息子よ!
一体、何の因果だろうか。江玲奈の要請に応じて眠り病の治療を行おうとしていた矢先に、頼りにしていた立花倖に突然死なれて、自分を見失いつつあった上坂が、それでも立ち直ろうとして北海道まで父親を訪ねて来てみたら、その父親もまた眠り病と戦っていたのである。
思い返せば上坂が天涯孤独の身になったのも、父が家族を捨てて逃げ隠れしなくてはならなくなったのも、全ては兄が眠り病に罹ったからだった。18年前、父はその原因までは分からなかったわけだが、ここ最近、似たような症状を見つけたことで、この病の存在にたどり着いたわけである。そう考えると執念を感じると同時に、藤木家という一つの家族にとって、眠り病とは絶対に許してはいけないものであるのだと、上坂は強く感じるのだった。
なにはともあれ、まずは父親にこの病が普通とは違うことを説明しなければならない。上坂は普通の人からすれば荒唐無稽としか思えないような、眠り病という病のカラクリを、なんとか説明しようと試みた。
我々の世界はたった一つの宇宙で成り立っているわけじゃない。高次元を挟んだ別の場所には、また別の平行世界が無限に存在し、我々はその可能性世界の一つで暮らしているのだ。因みに、別の宇宙には自分も住んでいるが、その自分と今自分が考えている『私』は別物だ。
健全な精神は健全な肉体に宿るという言葉の通り、実は人間の精神と肉体は分離できる。人間の霊魂というものは、実は肉体に根付いているものではなく、高次元に存在して三次元空間にある肉体の夢を見ている。その高次元にある人間の霊魂が一箇所に集まった場所が、江玲奈の言うアカシャ年代記であり、ユングの言う集合的無意識の状態のことであり、実は全世界の人間の霊魂は繋がっているのだ。
眠り病とは、そのアカシャにある魂が、今まで繋がっていた肉体から突然離れて、別の世界の肉体に行ってしまった状態を指す。このような状態になったとき、肉体は正常だが、そこに魂が無いから、医者は何が起きているかがわからない。そして父の予想通り、兄はこの病気に罹患していたのである。
そのようなことを人間は……いや、人間が作り出したAIはやれるようになってしまった。東京インパクト後に、急に眠り病患者が増えたのはそのためだ。
その切っ掛けとなったのはFM社の移民監視チップのせいであり、立花倖はその秘密に迫ったために殺された。実は東京インパクトは自然災害ではなく、人為的に引き起こされたものであり、上坂はその際にFM社に拉致されて、アメリカで脳を弄くられたせいで、自在に平行世界を移動する能力を得たのである。
さて……
大体、そのようなことを説明し終えたころには、上坂の父親の表情は険しいものになっていた。それは話を聞いて、世界を混乱に陥れたFM社に対し憤慨している……といった類のものではなく、ただ単に、上坂の言ってることがどうしても信じられないからと言った疑いの眼差しであった。
まあ、信じられないのも無理もないだろう。上坂だって、喋りながら自分の頭がおかしくなってしまったんじゃないかと、思ってしまうくらいなのだ。
だが、一緒に別世界へ行って帰ってきたGBや日下部の存在があり、なにより、その別世界で出会った兄、藤木藤夫の存在があった。これがただの自分の妄想だったとは思えないのだ。
そしてそれは不信感を募らせていた父であっても、見過ごせない出来事だった。彼は上坂が平行世界で兄に会ったことに言及すると興味を示し、そして、その兄が馳川小町という女性と結婚していたと言うと、まるでそれまでのことが嘘であったかのように、突然その表情が穏やかなものへと変わったのである。
「……藤木が、小町ちゃんと結婚してたの?」
「はい。っていうか、本当に兄さんのこと名字で呼ぶんですね……」
「あ、うん。そうか、そうだな……そう呼ぶのが定番になってたんだよ、藤木は……お兄さんはノリツッコミが激しかったからなあ、つい、おかしくて」
「分かります。俺が会った兄さんもそんな感じでした。俺が兄さんのことを呼び捨てしないのが不思議そうで……でもこっちは、ほとんど見知らぬ人相手に失礼なことも出来ないから、ちょっと大変でしたよ」
「そうか……うーむ……なるほど……藤木らしいな」
