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終末の笛吹き男  作者: 水月一人
第四章・永遠の今
123/137

永遠の今①

 投開票日が近づく12月中旬。一時の混乱から脱した東京の街は、それまでとは打って変わってひっそりとしていた。


 縦川の呼びかけにより、家族や隣人の安否を確認し始めた人々は、地域社会の結びつきの大切さを改めて思い出した。そんな人々が協力しあって、困っている人々を助け始めると、それまで毎日のように起きていたデモやヘイトクライムは、ぱったりと鳴りを潜めた。


 結局、批判とは余裕のある内にしか生まれない。危機が目の前に迫っている時は、口を動かすよりも手足を動かした方が生存確率が増える。そんな当たり前のことは誰だって分かっていたわけだ。


 眠り病に罹ってしまった人々を収容した施設には、思いのほか大勢のボランティアがやってきた。眠り病患者というものを実際に目にした時、いつ自分がそうなるかわからないという不安が、人々にそうさせているようだった。


 饗庭知事がAIを活用し、物流を復活させてから数日。都内の品不足も徐々に落ち着きを取り戻してきて、人々の不満はだいぶ解消されてきた。そして動かしてみれば、あれだけ嫌がっていたはずの機械に対する不満はどこからも上がらず、結局、それを扇動していたのはドサクサに紛れて政敵を攻撃しようとした、政治家達の駆け引きでしか無かったことが露呈した。


 これにより、一時は対抗馬として拮抗していたリバティ・人民党候補に対する求心力はなくなり、都知事選は投開票日を待たずに決着がついたようだった。その影には政見放送で見せた縦川の訴えと、それを依頼した御手洗の暗躍があったのだが、気づいている者は殆どいなかった。


 因みに、あの日以来、すっかり有名人になってしまった縦川は、先頭に立ってボランティア活動を行っていた。元来、怠け者の彼であったが、僧侶になってしまった切っ掛けも5年前のボランティアだったのだから、なんやかんや文句を言いながらも、それが自分の仕事なんだと自覚しているようである。結局、彼はどうしようもなく善人なのだ。


 その姿は多くの人々に共感を与え、中でも上坂に対する影響は格別のものであった。人間性というものは追いつめられた時に発揮されるものだ。強い人は、どんな時でも自分を見失うことはない。彼は縦川のことを誇らしく思うとともに、かくありたいとそう願った。


 不思議なもので、こんな事態になってもまだ学校というものはちゃんとやっているもので、避難所と化した体育館の横で学生たちが運動着に着替えて体育の授業を行っているなんて風景が、全国あちこちで見られた。


 上坂も毎日、授業を終えてから縦川の寺までボランティアにやってきたのだが、元々それが通学路だったものだから、そうしているとまるで寺に帰ってきたような懐かしさを覚えた。


 今となっては彼が戻るのに反対する者は誰もいないだろうから、いっそこのまま寺に戻ってしまうのもありかも知れない。でもどうせ卒業まであとちょっとなんだから、それまでは学生寮にいるほうが便利だろう。どちらにせよ問題なのは、果たして卒業まで、この世界の方が待ってくれるだろうか……それがわからないことだ。


 国内は一時的に落ち着きを取り戻しているものの、世界情勢の方は相変わらず悪化の一途を辿っており、予断を許さない状況である。もはや預言者でなくても、誰でも終末を予言できそうなくらい、世界は狂ってしまっていた。誰も口には出さないけれど、心の奥底はそんな不安でいっぱいだったのだ。


 そして、江玲奈が見つかったのは、誰もが終末を意識しだしたそんな頃……上坂が、縦川の寺でボランティアを始めてから数日たったある日の出来事だった。


 縦川に頼まれたボランティアをやりながら、上坂は日ごとに増え続けていく眠り病患者を、こっそりと治療していた。例の猫好きおばさんや、商店街の知人などを、彼は放っておけなかったのだ。


 だが良かれと思ってやったとしても、本来なら誰も治らないはずの眠り病が、この周辺に限って改善しているのは傍目にはすごく目立ったようである。間もなく、マスコミが嗅ぎつけてきて、周辺を嗅ぎ回り始めた。


 たまたま、縦川の地元だと言うことから、マスコミたちは霊験あらかたな僧侶の奇跡と、勝手に盛り上げようとしていたが、上坂のことを知る医療従事者や、彼に助けられたことがある人達から、彼の存在が明るみに出るのは時間の問題と思われた。上坂はそれを恐れていた。


 もし、マスコミにばれたら……その時、自分はどんな選択をすればいいのだろうか?


