いい話ではないか……
鷹宮父の死者に対する冒涜的な態度に、密かな怒りを抱いていた縦川は、葬儀の最後にその行いを改めるように言ってやった。
それは10年前、社会からドロップアウトした友人のために、一言言ってやろうと乗り込んでおきながら、何も言えずに帰るしかなかった彼の意地だったが、鷹宮父の心にはほとんど響くことは無かったようだ。
彼は顔を真っ赤にして、縦川の顔を睨みつけていた。きっと生意気な若造が自分に説教など100年早いと思って、怒り狂っているのだろう。結局、この父親に何を言っても無駄なのだ。
だが、例え徒労に終わったとしても、彼はどことなくせいせいした気分だった。少なくとも言いたいことは言ってやれたのだ。あの父親に悔しいという気持ちを抱かせてやれたのだ。
彼は今まで、葬式とは残された者たちが気持ちの整理をつけるためにするものだと思っていたが、本当に死者のためにするものだったのだなと、改めて思った。死者よ、どうか安らかに眠って欲しい。
それにしても……
この家で栄一の味方と言えたのは、弟の栄二郎とあの白髪の少年、上坂くらいのものだろう。栄二郎はともかくとして、今後、あの少年はどうなるのだろうか。座敷牢みたいなこの離れで、ひっそりと暮らす彼の姿を思うと忍びない。
そのことが気になって、彼のことを考えていたからかも知れない。
視界の片隅で、その白髪が奇妙な揺れ方をしているのに気づいた。ふと見れば、今まさに上坂がフラフラと倒れようとしているところだった。
「おい、上坂君! 大丈夫か? 気分が悪いのか?」
同じく、彼のことを見ていた栄二郎が慌てて少年を抱きとめようと飛んでいく。驚いた縦川も、彼の元へ駆けつけようと一歩を踏み出した。
しかしその時だった。少年は自分を抱きかかえる栄二郎を鋭い目で睨みつけると、体を捻って彼の腕を払い除けて言った。
「もうやめなさいよ、栄二郎さん……事故だったかも知れない。そんなつもりは無かったのかも知れない。でも、あんたはやりすぎた。こうなっちゃもう黙っていられない」
「……何を言って?」
「あんたが殺したんだろう?」
その言葉に場が凍りついた。
いきなりこいつは何を言い出すんだ?
戸惑う人々が互いに目配せをしあう。この家がおかしいのはみんな分かっている。だが栄二郎はその中で一番マトモだ。その彼を捕まえて、まさかおまえが犯人だなんて……
それよりも、こんな侮辱的なことを言ったら、あのキチガイ親父が怒り狂うに違いない。参列者たちは早くこのガキを黙らせようと焦りだした。
ところが、一番焦っていたのは他ならぬ栄二郎のようだった。
「突然何を言い出すんだ!? 気でも狂ったのか」
「いいや、気が狂ってるのはあんたの方ですよ。毎日毎日、神経をすり減らして、とっくに危険水域を越えていたんだ。身に覚えはあるんでしょう? だからあんたは徐々に消耗させられていく自分に恐怖を感じて、今を打開しようとしたんだ。だが、それを兄の栄一さんに気づかれた……違うか?」
「ちょ、ちょっと待て、上坂君。君は本当に何を言ってるんだ? 俺が兄さんを殺すわけがないだろう!? 大体、兄さんは事故だったって、警察だって言ってるんだし」
「確かに警察はそう言ってる。司法解剖でもおかしな点は見つからなかった。だから実際、事故だったのかも知れませんよ。けどね、栄二郎さん、この事故は防げたはずだったんだ。何故ならこれは、あんたの目の前で起きた事故だったんだから。あんたは目の前で兄貴が死にそうになってるのを黙って見ていた。わざと見過ごしたんだ。そして死んだ後に、それを隠蔽しようとした」
「ふ、ふざけるな! 何を証拠にそんな馬鹿げたことを言ってるんだ!」
「証拠ならありますよ。この家の周りに集まった、あの有象無象がその証拠だ。ねえ、栄二郎さん、さっきまであんなにうるさかった外の様子が、今は静まり返っているのはどうしてだと思います?」
その言葉を聞いて、その場に居た者たち全員がハッとなった。いつの間にか周囲の雑音が消えている。今朝、この家へやってきた時から家の周りを取り囲み、栄一が生前に行っていたゲーム上での不正を糾弾する人々が、罵声をあげていたはずだった。それが今は全く聞こえない。
