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終末の笛吹き男  作者: 水月一人
第四章・永遠の今
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白い人

 秋葉原駅で降りて、昭和通りをいつものようにシャノワールに向かって歩いていくと、久しぶりに交差点で渋滞するテールランプの川が見えた。このところずっと都内は、まるでゴーストタウンみたいに閑散としていたのだが、ようやく人が戻ってきたようである。


 無人のタクシーやバスが人を吐き出していく姿を見ていたら、人々が何に怯えていたのかが分かった気がした。結局、人々は移民もAIもBIも、別に嫌がっていたわけじゃない。単に進化のスピードについていけなくなっていたのだ。


 人間は一度覚えた楽は簡単にやめられないのだが、それが当たり前になればなるほど、批判された時、それが悪いことのように思えてくるのだ。


 人生そんなに甘くない。若いうちから楽ばかりしてると、将来苦労するぞ。今からそんなんでどうする。体を使って働け働け。そう言われると、なんだか罪悪感が湧いてくる。我々は未来をまだ知らないのだから。


 だが、本当に楽であるなら、年寄りはもっとスマホを使っているはずだ。なのにガラケーすら満足に使えない人が多いのは何故だろう。そう考えれば、それは時代についてこれない年寄りの、ただの言い訳に過ぎないと気づくだろう。


 結局、我々は原始時代に戻れるわけないのだから、一度覚えた楽を簡単に捨ててはならないのだ。そんなことをしてしまえば、次に出てきた『(テクノロジー)』が更に難しくなってしまう。それじゃ本末転倒なのだから、時代を受け入れていくしかない。乗り遅れてはならない。


 AIが仕事を奪ってしまうなら、仕事をしないで生きていく仕組みを作るしかない。それが人類の進化なのだと受け入れていくしかないではないか。しかし、人間は紀元前からずっと生きるために働き続けてきたのだから、働かないことへの罪悪感を簡単には拭い去れないのだろう。


 狭いビルの階段を上って、シャノワールの扉を開くと、中から楽しげな人々の喧騒が聞こえてきた。一時期は欧州騒乱のせいで閑古鳥が鳴いていたそうだが、GBの騒動を乗り越え、エイミー・ノエルという看板を得て、今となっては界隈でも人気のフレンチとして知られているようである。


 縦川たちが店の入口に立つと、それに気づいたセルブールのアンリエットがにこやかな笑みを湛えながら近づいてきた。彼女はすっかり常連になった二人のコートを受け取ると、


「あ、縦川さん下柳さん。お二人ともいらっしゃいませ。お待ちしてました。今日はエイミーさんの公演がありますから、いつものカウンター席は使えませんけど、代わりに一番いい席を用意しておきましたよ」

「こんばんわ、アンリちゃん。今日はお招きありがとう。クロエさんに便宜を図ってもらえるくらい、俺達も常連になったもんだなあ」

「何言ってるんですか。今日、お招きしたのは私達じゃありませんよ。エイミーさんじゃありませんか」

「あれ、そうだったっけ?」


 縦川が首を捻ってそう返すと、アンリは目をパチクリさせながら、


「じゃなきゃ、そんないい席取りませんって。お二人なら厨房からでも文句言わないでしょう? そしたらその分の席代儲かりますし」

「割と酷いこと言うよね、君……でも、そうか。そうだったなあ」


 縦川はなんとなくしっくり来なかったが、よくよく記憶を手繰ってみれば、確かにそうだった気がして、それ以上考えないようにした。


 そう、元々彼はこの店の常連で、今年の夏に恵海を紹介したのが彼だったのだ。だから彼女が店で演奏する時は、こうして招待して貰えるのだ。今までも何度かそんな機会があったはずだ。どうしてそれを忘れていたのだろうか……


