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終末の笛吹き男  作者: 水月一人
第四章・永遠の今
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ヒトラーの勝利の世界

 その場に居るだけで、空気が変わってしまうという人は居る。良い場合もあれば悪い場合もあり、前者の場合は人々はリラックスし、後者の場合は緊張を強いられる。善と悪、そんな関係をも連想させるが、しかしこの時シャノワールに現れたその人は、そんなものなど超越していた。


 その青年が現れた瞬間、店の中はピンと張り詰めたような緊張と、母の腕に抱かれた時のような安心感で満たされた。何故、そんな気持ちになるのだろうか、そもそも、彼がいつ現れたのかすら分からないけれども、ひと目その姿を見るなり、その場に彼が居ることが奇跡であると、その場にいる誰もがそう思った。


 青年は呆然と見上げる恵海の涙を拭うと、リラックスするようにその肩にぽんと手を乗せた。そして後ろから抱きしめるような姿勢で彼女の手を取ると、その指を鍵盤の上に乗せた。指と指が絡み合い、その体温が伝わってくる。


「……いっちゃん?」


 その瞬間、恵海はその人のことを思い出した。


 ずっと昔から一緒に居た、はじめて会った時からずっと好きだった。彼の背中を追いかけて、早く大人になりたくて、ピアニストを目指し、その彼を想って瓦礫と化した東京の街で待ち続けたあの日を。


 彼のことを考えない日は無かった。彼のことを想わない日は無かった。何故なら彼女は、彼のためにピアノを弾いていた。彼女がピアニストたる所以は、彼を思うが故だった。なのに、どうしてこんな大事なことを、今の今まで忘れていたのだろうか……


「落ち着いて……一緒に弾こう、エイミー」


 呆然とする恵海の肩越しに、彼の声が響いてくる。聞きたいことは山ほどあって、何から聞けば良いのかわからないくらいだった。


「でも」

「ほら、お客さんが待っているよ」


 しかし彼女が口を開こうとするよりも前に、彼は用意していた返事みたいに、言葉の代わりにピアノの鍵盤をぽんと叩いた。


 彼の左手が鍵盤を叩き、メロディを奏で始めると、恵海の右手は知らず知らずのうちに、彼の伴奏に合わせて動き出した。まるでそうするのが当たり前みたいに、昔からずっとそうしていたかのように、何も意識していないのに、自動的に恵海の指は動き出した。


 メロディが流れると、一斉に客席から感嘆の息が溢れ出した。今まで聞いたこともないような完璧な音に、客席は圧倒されていた。はじめてのことなのに、信じられないくらい息がピッタリの二人に、人々はうっとりとした視線を浴びせかける。


 恵海はそんな音を自分が出していることに驚くと同時に、彼女からそれを引き出している彼に驚愕した。彼女の指はさっきから、彼のその完璧な音についていこうとして、勝手に追随していたのだ。しかしそれは信じられないことだった。何故なら、彼は彼女と違って、ピアノはズブの素人だったはずだ。


「どこで覚えたの?」


 もっと他に聞きたいことはあるはずなのに、彼女の口から真っ先に出てきた言葉は、そんなそっけない物だった。とても生き別れになった恋人に対する言葉じゃなかったが、それでも彼女はピアニストとして、それを聞かずには居られなかった。


「時間ならいくらでもあったからね」


 すると彼は何てこともないようにそう答えた。恵海は彼の言うその意味を完全には理解できなかったが、それでも自分がピアニストであるからこそ、それが膨大な時間を意味することに気がついた。そしてその瞬間、永遠とも呼べるほど長い時間の中で、彼が一体何をしていたのか、彼女はなんとなく理解してしまったのだ。


 ある日突然、上坂は居なくなった。と同時に世界は落ち着きを取り戻した。その影には白い人という不思議な存在が居て……その人のことを思い出そうとしても誰も思い出せないのだ。


 何が起きたのか、はっきりしたことはわからない。だが一つだけ分かることは、彼は犠牲になったのだ。彼女はその尊い犠牲に胸を打たれると同時に、どうしようもなく悲しい気持ちが襲ってきた。


 ピアノの鍵盤を叩く指先が、まるで自分とは別の生き物みたいに動いている。彼女はどうしようもなくそわそわしてきて、耐えきれなくなって言った。


「こんなになるまで、あなたが世界を守る必要があったの?」

「もちろん、あったとも」


 すると彼は当たり前のように言った。


「何故なら、この世は美しい。この世は辛いことだらけ、だからこそ救いと愛がある。人生は山登りのように苦しいけれど、ふと振り返ってみた時の景色みたいに、その道程には美しい光景が広がっていたんだ」