「それはね、栄一さんの不名誉な疑いが晴れたからですよ。あいつらは彼の不正を糾弾していた。それが無くなったなら、もう騒ぐ理由はないでしょう。彼らは警察に叱られて、今頃家路についてる頃ですよ」
「まさか! どうして君にそんなことが言えるんだ?」
「ごく単純な理由ですよ。彼のやっていたゲームの公式ホームページで、そうアナウンスされてるからです。自分で確かめてみればいい」
栄二郎は目を見開くと、慌ててスマホを取り出してそれを操作し始めた。縦川も困惑している葬儀屋からスマホを借りると、上坂の言うゲームの公式HPとやらにつないでみた。するとそのトップページに緊急のお知らせという一文が書かれており……
『現在、当社ゲームの特定ユーザーのご自宅に、多数の本ゲームユーザーが詰めかけて、ご迷惑をおかけしているとのご連絡がありました。本ゲームの規約にある使用禁止ソフトを利用していたことに抗議するためとのことですが、事態を重く見まして当該ユーザーのプレイ記録を調査しましたところ、そのような事実は無いと確認いたしました』
とはっきり書かれている。どうやら、ネットの情報などからここでの騒ぎが伝わって、何が起きているか把握した公式サイトが、これ以上自分たちに累が及ばないように、慌てて火消しを始めているようだった。
それによると、鷹宮栄一は言われているような不正は行っていなかったそうである……
栄二郎はホームページ上の出来事に抗議するかのように、上坂に対して突っかかるように叫んだ。
「そんな馬鹿な! 兄さんのキャラクターは、今朝まで動き続けていたんだぞ? 彼らはそうはっきりと言っていた」
「だから、それですよ、栄二郎さん。死人のキャラが動いているからって何なんです? それで死人が不正を行っていたという理由にはならないでしょう。今、死人のキャラを動かしてる、別の第三者がいるんじゃないかと考えるのが普通なんじゃないですか?」
言われた瞬間、縦川は頭をガツンとやられた気がした。自分は鷹宮栄一の親友だと思っていたくせに、どうして彼を信じることではなく、真っ先にそれを受け入れる方を選んでしまったのだろうか。
「どうしてみんなそう思わなかったのか。それはもう、人が抱いている有名人のステレオタイプがそれなんでしょう。人は他人が成功して輝いている姿よりも、失敗して叩かれている姿を見る方を好みます。だから、栄一さんがBOTを利用していると聞いた時、みんなやっぱりなって思ってしまったんです。彼が苦労してあの地位を築き上げたと思うより、楽をして人を騙していたと考えるほうが、しっくりくるんですよ。
それにBOTというものは、人間が注意深く観察すればすぐにそれとわかるものです。AIを人間っぽく見せるチューリングテストという技術だけで、それは一つの学問ですよ。たかがゲームの不正アプリのAIなんて、どんなに頑張っても機械的な動きは隠しきれないから、すぐ見破られます。そして実際に、今動いている栄一さんのキャラはBOTだと見破られた。だからみんな何も疑わずに、ほれみたことかと死人を鞭打ちに喜び勇んでやってきたわけです」
栄二郎は叫んだ。
「それじゃやっぱり兄さんは不正をしていたんじゃないか! 実際にBOTを使っていたという証拠は見つかったんだろう?」
「いいえ逆ですよ。彼はBOTなんか使っていなかった。なのにこれが見つかったから、栄一さんはただの事故死じゃないということの証拠になるんです……何もしなければ、彼は事故死として処理されたでしょうにね」
上坂はそこで一旦区切り、栄二郎を真正面からじろりと睨みつけると、
「いいですか? 栄二郎さん。人間と違って、コンピュータプログラムってのは、どうしても機械的なパターンから逃れられないんですよ。どんなにランダムに見せかけようとしたって、複雑な手順を踏んでごまかそうとしたって、どこかで必ずコンマ1秒も相違のない、まったく同じパターンを踏んでしまう。
だからもし栄一さんがBOTを使っていたのなら、今動いてる彼のキャラクターの操作ログを、サーバーに残っている彼の過去ログと比較してみれば、ところどころに寸分違わぬ動作をしている痕跡が見つかるはずなんです。
