また、会いに来ます
夜が明けて太陽が登っても、上坂はなかなか目覚めようとはしなかった。正午が過ぎ、午後1時に差し掛かろうとする頃には、息子のことを心配する父親の焦りが目に見えるくらいになってきた。
因みに、昨日佐藤の息子たちに起きたような奇跡は、今日はまだ一度も起きてない。眠り病患者はまだ何人も残っていたが、まるで起きる気配がないところを見ると、多分、上坂はあっちの世界で相当苦労しているのだろう。
下柳はこれ以上待っていても、上坂も、その父親も、心身的に良くないだろうと判断し、昨日言っていた通り、呼び戻せるならそうしてくれないかと江玲奈に頼むことにした。
彼女は肩をすくめると、眠っている上坂の身体に手を触れながら、じーっとその姿を見つめていた。見つめてるだけで何のアクションもしないので、焦れた下柳が何をしているのか尋ねてみると、彼女はその必要は無いと答え、
「必要ない。こうしてれば直に起きるはずさ」
「……それは何をしてんだ? おまえも上坂みたいに寝ないでいいのか?」
「上坂の魂は今ここに無いが、元々僕たちの魂は高次元で繋がっているんだ。そこへ働きかければ、自ずと今の彼にも影響が出る。今頃、上坂のいる世界の僕が、そろそろ戻るように伝えている頃だろう。ほら、さっきよりほんの少しばかり表情が変わってきた」
言われて上坂の顔を覗き込んで見れば、さっきまでの無表情がちょっとだけ険しい苦悶の表情に変わっていた。それから暫く待っていると彼の顔に血色が戻ってきて、江玲奈の言う通り、上坂は思った以上にあっさりと目を覚ました。
父親はその姿を見てホッと胸をなでおろしながら言った。
「良かった。上坂君。あまりにも静かなもんだから、君が起きないんじゃないかと心配になっていたところだ。何事もなくてよかったよ」
すると上坂は少々感情的になりながら、
「良くないですよ。まだ全員の説得が終わっていたわけじゃないのに……いきなり江玲奈が出てきたと思ったら、この通りだ。もう少し粘れば、彼らも説得することが出来るかも知れない。俺はまたあっちに戻りますよ?」
「まあ、待ちたまえ上坂。君が夢中になってる間、こっちは眠り病になった君の身体をただ黙って見てるしかないんだ。せめて何があったのか進捗くらい話してみなよ」
江玲奈にそう窘められて、上坂はハッとして病室の中の面々の表情に気づいた。父親も下柳も心労でとても疲れてそうに見え、アンリはそれを遠巻きにしながら同情の目を向けていた。
先に起きた佐藤たちも、いつまでも帰ってこない上坂のことを心配しているらしい。そう言われてほんの少しだけ険が取れた上坂が、反省の色を見せながら言った。
「そ、そっか……ごめん。実は説得があんまり上手く行ってなくて、ちょっと焦っていたんだ」
「おまえに丸投げしといて何だけど、どんな感じなんだ?」
下柳が苦労を労いつつ尋ねると、上坂は頷いてから、
「何ていうんだろうか……こっちの人たちはGBの時と違って、みんな自分たちが違う世界に迷い込んでしまった理由が分からなくて、いつもただ漠然と違和感を感じていたようなんだ。だから俺が行って何が起きたのかを説明したら、大体の人は理解してこっちに戻ろうとしてくれたんだけど……今残ってるお年寄りたちは、戻りたくないって言っていて」
「あー、つまり、向こうでウハウハ気分で生きていて、こっちに帰りたくなって感じなのか」
佐藤の息子やGBがそうだったように、眠り病で向かう世界は基本的にこっちの世界よりも本人にとって魅力的だ。だからGBも最初戻りたくないと言っていた。下柳はそんな感じなのだろうと思っていたのだが、
「いや、そうじゃないんだ……そういうんじゃなくて……あっちに残ってる人たちはみんなお年寄りばかりなんだよ。そして、こっちの世界に戻ってきてもご家族と離れて暮らしていたりで、身寄りがないそうなんだ。それでみんな、どうせ戻ってもあとは死ぬだけなんだから、それならあっちに残って家族に看取られながら死にたいんだって……」
