制止した時間の中で③
縦川の政見放送はすぐに反響があった。何か面白いことが起きないかと期待して見ていた向きにはあまり評判はよろしく無かったが、その内容の重大性は別の意味で人々の関心を強く惹き、動画がすぐさまネットで拡散されたのだ。
眠り病は独居老人のみならず、一人暮らしの若者の身にも起こりうるものであり、放送を見ていた者の中に、思い当たる節がある若者たちが多数含まれていたようである。
そういった若者たちが中心となって、ネットで安否確認が始まると、間もなく危険な状況にあった友人知人が見つかったという報告が続々とSNSに上がって、一時的にネットの回線がパンクしそうなくらいの騒ぎになった。
そして間もなく、縦川の宗派の寺に自主的に相談にやってくる人が増え、他の宗派やキリスト教会も追随してボランティアを開始し、自警団や市役所、警察が見回りを増やすようになると、一時期急増していた孤独死はピタリと止んだ。
それは眠り病によるアクシデントに見舞われてこの世を去った者のみではなく、世を悲観して自ら命を断つような自殺者をも減らしたようだった。誰かが見ていてくれるという事実は、それだけで人を安心させる。不安というものは孤独の内に起こるのだ。
これを受け、都知事選を戦っていた饗庭都知事は都内での演説を終えると、定例記者会見で選挙期間中も都政を優先することを発表した。特にインフラの復旧を最優先とし、一時的に活用を自粛していたドローンとAIによる自動運転を再開すると宣言、それに反対する声が上がると、投票で抗議してくれと半ば投げやりに答えた。
東京が瓦礫に埋もれたあの日から5年間、ずっとこのやり方でやってきたのだ。自分はこれ以外のやり方を知らない。それを本気で阻止したいなら他の候補者を選ぶしかないではないか。ならそうすればいい、そのための選挙なのだから。
彼女のそんな投げやりなセリフは一旦はマスコミに批判されたが、都民から向けられる冷ややかな視線を前に、すぐに彼らは報道を取りやめることになった。当たり前だが、食うにも困っている人々が求めているのは公正な政治ではない、食料なのだ。一方、都知事とは違って対抗馬の方は、これを一時の感情に流されただけと見て選挙演説を続けようとしたが、こと空気を読む能力に関しては饗庭知事の方が上であったようである。
結局、リーダーの資質とは能力ではなく、その人格にある。人間は何もかもを一人で成すことは不可能なのだから、生きていれば必ず誰かを頼り、何かを任せるしかない。例えば上司が部下に仕事を割り振る時、能力はあっても嫌味な上司と、能力は劣っても人格者の上司では、どちらの方が部下はより張り切るだろうか。対抗馬の人格否定ばかりを続ける政治家はいつか必ず見放される。
リバティ党はこの時になって、ようやく自分たちが悪手を打ったことに気づいた。ただ都知事を引きずり下ろすためだけに、政治的に敵対関係にある政党と組んでしまったのだ。そのような姿勢は反感しか買わないし、そして一度失った信頼は取り戻すことが容易ではない。彼らは慌てて全国の自治体に眠り病患者を保護するよう呼びかけたが、時既に遅かった。
本来ならば、都知事選の余勢を駆って解散総選挙を戦うつもりだったのが、たった一回の政見放送が切っ掛けで、いつの間にか状況は一変し、リバティ党は劣勢に立たされていた。これは誰の描いた地図だったのか。饗庭玲於奈という政治家は、空気を読む能力だけで政界を渡り歩いてきたような無能であったが、その空気を読む才に、今回もリバティ党は負けたのである。
因みに、人民党はそれでも選挙戦から手を引いたホープ党に対し、勝った勝ったと拡声器でがなりたてていた。なんと言うか、良い意味でも悪い意味でもブレない政党である。勝つためにはどんな卑劣な真似だってするというのは、競争社会では当たり前の行為であろうが、それはその方法が最も効果的である場合に限られる。いつも相手をこき下ろすことが正解というわけではない。だが、人民党はもう他には何も思いつかなくなっているようである。
なにはともあれ、選挙期間中にもかかわらず、趨勢が決まってしまった都知事選の一方、縦川たちのボランティア活動は続いていた。彼の呼びかけによって多くの眠り病患者が発見されたが、それで一件落着というわけではないのだ。