 名乗り出て、ちやほやされるのが嫌なわけじゃない。頼られて責任を背負わされるのが嫌というわけでもない。彼が懸念しているのは、寧ろその逆だった。


 上坂の存在が知れたら、多分マスコミは無責任に、奇跡の力を持つ青年などと言って持ち上げてくるだろう。だが、上坂一人の力では、助けられる人数などたかが知れているのだ。上坂が患者を助けるには、直接彼らに会いに行くしかない。そんなんじゃ何万人も、助けられるわけがないではないか。


 国内だけでも数千万人のキャリアが居るのだ。その全てを助けられないとわかった時、一度希望を持った人々はどう思うだろうか。どん底に突き落とされたような気分になるんじゃないか。すると人々は、どうせ助からないなら、そんなこと知りたくなかったと嘆くだろう。その時、マスコミがどう責任をとってくれるというのか。


 そうなることは目に見えているのだから、もう手を出すべきじゃない。それは分かっているのであるが……なのに上坂は人々を助けることをやめられなかった。


 やれることと、やらないことは、似ているようで全然違う。彼は自分のやれることをやらずにいたら、一生後悔するだろうと思い、雁字搦めになっていたのだ。


 せめて、誰かに相談出来ればいいのだが、こんなことを相談出来る相手など誰もいなかった。縦川や御手洗に相談すれば、きっと彼らはどうすればいいと道を示してくれるだろう……


 だが、それに従うことは、結局相手に責任を押し付けることと同じだろう。彼らは自分には出来ないことを、上坂にやれと、もしくはやるなと言わなきゃならないのだ。そんなの、いつか必ず後悔することになる。どっちにしても失敗は目に見えているのだから。


 だから彼らには相談できない。しかし、自分ひとりでも決められない。どうすればいい、自分はどうしたいんだろうか……そんな風に思う気持ちが、彼女を連れ戻したのかも知れない。


*****************************************


 上坂がボランティアで縦川の寺に来ていたある日のこと。彼は近所の中学校に収容された眠り病患者の介護の手伝いをしてから、仮眠をとるために寺へと戻ってきた。


 あの日以来、寺務所はボランティアの活動拠点となっていて、色んな人が出入りしていたのであるが、その日、上坂が帰ってきた時は、不思議と静まり返っていた。


「おーい、雲谷斎?」


 寺には先に帰ったはずの縦川が居るはずなのだが、寺務所にも、本堂にも、彼の部屋にも、どこにもその姿は見つからなかった。もしかしたら行き違いで、また出掛けてしまったのかも知れない。例えばスナックのママのところで飯でも食べているのではないか。


 行って確かめてみるのがてっとり早いが、そこまでして彼の後を金魚のフンみたいに着いていくこともないだろう。特に用があるわけではなく、単におやすみの挨拶をしようとしただけなのだ。


 上坂はそう考えると、スマホの目覚ましをセットしてから寺務所のソファにごろりと横になった。寺には彼の部屋がまだ残されていたが、仮眠ならここで十分だ。


 明日は早朝に寮へ帰って、授業を終えたらまたここへ戻ってくるつもりだった。もう少ししたら冬休みになるから、そうしたらこっちで寝泊まりして新年を迎えればいい。あと少しの辛抱だ。彼がそんな風に考えながら、目をつぶった時……


 パキッ……


 っと、枝を踏むような音が聞こえて、寺の裏庭の方から人の気配がするのを感じた。


 寺には門が一つだけで、裏庭へは境内を通るしかない。さっき縦川を探していたとき、裏庭の方も見たはずだが、彼が居るのを見落としたのだろうか。しかし、それなら名前を呼んだ時に返事してくれなきゃおかしい。


 変だぞ? まさか泥棒では……


 残念なことに、世界がこんなことになってから、空き巣のような犯罪は増加の一途を辿っていた。物流が滞っていた一時期が最も多く、それ以来、味をしめた馬鹿な連中が今でも窃盗団のようなことをしているらしいと、SNSでよく話題になっていた。


 上坂はそれを思い出すと、一応、気の所為ではないことだけは確かめておかないとと思って、ソファから起き上がった。寺務所から出てすぐに立て掛けてある箒を持って、いざという時は躊躇なく110番出来るようにスマホを握って、彼は足音を忍ばせて裏庭への小道をそっと進んだ。