ところがそれが見つからない。だからゲーム会社は彼が不正を行っていなかったと堂々と宣言出来たわけです。
大体、ちょっと考えれば分かる話でしょう。栄一さんは有名ユーチューバーでした。彼のキャラクターは、もしかしたら彼本人よりも有名だったかも知れない。その一挙一動は常にみんなの注目を浴びていて、おかしな動きをしていたらすぐに話題になったはずだ。もし過去にBOTを使っていなのなら、それが見破られていないこと自体が奇跡ですよ。
そもそも、彼にはBOTを使う理由はない。今回判明した通り、葬式だと言うのに不謹慎な連中が押しかけてくるくらい、この不正行為は同じゲームをやってる人にとってはショッキングな出来事なんでしょう。それは同じゲームユーザーである栄一さんも痛感していたでしょうに、なのに有名ユーチューバーの彼が、わざわざ自分の地位を失ってしまうようなリスクを冒すはずがないじゃないですか。
確かに、ゲームをやり込むことは苦痛でしょう。特に栄一さんは寝る間を惜しんでゲームを続け、世界中のランカーと勝負をしていた。時にはBOTを使いたいと思ったかも知れない。でも、彼は有名ユーチューバーであるからこそ、そんなことは出来なかった。それに、寧ろそういう苦行を続けていたほうが彼にとってはネタになるから、BOTなんか使わずに、敢えて自分が苦しむ姿をみんなに見せていたんじゃないですか? きっと過去動画を漁ったら、いくらでもそんなのが見つかることでしょう。
なのに、彼が死んでしまった今日に限って、彼のキャラクターがBOTによって動かされていた。これは一体どうしてでしょうか?」
彼はそこでまた一旦区切ると、周囲を取り囲んでいる参列者たちを見回してから続けた。その場に居た全員が、その空気に飲まれてしまい、声を発することも出来ずに佇んでいた。
「昨日未明、この家で起きたことはこうです……
深夜、0時を大きく回ったころ、おそらく2時とか3時くらいじゃないでしょうか。栄二郎さんは、残業でクタクタになりながらようやく帰宅して、寝静まる母屋ではなく、兄が起きているであろうこの離れにやってきました。
ベタつく汗をシャワーで流したかったのかも、数時間後にまたすぐ登庁するために、まだ起きている栄一さんに起こしてもらおうと考えたのかも知れません。彼は離れのお兄さんの部屋までやってくると、そこに彼がいないことに気がついた。見れば風呂場に続く脱衣所の灯りがついていて、中から人の気配がする。多分、兄は風呂に入ってるんだと思った彼は脱衣所に入り声をかけた……」
ところが中から返事がない。栄二郎はおかしいと思い、風呂場を覗いてみたら、中で栄一がガァガァいびきを立てて眠っていた。寝食を忘れてゲームをしていた兄は、以前からそういうことがあったのだ。夜中に音を立ててうるさいと父親と喧嘩になり、この離れに風呂場を作ってからは、特にそういうことが多かった。
だから栄二郎は、度々危ないから気をつけろと言っていたのだが、この日も兄は言うことを聞かずに、酒を飲んで風呂に入り、そのまま眠ってしまったようだった。
洗い場に、空になったビールの缶が何本も落っこちている。眠っている栄一の顔は真っ赤で、のぼせているのか、酒のせいなのか、多分その両方だろうが、弛緩してかなりだらしなく見えた。
その姿が自分とは違ってとても幸せそうに見えてきて、彼はなんだか頭にくるものを感じた。自分がこんなにも疲れて帰ってきたというのに、この兄は……
ムカムカしてきた彼は乱暴に兄に声をかけた。「おい! 起きろ!」もちろん、肩を揺すったりもしたはずだ。ところが、それでも栄一は目覚めない。
栄二郎は、いよいよむかっ腹を立てると、風呂場に入って浴槽から突き出ていた兄の足を引っ掴み、ぐいっと引っ張った。すると栄一はズルっと滑り、浴槽の中に沈んでしまった。
栄二郎は、それで兄が慌てふためいて、ばしゃばしゃとお湯を叩きながら飛び起きると思っていた。
ところが、浴槽に沈んだ兄は、やけに静かなのである。頭のてっぺんまで浴槽に沈み、中からぶくぶくと呼吸の泡が上がっているのに、肝心の本人はピクリとも動かない。
栄二郎は焦り始めた。どうして兄は全く反応しないんだ?
