手の子は見ればすぐに分かるよ。白髪の少年で、名前は上坂一存。先方が言うには、手のかからない大人しい子だそうだから。頼めるかなあ?」
その名前を聞いた時、縦川の頭の中でパリパリと音を立てて電気が走るような感覚がした。あの時の少年が、いま行き場が無くて困っていると言うのだ。
親友の家に居た謎の居候で、外務省が外国との秘密裏の取引で保護していたらしくて、超能力者を巡る団体にも目をつけられているらしくて、公安が周辺を洗っているらしい少年である。
下柳が言うには、いつの間にか彼のメールアドレスを知っていて、他にも何故か知らないはずの情報を知っていて、先回りするような指示を次々と飛ばしていたらしい。彼自身は否定していたが、あの日あの場に超能力者が二人も居たことを考えれば、多分、彼自身も何らかの力を持っているのかも知れない。
どう考えても怪しい人物で、断るのが当然だろうが……
「わかりました。すぐ迎えに行きます」
縦川は即決すると、それ以上詳しい話を聞くこともなく電話を切った。
次に会ったら礼を言おうと、その機会を探していたのだ。だったら何も迷うことはないだろう。彼が困っているなら助けてやればそれでいい。
梅雨の谷間の6月下旬。照りつける太陽がアスファルトを焦がし、藍色の空にはずっしりとした入道雲が横たわっている。風は凪ぎ、ジメジメとした空気が肌に張り付いて、大量の汗が滴り落ちていた。
縦川はそんな中を手ぬぐいを肩にぶら下げて、下駄を鳴らしてカラコロと、恵比寿まで歩いていった。目黒川沿いの桜並木を歩いていたら、気の早いセミがもう鳴き出した。間もなく、夏が訪れようとしていた。
こうして、縦川雲谷と上坂一存の共同生活は始まった。
(第一章・了)