 しかしそこまで警戒しながら裏庭へ出た彼は、そこにいた人物を見て拍子抜けした。月明かりに照らされた銀杏の木にもたれるように、青白い顔をしたゴスロリ少女の姿が見える。彼女はじっと目を瞑って、まるで蝋人形のように微動だにしなかった。


 上坂は面食らった。あれだけ探して居なかった人が、いま目の前にいるのだ。


「江玲奈? 江玲奈じゃないか」


 声を掛けるとその目がスーッと開いて、焦点をあわせるかのように二度三度と瞬きしてから、視線が彼の顔を捕らえた。


「……上坂か。おや、この時期になってまた会えるなんて、驚いた」

「何を言ってるんだ君は? 今までどこをほっつき歩いていたんだよ。みんな心配してるぞ」


 上坂がサクサクと砂利を踏みながら近づいていくと、彼女は苦笑いしながら言った。


「そのうち、誰も気にも留めなくなるさ。君が気づいたのも、多分、君が僕のことを強く思ったからだろう。また明日になれば忘れてしまうさ」

「なに……? どういう意味だ?」

「もちろん、そういう意味だよ。僕はどこにも行かないし、どこにでも居る。君たちが求めれば、僕はどこにでも現れる。居なくなったと思うのは、君たちが僕のことを気にしなくなったからさ」

「いや、そんなことねえよ。君のお祖母さんも御手洗さんも、凄い心配してたんだぞ」


 上坂はそう言って彼女のことを嗜めたが、すぐになんとなく彼女が言っていることは、常識的な意味ではなく、文字通りの意味なんじゃないかと思い至り、改まって尋ねてみることにした。


「江玲奈、君の言ってることの意味が、俺にはいまいちわからない。君がどこにでも居ると言うのは、そのままの意味として受け取っていいのだろうか」

「まあね」

「なら、もうちょっと詳しく説明してくれないか。どこにでも居るなら何故姿を現さなかったんだ。何か困ってることがあるなら力になるから。戻ってこれるなら戻ってきてくれ、今、俺達には君が必要だよ」


 すると彼女は薄く笑いながら、


「君はそう言ってくれるけど、多分、限界が訪れてるのさ。そうだなあ……別に難しい話じゃない。君は僕が500年を生きる魔女であることを信じているのだろうか?」

「今更だな。もちろん信じてるよ」

「僕は500年前、インドで修行して悟りを開いた。そしてその教えを広めるために欧州へと帰り処刑された。その時、僕は諸行無常というか、もののあわれを感じたことで解脱したんだ。


 僕の身体は炎に包まれて灰になったが、僕の心は一切の炎を寄せ付けなかった。その瞬間、僕は僕の魂を縛り付けるこの世のくびきから解き放たれ、僕の魂はアカシャ……またの名を涅槃(ニルヴァーナ)で自由となった。つまり、輪廻の輪から解放されたわけだよ。


 でも、おかしいだろう? 僕の前世は君の先生の担当教授だった。その前はユダヤ人。その前はヘレナ・ブラヴァツキー。輪廻の輪から解き放たれたのに、僕は輪廻転生を繰り返している。どうしてだ?」


 そんなことを言われても上坂には何もわからない。彼は黙って首を振った。彼女はそんな彼のことを、慈愛に満ちた表情で見つめながら、話を続けた。


「とかくこの世は苦しみだらけ。ゴータマ・ブッダは釈迦族の王家に生まれ、何不自由ない生活を送っていた。ところが、そんな彼にも逃れられない苦しみがあることを知る。生老病死、これら4つの苦しみは、どんなに金を積んだところで解決しない。老いは誰にでも平等にやってくる。病に罹れば辛く苦しい思いをする。死にたくなくても死は必ず訪れるし、生きている限りそれらの苦しみから逃れられない。


 そう考えるとこの世は地獄であり、生まれてきた事自体が苦しむためのものとも思える。なのに人間は死ねばまた生まれ変わる輪廻という輪の中にいる。永劫回帰だ。つまりこの苦しみから解放されるには、輪廻の輪から逃れ、もうこの世に生まれてこないことだ。これを解脱とか、入滅とか、涅槃だとか、色んな言い方をするけれど、要するに僕ら人間は、滅することが最上の目的なんだよ。


 ゴータマは菩提樹の木の下でそれを悟り、この世から解脱しようとした。ところが、それを見ていた弟子のアーナンダは彼を引き止め、そのような素晴らしい悟りを開いたのであれば、我々にもその方法を教えてくれと請い願った。するとゴータマはそれもそうかと思いとどまり、以来、弟子たちに正覚(しょうがく)を得る正しい方法を説くことになる。


