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終末の笛吹き男  作者: 水月一人
第四章・永遠の今
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銀行馬券とはこのことだ

 西暦2029年、12月29日、土曜日。大安吉日だと言うのに、その日の縦川雲谷はついていなかった。


 朝起きればタンスの角に足の小指をぶつけて、痛みにのたうち回っていたら、ぶつかった拍子に机の上からドサドサと郵便物が雪崩を起こして埋もれてしまった。散らばった郵便物をため息混じりに整理整頓してから、少し伸びてきた髪の毛を剃ろうとしたらカミソリ負けしてピューと血が吹き出す始末。


 慌てて傷口を拭いながら、昨日買っておいたジャムパンを頬張りつつ、コーヒーメーカーのスイッチを押してから、その隣で点滅していた寺務所の留守電の再生ボタンを押してみたら、着信28件……どれもこれも、縦川に講演に来て欲しいという地方自治体からの依頼だった。


 あの日、御手洗に頼まれて都知事選の政見放送で眠り病対策を呼びかけて以来、彼は一躍有名人になっていた。彼自身はそんなつもりは無かったのだが、あの状況下で落ち着いて行動しましょうと呼びかけた彼の言葉は、かなり多くの人々の心を打ったらしい。


 あれ以来、あの放送のお陰で安心できたとの手紙が送られてくるようになった。更には都知事選の結果を受けて会見を行った饗庭玲於奈が、彼のお陰で選挙期間中も惑わされずに落ち着いた行動を取れたと絶賛したために、いずれ統一選が実施される予定の、他の自治体からラブコールが送られてきたというわけである。


 無論、その影には御手洗の暗躍があり……どうやら彼は未だに縦川のことをホープ党に一本釣りすることを諦めていないようだった。政治家なんて御免こうむりたいから、どうにかこうにか交わしてはいるが、取り込まれるのも時間の問題なのかも知れない。縦川としては今までどおり、自由気ままにラジオNIKKEIを中心とした生活を送りたいのだが、世間はいつまでそれを許してくれるのだろうか。


 そのラジオNIKKEIであるが、今日は朝からずっと競馬中継をやっていた。一時期は国内の雰囲気が暗すぎて、開催が見送られるかも知れないと言われていた有馬記念は、紆余曲折の末に、今年もスケジュール通り行われる運びとなったのだ。


 もちろん、競馬ファンである縦川は、せっかくの年末のお祭りなんだから、現地まで観戦に行くつもりであった。


 だが、朝起きていそいそと出かける準備をしたまでは良かったものの、寺を出ようとした時、ふと誰かと待ち合わせをしていたような気がして……それが誰だか思い出せず、ぐずぐずしている内に昼過ぎになってしまっていた。


 競馬を見に行く約束なんてするのは、高校時代からの友達である下柳くらいしか思い浮かばないから電話してみたのだが、ずっと取り込み中であるらしく、いつまで経ってもその電話は繋がらなかった。約束してるならこんなことはないはずだし、自分の記憶違いだろうか……?


 その後、何度か電話してみたものの繋がらず、縦川はいい加減諦めると、何故だかしっくりとこない気持ちを抱えたまま寺を出た。


 境内を掃除しに来ていた猫好きおばさんに留守をお願いしてから、最寄りの池尻大橋駅へと向かう。代々木駅で総武線への乗り換え待ちをしていると、駅の外をホープ党の街宣カーが通り過ぎていった。


 都知事選で勝利したとは言え、未だに移民への警戒心を解けずにいる人々は大勢いるらしく、御手洗はそんな人々の不安を解消すべく、車椅子に乗りながら都内のあちこちを回って演説を続けているそうである。


 彼を刺したのはその反移民の若者であったが、そんな若者を当たり前のように許し、なおかつ信念を曲げずに戦い抜いた姿は立派である。きっと御手洗はいずれ日本を背負って立つ政治家になるんだろうと、友人として誇らしい思いがするが……


 そう言えば、どうして御手洗と知り合ったんだっけ……? なんだかその辺の記憶が曖昧なような気がするのだが……


 縦川は首をひねった。確か夏頃、都内の高校で出会ったのだが、高校に何の用事で行ったのかが思い出せなかった。今度彼と会った時にでも話してみよう……そんなことを考えながら電車に揺られて、中山競馬場に到着する。