眠り病患者は何をやっても起きないから眠り病なのであって、孤独死しそうになっていた患者を見つけたからといって、それで目を覚ますわけではないのだ。見つけたら見つけたで、今度はそれを誰かが介護しなければならない。
医療機関が既に満杯の状況では、もはやボランティアに頼るしかないのであるが、眠り病は治療の見込みがないのだから、患者は増える一方なのである。介護する側にだって限度があるのだから、いつまで彼らを支え続けられるのか、先が全く見えない状況であった。
極端な話、本当に国民の4割が眠り病に罹患してしまったとしたら、それを善意だけで介護し続けるのは不可能だろう。どうすれば治るのか、いつ治るのか、そもそも治る見込みがあるのか、それすらわからない状況で、いつまでもそんなことを続けてはいられないだろう。しかし、そうして諦めてしまった時、人類が滅亡することは容易に想像がつく。人間が人間を見捨ててしまった世の中で、誰が誰を信じて生きていけるだろうか。
だが、縦川も言っていた通り、まだ起きていないことを悲観しても仕方ないのだ。戦争だ、終末だと言っても、結局のところ我々は毎日を生きていくしかない。一人ひとりがやれることをやっていくしかない。
今は一時的に落ち着いてはいるものの、相変わらず東京のインフラは滞り、国内では眠り病患者が増え続け、中東では戦争が起こり、欧州は憎しみの連鎖によるテロと暴動が相次いで、内閣総理大臣もアメリカ大統領も不在の今、混迷する世界を前にいつまでも正気でいられるかわからない。
人は夢だけを見て生きてはいけないが、夢がなくても生きていけない。将来に何の展望も見えないままでは、いつか潰れてしまうだろう。この暗いご時世で、人々を元気づけるために何が出来るだろうか。
GBのようなユーチューバーは動画を作り、避難所を回って子どもたちに笑いを届けていた。恵海のような芸能人たちはチャリティーコンサートを開いて寄付を募っていた。縦川は言わずもがな、下柳は警察として、御手洗は都政を与る政治家として、一人ひとりが自分に今やれることをやっている。
そんな中で上坂は一人迷っていた。
自分に関わる人々が皆、一生懸命に生きている中で、果たして自分は何が出来るのだろうか。自分のやるべきこととはなにか。
無論、彼はこの世界において唯一と言っていい、眠り病を治すことが出来る一人であった。他人からすれば、どこに迷うところがあるというのかと疑問に思うだろう。しかしだからこそ彼は迷っていた。
眠り病患者の増え方は尋常ではない。総理大臣を始め、今となっては他の議員にも、それどころか世界中の有名人著名人に被害者は出始めていた。それを知って動揺した国民の中から、また眠り病患者が続出し、家族や友達がそうなってしまった人たちが、また連鎖的に病を発症してしまう。悪循環が起きてしまう。
毎日数十人の罹患者が出たかと思えば、それが日を追うごとに増え続け、いずれは数百人と変わっていく。最終的にはどこまで増加するかはわからない。だが、上坂が助けられる人など、一日にせいぜい片手で数えられる程度なのだ。
だから上坂の存在は世間には内緒であった。もしも知られたら彼に縋るものが出てきてパニックになるかも知れないという、御手洗の配慮だった。それは正しい判断だった。結局、上坂がやれることと言えば、親しい人とその知人、友人をこっそりと助けることだけなのだ。
それで十分と言えば十分だろう。自分以外の人間にこんなことは出来ないのだ。大体、一人の人間にやれることなんてたかが知れている、そんな中で自分は寧ろ健闘している方だと言えよう。江玲奈と眠り病患者を助けようとして、都内を周り始めた時から、いずれこうなることは予想していたはずだ。今となってはホープ党の協力も得られない上坂が、何をしても止められないだろう。
そう考えてみると、彼が人々を救うこと自体も間違ってるのかも知れない。こうして続々と眠り病患者が増えていく中で、彼が人々をこの世界に引き止めることが、果たして最善と……もしくは、少なくとも善であると呼べるだろうか。
彼がどんなにあがいたところで、戦争は終わらないし、終末は止められない。すべての人を救う事が出来ないならば、確実に残った人たちは終末を体験しなければならなくなるだろう。ならばもう何もしないほうが、人々にとって救いがあるのではないか。眠り病患者は、行った先の世界でなら幸せかも知れないのだから。
でも、本当にそうなんだろうか?
