お父様はヤクザ
上坂の父親に会うためにススキノまでやってきた一行は、マンションの一室から出てきたその父親らしき男性が、まさかの子持ち女性と親しげに話している場面に出くわしてしまった。
元々、会いに来るとは言っても、彼の人と形がわからない限りは、名乗り出るつもりも無かったのだし、最悪の場合、裏社会と繋がりのあるような人物である可能性すら考慮にいれていたのだが、そこに新しい家族がいるという可能性だけは、不思議なことに誰の頭の中にも全くなかった。
しかし考えても見れば、父親が出ていってから、18年もの時が経過しているのである。始めは借金返済のために女を作るような余裕は無かっただろうが、聞くところによれば、8年も前に借金は返済しているのだから、彼が第二の人生を始めていてもおかしくはないだろう。そして新しい家族が出来たなら、そこに子供がいたって不思議ではないだろう。
でも、それじゃ上坂は何なのか。
彼が家族を捨ててまで身を隠さなければならなかったのは何だったのか。
どうして上坂は天涯孤独の身にならなければならなかったのか。
一生、日陰者として生きて行けとは言わない。でも家族を作るなら作るで、まずは上坂に断らなければおかしいだろう。どうして何の断りもなく、こんな北の果てでコソコソ女とよろしくやってるんだ。
下柳は自分のことじゃないのに、だんだん腹が立ってきて仕方がなくなった。
「ちくしょう! あの野郎! 一発殴ってやんなきゃ気がすまねえ!」
男がエレベーターに乗って去ってから、徐々に怒りがこみ上げてきた下柳は、今すぐ男を追いかけていってでも殴りたい衝動に駆られた。ダッシュで階段を駆け下りれば、まだ間に合うはずだ。そう思った彼が、踵を返して階段に足を向けると、
「やめてくれ、下やん。良いんだ」
「良くないだろうが! せっかく息子がこうして会いに来てくれたっていうのに、なんだあの野郎!」
「彼は俺が来てるなんて知らなかったんだよ。平和に暮らしていたとこに、突然押しかけてきたのは俺の方なんだ。それなのに怒ったって仕方ないだろう?」
「バカ、そんなの関係ねえよ! 昔捨てた自分の息子が居るって分かってるくせに、よそに女作っちまったんだぜ? 普通に考えて、あり得ねえだろうが。それだけで殴る理由には十分だ。全然筋が通らねえ!」
「いや、そんなことはない。俺は世間的には5年前に死んだことになってるんだよ。死んだ息子にまで義理立てすることはないだろう。娘さんもまだ小さかったみたいだし、波風立てる必要はない。もう帰ろう。これで良かったんだ」
「よくねえだろ、どうしておまえ、怒らないんだ!? 、あんなもん見たら怒るのが普通だろうが!」
「普通じゃないんだから、仕方ないだろうがっ!!」
上坂の叫び声がマンションの廊下にビリビリと響いた。住民の一人が薄っすらとドアを開いて、歳のバラバラな妙な三人組のことをちらりとのぞき見てから、バタンとわざとらしく音を立ててドア閉めた。
「俺だって頭にきてるんだ。でも全然怒りが湧いてこないんだ。悔しくてむかついて、心が引き裂かれそうなのに、怒り方がわからないんだ。なのに、俺の代わりに下やんが怒らないでくれ。下やんが怒ってしまったら、俺が怒れなくなってしまうだろう? 怒って良いのは俺だけのはずなのに、そんな簡単に怒らないでくれよ……」
上坂は肩で息をしながら、そんなことを口走っていた。落ち着いてそうに見えて、やっぱり冷静じゃなかったんだろう。顔は青白く、目は血走っていて、握った拳が小刻みに震えてて、感情が上手くコントロールできないようだった。
下柳は彼のそんな姿を見て何も言えなくなってしまい、自分勝手に怒りをぶちまけていたことを反省した。怒っても、殴っても、嘆いても、悲しんでも、それで終わらないのが人生なのだ。上坂はそんなこと、とっくの昔に気づいていた。
変に騒いでしまったからには、3人はそれ以上その場に留まっているわけにも行かず、間もなく階段を降りてマンションを出た。路上に出て左右を見回してみても、上坂の父親らしき男性はもうどこにも居らず、夜の街に消えていってしまったようだった。