上坂の話によると、眠り病のお年寄りが迷い込んだあちらの世界は、夕張市が破綻しない世界であるようだ。そこでは生活は苦しいながらも、税金も安く行政サービスも不自由なく受けられ、何よりも人口がこちらよりもずっと多いそうだ。
そんな時、東京復興の棚ぼたで夕張炭鉱が復活し、街が潤いはじめた。好景気を当て込んだ人口の流入が起こり、一度は都会に出ていってしまったお年寄りたちの家族も戻ってきた。
「街は今、新しい家が次々建っていて、職場もどんどん増えている。人々は生き生きと働いて、活気に満ち溢れている。お年寄りたちはそんな街を見ながら、家族と一緒に最後の時を過ごしたいんだって。どうせあと数年もしたら死ぬだろうから、それくらいいいだろうって、そんな風に言ってるんだ」
「なるほどね……」
上坂の言葉を聞いていた父親が、納得するように頷いてから言った。
「確かに、残ってる患者は、こっちに帰ってきても身寄りがないような人達ばかりだ。高齢で、体も不自由な方が多くて、老老介護でどうにか生活しているような状態だ。帰ってきても、良いことはあまりないだろう。もし、あちらで幸せに暮らしていけると言うのなら、それも悪くないのかも知れない」
「でも、そんなことしたら、ここに寝たきりの身体が残るんですよ? 彼らが戻らない限り、あなたがそれを面倒見なきゃならない」
「それは別にいいんだよ、上坂君。すでにもう何年もそうしてきた事なんだ。もし君が来なければ、あと何年続けていたかわからない……それに、面倒を見ると言ってもやはり終わりは来るんだよ。今まで運ばれてきた人たちの中には、今眠ってる人たちよりももっとお年を召された方々もいた。そういう人たちは、例え寝たきりであっても、いずれ体力がもたなくなる。私はその最後を看取れば、それでいいんだと思っている」
「でも……」
「上坂君。私の負担なんかは差し引いて、君の心情的にはどう思うんだね。それでも、無理矢理にでも、彼らをこっちに戻したいかね?」
上坂は何も言えなかった。言うまでもなく、心情的には彼らが穏やかに暮らせるのであれば、あちらに残ってもいいんじゃないかと思っていたのだ。だから説得に苦戦していたのだし、実は彼らに同情するあまり、ちゃんと説得出来てもいなかったのだ。
上坂が苦虫を噛み潰したような表情をしていると、父親が続けて言った。
「それに、これは私のエゴなんだ。本当なら、君のお兄さんにこそ、こうしてあげたかった。これは単に、そう出来なかった私の罪滅ぼしに過ぎなかったんだよ。それを解決してくれた君には感謝しか無い。それに、悪いことばかりでもないさ。
君が、お兄さんが別の世界で幸せに暮らしている言った時、私は救われたような気がしたんだ。肉体が滅びても、魂は消滅せず、別の場所で幸せに暮らしていけるなら、こんなに素晴らしいことはないだろう。彼らが今、他の世界で幸せであるというのなら、私はそれでいいと思う」
父親はそう言うけれど、上坂がまだどこか納得いかないような顔をしていると、そんな彼に向かって穏やかな声で江玲奈が言った。
「上坂よ。これも一つの、人の死の形というものなんだろう。普通に考えれば、寝たきりや痴呆症になって、前後不覚のままこの世を去る年寄りなど、いくらでもいるじゃないか。それに比べたら、彼らはずっと幸せだ」
「しかし、江玲奈が言ったんだろう? 別の世界に行ったっきりでは、その魂が消滅してしまうって。だから俺に、眠り病患者を助けろって言ったんじゃないか」
「それは、自発的に平行世界に逃げ込んだ人間の場合だ。自分の欲望を満たすために世界を渡る者は、いずれその世界にも満足しなくなる。そうしてまた別の世界に渡り初めて、やがて自分に都合のいいことだけを追求し、可能性世界が失われてしまう。そうなった時、その人の魂は確かに消滅するだろうさ。
けど、今回のお年寄りたちはどうだろうか。彼らは単に、行った先の世界で死にたいだけだ。寿命を全うしようとしている。つまり、輪廻転生を受けて入れているのだから、その魂は消滅しない。彼らの肉体は滅びても、いずれまた別の肉体に宿ることだろう……尤も、この世界が終わらなければの話だけどね」
「……そうか」