本当にそれで幸せなんだろうか?
自分はここまでなのか? やれることはないのか? もっと、たくさんの人を助ける方法はないのか? すべての人を救うことは出来ないのか?
自分がすべての人々を助けられないのは、自分が一人しかいないからだ。そして圧倒的に時間が足りないからだ。しかし時間だけの問題であるならば、上手くすればまだ何か方法があるんじゃないか。
何故なら、自分はあの静止した世界を知っているのだ。
アメリカで脳を弄られて以来、彼が嘘を吐いた時、この世界は静止する。
立花倖に言わせれば、それは実際には嘘に反応しているのではなく、彼が望んだ未来を手に入れるために、世界を選び取っている際に起きる現象だった。それが眠り病の本質であり、だからこそ彼だけが眠り病患者を救える理由でもあった。
そう、彼はいつも知らず知らずのうちに、世界を自分の都合の良いように変えていた。自分の運は極悪だと言いながら、何度も死にそうな目に遭いながらも、今まで生きてこれたのは、この能力のお陰だったのだ。
ならばもし、彼がこの世界の人々をすべて救いたいと願ったら、どうなるのだろうか?
それを世界に向けて宣言した時、彼はどうなるのだろうか?
それは試してみなければわからないが、しかし彼はそうすることが出来なかった。それがどんなことなのかと想像すると、圧倒されてそれ以上考えられなくなるからだ。
例えば立花倖と再会した江玲奈は、自分はタイムマシンの作り方を知っていると言っていた。実際に、彼女は500年を生きる魔女で、時間を超越した存在であることは、もはや疑いようもないことだった。彼女がこの世界の終末を回避しようとして、この数年間を何度も繰り返しているというのも恐らく事実だ。つまり彼女は同じ日を、ずっと繰り返すことが出来るわけだ。
それを自分に当てはめたらどうだろうか。江玲奈の予言に従うと、あと3ヶ月程度でこの世界は滅びてしまうらしい。だがその3ヶ月を何度でも繰り返せるとしたら……上坂が何度も繰り返しながら、全人類を救うことは可能なんじゃないのか。
しかしそれは途方もない考えだ。何故なら人類は数が多すぎる。70億も人がいて、その全てを救おうとしたら、一体どれだけの時間が必要だろうか……
現実は3ヶ月しか進まなかったとしても、その3ヶ月を繰り返す上坂は、どれだけの時間の流れを体験しなければならないのだろうか。何千年か。何十万年か。何億年なのか。
それだけ長い時間、自分を見失わずに生きられるかどうか、彼は自信が持てなかった。
いや、考えるまでもなく、そんなことは無理だろう。自分自身ではない誰かのために、どうして自分がそこまでしなければならないのか。そう考えた時、その歩みは止まる。そしてその瞬間、永劫に渡って上坂は静止した時間に取り残されるのだ。そうならないでいられる自信なんかない。
だが、そうして自分には不可能だと思う一方。その可能性があるのも、また自分だけだと考えてしまう。
そしてハッと気づく。かつて江玲奈は、終末を唯一救える可能性があるのは、上坂だけだと言っていたことを。
初めてそれを聞いた時、なんで自分がとか、きっと何かの間違いだろうとか、そんな風に考えたわけだが……つまるところ、これが上坂と江玲奈が出会った理由だったわけだ。
上坂には確かに人類を救う可能性があったのだ。だが、それを決断してしまった時、確実に自分は自分ではなくなってしまう。自分でいられる自信がない。でも、このまま決断しないでいれば、いずれあと3ヶ月程度で世界は滅び、そして彼女は繰り返す。上坂と江玲奈は、そういう関係だったのだ。
それがわかった時、彼には彼女がどうして姿を消したのか、その理由がわかったような気がした。
縦川が、彼女は終末ではないどこかへ行ってしまったのではないか? と言っていたが、その通り、彼女は今、終末ではないどこかへ行こうとしているのだ。
自分が決断しなければそうなる。そう考えた時、上坂は江玲奈のいる場所がわかったような気がした。
彼女はどこへも行っていない。今もこの場にいるのだろう。そう気づいた時、彼は唐突に何か道が開けたような気がしたのだ。