「でもホント不思議だよな。おまえとエイミー・ノエルが知り合いだったなんて、高校からの付き合いだった俺だって知らなかったんだぜ」

「そうだったっけ。別に隠してたつもりはないんだけど」

「それに、愛さんだっけ? すげえ美人と、いつの間にか仲良くなってやがってこんちきしょう。秋なんか、二人で旅行までしてたもんな、おまえたち」

「わあ、そうなんですか? 縦川さん、やりますねえ」


 縦川はブルンブルンと千切れるくらい首を振りながら、


「違う違う。あれは彼女のお姉さんが欧州でお亡くなりになられたから、俺が相談を受けて一緒にお迎えにいっただけだよ。彼女とは別にそういう関係じゃないから」

「ふーん。じゃあ、どういう関係なんだ?」

「それは……」


 言われて縦川は、はたと気づいた。実際、彼女と自分はどういう関係なんだったっけ? そもそも彼女とは、いつからの付き合いだったろうか。すごく昔から知っていたような気もするし、つい最近だったような気もする……


 思い返せば、二人は縦川君、愛さんと呼び合う仲だが、これと言って親しくなった切っ掛けが思い出せない。それどころか、彼女に関する記憶を思いだそうとしても、靄がかかったように何も思いせなかった。


 なんだこれは? 欧州に一緒に行ったり、こんな風に招待を受けたり、彼女とはかなり懇意だというのに、どうしてそんな彼女との思い出がこんなにも少ないんだろう? 彼女のことを何も知らないんだろう?


 ……こんなことってありうるのか?


「まあまあ、下柳さん。他人の恋路にばかり首突っ込んでると、自分の幸せが逃げちゃいますよ」

「それもそうだなあ」

「いや、俺たち別にそんなんじゃないんだけど……まあいいや」


 縦川は何か納得の行かないものを感じながらも、これ以上二人にイジられるのも癪だからと、話題を切り上げることにした。気になるんなら、また今度愛と会った時にでも彼女に聞いてみればいいだろう。


 アンリに促されて、二人は店内中央に置かれたピアノの直ぐ側の席に案内された。普段は壁際に追いやられているピアノが、今日は主役とばかりに店の一番目立つ場所に置かれていた。


 店に通い始めてから10年経つが、いつも埃かぶっていたそれがピカピカに磨かれて、客たちの視線を一身に浴びているのを見ると、なんだか成長した我が子を見ているかのような、感慨深いものを感じた。


 店内を見回してみると、客席にはロマンスグレーな年配者の方が多く、以前とは違って落ち着いた音楽ファンが集まるようになってきたようである。春先はチャラチャラした若者が多くて、安売り路線を余儀なくされているとクロエが嘆いていたが、うまく客層を変えることに成功したようである。たった一人の女の子がピアノを弾くだけで、これだけ客が入れ替わるのだから、やはり音楽とは偉大なものである。


 そんなことを考えつつ、アンリに渡されたメニューを見ながら、コースにしようか、軽くアラカルトにしようかと迷っていたら、縦川たちのテーブルにオーナーのクロエがやってきた。


 二人の前では年相応に振る舞うアンリの背中がピンと伸びる。その姿を見て苦笑しながら、一体何の用だろうかとクロエの顔を見てみれば、その表情はどことなく困ったような感じで……


「いらっしゃいませ、縦川さん。お待ちしておりました。実はその……少々、お時間よろしいでしょう?」

「どうも、クロエさん……なんか用ですか? 俺なんかで良ければ、お話聞きますけども」


 何かあったのだろうかと彼が目を瞬かせてると、クロエは他の客には聞こえないように、小声で縦川に顔を近づけて、


「実は、エイミーさんの様子がちょっとおかしくて……縦川さんがいらしたら、バックヤードに来て欲しいとおっしゃってまして。ご来店を心待ちにしていたところなんです」

「エイミーさんが? 何かあったんですか?」

「それが私にもさっぱり……なんでも、縦川さんに何かお話があるとかないとか」

「なんだろう……」


 縦川達を店に招待したのは恵海である。その彼女が呼んでいるというのであれば、行かないわけにはいくまい。縦川はクロエにそう返事すると、困惑の表情を隠さないクロエに案内されて、店の奥へと向かった。