そのために、自分が出来ることはせいぜいこれだけのことなのだ。上坂は、自分の力の足りなさを痛感していた。しかし、人間一人がやれることなど、せいぜいこんなものだろう。
彼が下唇を噛んで悔しそうな表情をしていると、下柳が同情するような素振りで言った。
「それに上坂さんよう? まだやりたいって言っても、残念ながらもう時間が無いぜ。連休は直に終わるけど、そしたら一度は東京に帰らなきゃなんねえ。雲谷斎も帰ってくるし、御手洗さんも困っちゃうだろ」
「……そうだな」
「話を聞く限り、その爺さん方はもうしょうがねえよ。ギリギリまで粘ったところで時間の無駄だ。そんなことより、せっかく会えたんだから、お父さんと何かしたらどうなんだ。話したいこととかあったんだろう? なんのために北海道まで来たんだよ」
そう言われてドキリとした。確かに下柳の言う通りだ。だが、父親に聞きたいことはもう粗方聞いてしまったし、彼と何かしたいかと言われても、そもそも上坂には肉親相手に何を話せば良いのかすら分からなかった。
それは父親の方もそうだったらしく、二人がまごついていると、下柳が情けないものでも見るような苦笑を浮かべながら、
「特に無いんだったら、俺からお願いしてもいいか? 良かったら、親父さんと佐藤さんが湯治したっていう温泉に連れてってもらえないか。山の中にあるんだろう? そんな秘境の湯みたいなところがあるなら、是非行ってみたい。実は、親父さんに話を聞いてからずっと気になってたんだ」
「ああ、あそこですか。それならいつでも案内しますよ。上坂君がいいのなら、すぐに連れて行ってあげたいけども」
上坂は頷いた。
「そう……ですね。なら、そうしましょうか」
上坂はまだ少し後ろ髪が引かれる思いもしたが、かと言って自分にはもう彼らを説得する材料もなく、江玲奈の言う通り、悪影響がないというのなら、諦めるのもやむなしと考えることにした。すべての人を助けられるわけじゃない。それは最初から分かっていたはずだ。
それに、下柳だけじゃなく、上坂も気になっていたのだ。都会に暮らしていると、こんな自然がいっぱいの場所には中々来られない。山に入るだけでも楽しそうなのに、温泉まであるのなら行ってみない手はない。絶対面白いに決まっている。
そう思っていたのは上坂だけじゃなくて、
「ほう、温泉か……パワースポットだな。僕はパワースポット巡りが趣味なんだ。山歩きは大変そうだけど、そこにパワーがあるならば、苦労してでも行かなくては」
「パワースポットて……つーか、おまえ、ついてくるのは構わないが、自然の露天風呂に女湯は無いぞ? 混浴でも平気なのか?」
「何を言ってるんだ君は。代わり番こに入れば良いじゃないか」
「あ、そうか」
「……下柳さんって、そういう人だったんですね。今回の旅行で、それがわかったことは大収穫でした、個人的に」
「わあ! 違うんだ! そんな目で俺を見ないでくれっ!!」
下柳は必死に弁明していたが、アンリの彼を見る軽蔑の眼差しは、ついにこの旅行中にいつもの営業スマイルに戻ることは無かった。
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その後、上坂たちは佐藤も交えて件の温泉へと足を運んだ。
そこはかつて父親が住んでいたと言う農場の裏山を二つほど越えた山の上にあり、案の定体力が足りない江玲奈はだいぶ苦労していたようだが、その苦労に見合うだけの素晴らしい場所だった。
まだシーズン前だっとは言え、夕張の山々は既に紅葉が美しく、山から見下ろす絶景は神秘主義者じゃなくても、何か特別なパワーを感じるような荘厳さを湛えていた。地中から湧き出す温泉には、父親が長い年月をかけて運んできた川原の石で丁寧に浴槽が作られており、そのまま秘湯として雑誌に乗っててもおかしくないような快適さであった。
そんな温泉で飲む酒は格別だと、下柳は佐藤と意気投合して楽しそうにしていたが、酒を飲まない上坂にはその気持ちはよく分からなかった。そんなことをしていると、いつまで入ってるんだと女性陣からクレームが来て、外に追い出された二人は今度は湯冷めしてブルブル震えていた。
