混迷する世界
欧州争乱の余波は、思ったよりも早く日本にも訪れた。上坂が北海道から帰ってから、およそ1週間が経過した、10月始めのことである。
その頃にはドイツへ行っていた縦川たちも帰国しており、上坂は彼らがローゼンブルクで聞いたという大公の話を、より詳しく聞くことが出来た。
それによると立花倖を殺したのは、美夜の体を乗っ取ったヒトラーで間違いないようである。いつどこで入れ替わったか知らないが、未だに美夜の行方が分からないということは、彼女の体は別の精神に乗っ取られてしまったと考えて間違いないのだろう。上坂は、もとを正せば自分が世に生み出した美夜が犯人であったことと、あの無邪気だった彼女の精神が失われてしまったことに、二重のショックを受ける羽目になった。
美夜の精神はAIであり、作りものである。人間と違って殺されたわけじゃないのだから、また同じAIを作り直すことは出来るかも知れない。だが、彼女は人間のふりをしているだけの機械じゃなく、悩んで怒って生きようとしていた一個の人間だったのだ。彼女の経験は彼女だけのものであり、同じ美夜を作ることなんてもう出来ない。そう言った意味で、彼女もまた死んでしまったのだ。
上坂にとって、家族とも呼べる者たちが、同時に二人も死んでしまった。その事実は、父親と再会した喜びを打ち消してしまうには十分だった。だが、もう彼は立ち止まることは無かった。例え、辿り着く先が終末だとしても、最後の瞬間まで人は生き続けねばならないのだから。
その美夜の体を乗っ取った忌々しいヒトラーは、ドイツで確固たる地位を築き上げようとしているようだった。あの日、彼が全世界に発表した監視チップの存在は、先進各国の中枢に大打撃を与え、代わりにドイツ議会を占拠した彼の株を上げた。
上坂達にとっては今更だが、世界はこの時になって初めて、眠り病や超能力者と言う存在を知り、それが自分たちの知らない内に、勝手に植え付けられた脳内のチップによって引き起こされていると知ったのである。
金持ちによる支配構造は、資本主義社会なら避けては通れない問題である。これは、そんな彼らが奴隷を欲していたという、明確な証拠であった。
被支配民は支配する側に少なからぬ不満を持っているものだが、こうまであからさまな悪意を発見してしまったとなれば、その不満が爆発するのに時間はそれほど必要ないだろう。
米国企業であるFM社は世界中にその現地法人があったが、そのほぼ全てで襲撃やデモを受けて解体を余儀なくされた。諸悪の根源を叩いたと言えば聞こえは良いが、こうしてマルティン・ボルマンがその創設に関与したと目されるFM社は、責任者の追求も中途半端なまま、まんまと歴史から姿を消したのである。
因みにFM社の監視チップは、日本国内にも様々な病気のワクチンとして紛れ込んでいるようだった。インフルエンザの予防接種や、麻疹や水疱瘡のワクチンなど、20歳以下の子供であれば、よほどの理由がない限り、必ず一度は受けているそうである。
問題は、そのチップが脳に達した者がどのくらいいるかであるが、それは精密検査をしてみないことには判別つかなかった。しかし、病気の予防に積極的な者であれば、ほぼ毎年当たり前のように受ける予防接種に紛れ込んでいたのである。国民の約八割がキャリアと考えられ、そのすべてを検査するのは非常に困難だった。
それでもやらないわけには行かない厚労省は、国民からの突き上げもあって、最終的に無償検査を行う判断を下した。そのせいで全国の大病院が殺人的な混雑に見舞われ、多くの入院患者の治療に影響が出るという悪循環を招いてしまったのだが、もはやそんなことを心配していられないくらい、国中が動揺していたのだ。
因みに、上坂による眠り病治療も足止めを食らい、いくら東京都知事が権限を使っても、彼は患者に近づくことさえ出来なくなってしまった。
江玲奈に言わせれば、終末は眠り病の蔓延によって訪れる。だから治療をやめたくないと言っているのだが、いくら説明したところで、役人たちが眠り病の原因を理解出来るわけもなく、それ以上はもうどうしようもなかった。
これらの騒動が重なって、国民の政治不信はピークに達し、リバティ党は内閣発足後、最大の支持率低下を招いていた。戦後からほぼ一貫して政権与党を担っていたリバティ党は、今となっては経済界とはズブズブの関係であり、ヒトラーが名指しで批判してきた企業との癒着が隠しきれなかったのである。