 カウンター席のある厨房の脇を通って、従業員出入り口をくぐると、バックヤードに置かれた机の前に、ボーッとした表情の恵海が腰掛けていた。部屋には従業員の着替え用のロッカーが並び、大きな姿見が置かれている。


 恵海はそんな中で、リサイタル用の衣装に身を包みながら、何やら考え事をしているようだった。その表情がすぐれないのは、きっと考え事に没頭するあまり、周囲が見えていないせいだろう。彼女は縦川たちが入ってきても、しばらくその事には気が付かず、じっと鏡を見ながら何かを考え込んでいるようだった。


 クロエがそっと呼びかけても彼女は微動だにせず、眼の前で手のひらをヒラヒラさせたところでようやく気づいた彼女は、そこに縦川の姿を認めると、驚いたような表情を見せてから、すぐに安堵の息を漏らした。


「まあ、雲谷斎様、いらしていただけなのですね。突然お呼び立てして申し訳ございませんですわ」

「いえ、いつでも呼んでくれて構いませんが……なんだか深刻そうですね。どうかしたんですか? エイミーさん」

「ええ、実は……クロエさん。少しの間、二人きりにしてもらえませんか?」


 話し始めようとしていた恵海は一拍置くと、突然、その場に居たクロエに退席を願った。彼女は一瞬驚いたようだったが、頼まれてまでそこに居ることに固執する理由もないことから、すぐに部屋から出ていった。


 対して、縦川の方はそうまでして自分に言おうとしていることが想像もつかず戸惑った。二人はそれほど親しくもなく、そんな相談を受けるような間柄ではないのだ。もちろん、断るなんて選択肢はないが、年頃の女の子が相談するなら、もっと適任の人がいるんじゃないかと、なんだか罪悪感に似たような気持ちが湧いてきた。


 しかし、その相談の内容を聞いて、すぐに彼の考えは変わった。確かに、それは彼以外に相談することが出来るような内容ではなかったのだ。


「雲谷斎様…これから話すことはもしかしたらあなたを不快にさせるかも知れません。もしくは、私の頭がどうかしてしまったのかと思われるかも……ですが、出来れば最後までちゃんと聞いて欲しいんですの」

「ええ……俺で良ければ」

「実はその……今日のシャノワールでの公演は、私があなたをご招待したわけですけど……」

「はい」

「その……私は本当に、あなたのことを招待したんでしょうか?」

「……はい?」


 縦川は思わず目をパチクリさせた。そんなこと言われても、はいそうですとしか言いようもない。だが彼女の深刻な表情を見ていると、それが言い出しにくかった。彼女は本気で、自分の記憶に対して不信感を抱いているようだった。


「実は、このところずっと変なんですの。私は夏頃から、ここシャノワールでこうしてピアノの演奏をさせて戴いているのですが、どうしてそんなことになったのか、その切っ掛けが思い出せないんです。記憶を手繰ると、私は雲谷斎様に頼まれて、この店でピアノを弾くことになったのですが……ですが今思い返してみると、どうして私は突然そんなことをやろうとしたのか、その理由がさっぱりわからないんですわ」

「どういうことでしょうか?」

「あの頃の私は何と申しますか、少し頑なになっておりまして、自分のピアノを誰かに聴かせることよりも、ただ自分の音を追求したいと家に閉じこもっておりました。シャノワールでの演奏は、そこから脱するための切っ掛けになったのは事実ですけど……ですが、その切っ掛けとなったのが、あなたの説得だったという事が、今思い返してみると、どうにも腑に落ちないんですの。あなたは、どう言って私のことを連れ出したのでしょうか?」

「どうって……」


 縦川は戸惑った。言われてみれば、彼もそれが思い出せなかった。確か今年の夏、シャノワールが困っていると聞いた時、縦川はすぐに恵海のことを思い出して、彼女ならなんとかしてくれるだろうと説得に行ったのだ。そのための材料ならあるから、自信満々だったはずだ……だが、それが何だったのか、いまの彼には思い出せなかった。