帰り道、くしゃみを連発していた二人のために、その夜は父親特製の滋養に良い食事を振る舞ってもらえた。山で手に入れた薬草でつくる薬膳と、近所の猟師から分けてもらったと言う、噂のジビエ料理に舌鼓を打った。
父親の作る料理は味付けは薄いのだが、どれもこれも信じられないような滋味が感じられ、高級レストランでも中々お目にかかれないような代物であった。料理とは手間暇や技術もさることながら、やはり圧倒的に食材が物を言うのだなと、将来はシェフになりたいと言っていたアンリが唸っていた。
それぞれがそれぞれの貴重な体験をして、こうして上坂達の北海道での最後の夜は更けていった。佐藤家みたいに親子仲睦まじいわけでもなく、お互いに最後までよそよそしい感じではあったが、上坂は父親の人となりを見て、ここへ来て良かったとそう思うのであった。
翌朝。上坂たちは結局初日にしか泊まることのなかったホテルに詫びを入れて、来た時と同じように、夕張市職員の車で空港まで送ってもらった。
見送りには上坂の父親と泰葉が来て、佐藤と四葉はまだ療養所でリハビリをしている四郎のために、夕張に残った。去り際、佐藤は上坂をぎゅっと抱きしめると、その背中をバンバンと叩きながら、
「困ったことがあったらいつでも相談に来い、悪いことなら何でもやるぞ」
と言って、それを隣で聞いていた下柳の顔面をピクつかせていた。もちろん、ただの冗談であることは分かっているが、心臓に悪いから、出来れば合法的な提案にしてほしいものである。
そんなこんなで新千歳空港まで送ってもらった上坂たちは、夕張市職員にお礼を言って別れた。彼はあまり役に立てず申し訳ない、これは市長からですと言いながら、持ちきれない程のお土産を渡し、くれぐれも御手洗によろしくと言ってから去っていった。
上坂の見た平行世界とは違うが、炭鉱が復活したこちらの世界も、また夕張市は人が増えて活気が戻ってくるのだろうか。そうなると良いなと思いながら、上坂たちは車のクラクションを鳴らして走り去る彼に背を向けて、搭乗手続きのために空港へ入った。
夕張土産や江玲奈達が増えたおかげで、来たときよりも多くなった荷物を預けてから、下柳はまた、たった2時間のための暇つぶしを手に入れるために、土産物屋へ走っていった。そんな彼の後で冷たい視線を浴びせながら、江玲奈とアンリが温泉での出来事を仄めかしつつ、あれが欲しいこれが欲しいとタカリにタカっている。
男って生き物は悲しい生き物だなと、哀れな下柳を遠巻きに眺めながら、上坂は父親と向かい合いながら、お互いに特に会話することもなく、黙って待合室に座っていた。一緒にいた泰葉が居たたまれない感じでそわそわしていたが、当の本人たちは案外、これで気楽だった。元々そんなに喋るタイプじゃないのだ。
彼に育てられたわけじゃないと言うのに、上坂と父親は驚くほどよく似ていた。こうして寡黙なところも、自分たちは被害者だと言うのに、決して社会のせいにすることはなく内罰的なところも……
……お財布の中身をすっからかんにされた下柳が涙目で帰ってくると、上坂達の乗る予定の飛行機が、間もなく搭乗手続きを行うとのアナウンスが流れた。さっき荷物を預けたばかりなのに、もう両手いっぱいになった手荷物を抱えて、下柳たちが搭乗ゲートへと向かっていく。
下柳、アンリ、そして江玲奈がゲートを潜って、最後に上坂が続こうとした時、彼はふと思い立ったように立ち止まると、彼の背中を見送っていた父親の方へ振り返った。
「藤木さん……最後にちょっと聞いておきたいんですけど」
「なんだね?」
ゲートの向こう側から、いつまでもやってこない上坂のことを、どうしたんだ言いながら下柳たちが覗き込んでいる。上坂は彼らの声を無視して父親の方へと歩み寄ると、
「多分、言いたくないことだと思うんですけど、やっぱりどうしても聞いて置かなければならないと思うんです。あなたは、どうして俺を置いて出ていったんですか?」
上坂がストレートにそう言うと、その場の空気が凍りついたかのように重くなった。周囲は相変わらず空港の利用客でごった返しており、人々の世間話や、飛行機の搭乗アナウンスが鳴り響いているというのに、ここだけが水の中に居るみたいに音がこもって聞こえるようだった。