もしかして、最初から寝たふりをしていただけで、これは冗談でやってるんじゃないかとも思った。だが、その状態が1分くらい続いたところで、栄二郎は兄が気絶していることにようやく思い至った。
このままでは死んでしまう!
慌てた彼は掴んでいた兄の足を離すと、今度は彼を引き起こそうとして浴槽の中に手を突っ込んだ。
だが、そこで固まってしまった。
もし、このまま放っておいたら、兄の死因は何になるんだろうか……?
自分が浴槽に引っ張り込んだのは確かだが、彼は来たときからすでに気絶していて、そのまま浴槽に落ちれば同じように死んでいたはずだ。死因は溺死で、きっと警察にも見破られないはずだ。これは完全犯罪じゃないか? いや、兄が勝手に死んだんだ。これは殺人でもなんでもない。
栄二郎はそう考えると、それ以上動くことができなくなり、じっとそのまま、兄が死んでいく様を眺めていた。
きっと、魔が差したのだろう。
兄に恨みがあったわけではない、殺したいほど憎んでいるわけでももちろんない。ただ、こんな深夜まで他人にこき使われて文句一つ言えない自分と違って、自由でいられる兄のことを羨ましく思っていただけだ。それが何故だか、どうしても許せなかったのだ。
そして長い長い1分が過ぎ……2分……3分と時間が経過していく内に、彼は引き返せなくなっていった。
「その場ですぐに引き起こせば、まだ助かったかも知れません。助からなくても少なくともこの時点では、仮に栄二郎さんが反省して、栄一さんを見殺しにしてしまったのだと白状したところで、結果は変わらず事故として扱われたはずです。ここまでは殆ど悪意がないですからね」
しかし、栄二郎はそうしなかった。
永遠とも言える数分が過ぎ、彼は兄が死んだことを確認したところで、ようやく我に返った。そして我に返ったところで、今度は恐怖に見舞われたのだ。
兄が死ねばいいと思った。そして本当に殺してしまった。どうせ事故にしか見えないだろうとは思ったが、果たして本当にそう見えるだろうか。もし、殺人と見破られたら、自分はどうなってしまうんだろうか。やはり殺人犯として逮捕されるのだろうか。それはなんとしても避けねばならない。
突然、恐慌に陥った彼は、びっしょりと汗をかいていることに気がついた。それまで自分は落ち着いていると思っていたが、どうやらそうでも無かったらしい。震える腕を叩き、ぎゅっと拳を握りしめ、深呼吸をし、彼は落ち着け落ち着けと、何度も自分に言い聞かせながら行動を起こした。
まずは自分が引っ張り上げていた、兄の足を浴槽の中に揃えて入れた。彼の体が浴槽の中に全身浸かったのを確認すると、一旦浴槽の蓋を閉めて風呂場と脱衣所の電気を全部消し、栄一の部屋へこっそりと侵入した。
そして、部屋の鍵をかけてから兄のパソコンを起動し、隣の部屋に聞こえるように、わざと壁を蹴ったり、キーボードをガチャガチャやったりして、同居人の少年の眠りを妨げた。
暫く後……栄二郎の行為が実を結んで、廊下を人の気配が通り過ぎた。彼の騒音のせいで目を覚ましてしまった上坂が、トイレに行こうとしたのだろう。彼が通り過ぎる際には、よりカチャカチャと音を立てて、中の人がまだ生きていることを印象づける。
これであの少年は、この時間にはまだ栄一が生きていたと証言することだろう。そう思わせてしまえば、仮に浴槽の死体が殺人と疑われても、自分に累が及ぶことはないはずだ。
これで一安心だ。あとはあの少年がまた眠ってしまう頃合いを見計らって、この部屋を出てしまえば完璧だ。このまま寝ないで朝を迎え、明日は何食わぬ顔で職場に向かってしまえばいいだろう。
彼は少し落ち着きを取り戻すと、ただつけていた兄のPCの画面を漠然と眺めてみた。すると、おそらく普段から兄が使っていたのであろう、SNSのクライアントがチカチカと点滅していることに気がついた。