結局、政治とは金であり、最も金を稼がせてくれる政党が人気となるから、安定した国であればあるほど、政権は保守的になる。すると大企業にとって有利な政策ばかりが進められ、政治家と経済界との癒着が進み、新しい試みを行おうとするものが出てくると、規制によって排除されることになる。
もちろん、この排除される側とは、その国の若者のことである。
変化に乏しい政治が続くと、古いものにこそどんどん金が注ぎ込まれるから、どの国も年寄りにばかりマネーが集中することになる。そして政治はそのマネーが集まるところに向かって行われるから、古い国ほどますます保守的になり、若者が弾き出されるという結果につながる。
金を持った年寄りが働けなくなった時、それじゃあ若者にお鉢が回ってくるかと言えばそんなことはなく、年寄りは単にお金を抱えたまま死ぬ。政治は介護や保険、年金などの社会保障に向けられ、大企業は収入の低下を埋めるべく、労働力を低賃金の移民に切り替える。かつてはイギリス病と呼ばれていた。そんなことが世界中で行われているわけである。
ところで、日本で直近に政権交代が起きたのは、バブル崩壊とリーマン・ショック、どちらも経済的な混乱が起きた直後だった。その時、政権交代を実現させたのは、普段は選挙にいかない不遊標で、その正体は働き盛りの若者たちだったはずである。
その若者たちが、2029年の現在、同じく政財界への不信のために動き始めていたのである。
リバティ党の支持率が凋落する反面、一躍人気が急上昇したのは、共産党や人民党と呼ばれる社会主義政党であった。特に経済界とは一定の距離を置いている人民党の躍進は著しいものがあった。
人民党はかつての全共闘時代に革命家たちが発足したバリバリの左翼政党で、国内で行われるデモや集会には必ずと言っていいほど関わってる集団だった。その活動資金がどこから出ているのか、日本経済界と距離を置いているわけだから、言わずもがなである。
だから普段は見向きもされない弱小政党であるのだが、ことリバティ党叩きにあってはこれ以上頼りになる政党もなく、既に尻に火がついていた若者を中心に、徐々に支持を取り付け始めていたのである。
彼らが本心ではどう思っているか知らないが、大企業を糾弾するために、反移民を掲げていたのも大きかった。復興のための労働力を欲した東京都のみならず、今となっては日本全国、移民がいなければ経済が回らないと言うくらい、移民労働力は人々の生活の中に根付いていた。
故に、リバティ党やホープ党は移民法の成立に積極的だったが、人民党はリバティ党さえ倒せればいいから、無条件にそれに反対する。国会ではこの攻防が日々繰り返されていたわけだが、若者たちがどちらを応援するか……
国内が安定しているならリバティ党だろう。しかし現在のように、世界中が混乱している状況では話が違う。移民法賛成のリバティ党とホープ党は、世論の支持を受けた人民党によって糾弾され、劣勢に立たされていた。
しかし、それを黙って手を拱いていない勢力もあった。
元々、日本の政治は、リバティ党政権が長く続いたために野党の影響力が弱くなりすぎ、リバティ党の党内政治でなんでも決まってしまう傾向にあった。故に、リバティ党内には無数の派閥が生まれ、その中には反移民の立場を表明している派閥も当然のごとく存在する。それはやはりと言うべきか、若い世代の議員たちが作る派閥であった。
普段は経済界との関係悪化を恐れた党の重鎮たちに押さえつけられていたリバティ党の若手たちは、その経済界が世論によって叩かれ立場が逆転すると、今までの鬱憤を晴らすかのように執行部を批判しはじめた。
執行部が経済界の言われるままに政治を行った結果、国の将来を担う若い世代が泥水を啜っていたのである。その経済界は更に若者の奴隷化を進めるために、非人道的な手段にまで手を出していたのだ。こんなことが許されてたまるか。
彼らの主張は特に若い世代に絶賛され、年寄りたちからも同情され、世論に広く受け入れられる結果となった。これを機に、リバティ党はそれまでの中道保守路線から、より右傾化していくことになる。
彼らはそれまでズブズブの関係だった経済界を悪と見做して糾弾し始め、あろうことか極左のはずの人民党と協調するという不思議な現象が起きていた。その背後には中国やロシアの影が見え隠れしており、それを快く思わないアメリカとの間で、微妙な綱引きが行われているようである。
一方、そのアメリカやイギリスなど、ヒトラーに糾弾された勢力は弁明に追われていた。