 上求菩提(じょうぐぼだい)下化衆生(げけしゅじょう)、上を向いては菩提にならんと求め、下を向いては衆生を教化せんとする。菩提、即ちブッダとなったゴータマは、それじゃあ今度はみんなにその教えを伝授しようと誓願(せいがん)した。だから彼は死ぬまでこの世に留まり続けることが出来たんだ。


 つまり、僕がこの世に留まり続けているのもそのためだ。


 僕はかつてアカシャにたどり着いた時、この世の始まりと終わりを知った。紀元前5000年に始まり2000年に終わる。たった7000年の短い歴史だ。


 人類の発祥が考古学的にはあり得ないほど最近であり、その幕切れがあっけないことに気づいた僕は、どうしてこの世がそんなことになっているのか、その理由を知りたいと思った。それが僕の誓願だ。僕はこの世の終末を回避するためにこの世に留まり続けているってわけさ」

「つまり、君が突然消えてしまったのは、終末が避けられなくなったからなのか……? 俺たちが諦めてしまったから」

「そうだね。故に、僕の魂はもうここにはない。ただ、僕の肉体自体はこの世に残る。求められたらこうして出てくることも出来る。本当は、誰にも気づかれず、このままひっそりと朽ち果てるつもりだったが……」

「なんとか助からないのか? お祖母さんや御手洗さんには、まだ君の力が必要だろう。東京の人のためにも。もし俺に出来ることがあるなら、なんでもやるけど」

「その必要はないさ。どうしても君が僕を求めるのであれば、僕は最後の日まで君と共にいるだろう。ただ、そうしたところで終末は避けられないんだ。いずれ終わりの日はやって来る」

「そうか……」

「君はそれを願うかい。そうして欲しいと言うのなら、僕は君の慰めとなるのも構わないが」

「いや」


 上坂は首を振ると、暫し沈思黙考してから、つい最近気づいたことを……彼女に会ったら、絶対に尋ねなきゃならないと思っていたことを口にした。


「ずっと考えていたんだ。君はどうすれば終末を回避できるかを示してはくれなかったけれど、俺ならばその可能性があると言っていた……そんなの矛盾だろう? 何も知らないはずなのに、どうして可能性だけはあるなんて言うのか。だからホントはもしかして、君はその方法を知ってるんじゃないかって、そう思ったんだ。そうしたら、なんとなくわかったような気がしたんだよ。


 君はこの終末を何度も繰り返しているという。平行世界は無限にあって、そのどれでも世界は必ず終末を迎えたって。普通に考えて、無限の可能性があるなら、どこかに必ず正解はあるはずなのに、何故か君はそこにたどり着けなかった。それは何もしなければ世界は必ず滅びるってことを意味してるんだろう。


 だから君は積極的にこの世界を救おうとしたこともあるはずだ。でもそれは出来なかった。何故なら君の誓願は、この世界が何故終わってしまうかを知ることだけで、世界を救うことではなかったからだ。寧ろ、君が世界を救ってしまったら、君の願いは永遠に叶わなくなってしまうわけだ。そしたら君をこの世に縛り付ける理由はなくなって、間もなく入滅してしまうだろう。


 いや、君にしてみれば、このまま世界が滅びてしまっても構わないんだ。君は終わりを知りたかったわけで、それは成就されつつあるんだから」

「なるほど……まあ、半分正解かな」

「違うのか?」

「そう、僕は終わりを知りたかったわけじゃなく、終わりと始まりを知りたかったんだよ。それは今日、この日を迎えなければならなかった」

「……どういうことだ?」

「それは君自身がいずれ知ることになるだろう。この世界が始まったのは、この世界に終わりが存在するからだ。光あるところに影があるように、善あるところに善ならざるものがあるように、始まりがあれば終わりがあり、終わりがあればまた始まりもある。


 君が終末を超えた時、この世の始まりをまた知るだろう。その時になってみればわかることだけど、それにはまずこの危機を回避しなければならない。そしてその方法を、君はもう思いついているんだろうね」


 彼はゆっくりと頷いた。


「……ああ。多分だけど。君は平行世界のどこへ行っても、終末を回避できないと言っていた。ならば他の世界に正解を求めるのではなくて、この世界で正解を導き出さねばならない。


 君は言った。この世界の終わりは人々が眠り病に罹り、平行世界に逃げ込んでしまうからだと。なら正解はとっくに分かっていたようなものじゃないか。眠り病になった人を、俺が片端から治してしまえばいい。10人なら10人。1千人なら1千人。70億人なら70億人。