彼はふと思った。ネットの方はどうしようか。この時間、普段ならまだ栄一はゲームをやっているはずだった。本当ならそんなこと気にしなくていいのに、その時の彼はやたらとそのことが気になって仕方なくなっていた。
兄は有名ユーチューバーで、毎日動画を投稿していた。ゲームにも毎日ログインし、その彼が姿を晦ましたら、ネットが大騒ぎになるかも知れない。自分がログインして、彼が生きているように装った方がいいんじゃないか……いや、しかしそんなことをやっていたら朝になってしまう。誰にも見咎められずに、自分の部屋に戻れなくなってしまう。
そして彼は悩み抜いた末に閃いた。そうだ、BOTを使おう。BOTがずっと兄のキャラを動かし続けていれば、彼がいつ死んだか誰にもわからないはずだ。幸い、有名ゲームのBOTなど、少し探せばすぐに見つかる。それは誰にでも自由に手に入れられるスクリプトで書かれており、大概のレンタルサーバーならデフォルトで稼働するプログラムだ。
彼はそれを海外の怪しげなレンタルサーバーで走らせて、ゲーム内でまだ栄一が生きているように装った。
それからまた風呂場に戻り、浴槽の蓋を外し、死亡推定時刻を撹乱するために風呂の自動運転ボタンを押し、風呂場と脱衣所の電気をつけっぱなしにしてその場を後にした。
こうして安全を確保したと思った彼は、母屋の自分の部屋に戻って体を少し休め、やがて出勤してきた家政婦に、今日は仕事が早いんだと言って家を出た。これで自分の仕事中に兄の死体が発見されれば、自分は容疑者から外れるだろうと思った。
「実際には発見は遅れに遅れ、しびれを切らした彼は残業を早めに切り上げて家に帰り、自分が第一発見者になりました。いつ、兄の死体が発見されるか気になって、その日は仕事にならなかったのでしょう。
風呂の自動運転のせいで、死亡推定時刻が撹乱された栄一さんは、栄二郎さんの目論見通り、彼が家に居なかった時間に死んだという結論になり、警察から事件性なしとのお墨付きを貰うことが出来ました。
その後、父親が不名誉な死を遂げた長男を密葬すると言い出したのを聞いた彼は、多少良心が咎めたのか、それに反対しました。すると兄と折り合いの悪かった父はへそを曲げて、じゃあお前がやれと栄二郎さんに丸投げした。
それで期せずして殺した相手の喪主を務めることになってしまった彼は、兄の友人であった和尚様を頼り、親戚に連絡して今日を迎えました……」
縦川と葬儀の段取りを決めた栄二郎は、両親に呼ばれていった気の毒な和尚を見送った後、もう一人の友人である下柳と暫くの間会話してから部屋に戻った。刑事である彼も栄一の死は事故であると信じて疑っていない様子だった。
それでようやく安心しきった彼は、少し心に余裕が生まれたのだろう。ふとした疑問が沸き起こった。
そういえば、兄の友人と言えば高校時代からの友達であるあの二人しか思い浮かばなかったが、ネット上ではどうだったのだろうか。兄は有名ユーチューバーだ。最近では現実よりも、ネットの付き合いのほうがずっと多かったのではないか。もしかしたら、そっちにはもっと親しかった人物がいたのではなかろうか……
彼はふと疑問に思い、昨日見つけた兄のSNSのアカウントの様子を調べてみた。するともうその時には、彼のSNSは荒れていたのである。
兄の動画告知用でしかないSNSは、それほどつぶやき数が多いわけではなかった。それでも数十万人のフォロワーが登録し、彼の一挙手一投足を見守っていた。そのSNSの最新のコメント欄が、もうじきバズりそうなくらいに荒れていた。
栄二郎は唖然とした。
どれもこれも酷い言いがかりで、罵詈雑言としか呼べない代物だった。
兄はネット上に友達どころか、敵しか居なかったのではないか……?