「他にも奇妙なことがいっぱいあるんですの。私は芸能界に復帰し、ここシャノワールで演奏をするために、西多摩の家を出てわざわざ湾岸のタワーマンションに引っ越していますが、そうまでしてシャノワールに拘ったり、一度は辞めてしまった高校に通い直したり……そうする理由が思い出せないんですの。こんなことって有り得ます? 人にとっては些細なことかも知れませんけれども、私にとっては一生を左右するような、重大な決断だったと思いますのに……」

「……確か、エイミーさんが美空高校に通い始めたのは、大学に進みたいと考え直したからですよね?」

「はい、そうですわ。私は大学でしっかりと音楽を学び直して、それから欧州へと留学したいとそう考えたんですわ。ですが、それもなんだか変な話でしょう? 私の家族は元々、みんなドイツで暮らしていますのに、何故私は一人だけ日本に残っていたんでしょうか。もしも欧州へ留学するなんて夢があるのなら、そんなことしないで一緒にドイツへ行けば良かったでしょう。私は、お父様のこともお母様のことも、もちろん愛しておりますわ。彼らと一緒に暮らすことは、何にも苦痛じゃありませんでしたのに」

「なのに、日本に残っていたなら……それは、日本に残るだけの理由があったからなんじゃないですか?」


 縦川がそう指摘すると、彼女は少し考え込んでから、


「ええ、そう考えるのが自然でしょうね。ですが、私にはそうする理由が全くないんですわ。5年前、東京インパクトがあった時……私は恐ろしくてブルブル震えておりました。お父様が日本からドイツに拠点を移すと聞いて、ホッとしました。ところが、私は何故か日本に一人で残っていました。そうする理由はないはずなのに……」

「それは、本当なのですか……?」

「はいですの……私、考えれば考える程こんがらがって来てしまいまして、このままじゃピアノなんて弾いていられませんわ。雲谷斎様……いえ、縦川様。どうして私は、こんなことになっているんでしょうか? あなたは何か知りませんか? あなたは……あの夏の日、どうやって私を説得したんでしょうか。いえ、そもそも、私とあなたは、そんなに親しい間柄だったんでしょうか……どうして私は、あなたのことをこんなに信頼しているんでしょうか……私はあなたと、いつ、知り合ったんでしょうか……」


 矢継ぎ早に投げかけられる質問に気圧されながらも、縦川は彼女の言う通り、自分たちが出会ったはじめての時を思い出そうとしていた。すると、彼も自分の記憶に妙に曖昧なところがあることにすぐ思い当たった。


 まるで昔からの知り合いのように思っていたのに、実は恵海と初めて出会ったのは、彼女をシャノワールに連れてくる数日前だった。それも、何故彼女に会いに行ったのか、その切っ掛けが思い出せないのだ。


「……確か、エイミーさんと俺が知り合ったのは、夏のある日、秋川渓谷にあるあなたのお屋敷を訪ねていったからですよね?」

「……ええ、そうですわね」

「言われてみれば、俺もあなたに会いに行った理由が、どうにもよく思い出せません。俺とエイミーさんは、それまでこれといった共通の知り合いがいなかったはずのなのに、いきなり会いに行くなんて理由がない。それも、確かあの日は、前日に東京インパクトの犠牲者の追悼式典があって、俺は何故かあなたに徹夜明けで会いに行ったはずだ……そうまでして性急に会いに行こうとした理由がわからない」

「追悼式典……あっ!」


 縦川の言葉が切っ掛けとなって、恵海が何かを思い出したようである。


「それはお台場で行われたものでしょうか?」

「ええ、そうです」

「その追悼式典なら、私も参加しておりました。私は誰かのために祈りを捧げたくて……そう、美夜! 美夜と一緒に出掛けていきました。あの子、会場でフラフラしているものだから、私困ってしまいまして……」