「そんな感じでギクシャクしてる最中に義姉さんがやってきて、二人が結婚してるっていうからまたビックリしたんですよ。だって義姉さん、すごく綺麗な方じゃないですか。それで兄さんやるなあって言ってたら、義姉さんはあっちの俺のことを相当可愛がっていた様子で、何かにつけて小遣いやるって言ったり、ニコニコしながら、あんたが生まれた時に、一生幸せにするんだって、決めたんだって言ってました」
「小町ちゃんがそんなことを……?」
「ええ、俺はあっちの自分が羨ましくなりましたよ」
「そうか……」
するとそれまでは上坂の話を前のめりになって聞いていた父親は、突然、ため息を吐いて脱力し、応接ソファにだらりと身体を投げ出した。上坂は何かまずいことを言ってしまったのだろうかと不安に思ったが、
「……私の知ってる小町ちゃんもね、君が生まれた時、同じようなことを言っていたんですよ。小町ちゃんとお兄さんはいわゆる幼馴染で、小さいときからお互いに好きあっていたんだけど、お兄さんが亡くなってしまってからは、彼女はだいぶショックだったようでふさぎ込んでいたんです。で、そんな時に君が生まれたんだけど、入れ替わるように今度はお母さんが亡くなってしまってね。小町ちゃんはそんな君のことを不憫に思ったのか、この子は自分が育てる、一生面倒見るんだって言って、君のことをそれはそれは大事に可愛がってくれていたんです……
でも、私はそんな彼女を、少し強く拒絶してしまった。なんというか、その時の小町ちゃんは、お兄さんが死んでしまった代償を君で埋めようとしているみたいで、このまま行ったら彼女は人生を棒に振ってしまうような、そんな気がしたんです。それで小町ちゃんの気持ちは嬉しかったけれど、いつまでも私達家族に関わっていちゃいけないと、あなたは自分の人生を歩きなさいと、私は泣いている彼女を突き放した。あの時は、それ以外に考えられなかったんだけど……そうかあ……別世界の小町ちゃんがねえ……」
父親はしみじみとそう呟いてから、長い長い溜息を吐いた。
それを見ていた上坂たちは、彼になんて声をかけていいのか分からず、じっと見守っていることしか出来なかった。
父親は、小町のことを拒絶してしまったと言っているが、それは無理もない話だろう。その時の彼女は兄と結婚していたわけでもないし、何よりもまだ女子高生だった。そんな子が、借金で首の回らない男やもめの世話を焼こうというなら、常識のある人ならもっと自分を大切にしろと説教するのが普通である。
上坂の語る別世界の二人の話は、そんな父親への慰めになると同時に、ほろ苦い過去を思い出させるものだった。
彼は言った。
「あの子は、そういう優しい子だった。だから巻き込めなかった。二人が幸せになれる世界があるというのなら、そんな嬉しいことはない。だから……信じましょう。君が言ってることは本当だ。不思議な話だけれども、普通なら絶対に知りようもない事実を、君は知っている。作り話にしては出来すぎている」
「はい、信じてください」
「で、君はそうやって、別世界に行ってしまった人たちに会いに行けると言うんだね? そして、彼らを説得して、こちらの世界に戻すことも出来ると……ならば早速、頼まれてくれないだろうか? 先に話した通り、私は大勢の眠り病患者を抱えている。その中には佐藤さんの息子さん……先程君たちが会った、泰葉さんの娘のお父さんが含まれているんだ。彼は娘が生まれる前に寝たきりになってしまい、あの子は本当のお父さんのことを知らない。このままでは不憫だから、どうか助けてやって欲しい。この通りです」
父親はそう言うと上坂に向かって頭を下げた。上坂は慌てて立ち上がると、そんな父親の肩を叩いて顔を上げてくれと促し、
「任せてください。俺はきっとそのために北海道に来たんです」
そう言って、彼は力強く頷いた。
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翌朝。早速、上坂たちは夕張へと戻ることにした。
来る時は3人だけで、一台のレンタカーで済んだが、帰る時は人が増えたおかげで、二台に分乗しなければならなかった。因みに、下柳の運転する車に、上坂と江玲奈とアンリが、泰葉が運転する車に娘と父親が乗ったのだが、上坂は移動の最中にどうして父親がいるのに乗らないのかと、下柳に散々イジられた。