有名ユーチューバーともてはやされ、サラリーマンでは一生不可能なくらいの年収を得ていて、あの父親を嫉妬で黙らせ、憎悪の対象として憎まれている……あの兄が、たかがゲームの不正プログラムをちょっと使っただけで、殺人でも犯したかのような非難を受け、人格を否定され、必死になってこき下ろそうとする連中のおもちゃにされているのだ。
そんな価値観、まったく理解できなかった。一体、彼らは何と戦っているのだ?
栄二郎はなんだか無性におかしくなった。父の束縛から脱して自由になった兄に、彼はある意味嫉妬していた。彼みたいに、自分の好きなことをやって暮らしていけたら、どんなに充実した毎日を送れるだろうと、羨んでいた。
だが、そんな風に栄光に満ちて見えた彼も、一皮むけばこんなものだったのだ。人々は兄のチャンネルをフォローして、そのふるまいを毎日楽しみにしている反面、実は彼が失敗するのを今か今かと待ち構えていたのだ。彼が成功して称賛を浴びるよりも、転落して無様を晒す方が、みんな嬉しいのだ。
こんなものにしがみついて、寝る間も惜しんで、それこそ風呂場で気絶するくらいに頑張っていた兄のことが、栄二郎は哀れにさえ思えてきた。それまで嫉妬するくらい羨ましかったその地位が、今ではただの薄汚い学級裁判の被告席のようにしか思えない。
それにしても、こいつらはもし兄が死んでいると知ったら、どういう行動をとるんだろうか?
栄二郎は、この醜い人々を前にして、いつの間にか妙な好奇心が湧いてきて、うずうずしていた。
きっと彼らは、振り上げた拳をどこに下ろせばいいか分からず、癇癪を起こしてもっと愚かな行動を起こすのではないか……
見たい……なんだかそれが無性に見たい。あの兄が作り上げてきた価値観が、ボロボロにぶっ壊れるところを。人間がどうしようもなく愚かで、救いようのないバカだという証拠を……
兄の人生など、何もかもが無意味なものだったという証拠が見たかった。
「栄二郎さん……あんたはSNSが既に炎上していることを知っておきながら、更に燃料を投下しましたね? タイムスタンプを見ればわかります。どうしてそんなことをしたんですか?」
「……気づかなかったんだ。呟きにつけられたコメントまではわざわざ見ないだろう?」
「そうですか、ところでそれ、どうやって呟いたんです? この時、栄一さんの部屋は葬式の準備で物が動かせない状況でした。PCの前には彼の棺桶が置かれていて近づけなかった」
「自分のスマホだよ。兄さんのIDとパスは知っていた。昔っから変えてなかったんだ」
「それを聞いて安心しました。じゃあ……お兄さんの部屋のPCに最後に触ったのは、間違いなく栄一さん本人ですね?」
栄二郎の顔色がみるみるうちに青くなっていく。
「栄一さんがBOTを使っていなかったことは、他ならぬゲーム運営会社が保証してくれました。だから、彼のアカウントをクラックして、BOTを走らせた人間は他にいます。今、ゲーム会社のアクセスログから、それがいつどこからのアクセスだったかを警察が調べているところです。海外のレンタルサーバーを経由したところで、判明するのは時間の問題でしょう」
そしてそれは、この家の栄一のPCからだと、すぐに分かってしまうだろう。栄一は生前BOTなど使っていなかった。両親はPCに疎く、父親は息子の部屋に近づくことすらしなかった。祖母が残した警報システムが作動するため、外部から何者かが侵入することもありえない。なら、容疑者は二人しかいない。上坂と栄二郎。そのどちらかの指紋が、きっとキーボードにベッタリとついているに違いない。
「……本当なのか? 栄二郎」
何か言い逃れる術はないか……真っ青になりながら、栄二郎は頭をフル回転させた。今なにか言わなければ、もう自分が犯人だと認めたようなものだ。
だが、そんな風に彼が必死になっている時に、彼がこうなってしまった元凶とも呼べる父親が、いつものヒステリーを起こして、彼を糾弾し始めたのだ。