「でも、あなたは一人じゃない」

「そんなことはないさ。俺はいつもみんなといた。何度も挫けそうになったけど、君がいたから今まで続けてこれたんだ。辛い時……苦しい時……俺はいつもここに来て、君のピアノに癒やされていた。君がいたから世界が美しく輝いて見えたんだ。だからまた聞かせてくれよ。俺はいつもここにいて、君の演奏を聞いているから」


 彼女はやっぱり彼の言ってることの意味が分からなかった。それはそうだろう。もし彼がこの世界を救おうとしているのなら、そんな彼がどうなってしまったかなんて、常識では計り知れないことのはずだ。しかし、だからこそ彼がいつもそばに居てくれたというその言葉が信憑性を増すと共に、どうしようもなく嬉しいことのように思えた。


 二人の息がピッタリの演奏に、客席の人々が酔いしれる。それは速度と複雑さを増していき、人々の心に突き刺さった。しかしどんなものにも終わりがある。やがてその演奏がゆっくりとしたリズムで終わりを告げると、しんと静まり返った店内は、次の瞬間には割れんばかりの拍手と歓声でいっぱいになった。


「弾いてくれよ、エイミー。君のピアノが聞きたいんだ」


 彼はそう言って、覆いかぶさるように身を寄せていた彼女から、そっと離れた。恵海はそれが少し残念に思えたけれども、すぐに彼の言葉に力強く返事を返すと、請われるままにピアノを弾き始めた。もうさっきみたいな悲しい気持ちはどこにも無くなっていた。


 店内にはまたピアノのメロディが流れた。それは今まで恵海が演奏したどんな音よりも迷いが無く、そして美しい音だった。客席の人達は、まるで人が変わったかのような彼女の演奏に驚くと同時に、その音色に聞き惚れた。


 縦川がそんなやり取りを唖然と見守っていると、たった今まで彼女と共にあった人がにこやかな笑みを湛えながら近づいてきた。


 縦川はその背後に光が射しているような錯覚を覚えて、思わず自分の目を擦った。対して相方の酔っぱらいの方は、そんな彼の神性には全く無頓着な様子で、


「よう、上坂じゃねえか。久しぶりだな。まあ、ここ座れよ」

「しぃ~……静かにしろよ。下やん、今は演奏中だぞ」


 彼が唇に指を立てるジェスチャーをしてみせると、下柳は真似して同じように指を立てながらウインクして見せ、自分たちのテーブルに彼のことを招き寄せた。


 縦川は彼が近づいてくる度に、まるで物理的な力場にでも押されているかのような圧迫感を感じていた。どうして下柳の方は平気なのだろうかと戸惑っていると、そんな縦川の様子に気づいた彼が、実に慈愛に満ちた神聖な表情で笑いかけながら、


「やあ、雲谷斎。久しぶりだな。尤も、あなたからしてみれば、ほんの数日のことかも知れないけれど」

「上坂君……君は一体……」


 どうなってしまったんだ? 縦川がそんな疑問を口に出そうとすると、彼はゆっくりと首を振りながら、


「その話はまた今度ね。今は彼女の演奏を聞いていたいんだ」


 彼はそう言うと、縦川たちのテーブルの空いていた席に腰掛け、目をつぶってリラックスした表情で、彼女の演奏を聞き始めた。縦川は、それもそうかと思い、同じように瞼を閉じて、彼女の演奏に耳を傾けた。


 すると閉じた瞼の裏側に、星々がきらめくような光景が流れ出した。その楽しげな光景に身を委ねていると、心の奥底で、まだ見たこともない星々を懐かしむような、ずっと知っていた気持ちが溢れ出してくるような気がした。


 そんな不思議な感覚に触れて、縦川はこれが音楽を楽しむってことなのかなと、なんだか奇妙な感覚を覚えていた。音楽の良し悪しというものは口にだすことが難しいけど、誰しもなんとなく心の中では分かっている、そんな気持ちだ。それはきっとDNAに刻まれた、根源的な感覚なんじゃなかろうか。


 ああ、そうか。音楽を楽しむってのはこういうことだったのだなと……ウキウキとする気分で彼はそんなことを考えながら、隣に座るもう一人の彼に向かって、君はどんな感覚なんだろうかと尋ねてみようと、そう思った時だった……