本当なら後をつけて彼のことをもっとよく知りたいところだったが、今更そんなものを知っても手遅れだろう。はるばる飛行機に乗って、こんな遠くまで来たというのに、徒労に終わってしまったという無力感と、精神的なショックで、上坂はだいぶ疲れてしまっていたようだったから、3人はその日は宿泊先の夕張には帰らずに、札幌市内の安ホテルに泊まることにした。
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翌朝。狭いシングルベッドから落っこちそうな体勢で眠っていた下柳は、よほど苦しかったのだろうか、不完全な眠りから目が覚めた。変な格好で眠っていたせいか、頭はボーッとして身体のあちこちが痛かったが、もう一度寝ようと思っても全然寝付けず、時計を見ればいい頃合いでもあったから、仕方ないので大あくびをかましながらベッドから起き上がった。
隣のベッドを見れば上坂の方は身じろぎ一つせず、まるでエジプトのファラオみたいに眠っていた。余りにも静かすぎるものだから、見ている方が本当に息をしていないんじゃないかと心配になるくらい、彼は深い眠りに落ちているようだった。
まあ、昨日の出来事を思えば、それも仕方ないだろう。思えば、信頼する立花倖が死んでからまだ間もないのだ。不幸続きで同情するのも憚られるくらい、彼は神経がすり減るような出来事に立て続けに見舞われていた。眠りたいなら、いくらでも眠らせてあげよう。下柳は上坂を残して部屋から出た。
彼は部屋から出ると、取り敢えず一階にある食堂を目指すことにした。適当なビジネスホテルに入ったから期待は出来ないが、一応朝食が付くらしいので足を運んでみたら、先に起きていた江玲奈がポッキーの小袋を開けて、リスみたいにポリポリと食べていた。
朝食前にお菓子なんて、子供みたいだなと思っていたら、どうやらそのポッキーの小袋が朝食らしい。嘘だろ? と思いながらも、テーブルの上に見えるのは、あとはバターロールくらいのものなので、愕然としながら下柳はパンを齧りつつ悪態をついた。
「くそっ、やっぱ無理してでもあっちに帰ればよかったな。飯のレベルが違いすぎるぜ」
「これはこれで乙じゃないか。僕は嫌いじゃないけどね。ところで上坂はどうした?」
「まだ眠ってるよ……死んだように眠ってる。起こすのも可愛そうだから置いてきた」
「そうか。彼も災難続きだからな。これからどうする?」
下柳はティーカップに紅茶を注ぎながら、江玲奈の質問に答えた。
「どうするもこうするも、上坂が起きたら夕張に戻って、チェックアウトして東京に帰るさ。あと何日か、ゆっくりしたかったとこだけど、もうそんな気分じゃないだろう? 連休も、じき終わるしな」
「何だ? 父親には会っていかないのか?」
「はあ? 当たり前だろう。今更あの親父に会ってどうするんだ。新しい家族の自慢話でも聞こうってのか? やめとけやめとけ、気分が悪くなるだけだ」
すると江玲奈は両手のひらを上に向けて、肩を竦め、やれやれといった感じに、
「下柳。感情に素直なところは君の長所でもあるが、短所でもあるな。昨日、上坂にも言われていただろう。それを決めるのは君じゃなくて、上坂だ。違うか?」
「む……そう、だなあ……確かに俺が決めることじゃなかった」
下柳はバツが悪そうに口を噤んで項垂れた。14歳の子供に説教されるとは情けない。まあ、本当はそんなことは無いのだけれど……江玲奈は下柳の淹れてくれた紅茶を口に含みながら言った。
「それに、ちょっと見た限りでは、僕は彼がそんな無責任な男だったとも思えないんだよ」
「どういうことだ?」
「上坂のために養育費を送っていたのは事実なんだろう? なら、彼は息子のことを忘れたわけじゃないのさ。それなのに、彼が新しい家族を作ってしまったのなら、それなりの理由があるか、もしくは上坂も言っていた通り、彼が死んだと思ったからじゃないか。ならば、息子に断りを入れなかったからって、責めるわけにもいかないだろう」
「うーむ……」
「僕は彼が悪人だとは思えない。きっとどこかに行き違いがあったのさ。実際に会って話してみたら、案外そんなものかも知れないだろう?」