「この親不孝者! 貴様、一体全体どういうつもりでこんな大それたことをしたんだ! 兄貴に負けたのがそんなに悔しかったのか! 自分の人生に全然自信がもてなかったのか? おまえは鷹宮家の後継ぎで外務省のエリート中のエリートだ。それをたかが人生の落後者なんかに嫉妬して、取り返しのつかない真似をしおって……ええい、情けない! こんな男が俺の息子のはずがない! おまえなんか勘当だっ! 即刻この家から出て行けっ!!」
「うるさいっ!!」
もう限界だった。そして栄二郎はカッとなって叫んだ。
「それは全部おまえのことだろうが! 見下していた兄貴に負けて、勝手にコンプレックスを抱いて、自分じゃ勝てないからって俺にあれこれ指図して、腹いせに部下を虐めるから、俺の風当たりはずっと強くて最悪だったんだ。あの日も、俺が帰ってきたのは何時だと思ってるんだ!? 3時だぞ3時! 電車も動いちゃいねえ。おまえのせいで、俺はパワハラ受けてたんだよ! きっと兄貴もそうだったんだ! ちくしょう! 本当は……本当は、おまえのことが殺したかったんだ!! 何度も殺してやろうと思ったんだよっ!!!」
キレる栄二郎の剣幕に押されて、始めは目を丸くしていた父親だったが、次第に体がプルプルと震えてくると、みるみるうちに顔が真っ赤になってきた。そして、激昂した父親はこれが人間のする表情なのかと、目を疑いたくなるような醜悪な顔をして栄二郎に掴みかかっていった。
「な、なんだときさまー!!!」
慌てて周囲の親戚が止めに入ろうとする。
「うるさいっていってんだろうっ!!」
しかしその必要はすぐなくなった。
「うっ!? ぎゃ!?」
栄二郎は近づいてくる父親に対し、逆に踏み込んでカウンターを食らわせると、鼻血を出してぶっ倒れてる彼に向かって、泣きながら怒鳴り散らしていた。
「この家の淀んだ空気は、全部おまえのせいだろうが! 他人を支配することしか考えずに、兄貴を潰して、今度は俺にまで手を出してきた毒親が! もう限界だったんだよ! 逃げ出したかったんだよ! でもそんな勇気を持てなかった。だから俺は、おまえを殺して楽になろうと思ってた……!
でも出来なかった……俺がやろうとしていることに、兄貴が感づいたんだ。あいつは言ったよ、もしそんなこと考えてるならやめろ。親父の命なんかに、おまえの人生をぶち壊すほどの価値なんかないんだって……そしてまたこうも言ったんだ、つらいならもうやめていいと。俺たちはもう古い価値観に縛られている必要ない、嫌なら家を出てしまえばいい、生きていくだけなら何の心配もいらないんだ。だからもうやめて楽になろう。なんなら、俺がおまえの面倒を見てやるからって……」
縦川は親友の顔を思い出し、思わず目頭が熱くなった。
彼の言う通りだ。この世界は……少なくとも東京に住んでいる我々は、もう働かなくても最低限の生活は保証されている。成人であるなら、いつでも家から飛び出して、自活することが出来るのだ。
それに、栄一はユーチューバーとしての稼ぎもあり、いつまでもこんな家にいる必要なんて無かったのだ。それなのに、ずっとこの家に留まっていたのは、きっと弟が居たからに違いない。自分のせいで父親の標的にされた弟を置いて出ていくのが後ろめたくて、何かあったときのために、弟のために残っていたのだ。
いい話ではないか……
しかし、それは一方的な物の見方に過ぎなかった。人がどう感じるかは人それぞれなのだ。
何故なら、栄二郎は言った。
「なんで兄貴に憐れまれなきゃなんねーんだよぉーっ!!」
縦川は栄二郎のその叫びを聞いて、心臓が口から飛び出そうなくらい驚いた。
「許せなかった……あいつ、一人だけ、さっさと自由になりやがって……俺が苦しんでいる姿を見て、上から目線で言いやがったんだ。あいつと一緒に家を出たからって、俺はどうなる? あいつは有名ユーチューバーかも知れないが、俺はただのうんこ製造機でしかないんだぞ。あいつが周りからちやほやされてるのを、俺はただ黙って眺めていることしか出来ないんだ。媚びへつらってニヤニヤ笑っているくらいしか出来ないんだ。そんな関係が対等と言えるか。俺にとっては親父が兄貴に変わっただけじゃないか」