 でもそうするには、俺がこの世に留まりながらも、無限の時間が必要になる。普通に考えればそれは不可能だ。だから、君に聞かなければならない。君は以前、タイムマシンの作り方を知っていると先生に言っていた。過去に戻り、同じ時間を何度も繰り返す方法を……それを俺に教えて欲しい」


 江玲奈は彼女らしい、いつものニヤリとした笑みを浮かべながら、


「その方法なら君はとっくに知ってるじゃないか。タイムマシンとは平行世界を自由に行き来することだ。時間を移動するには、平行世界の過去へと飛び、そこからまた別の平行世界へと移ればいい。ヒトミナナに愛されている君は、時間を止めることすら出来るはずだ。これ以上僕から何を教わろうと言うんだ?」

「そうじゃない。君が言ってるのは物質的な過去だ。過去に見える平行世界だ。それは似ているけれど同一ではない。過去へ戻る時、必ず世界が拡散してしまう、それじゃ駄目なんだ。俺が知りたいのは、この世界のある四次元時空の向こう側。ニルヴァーナへとたどり着く方法だ」

「……君は、高次元へたどり着き、直接人々の精神に働きかけようというのか?」

「そうしなければならないだろう。恐らく……今のままだと俺は終末を回避する前に、心のほうが死んでしまう。人間が途方もない長い年月を、誰かのためだけに生き続けるなんてことは不可能だろう。俺はどこかで音を上げて、人々を救おうとした気持ちさえ思い出せなくなる。何もせず、魂ごと消滅してしまう。多分、人間が感ずる時間の流れの中にいては駄目なんだ。そしてその方法を君は知っているはずだ。いや……そのために、君は俺の前に現れた。違うか?」

「なるほど……そうかも知れないなあ。しかし上坂。それにはこの世の未練を断ち切らねばならない。この世の因縁から解き放たれ、君が時間を超越する神霊と化す時、君はもうこの世成らざるものとなっているだろう。すると君のことを知る何もかもが、君が出会ったすべての人々が、きっと君のことを思い出さなくなるだろう。君は永遠の今を、彼らとは違う時間を生きることになるからだ。君は恵海に笑いかけて貰えることも、和尚たちと笑いあうことも出来なくなる。そんなことが君に出来るのか? 君は北海道旅行のとき、お父さんにまた会いに行くと約束したじゃないか」

「ああ、約束した。また会いに行くと……でも、このままだとあと何ヶ月かしたら、この世界は無くなってしまうんだろう。そうしたらもう会いに行けないじゃないか」


 彼は穏やかな表情で続けた。


「それに江玲奈、また会いたいってのはね、相手にその時まで元気でいて欲しいっていう願いの言葉なんだよ。俺はいつまでもお父さんと、エイミーと、雲谷斎と、姉さんと……みんなに元気でいて欲しい。もちろん、君もだ。それが俺の願いなんだよ」

「そのために君の人間性は失われ、ただの現象になったとしても?」

「ああ」

「そうか……」


 すると江玲奈は少し悲しげな表情を作ってから、抑揚のない平板な声で、彼の心を抉るような過去をほじくり返した。


「君は生まれながらにして母を亡くし、兄を亡くし、父に捨てられ、育ての親を殺されて、殴られ、蹴られ、辱められて、頭を割られて、脳を弄られ、人殺しの道具を作らされ、それをなじられ、何もかもを奪われて、それでもまだ世界を救いたいと言うのか? 誰のことも恨まないと誓えるか?」

「いいや、そんなことは誓えない」


 しかし上坂は間髪入れずにそれを否定した。


「俺が誓うのは、俺を救ってくれた人々を救いたいからだ。その他の人々は正直言って関係ない。だけど、たった一握りの人を救うために世界を救う必要があるなら、俺は全てを救いたいと思う」

「それは傲慢だね……」


 江玲奈は薄く笑みを浮かべると、一回だけ大きく息を吸って吐き出した後に、彼の目ではなく、空中のどこかを見ながら、ゆっくりとした口調で話し始めた。


「だが、それで正解だ。君はこれから邪念を捨てて、無我の境地に至らねばならないが、全てを救いたいなんて、どこから出てきたかわからない感情に振り回されていたら、そんなことは不可能だ。君が救えるのは一握りの人生にすぎない。だが、それでいい……君は君の魂のあり方に、何が必要で何が不要かをしっかり見極めろ。それじゃあ少し話してみようか。僕がたどり着いたアカシャ年代記のことを」


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