「……美夜? 美夜ってのは……」


 すると恵海ははっと息を飲んでから、どこか罪悪感に満ちたような青ざめた表情で、


「美夜はその……私のお父様が作ってしまった、人造人間のことですわ。あれのせいで、欧州はとんでもないことになってしまって……そして愛社長のお姉さまはお亡くなりに……」

「愛さんの……? あっ!」


 キンっと、まるで頭の中で鐘でもなるかのような音がして、その音の波紋が広がるように、途端に縦川の記憶が妙にクリアになっていくのを感じた。彼はたった今、この瞬間まで、九十九美夜の存在を忘れていたのだ。


 あれだけ世界を騒がせたと言うのに……それに、立花倖を殺してしまった張本人なのに……どうしてそんな大事なことを、自分は忘れてしまっていたのだろうか。縦川は困惑気味に続けた。


「美夜ちゃん……そうだ。美夜ちゃんだ。俺はあの日、あなたの家で初めて美夜ちゃんと出会ったんだ。あの子は俺を見るなり、神様がどうとか聞いてきて、俺が仏教徒だと言うと癇癪を起こして……そんな時に、あなたが庭の騒ぎに気づいて家から出てきて……そしてその場にいた誰かに……誰かに、抱きついていた……ような」


 縦川はその瞬間、自分の記憶の中に、何故か不自然に靄がかかったような部分があることに気がついた。その靄は夏から秋にかけて頻繁に現れ、何故か重要なことほどその記憶を曖昧にさせる。特に、美夜に関する部分の欠落が酷く、そのことを思い出そうとすると、腹の底に冷たい鉄塊でも押し付けられたような気持ち悪さを感じるのだった。


 彼は胸のあたりでもやもやする違和感に耐えながら言った。


「エイミーさん、俺は君と出会ったのは、元々俺が愛さんと知り合いだったからだと思っていた。でも違った。俺が愛さんと知り合ったのは、君よりももっと後のことだった。俺は一時期、何故か知らないが美夜ちゃんと一緒に暮らしていて、そんな彼女がドイツで愛さんのお姉さんを殺してしまったから……彼女を荼毘に付すために欧州へ行ったんだ。どうしてこんな大事なことを忘れてしまっていたんだろう。エイミーさんと知り合ったのも、愛さんと知り合ったのも、御手洗さんと知り合ったことでさえ、俺は自分から君たちに会いに行ったわけじゃないことを忘れていた。俺と君たちの間に……きっともう一人、他の誰かが居たはずなんだ」


 縦川が勢い込んでそう言うと、恵海はそんな彼に縋るような目つきで何度も何度も頷いて、


「私も、もしかしたらそうじゃないかと思っていたんですの。でも、確信がありませんでした……私は誰かのためにこの国に残り、この半年ずっとその誰かと一緒に居たように思うんですの。そうでもなければ、この胸の中にぽっかりと穴の空いたような感覚が説明できませんわ。けれども、それが誰なのか……何者なのか、私にとって半身とも呼べるようなその存在のことを、私はどうしても思い出せない……こんな不安な気持ちを抱えて、私はこれから一体どうやって生きていけばいいんでしょうか……」


 縦川はまるで今にも死んでしまいそうな真っ青な顔をしている恵海に向かって、慌てて言った。


「とにかく、今は落ち着いて下さい。エイミーさん……あなたと話して確信しましたが、どうも俺たちには共通の記憶の欠落があるらしい。今はそれが分かっただけでも上出来ですよ。恐らくこの記憶の欠落は、俺達だけじゃなく、俺たちを取り巻く他の人達にもあるはずだ。多分、愛さんや、下柳、それに御手洗さんなんかも怪しいでしょう。もしかしたら、あなたのご家族もそうなのかも……落ち着いたらみんなを集めて、一度話し合ってみるといいかも知れない。そしたら何か分かるかも知れませんし、だからまずは落ち着いて……」

「ええ、ええ……そうですわね。これからピアノを弾こうなんて時に、こんなではいけませんわね。ですが、どうしてこんな奇妙なことが、私達の身に起こっているのでしょうか。この、妙な記憶の欠落は、果たしていつか埋めることが出来るのでしょうか……」