 競馬場に着いた時には、もう午後のレースが始まっていて、有馬記念を目当てにやってきた人々でスタンドは大賑わいだった。いつもなら全レースの予想をするのであるが、縦川はそんな群衆と一緒にパドックを眺めていてもなんだか今日は気分が乗らず、競馬新聞を折ると、オッズを見ながらメインレースの予想だけをしていた。


 とは言っても、買う馬券はもう決まっていた。クラシックシーズンが始まる前から、今年の三冠馬間違いなしと言われていたものの、その第一弾レース皐月賞で怪我が発生してしまった幻の三冠馬、ゴールデンジャーニー。オルフェーブルのラストクロップにして最高傑作と呼ばれるあの馬が、暮れの有馬記念に間に合ったのだ。


 前走、菊花賞こそ2着と破れてしまっていたが、怪我の休み明けにも拘わらず、長距離レースでいきなり優勝争いを演じたのは、この馬が本物である証拠と言えた。


 昔から皐月賞はその年で最もスピードのある馬が勝つと言われ、ダービーは最も運の良い馬が勝つと言われ、そして菊花賞は最も強い馬が勝つと言われている。実際、菊花賞を獲ったあとに、その年のジャパンカップや有馬記念で好走する三歳馬の例は枚挙に暇がなく、その菊花賞馬が有馬記念を回避した時点で、ゴールデンジャーニーの勝利は揺るぎないものと思われた。


 ファン投票の人気も堂々の第一位。誰もがこの馬に期待している、真のサラブレッドなのだ。縦川の夢は否応もなく膨らんでいった。


 そして日が傾き、冬の夕日がスタンドを赤く染めようとする頃、G1のファンファーレが中山競馬場に鳴り響いた。場内に詰めかけた20万人の群衆の大歓声で鼓膜が破れそうだった。場内にはゲート入りが順調であることを告げるアナウンサーの声が響き渡る。


『暮れも押し迫るこの中山競馬場に、今年も私達の夢を乗せて18頭のサラブレッド達がターフを駆け巡ります。あなたの夢は何でしょう。私の夢は、ゴールデンジャーニーです。各馬ゲートイン順調です、最後に大外枠から係員離れまして、第74回有馬記念。今、スタートしまし……おーっと! ゴールデンジャーニー落馬! ゴールデンジャーニー落馬! スタート直後、わずか1メートル、大本命ゴールデンジャーニーが何かに躓いたかのように転がり、鞍上と共に私の夢まで吹っ飛んだーーー!!』


 縦川はその場に崩折れた。


**********************************


 その後、最終レースを見るのも億劫になった縦川は項垂れながら帰途についた。流石に日本を代表するレースだけあって、これだけを見に来たという一般客も大勢いたからか、まだ最終レース前なのに駅へ続く地下道は人でごった返していた。


 春先に学習していたので、帰りの電車賃まで使い込んでしまうなんてことは無かったが、そうしてスムーズに電車に乗れた分だけ、車内の人口密度は高かった。ぎゅうぎゅう詰めは堪らないので、西船橋で乗り換えのために降りると、ほんの少しベンチで時間を潰して人が少なくなるのを待つことにする。


 乗ってきた電車はそのまま京葉線へと接続していった。そのまま乗って南船橋まで行けば、今度は船橋競馬場にたどり着くはずである。こんなに近場に二つも競馬場もあって、千葉県民が羨ましい……などと思いながらそれを見送っていると、ふと夏に下柳とナイターへ行ったことを思い出した。


 あの時は確か、下柳が万馬券を当てたはずだ……自信満々に馬券を買おうとする初心者の彼を笑っていたら、的中されて面目丸つぶれだと思ったんだけど……あれ? でも確かそのあと行ったシャノワールでは、別の人に奢ってもらったような……あれ? あの時、誰かもう一人居たんだっけ?


 縦川は必死に何かを思い出そうとしてみたが、記憶に靄がかかっているかのように何も思い出せない。変だなと思いつつ、頭を叩きながら連絡通路を渡り、総武線のホームへ歩いていった。


 その後、総武線に乗り換える。車内は相変わらず競馬場からの帰宅者でいっぱいだったが、ところどころ空席がある程度には落ち着いていた。縦川はそんな車両のドア付近に立って、東京湾の方を眺めてみる。


 春先に皐月賞を見に来た時は、帰りの車内は移民でいっぱいだった。アラブ人や中国人が、夜の街に繰り出していく光景は、今はもう見られなかった。彼らは今頃何をしているのだろうか。故郷で楽しくやれてるのだろうか……