冗談めかしてはいたが、実際にそうしたら空気が重くなりすぎて、運転手も溜まったもんじゃないだろう。札幌から夕張までおよそ2時間のドライブを沈黙で過ごす自信があるなら、下柳が運転する車になら一緒に乗ってやってもいいと返すと、彼は黙った。
沈黙と言えば、後部座席には江玲奈とアンリが座っていたのだが、彼女の護衛を買って出たと言ってたくせに、この二人はろくすっぽ会話もしなかった。夕張への道すがら、主に下柳が喋って上坂が受け答えするという格好で、二人はしれっとした顔で、お互いに反対側の窓の外を眺めていたから、空気が悪くて仕方がなかった。本当に、この二人はどうして一緒にいるのだろうか。
そんな具合に、上坂達が泰葉の運転する車を追いかける格好で、最終的にたどり着いた場所は、あの廃農場のほど近く、最初に父親の行方を尋ねるために立ち寄った民家だった。なんとここが上坂の父が現在暮らしている農家の寮だったそうである。
あの時、上坂達の応対に出た者たちは、彼らが父親を連れて帰ってきたことに大変驚き、まさか本当に知り合いだったとは思わず、追い返してしまったことを平謝りに詫びてきた。しかしそれは仕方ないことだろう。ある日突然やってきた、見た感じ年齢もバラバラな3人組が、ろくに身分も明かさずに、自分たちの社長を探してると言われたら、従業員が警戒して嘘をついても無理はない。寧ろその忠誠心を褒めてしかるべきと言えよう。
そんなわけで上坂達も、逆にあの時ちゃんと身分を明かさなかったことを申し訳なかったと詫びるのだった。本当なら、愛に貰ってきた手紙でも見せれば、一発で警戒は取れたはずなのに、あの時はまだ上坂も、父親に会うことが怖かったのだ。今にして思えば馬鹿馬鹿しい限りだが、もしも父親が嫌なヤツだったらどうしよう。拒絶されたらどうしようと、くよくよ考えていたから、あんな態度を取ってしまったのだ。
さて、そうして誤解も解いたところで、改めて眠り病の話をしていると、外の方から何やらガヤガヤと騒がしい声が聞こえてきた。従業員たちが忙しなく動き、泰葉が慌てて出ていったので、何があったんだろうかと思っていると、
「藤木さん、帰ったのか! なんだって息子さんが見つかったって話を聞いたんだけど、本当なのか!?」
従業員寮のドアをバーンと盛大に開けて、やたらと貫禄のある老人が家の中に飛び込んできた。その眼光の鋭さはただものではなく、一睨みで人を殺せそうな迫力にびっくりしていると、彼は上坂達の方へその鋭い視線をロックオンをして、
「おお! おお! おまえが一存かあーっ! 会いたかった! 会いたかったぞー!」
実に嬉しそうにカカカッと笑い声を上げると、両手を広げてガバーっと下柳に抱きついた。
「グエッ!? げぇ~……げほげほ、おい! 爺さん、タップタップ!」
完全に不意を突かれた下柳が老人の背中をポンポンと叩いている。彼はどうやら、下柳と上坂を勘違いしているようである。
この老人が、いったい何者であるかは、言うまでもないだろう。先代佐藤組組長、佐藤備後氏である。ススキノを牛耳っているヤクザの大親分と聞くと緊張してしまうが、上機嫌で下柳に抱きついている姿を見ていると、案外人の良さそうな愛嬌のある男にも見えた。
「爺さんなんて水臭え。藤木さんの息子なら、俺の息子も同然だ。オヤジでもオジキでも、なんならシュガーとでも好きに呼んでくれ、息子よ!」
「いや、だから俺はその息子じゃねえんだよ! 藤木さん、なんとか言ってくれ」
下柳が抱きついてくる佐藤を引き剥がしながら、上坂の父親に助けを求めると、彼は苦笑交じりに事と次第を説明した。
「え……? そうなの? 一存はこっち? でも、おまえさん、こいつはまだガキじゃねえか。高校生くらいの……あんた何歳だったっけ?」
「お恥ずかしい限りですが、私が50を過ぎてからの子供でして……」
「あ、そうなんだ……ふーん……」
佐藤はバツが悪そうに下柳を放すと、ごほんとわざとらしい咳払いをしてから、
「息子よ!」
上坂はその老人の抱擁を、どうにかこうにか掻い潜った。