「……そうですね」


 縦川はふと、何かを思い出したかのように言った。


「白い人……」

「え?」

「ほら、白い人です……眠り病から目覚めた大統領や総理大臣が、夢の中で出会ったって言う。彼らは確かに夢の中でその人に出会ったんだけど、それを思い出そうとすると、靄がかかったように思い出せない。その部分だけが視界からくり抜かれたように真っ白で、だから白い人だって。俺たちの記憶から欠落してるのが、もしかしてその白い人なんじゃないでしょうか」

「な、なるほど……ですが、私達は眠り病に罹ったことはございませんよ?」

「そうですね。でも、もしかしたら罹ったことがあるんだけど、それを覚えていないのかも。もしくは、今、俺達が見ているこの現実世界が夢なのかも……そう言えば、眠り病に罹った人達は、自分がそれに罹っていることを認識できないって言いますよね。そう考えると、俺達が今感じているこの違和感は、眠り病のそれなのかも知れません」

「そんな……もしもそうなら、私達はどうすれば元に戻れるのでしょうか?」

「それはわかりません……わかりませんが……」


 二人が深刻な顔でそんな話をしていると、部屋の扉がコンコンとノックされた。ハッとして二人が扉の方を振り向くと、開いた扉の向こうから、アンリが困った顔をしながら入ってきて、


「エイミーさん? 時間なんですけど、そろそろよろしいでしょうか。実はもう、予定の時間をだいぶ過ぎちゃってて、お客さんがそわそわしだしちゃってて」

「……まあ! もうこんな時間でしたの? 申し訳ございません、すぐに準備いたしますわ」

「すみません、急かしちゃって……それじゃ、もうじき始まるって場を繋いでおきますから、出来るだけ早くお願いしますね」


 アンリはそう言うと、パタパタと慌ただしく去っていった。恵海はそんな彼女の背中を見送ると、こわばっていた肩の力を抜くかのように、大きく息を吸って深呼吸し、


「私はプロです。取り敢えず、今はお店の方に集中しましょう。縦川様……こんなことお願いするのも気が引けますが、これが終わったら、また私とお話をしていただけませんでしょうか? やはり私、どうしてもこのことが気になって仕方がないんですの」

「もちろんです、俺もそうですから……お待ちしている間、下柳にも色々と話しをぶつけてみますよ。そうだ、どうせなら愛さんも呼びましょうか。彼女なら何かわかるかも知れない」

「はい、そうですわね……」

「それじゃ、気になるでしょうけど、今は集中して。後のことは後で考えましょう。俺も客席で応援してますから、頑張って下さい」

「は、はい、ありがとうございますですわ」


 縦川はまだどこか緊張していそうな恵海をおいて、バックヤードから客席へと戻った。


 予約席に戻るとテーブルにはオードブルが並べられていて、一人ほったからしにされていた下柳がグビグビとワイングラスを傾けていた。本当は、恵海との話を彼に相談したかったのだが、顔が真っ赤で、すでに目がトロンとしているのを見ていると、あまり役に立ちそうもなかった。昨日の夜からずっと勤務だったと言っていたから、酔いが回るのが早いのだろう。


 仕方なし。絡んでくる下柳を交わしつつ、注文した料理に手を付けていると、しばらく経って従業員出入り口から恵海が姿を現した。


 途端に待ってましたと言わんばかり、店内のあちこちから拍手が起こり、その拍手に答えるように、ドレス姿の恵海がお辞儀をする。しかし、その表情が優れないのは、やはりまだ先程の話を引きずっているからだろうか。


 そんな縦川の心配はすぐに現実のものとなった。


 客の前に出てきた恵海は、ピアノの前で改めて一礼すると、椅子に腰掛けてすぐにピアノに向き合った。いつもなら、出てきていきなり弾くことはなく、軽く客席に向かって挨拶代わりのトークをするのだが、今日はそれをすっかり忘れているようだった。彼女はそうして場の雰囲気を和らげ、自分もリラックスしていたのだが……今日に限って彼女はそれを怠ってしまったのだ。