 車窓から埋立地の方を見ると、相変わらず広大な更地が広がっていた。復興から5年が経っても、これだけの土地が余っているのにその活用法はまだ見つかっていないのだ。それもこれも、国と東京都が喧嘩していたからだが、今回の都知事選での雪解けムードでそれも変わっていくのだろうか。元々、饗庭都知事はリバティ党出身だったし、世界情勢が混迷する今、総理もかなりやる気になってるらしい。


 その総理は眠り病から回復するや否や、アメリカ大統領とすぐに電話会談を行った。会談で彼らは、未だ混乱する欧州や中東情勢を回復するために連携することを確認する一方、眠り病に罹った自分たちが同時期に目を覚ましたことに関して話し合った。


 あの日以来、世界中では続々と眠り病から回復する人が増えていたのだが、その最初の段階で、アメリカ大統領や日本国総理、ドイツ首相のような、目覚めるだけで世界を落ち着かせられる有名人ばかりが真っ先に目を覚ましたのは、どこか意図的な物を感じると彼らは考えていた。そして、そのための情報交換を行った二人は、お互いの夢の中で奇妙な一致を見せていたことに気がついた。


 二人は眠り病に罹患していた時、自分たちがそのような病気に罹っていることには全く気づいていなかったようである。彼らの行った先の世界はこの世界と全く同じで、殆ど見分けがつかなかったらしい。だから彼らはその世界で自分の出来る最善を尽くし、各々その世界を救っていたそうだ。


 彼らはその世界で物語の中のスーパーマンみたいになっていて、やること為すことは悉く大成功し、人々の賞賛を一身に浴びた彼らはどこか違和感を感じながらも、それを現実と受け入れていたのだが……ある日突然、彼らの前にふらりと一人の人がやってきて、そこが夢の中であると告げたそうである。


 いきなり現れた人物のことを、普通なら二人とも警戒するところだったが、何故か彼らはその人を一目見るなり厳かな気分となり、自分が尊いものと対話していると感じたらしい。


 彼らはその人物によって現実の世界が危機に陥っていることを知ると、すぐに自分たちが元の世界に戻って対処することを彼に誓ったそうである。するとその人物は二人に感謝し、世界を助けるために何をすべきか知恵を授け、元の世界に戻してくれたそうである。故に二人は元の世界に戻るなり、まるで何もかもが分かっていたかのように、すぐさま行動を開始出来たわけである。


 それが何者だったかはわからない。というのも、夢の中で出会ったというその人物のことを、二人はまったく覚えていなかったのだ。覚えてないと言っても、普通ならば男女の別とか、身長とか言葉使いだとか、そういうことは覚えているものだが、二人はそれすらも思い出せない。何故なら、その人物のことを思い出そうとすると、まるで靄がかかったような……もしくは白内障にでも罹ったかのように、視界のその部分だけが切り取られて見えているように感じるのだそうだ。


 ただ、その切り取られた視界の部分が人の形をしていたから、彼らはその人を白い人と呼んだ。驚いたことに白い人は、他の眠り病から目覚めた多くの人たちも、夢の中で出会ったという記憶が残っているのだそうだ。


 彼らもまた、その白い人に助けられたという記憶だけが残り、他は何も覚えてないそうである。だから彼らはその不思議な人のことを、もしかすると神か仏のようなものだったのではないかと、そう考えているようだった。


「おーい、うんこくさい!」


 窓の外を見ながらそんなことを考えていたら、別の車両からこちらの車両に移ってきた人影が、突然そう呼びかけてきた。途端に車内のあちこちから好奇の視線が縦川に集まってくる。彼は苦々しい表情をしながらやってきた人物に向かって抗議するように言った。


「誰がうんこやねん」

「全国放送で自らそう名乗ったくせに、今更何言ってやがんだよ」


 近づいてきた人物……下柳は呆れた素振りでそうつぶやくと、まるでバスガイドみたいに、手のひらを車内の人たちの方へ差し向けた。


 下柳の声で、そこにいるのが誰だか気づいたらしき人々が、キラキラとした表情で縦川のことを見ている。彼は引きつった感じの愛想笑いを人々に向けると、背中を丸めて迷惑そうに下柳に向かって言った。