栄二郎は父親と同様に、兄に対してコンプレックスを抱いていたのだ。
「だから、殺したんだよ! このまま黙ってりゃこいつは死ぬって分かってても、なんにも感じなかった。それに、こいつを殺せば、また事故を装って親父を殺すことが出来る……そしたら俺は財産を相続して、晴れて自由の身だ! もう少しでそうなるはずだった……そうなるはずだったのに……なのにぃーーっ!!!」
癇癪を起こした栄二郎が、親戚郎党が見守る中で、ヒステリックに喚き散らした。それは彼の父親を彷彿とさせる、見る者をどうしようもなく不快にさせるもので、原始的な恐怖を覚えるような代物だった。
ブチ切れた栄二郎は自分が殴り倒した父親を見つけると、まだ地面に這いつくばってる彼に追い打ちをかけるつもりで殴りかかっていった。慌てて周りに居た親戚連中が止めに入り、彼を羽交い締めにする。
その時だった。
「死ね! 死ね! みんな死ね! こんな糞みたいな家、無くなってしまえ! 全部壊れてしまえばいいんだ! 俺はもう終わりだ、失うものはなにもない。俺は無敵だ! 何人だって殺してやるよ! おまえら全員、死んじまええええぇぇーーー!!!」
狂ったように叫ぶ彼の表情が弛緩し、瞳孔が開き目の焦点はずれ、まるでマネキンみたいに無表情になった。
と思ったら、突然、離れの家屋全体がガタガタと揺れだした。
中に居た縦川は地震かと思い、柱につかまってしゃがみこんだら、今度は廊下に面した窓ガラスが次々とパリンパリンと割れだした。
離れの屋根瓦がガラガラと音を立てて滑り落ち、まるでドミノみたいに、渡り廊下の屋根を伝わって、母屋の屋根瓦までもが落ちていった。
鷹宮家の建物という建物が信じられないほどグラグラと揺れて、縦川は倒壊するんじゃないかと言う恐怖に見舞われた。
危ないとは思ったが、縦川は廊下から外に飛び出した。その場にいたら倒壊する家の下敷きになると思ったのだ。ところが彼が勢いよく飛び出してきたものだから、栄二郎は自分に危害を加えようとしてると思ったのか、縦川の方をギラリと睨みつけて、何かを叫んだ。
「いっ!? 痛い! な、なんだこの痛みは……!?」
すると突然、彼の頭がギシギシと痛みだし、吐き気とめまいがして立っていられなくなった。平衡感覚が失われて、どっちが上か下かもわからない。
しかし、そんな目の回る視界の片隅で、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「雲谷斎っ! 耳を塞げ!!」
その言葉に従う理由はなかったが、他に何をするでもなく、縦川はたまらず言うとおりにした。地面に転がりながら、両耳を手で必死に覆い隠す。すると、心なしかさっきからの痛みは和らぎ、平衡感覚が戻ってきた。
どういうことだ? と思いながら、さっきの声がしてきた方向を見てみれば、下柳が何故かあのジーニアスボーイとかいう超能力者と一緒に居て、嫌がる彼の頭をひっぱたきながら、大暴れする栄二郎のことを指さしている。
すると次の瞬間……
「ぐっ……ふっ……ぐぅぅっ!?」
突然、栄二郎が頭を抱えて苦しみだし、その隙きを見計らって下柳が彼に飛びかかっていった。彼はいつの間にか持っていた手錠を取り出すと、羽交い締めにした栄二郎の手にそれをはめて、
「確保っ! 確保っ!」
叫ぶと同時に家の入口を守っていた制服警官たちが栄二郎を取り囲み、覆いかぶさるようにして彼のことを拘束した。
その光景を唖然として見つめる縦川の肩を誰かがトントンと叩く。見上げればあの白髪の少年が彼のことを見下ろし、手を差し伸べていた。
上坂は、あの彫刻刀で彫ったような眉間のシワを歪ませながら、
「お寺さん。あんたの想像は中々いい線いってましたよ。栄一さんはこの家に超能力者がいるって勘ぐっていた。でもそれは俺じゃなくって……」
「二郎くんだったのか」
「みたいですね」
彼はまるで他人事のようにそう言うと、縦川に一礼してから警官たちの方へと歩いていった。縦川はそんな彼の後ろ姿をただ目で追うことしか出来なかった。