 パンッ


 っと、素っ気ない、クラッカーのような音がして。


 ピシャッと自分のほっぺたにお湯のような液体がかかった気がした。


 縦川は、さっきから飲んだくれている下柳がイタズラでもしたのかと思い、ムッとしながら目を開けると……


「きゃああああああーーーー!!!」


 っと甲高い悲鳴が客席から響いて……


 次の瞬間、縦川の隣で座っていたはずの彼が、ゆらりと地面に吸い込まれるように倒れ込んで行く姿が見えた。


「え……?」


 呆然としながら、縦川はさっき自分のほっぺたにかかった液体を手で拭ってみた。見れば、その手のひらには、どす黒い血液のような液体が付着している。


「う、うわ……うわわわっ!!?」


 突然の出来事にパニックになった縦川が椅子から転げ落ちるように飛び上がる。向かい側で酒を飲んでいた下柳が、信じられないものを見るような目を向けている。縦川が、そんな彼の視線の先を確認すると、そこにはあの夏の日に、同じ屋根の下で暮らしていた小柄な少女の姿があって……


 次の瞬間、それまで聞こえていたピアノの音がぱったりと途絶えたかと思ったら、


「いやああああああああーーーー!!!」


 恵海のこの世のものとは思えないような悲鳴が、店内に轟くのであった。


************************************


 ドンッ!


 っと、大音響を響かせて、シャノワールの店内に屈強な男たちが飛び込んできた。日本では見慣れない重火器を手にした彼らは、入ってくるなり客席で戸惑う人々を威嚇するように、その銃口を天井に向けて乱射した。


 タタタタタッ……っと、映画で聞いたことのある銃撃音がして、次の瞬間、それによって撃ち抜かれた天井の照明器具が、ガシャンガシャンと音を立てて客席に落っこちてくる。途端に蛍光灯や天窓の破片が客席に散乱し、あちこちから悲鳴が上がった。


「きゃあああああーーー!!」


 パニックになった客が、我先に逃げ出そうとして入り口に殺到する。しかし狭い入り口がボトルネックになって、押し出された人々が将棋倒しに倒れて、見るも無残な結果となった。


 逃げ遅れた人達は、入り口とは逆方向に走って壁際に張り付く。身を隠す場所を探して誰かがテーブルを倒すと、そこへめがけて他の客たちも突っ込んできた。


「いや……いやああああーーー!!!!」


 耳をつんざくような甲高い声が恵海の口から漏れ出して、それを耳元で聞いてしまった縦川の三半規管がクラクラとした。眼の前には小銃を構えた美夜が居て、いつ自分も撃たれるかわかったものじゃない。


 逃げようとしてもたついていると、横合いからグイッと引っ張る手が伸びてきて、彼は下柳に引きずられるようにしてテーブルの下に押し込まれた。


 同じく、パニック状態の恵海を、駆け寄ってきたアンリが引きずっていった。錯乱する彼女はバタバタと手足をバタつかせていたが、どこからそんな凄い力が出てくるのか、ビックリするような速度でアンリは恵海のことをバックヤードへ運んでいった。


 その背中に向けて銃撃が加えられるが、間一髪、それは従業員出入り口の金属の扉に阻まれた。カンカンっと火花が散って、扉に銃痕が刻まれていく。その音に恐れをなした客が悲鳴をあげると、重火器を持っていた屈強な男がうるさいと怒鳴ってストックで客の顔を殴りつけた。


「お、お客様から離れなさい! あ、あなた達は何者ですか!? 警察を呼びましたよ!! すぐ来ますよ!」


 客に危害が加えられたことで職業意識が勝ったのだろうが、クロエが将棋倒しになった人々の中から這い出てきた。彼女は毅然とした表情で、店の中央に佇む美夜に向かって挑むように言ったが、すぐに彼女の周りを取り囲むように男たちが銃口を突きつけてきて、真っ青になって手を挙げた。


 そんな勇敢な彼女に気づいた美夜が、ニヤリとした笑みを浮かべながら言う。


「警察を呼んだか。それはいい。ちょうど武器の追加が必要だったのだ。このあと警察署でも襲撃しようと思っていたところだ、向こうから来てくれるなら好都合だぞ」

「ひっ!?」


 男の一人が銃口でクロエのほっぺたを小突いた。彼女は真っ青になって、その場に腰を抜かした。それを見て美夜が愉快そうに哄笑する。


「ははははははは!!」


 縦川はそんなふうに高笑いしている美夜の隙きを突いて、彼女の足元でぐったりとしている人を助けようとした。しかし、彼の手がその人に触れそうになった正にその時、縦川の延髄の辺りに、ぐいっと重い物が押し付けられて、