中でも白木会長率いるAYF社は、美夜を作った疑惑の企業として、全世界から危険視され、存亡の危機を迎えていた。
ヒトラーが声明の際に見せた美夜の製造ラインは、当初こそSF地味たただの演出と見做され失笑を買ったのであるが、後にFM社の監視チップの実在が証明されると、そうも言ってられなくなったわけである。
思えばどの国々も移民に仕事を奪われ低賃金に悩まされ、民衆はゆとりを失い苦しい生活を余儀なくされていた。人類の奴隷化というセンセーショナルな表現も、まったくの他人事ではないという実感がある中で、人々が美夜の存在を目の当たりにしたらどう思うだろうか。ついにここまで来たか、いよいよ自分たちが淘汰される番だと恐怖するのではなかろうか。
かくしてAYF社は人類の奴隷化を目論む悪の組織として世界中から糾弾されることとなった。ドイツの本社や各国の支部は暴徒と化した群衆に襲撃され、そのいくつかは閉鎖せざるを得なくなった。
白木会長自身もドイツ国内にいられなくなり、ついにローゼンブルクに亡命するに至る。しかし、彼はその亡命先で大人しくしてるかと言えばそんなことはなく、紛糾する国際世論に真っ向から対立する持論を展開した。
曰く、
「メイドロボは私が一人で愛でるために作ったのだ! 本気で奴隷が欲しいならペッ○ー程度の外見でよろしい! あんな可愛らしい見た目をしている必要なんかないではないか! 私は単に、無垢な幼女を着せ替えたり、髪の毛を梳かしてあげたり、ティーパーティーを開いたり、お人形さんごっこをしたかっただけなのだ!
なのになんだ、あれは! あんな量産なんかしたら、せっかくの幼女が台無しではないか! せめて一人ひとりが個性的な外見をしてるならいざ知らず、私があんな片手落ちをするわけがない!
あの生産ラインを見せびらかしてる連中こそが犯人なのだ! 諸君らは、連中にノセられているだけなのだ!
冷静になって考えてみたまえ、連中はドイツ議会を占拠して、未だに議員を解放せず、いつまでもこれといった目的も示さず、今の所ただ世間の対立を煽っているにすぎない。あれによって多くの企業が操業停止に追い込まれたが、それで諸君らの生活は楽になったのか? 監視チップとやらの問題が解決したのか?
騙されるな! まずはドイツ議会を元に戻し、ベルリンを制圧している連中を排除しないと取り返しがつかないことになるぞ! 連中が政権を奪取したら、それこそ君らは奴隷にされかねない! 大体、何が私は働きたいだ……私は働きたくなんかないぞっ!! 諸君らは、くだらん大衆意見に惑わされずに、今こそ自分のために立ち上がれ!」
白木会長の声明は一部好事家の理解は得られたが、大抵の人には火に油を注ぐ結果となった。
彼の言う通り、ネオナチたちは民衆を煽ることはしても、未だに具体的な何かをしてはいない。単に世界を混乱せしめているだけだった。
だが、人は自分の信じたいものを信じるものである。
一度、悪と決めつけられた彼の言葉は、もはや民衆に届くことはなく、ドイツのクーデター成功はいよいよ現実的なものになりつつあった。そして議会から逃れた一部の議員が、ブリュッセルで臨時政府を発足した時、ドイツ国内はついに無政府状態に陥った。
他方、日本ではAYF日本支部と白木恵海がやり玉に上げられていた。東京都はAYF社の元立花研の職員たちを技術顧問として招いていたが、世論の圧力を受けて即日解任される運びとなった。都内で使われている汎用AIの利用も、当面は見合わせることになり、自動運転車両などはかなりの数が制限された。
東京の復興は、彼らや移民が居たからこそ成し遂げられた奇跡だった。だが、今、そんなことを言うものは誰も居ない。
そんな中、恵海は事務所を通じて声明を出した。内容は、彼女としては自分の父を信じるしかないが、自分はすでに親元を離れて自立しており、彼に対して何の影響力も持ってない……という、少々突き放した内容だった。
因みにその際、父親のことを『情けない父』と表現したため(彼女は本心からそう思っているのだ)、彼女がAYF社から一定の距離を保っているという主張は、どうにか受け入れられたようである。
芸能活動を再開しようとした矢先に冷水を浴びせられたような格好だったが、お陰で活動をシャノワールに絞ることが出来、アンリが四六時中ボディーガードについてくれることになった。上坂はアンリの強さを知っているので、その点では一安心であるが……
世界はまだまだ混乱が続きそうである。