「なら尚更悪いだろう。あんまり目立ちたくないんだから、やめてくれよな」

「いやあ、おまえも有名になったものだね。友人として鼻が高いよ」

「全然そんなこと思ってないだろう……ったく」


 下柳の軽口にプリプリと怒りを表明したあと、縦川はふと思い出したように、


「そういえば下やん、今日はどうして来なかったんだよ? 俺、朝からずっと待ってたんだぞ?」

「え? 来なかったって……なんに?」

「何って……今日の有馬記念は、ずっと前から、一緒に行くって約束してただろう?」

「ああ、なんか混雑してると思ったら、そう言えば今日は有馬記念だったか……」


 下柳は手をたたいて感心したように呟いてから、すぐに怪訝な表情を作り、


「いや、有馬記念なのはわかったけど、おまえと約束なんてしてねえだろ?」

「え? したよ。夏頃、一緒に船橋に行った時に」

「船橋? ああ、そんなこともあったなあ……そういやあれって、なんで行ったんだっけ? おまえと二人で競馬なんて、珍しいよな、まあいいけど。そうそう、約束なんてしてねえよ。大体、半年も先の約束なんて普通するかあ?」


 言われてみれば確かにそうだ。縦川も何か変だと思って首を捻っていると、下柳は心当たりのない非難にムスッとしながら続けた。


「つーか、俺、昨日からずっと勤務だったんだぞ。前々から予定があるって分かってんなら、仕事なんて入れてねえだろ」

「それもそうか……」

「それに、連勤だったのは、今からシャノワールに行くためだろう? おまえこそ、今日の予定ちゃんと覚えてるんだろうな?」


 言われて縦川はハッと思い出した。そう言えば、今日は競馬のあとに、シャノワールで恵海の演奏を聞きに行くはずだった。それこそ、何日も前からそう決めていたはずなのに、彼は下柳にそう言われるまで、すっかりそのことを失念していた。


 どうしてそんなことになってるんだろう? 彼は少々焦りながらも、下柳から非難されないように、


「も、もちろん覚えてるさ。だからこうして、秋葉原に向かってるところなんじゃないか」

「……帰り道でもあるけどな。まあ、いいけどよ。おまえも変に注目されて、疲れてんじゃないのか。おかしくなる前に、休める時に休んどけよ」

「そんな疲れるほど何かしてるつもりないけど……おっかしいなあ。確かに、誰かと一緒に有馬記念見に来ようって言ってたと思うんだけど」


 記憶を辿ってみても、なんだか靄がかかったように思い出せない。あの夏の日。うだるような暑さの中のナイター競馬。万馬券を当てて大喜びして……そのあとシャノワールに行ってから、下柳が家に泊まりに来て、翌日秋川渓谷までキャンプをしに……あれ? キャンプなんて行ったっけ? それじゃ何しに奥多摩なんかまで出掛けていったんだろうか。いや、そもそも、あの日、下柳は泊まりに来ただろうか。


 何かを忘れているような気がする。何かというか、誰かのことを……誰だったか、名前が思い出せない。こう、喉の上の辺まで出てきてるのだけど、まるで魚の小骨が喉につっかえているかのような、そんな感じで言葉が出てこない……そんなもどかしさがあって……頭の中はぐちゃぐちゃで……なんだろう、この気持ちは。


 縦川がそんなことを考えていると、


「おい、雲谷斎……どうしたんだよ?」


 よほど自分の思考に没頭してしまっていたのだろうか、気がつけばいつの間にか、ものすごく近くに下柳の顔があった。彼は縦川の顔をまじまじと見ながら、


「おまえ……泣いてんのか?」

「え?」


 縦川はそう言われて、慌てて自分の目の辺りを手でこすった。するとぬるりとした水の感触があって、視界が急激にぼやけてきた。車窓を覗くと、外が暗くなった窓には車内の様子が映り込んでいて、そこに映った縦川の顔は、まるで死人みたいに真っ青だった。


 悲しくもないのに、どうして自分は泣いているんだ? 彼は少しパニックになりながらも、友人に心配をかけないようにと思って、


「これは、ゴールデンジャーニーの分だ……全額彼に賭けてたせいで、すっからかんになっちまったよ」

「ああ、そう、お馬さんね」

「強い馬なのに、今年は散々だったなあ……」


 電車は減速しはじめ、アナウンスが流れ出す。間もなく秋葉原に到着するとの言葉に、車内の人々が立ち上がり、縦川たちのいるドアまで詰めかけてきた。彼はそんな人々に顔を見られないように背を向けると、近づいてくる秋葉原のネオンを見つめた。


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