「おっと、そこまでにして貰おうか」


 彼は美夜に銃口を押し付けられていることを悟って、その場で正座したまま手を挙げた。


 美夜はもう抵抗してこないと判断すると、銃口を彼からどけて、代わりに床に転がっている青年へ向けた。


 蹴飛ばされ、仰向けになった彼が、肩を激しく上下させながら、仰ぐような呼吸で美夜のことを見上げている。その虚ろな瞳が何も反射していないのは、彼にはもう何も見えていないからだろうか。


 美夜はそんな彼の顔に唾を吐き捨てると、実に忌々しそうに言った。


「ちっ、我ながら実に間抜けだったよ。まさか、死んだと思ったこのガキが生きていたとはな……親の方を殺したことでうっかりこいつのことを失念していた。まさか最後の最後になって、我が野望を邪魔してくるとは」


 銃口が彼の眉間に押し付けられる。それを見ていた縦川は、させてはいけないと、咄嗟に叫ぶように言った。


「お、お前は何者だ!? 美夜ちゃんじゃないな? さては、おまえが欧州争乱の諸悪の根源、ヒトラーなのか!?」


 すると今にも引き金を引こうとしていた美夜は、おやっとした顔をしてから、


「ほう、貴様は私が何者かを知っているのか……如何にも、私はヒトラー。この世の最後の王として、人類の上に君臨する王である」

「その最後の王とやらが、どうしてこんな場所にいるんだ!? 何故、こんなことを……」

「ふん、ただの姑息な時間稼ぎに何の意味があるか知らんが、まあ良いだろう。私は先ごろ、欧州の覇権を手に入れるべく、神に匹敵する完璧なる作戦を持って、あと一歩のところまで欧州を追い詰めることに成功した。ところが、超常の力によって確定されし我が未来を、更に上回る超常の力によって潰され、私の夢は破れてしまったのだ。屈辱だった……何故こんなことになったのか。神人(ゴッドメンシュ)たる我が野望を阻止できるのは、同じく神人のみ。だから私は、私の野望を邪魔した愚か者を探したのだ。


 すると私は大統領の言葉の中にそれを見つけたのだ。白い人だかなんだか知らぬが、アストラル界に侵食してまで、この人類の未来を書き換えている悪魔がいることに。尤も、それさえ分かってしまえば、あとは私にとっては簡単なことだ。この悪魔がどこの誰だか知らないが、こいつが出てくるところを叩けばいい。こいつは時限の狭間を彷徨いながら、時折こうして現世に現れることに気がついた。だから私はここで張っていたのだよ。この馬鹿がのこのこと現れたところを、こうして殺してやるためにな」


 ヒトラーは小銃の先で床に倒れているその人の頭を強かに打ち付けた。皮膚が裂けて、彼の額から血が流れる。しかし既に意識が朦朧としている彼は、まったく痛みに反応しなかった。それが癪に障ったのか、ヒトラーは何度も何度もその頭を叩き、


「やめろっ!!!」

「うるさいっ!!」


 堪らず叫んだ縦川に向かって、今度はその銃を警棒のように叩きつけた。硬い鉄の塊で頭をガツンとやられた縦川が、クラクラとしながら床に這いつくばる。ヒトラーはその姿を見ると満足そうな笑みを浮かべて言った。


「ふん。愚かな。肉体に固執するからそうなるのだ。神人と化した魂は本来ならば消滅しない。だが、こうして肉体を滅ぼしてしまえば、肉体に固執する魂は来世へと向かう。こいつは何か願掛けをして、この世に留まり続けていたのが仇となったな。間もなく、こいつの魂は肉体を離れて、集合的無意識の渦に溶けるだろう。ただの無垢な魂として再生され、取るに足らない来世へと消え去るだろう。永劫回帰だ」


 そしてヒトラーは小銃を彼の額へ突きつけ、引き金を引いた。


「さあ、死ね、上坂一存! 貴様は私をほんの少しだけ焦らせたよ。だが、それだけだ。今こそ私は千年王国を築き上げる最初の王になる。神人の神人たる神人の王。神王となるのだ! あははははは!」