父親はその質問に一瞬だけ虚を突かれたような表情を見せたが、きっといつかその日が来るだろうと予想していたのだろうか、比較的早く落ち着きを取り戻すと、
「……必要なことだったんだ。マグロ漁船に乗るためには、子供を置いていくのが条件だった。借金取りは今のままじゃ利子ら満足に返せず借金が増えていくばかりだと言う。それを少しでも減らすためには、子供を切り捨てるしかなかった」
「そうですか……」
「私は親子揃って生きるか死ぬか、その選択に迫られていた。でも、そのために君を捨てで出ていったことは事実だ。私が悪かったんだ。言い訳はしないよ」
「いや、まあ、なんとなくそんなことなんじゃないかと……思ってたより普通だったんで、そんなにショックじゃありませんでした」
「すまない」
「いえ。聞いたら少しスッキリしました。俺も……それは仕方ないことだったと思いますよ。だからもう、自分を責めないでください……」
「…………」
「月並みですが。それじゃ、俺はこれで……」
上坂は黙りこくっている父親に頭を下げると、踵を返して搭乗ゲートへと足を向けた。本当はあんまりしっくり来なかったけれど、これで一応、北海道に来た目的は全部果たせた気がする。
だからもう小さい頃の起きてしまった出来事なんか忘れて、東京に戻ったら江玲奈と共に、眠り病患者を治療するために働こうと思った。この夕張の地でも見つかったように、全国には……いや、きっと世界各国にまで、眠り病は広まっているのだ。
その中には泰葉たちみたいな不幸な親子だってたくさんいるはずだ。そういう人たちを一人でも多く助けるために、自分はこれから生きていこう。彼はこの北海道旅行で、改めてそう決意した。
と、その時、そんな密かな決意を固めている彼の背中に向けて、
「ちょっと待ってください! 上坂さん! パパはあなたのことを捨てたりなんかしてませんよ」
泰葉が大声で呼び止めた。上坂が眉毛をあげて振り返る。
「いや、泰葉さん、気持ちはありがたいけれども、私が彼を捨ててしまったのは事実だよ」
「パパはちょっと黙っていてください。ややこしくなるから」
父親が慌てて彼女のことを止めようとするが、泰葉はそんな彼の言葉をピシャリと制すると、
「パパは借金取りに迫られても、あなたと別れるのは絶対イヤだからって、最初は頑張っていたんですよ。少ないお給料を少しでも返済に当てようとして、仕事をいくつも掛け持ちして、身体だって何度も壊したけれど、薬を飲んで誤魔化して、ろくに休まずに働き続けていたんです。結局、それが後になって漁船の上で響いちゃったわけだけど……それくらい頑張っていた」
「……そうなんですか?」
上坂がじっと目を覗き込みながらそう尋ねると、父親はやがて観念したように、
「最初の内だけだよ。今となっては、言い訳にもならない。結局、それは私のエゴだったんだ。私はあっという間に壁にぶつかった。何かって、自分の病気は誤魔化せても、小さな子が熱でも出したらお手上げだったんだ。私をサポートしてくれていた妹にだって仕事がある状況で、どちらかが仕事を休んでしまえば、すぐに親子はジリ貧だった。テレビ報道で知っての通り、保育所なんてそう簡単に見つかるものじゃなくて、結局私はどうすることも出来なくて……一度は高熱を出した君に薬を飲ませて出ていったこともあるんだ。
でも、そんなことしても気になって仕事が手につかなかった。ミスを連発して怒られて、結局早退させてくれと言ってクビになって、そうして家に帰ったら君がぐったりして倒れていて……まだこんなに小さいのに、どうしてこんな子を置いて出ていったんだと私は後悔した。
結局、私がいると、君にしわ寄せが来るようになっていたんだ。私が頑張れば頑張るほど、君がつらい思いをしなくちゃならなくなる。このままじゃ君は満足に医者にもかかれず、もしも成長したところで、私もいい年だ、ろくに借金を返済出来なかった老人の面倒を、君が見なければならなくなる……そうまでして一緒に居ることが、本当に君のためになることなんだろうか。