「ふーむ……だが待て、どうしてそこまであの男に肩入れするんだ? そんな根拠はどこにもないじゃないか」
「それは上坂の魂が綺麗だからだ」
「……はあ?」
下柳はこれ以上ないほど素っ頓狂な声を上げた。最初は江玲奈が冗談で言ってるのだろうと思って半笑いになったが、彼女が思った以上に真顔なので、段々と自分も真顔になっていった。
「君にも分かるだろう? 上坂の魂は美しい。普通ならば汚れて曇ってしまっていたもおかしくないのに、彼はどんなに辛い境遇に打ちのめされても、その都度立ち上がってここまで生きてきた。あれほど強い魂の持ち主は中々居ないぞ? そんな彼の父親なんだ。まず間違いなく、その魂は美しいはずだ」
「は、はあ……」
「人の魂と魂は見えない部分で繋がってるのさ。それは近しい人ほど影響が強い。だから、上坂が醜く汚れきってない限りは、あの父親だって大丈夫なはずなんだ。何しろ彼らは親子なんだからね」
「えーっと……何言ってるかわかんねえよ」
「例えば君が上坂だったら、君は悪に染まっただろうか。逆に上坂が君だったら、あの父親を見て瞬間湯沸器みたいに怒りだしただろうか。多分そうはならなかっただろう。人は社会の影響を受けて成長するが、根本的な性格というものは生まれつきのもので変わらない。例えば、生まれたばかりの赤ん坊が、病院で取り違えられて別々の親に育てられたとしても、成長した時には似たような人間になっているものさ。それは人間の個性がDNAによって左右されると言うこともあるが、人と人が魂の部分で繋がっているからなんだ。例え地球の裏側に居ても、僕たちの魂は繋がっているのさ」
「た、魂ねえ……突然何言い出すんだと思ったが、そういや、そういうガキだったっけ、おまえ」
下柳は江玲奈の言葉に苦笑する以外に何も出来なかった。しかし、彼女の言ってることにも、何となく共感できる気がした。いい人の周りには、いい人が集まってくる。多分そんな感じのことだろう。江玲奈は紅茶をすすりながら続けた。
「貪瞋痴と言ってだな。人間はこの3つの毒に侵されやすい。即ち、貪り、怒り、愚痴だ。愚痴ってのは君が酔っ払って上司のことをグチグチ言う時のあれじゃないぞ? 知らないことは愚かであるという意味だ。無知の知。何も知らないのに、そうと決めつけて、本当のことを知ろうとしないのは愚か者のすることだよ。まずは初志貫徹して、彼の父親がどういう人物なのか、僕たちで調べてみたらどうだろうか」
「雲谷斎みたいなこと言うなあ……でも、わかったよ。あの親父が駄目なやつなら駄目なやつで、そうと確定してからじゃないと悪口も言えないもんな」
「そういうことだね」
「でも、どうする? 上坂は眠ってるし、俺たちだけで調べたくても、あいつを置いてけぼりには出来ないだろう」
「興信所を使おう。札幌にはホープ党の支部がある。立候補者を公認する際に、身辺調査をする必要があるから、こういったとこにも伝手があるのさ。御手洗に言えば紹介してくれるはずだから、こちらは僕が電話をしておこう」
「はあ、そんな都合のいいもんがあるのか。だったらそっちは任せて、俺は地道に聞き込みでもするかな……いや、道警に転勤した同期がいるはずだ。うまくすれば所轄で色々と話を聞けるかも知れない」
「そうか、ならばそちらは君に任せよう」
「んじゃ、ちょっくら出てくるから、おまえは上坂のことを見ててやってくれないか」
「そうしよう。興信所は呼べば向こうからやってきてくれるだろうから。君は気にせず足で情報を稼いでくれ」
「いちいち偉そうなやつだなあ。じゃあ上坂が起きたら電話してくれ。そしたら戻ってくるからよ」
そう言って二人は別々に上坂の父親のことを探り始めた。
それは最初は江玲奈が言っていたように、都合の悪い事実が、本当は何かの間違いであって欲しいという願いから始めたものだった。やはりあの上坂の父親なのだから、もう少しましなんじゃないかと。ところが二人が調べれば調べるほど、そんな願いとは裏腹に、彼の正体は悪い方へ悪い方へと導かれていった。
極普通の二人は極普通の聞きこみをし、極普通の調査をしました。でも、ただ一つ違っていたのは、お父様はヤクザだったのです。