 彼は自分に酔ったような高笑いを響かせると、突然、人が変わったように目を血走らせながら、


「死ね! そして聞け、人類よ! 今度こそ私の……ヒトラーの勝利だ!」


 パンっと乾いた音がして、ヒトラーの持つ小銃から弾が発射された。それは正確にその場に倒れるその人の頭へと到達し、そして彼の頭の中身を全部床にぶちまけた。


 縦川の顔に、腕に、体に……彼の頭から飛び散った中身が、液体が、ビシャっとかかり、彼の身体を汚した。縦川は自分にかかるその液体を手で拭うと……


「ああ! なんてこった、上坂君! 君は……君はとっくに」


 彼は拭った自分の手のひらに、ベッタリとついていたその生暖かい液体を見ながら、大声で叫んだ。


「--・・-・・-・・じゃ無かったのか!?」

「ふははははははは……あははははははは……はっははははははははは!!!」


 彼の驚愕の叫びにかぶさるようにヒトラーの高笑いが店の中にこだまする。その哄笑はいつまでもいつまでも続き……東京の夜空へと吸い込まれるように消えていった。


*********************************


 神は死んだ。


 たった一人の神により、どうにかこうにか支えられていたこの世界は、それによって支えを失い、またあっという間に混沌へと落ちていくのだった。


 目覚めたばかりの大統領はまた眠り病に罹り……歯止めの効かなくなった中東ではついに核戦争が勃発し……欧州は何者かによる扇動で内戦が起こり……それを阻止しようとするアメリカと、ドイツのクーデター側の双方がドローン兵器を投入し……何の罪もない無辜の人々が犠牲となった。


 双方が互いに悪と呼び合ってしまったら、機械にはどちらが排除すべき悪なのか、判断できなかったのだ。そんな暴走とも呼べる機械による無差別攻撃を前に人類は為す術もなく……そして一度動き出した機械を誰もとめることは出来ず……戦線はどんどん拡大されていって、欧州の人々は逃げ場を失った。


 だが、仮に逃げられたとして、どこへ行けばよかったのだろうか。聞くところによれば、アメリカはもっと酷いことになってるそうだ。中東は核兵器の使いすぎで火の海と化し、放射性物質で侵され人が住めなくなっている。その核戦争の被害は中東だけではなく、核の冬という形で世界中へと広がっていった。


 間もなく、世界中のあちこちで、暑くもないのにスコールのような雨が続き、それが何日経ってもやまずに、洪水が発生した。その大災害を生き延びた人々は、今度はいつまでも晴れない天候不順のせいで食べるものを失い、空腹に耐えかねた人々による略奪と殺人が起こりはじめる。


 その争いは醜く凄惨を極めたが、この時に死ねた人は寧ろ幸運だったのかも知れない。何しろこのあとどれだけ経っても食糧不足が解消されることはなく……人々は空腹か、もしくは機械によって殺された。


 そしてそんな人々の略奪行為を阻止すべく、機械人形=ラストバタリオンが動き出す。


 元々は九十九美夜シリーズと呼ばれたその機械人形は、人々に秩序をもたらすという目的の下、ヒトラーに従わない者を容赦なく殺戮していった。ヒトラーは人々をアーリア人種と奴隷とに分け、またアーリア人種と認められた人であっても、能力のない者、反抗的な者は容赦なく殺されるのだった。


 こうして人類はAIの管理下で、機械のように従うか死ぬかの選択を迫られ、徐々にその数を減らしていく。やがて肉体を持つ人はこの地上から駆逐され、ヒトラーが神人と呼ぶ機械人形だけがこの世界に残った。


 これが人類の終焉……ヒトラーの勝利の世界だったのだ。


************************************


 そして、一年後。


 2030年。12月。首都圏、某所。


 かつてショッピングモールと呼ばれた巨大な建物内……その中の瓦礫に埋もれた一角で、何やらゴソゴソと蠢く影があった。


「ふみぃ~……むぉっ!? んしょっ……いたたた……なんれすか、これは」


 彼女は自分の上に伸し掛かっている瓦礫の山を懸命に押しのけ這い出てくると、パンパンと体についた砂埃を払って、真っ暗な店内を見回しながら言った。


「ここはどこれすか? マスター?」


 そのあどけない表情をした九十九美夜は、とても人類を次々と抹殺していったそれと同じものとは思えなかった。実際、彼女はそれとは違った。もし、ヒトラーが作った九十九美夜が悪だとしたら……それは善良なる者が作った善なる美夜だったのだ。


 そう、彼女はあの日、成田空港で、上坂達が立花倖を見送った時に、一緒にドイツへと飛んだ美夜……


 その彼女が、この何もかもが終わってしまった世界で、目を覚ましたのである。


(第四章・了)


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