それからまた暫くして、君が発疹に罹ったとき、私は満足に病院にも連れていけなかった。高熱でうなされて、体中ぶつぶつが吹き出して、今にも死んでしまいそうなのに、私には何も出来ない。お兄さんのときもそうだった。私は何も出来ずにただ手をこまねいている内に、彼のことを死なせてしまった。また同じことをするのだろうか。そんな小さな命を見ていたら……私は、決断せざるを得なかった。
最低の人間になることは分かっていた。でもそうすれば楽になれるというのなら、もうそうするしかないかなと思った。つまり、私は子供を捨てたんだ」
父親は話を終えると、申し訳なさそうに肩を落とした。上坂はそんな彼のことを見つめながら、何を言って良いのか分からず、ぼんやりと彼のことを見つめていた。憎しみはなかった。寧ろ、すごくすんなりと彼の気持ちが理解できた。だけど、そんな彼にどんな言葉をかけてあげれば慰めになるのか、上坂にはそれがわからなかった。
どう言い繕ったところで、父親が辛い決断をしなければならなかったのは覆しようがないのだ。下手な慰めの言葉は、返って彼を責めるような気がして……上坂は上手く言葉に出来なかったのだ。
「そうだったんですか……」
上坂の反応があまりにもフラットだったから、焦った泰葉が彼の話を補足するかのように続けた。
「誰の助けもなく子供を育てるのって、すごく大変なことなんですよ。私も何度も挫けそうになったけど、そのたびにパパが助けてくれました。もしも彼が居なければ、あの子はちゃんと育ったかわかりません。あなたのことを一人で育てなくちゃならなかったパパのことを分かってあげて?」
「……ええ、わかります。俺も、そう思いますよ」
上坂はそれだけ言うと、ポリポリと指先で自分のほっぺたをかいた。深く刻まれた額のシワがピクピクと動いて、なにか言いたげにしていたけれど、結局彼の口からはどんな言葉も出てこなかった。
「それじゃ」
「ああ、元気で」
親子はそんなよそよそしい挨拶を交わすと、上坂は彼に背を向けて、搭乗ゲートへと足を運んだ。その様子を窺っていた職員が、興味津々に彼の顔を見つめている。その間、一度も振り返らない上坂の背中を見つめて、泰葉は駄目だったか……といった感じに、苦々しい表情で肩を落としていた。
上坂が搭乗ゲートを潜ると、非難するような顔をした下柳が近づいてきた。
「おい、いいのか……あれで」
あれじゃ父親は上坂に恨まれていると思ってしまっても仕方ないだろう。そんなことのために北海道にまで付き合わされたのかと思って、彼は少々不機嫌そうにそう言った。
しかし驚いたことに、上坂の表情はどこかしら晴れ晴れとして見えた。たった今のやり取りで、どうしてそんな顔をしているんだろうかと、下柳が疑念に思っていると、すると上坂はからりとした表情で、
「いいんだ。これでもう二度と会えないわけじゃないんだから」
そう言って上坂は搭乗ゲート越しに振り返ると、まだこちらの方を不安げな表情で見つめている泰葉と、その隣で顔色一つ変えずにボーッと突っ立っている父親に向けて叫ぶように言った。
「また、会いに来ます。お父さん!」
彼はそう叫ぶや否や、恥ずかしそうにくるりと踵を返して、飛行機の搭乗口へと早足に去っていった。その後姿を、ゲートに居た職員が苦笑いしながら見送っている。泰葉はそんな彼を指さしながら、嬉しそうに隣に並ぶ父親に何かを話しかけていた。しかしその父親の方は、相変わらず表情一つ変えずに冷静沈着そうな顔を崩さなかった。
下柳が、おいこら待ちやがれといって追いかけてくる。やれやれと言ったお手上げのポーズを見せてから、江玲奈がその後に続いた。最後にアンリが深々と父親たちにお辞儀して、そして彼らは飛行機の中に消えていった。
みんなが見えなくなった時、それまで絶対に表情を崩さなかった父親の頬っぺたで、一筋の雫が流れて落ちた。
こうして上坂の北海道旅行は幕を閉じた。彼は来る時は不安で仕方なかったけれど、帰る時にはさっぱりとして、本当に来てよかったと、そう思えるような旅であった。