 そのせいで客席には、どこか緊張したような空気が垂れ込めており、その空気が彼女自身にも影響したのか、恵海はピアノに向かっていてもしっくりこない様子で、まるで調律でもしているかのように、鍵盤を叩いては止め、叩いては止め、しばらく繰り返した。


 いつまでたっても演奏を開始しない恵海に対し、客が戸惑い、妙な緊張感が走る。彼女を見に来た客たちの間でひそひそとした会話が交わされ、期待はずれに思った人達の表情がこわばっていった。


 恵海はその時になってようやく周りの様子に気が向くようになったらしく、ハッとした顔をすると、すぐに客席に向かって、


「もうしわけございません。いつものルーチンを忘れてしまいましたわ。私、こう見えて験を担ぐ方でして」


 と言って、少し強張った笑みを浮かべた。


 その笑みを見て、客席も少しホッとした空気が戻ってきたが、それもつかの間、恵海が深呼吸してまたピアノに向かうと、彼女は急に糸でも切れたようにそわそわと落ち着きを失い、先程のように鍵盤を叩いては止めるという行為を繰り返した。


 明らかに様子がおかしい恵海に、客席の雰囲気が凍りつく。これはまずいことになったと察したアンリが、姿勢を低くしながら恵海の元へと近寄っていく。精彩を欠いた恵海は、近づいてきたアンリに大丈夫かと問われると、ついにポロポロと泣き出してしまった。


「す、すみません……ちょっと感情が高ぶってしまって……すぐに落ち着きますから、すぐに……」


 恵海はそう言うが、その見るからに痛々しい姿に、客席も彼女の様子がおかしいことに気づいたようだった。もし体調がすぐれないなら、無理しないでという優しい声や、金払ってるんだからしっかりしろという意地悪な声が、客席のあちこちから聞こえてくる。


 恵海はその一言一言にビクビクと肩を震わし、溢れる涙はどんどんと量を増していった。


 縦川はそれを最前列で見ながら、こりゃ駄目だと思った。多分、彼女はさっきの話で頭がいっぱいなんだろう。あの時、嘘でもいいからもっと気の利いたことを言って、彼女を落ち着かせておくべきだった。自分の中に記憶の欠落があるというのは、気持ちの悪いことなのだ。縦川でさえそう思うのだから、ピアニストという繊細な職業である彼女がどんな風に思っているのか……


 縦川はなんとか彼女を励ます方法がないかと辺りを見回した。せめて何かして客の気を引いて、彼女のために時間が稼げないかとそわそわしながら客席を見渡していると……


 と……その時……ポーンっと……鍵盤を叩く音が店内に響き渡って……


 そのたった一音が、それまでとは違って、何故か人の心にスッと入ってくるような、そんな響きを持っていることに気がついて……縦川は驚いてその音の鳴る方へ目を向けた。


 すると、ピアノ椅子に座りながら泣いている恵海の隣に、いつの間にか一人の青年が立っているのが見えた。


 彼は泣いている彼女に対してにこやかに笑いかけると、まるでそうするのが当然みたいに、溢れ出る彼女の涙をその指で拭った。


「……上坂君」


 縦川はその姿を見た瞬間、何故かそんな名前を口走っていた。


 それが誰なのかは分からない……だが、そこにいる人が、そんな名前だったことを、彼は心の奥底に封印された箱の中から見つけ出していたのだ。


 ポーン……っと、ピアノの鍵盤を叩く音が鳴る。そのたった一音に、何故か店内の客たちは言葉を失った。たった一音だというのに、それが完璧に調律された音であることが、誰の耳にも分かるのだ。


 それは多分、奇跡の音だった。世のピアニストたちが目指す完璧な音がそれだった。


 その日、シャノワールに集まっていた客たちは、その音を前に完全に沈黙していた。そこにいる青年の持つ圧倒的な情報量を前に、どんな形容の言葉も失ってしまったのだ。


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