僕をそんじょそこらの子供と一緒にするんじゃない
キィィーン……っと、甲高いジェットエンジンの音がして、リビングの窓がカタカタと鳴った。
飛行場の近くに住んでいると、たまにびっくりするくらい近くを飛行機が飛んできて、電話の声すら聞き取れなくなることがある。そんなときは、うるせえなと大声をあげたくなるくらいなのであるが、慣れとは恐ろしいもので、こんな環境に住んでいても暫くすると騒音など気にならなくなるから、人間とは不思議な生き物である。
空は快晴で風も無く、今日は朝からひっきりなしに飛行機が発着陸していた。他の空港は知らないが、少なくともここ羽田の便は、今日はすべて滞りなく飛び立てることだろう。
「上坂君、上坂君。それじゃ私、そろそろ行くからね」
上坂が朝食をとりながら、飛行機の音に負けじとテレビのボリュームを上げていると、さっきから洗面所で出かける準備をしていた立花倖が声をかけてきた。妹の愛がコーディネートしてくれたお気に入りのスーツを着て、珍しく化粧っ気があるのは、これから飛行機に乗って海外へ飛ぶからだ。
彼女は新進気鋭の理論物理学者で、2000年前後にアメリカで量子力学を修得し、卒業後は金融業界で頭角を現し、そこで莫大な資産を手にしてから、再度研究畑へと戻ってきた、いわゆるクオンツと呼ばれる者たちの一人だった。
尤も、大体のクオンツは金融業で一旗揚げることもなく世間の波に揉まれて消えていくか、実力を示したら示したで、それまでに出来たしがらみに縛られてしまったり、生活レベルを落としたくないといった理由で、研究職に戻ってくる人は稀である。
彼女はそんな者たちの中で金には目もくれず、おまけに数年のブランクを物ともせずに、研究職に戻って世界的な名声を得たという、本物のクオンツだった。
「あ、はい。今回はドイツでしたっけ。お帰りはいつごろになりますか?」
「学会が終わったらとんぼ返りだから2日ってとこよ。講演会に誘われたんだけど、こっちの仕事も残ってるし、上坂君も一人にしておけないしね」
「俺のことは気にしないでください。慣れてますから」
「子供があんまりこういうのに慣れるもんじゃないわよ。愛に様子見てくれるように頼んどくから、ご飯でも奢ってもらいなさい。ドイツってあんまり好きじゃないのよね……なんでもかんでもジャガイモとケチャップとソーセージって感じで太るから」
「忙しい日程ですね。何か必要なことがあったら、俺がやりますから、何でも言ってください」
「ありがと……にしても、慣れないわね、その敬語」
上坂は彼女の後を継いで学者になると決めたときから、親代わりの倖に対して敬語を使うようになっていた。家族である前に、彼女が師であることを忘れないようにするためだった。倖はそんなことしなくていいと言っていたし、まだ背も伸び切ってない、小柄な倖よりも更に小さな上坂が敬語を使う姿は、傍から見れば奇妙に映ったが、やってる本人は真剣だった。上坂はいつか倖に並び立つ、立派な科学者になると心に誓ったのだ。
尤も、気を抜くとすぐに元の甘えた口調が出てしまうから、たとえプライベートな家の中であっても、上坂は敬語を使うことをやめなかった。倖はそのことに対し、少しさびしいような、複雑な思いを抱いているようだった。
「あなたが科学者になりたいって言い出したときはビックリしたけど……まあ、小さいときから実験が好きだったもんね」
「はい。先生のおかげで、最先端の技術を学べる機会が多かったんで。いつか俺も先生みたいになりたいなって思ってたんです」
「そう、あなたがやりたいっていうなら、私はとやかく言わないけど、でもね、上坂君……子は親の背中を見て育つって言うけれど、誰かのようになりたいって思ってるうちは、まだ自分を決めつけない方が良いわよ」
「どうしてですか……? 俺が先生みたいになりたいって言ったら、迷惑ですか?」
「そうじゃないわよ、そうじゃくて……何でもそうだけど、あんな風になりたいって具体的に思い描けるようなものは、たいてい間違ってるのよ。だって、親みたいになりたいって思っていたら、親を越えることは出来ないでしょう?」
「うん……? はい……」
「私も、小さい頃はね、お母さんみたいになりたかったの。だけど、自分には向いてないってとことん思い知らされて、お陰で今の私になれたんだけど……もしも私にそこそこ才能があって、お母さんの仕事をちゃんと手伝えていたら、今頃私は芸能界で、くだらないTV番組なんかでお茶を濁していたはずなのよね。私のそんな姿、想像できる?」
言われて上坂は返答に窮した。
もしかしたら、そんな彼女も素敵だったろうなと思うのだが、そっちのほうが幸せだったかと言われると、それは違うだろうなと思うのだ。科学者は、彼女にとって天職だ。もしも芸能人になっていたら、きっと彼女はずっとイライラしていたんじゃなかろうか。
それに、上坂と出会うことも無かっただろうし……そうしたら自分は今頃どうしていたんだろうか。
「あなたは優秀だから私みたいに挫折なんかしないかも知れない。だから言っとくけど、ちょっとでも何かが違うなって思ったら、少し立ち止まって考えることもしなさいね。自分ってものは、なろうとしてなるものじゃない。人はなりたい自分にしかなれないの。もしそこに嘘が混じっていたら、あとになって取り返しがつかない事になりかねないわ。間違ったっていいのよ。長い人生、いつだってちゃんとそれくらい取り返す時間はあるんだから。大いに悩みなさい。悩んで、足掻いて、もしかして間違ってるんじゃないかと思いながら、ただ歩いてる道こそが本来のあなたなのよ」
「はあ……はい……」
上坂はそう言われても、どうして倖は素直に喜んでくれないのかとがっかりしただけで、科学者になることをやめようとは思わなかった。もしかしたら、彼女は上坂の才能を疑ってるのかも知れないと思って、残念に思うと同時に俄然やる気になった。
彼女はこんな風に言ってるけども、いつか立派な科学者になって、彼女の役に立つようになるんだ。それがきっと彼女に対する恩返しになるはずだから。
「まあ、その時は相談しなさいね」
上坂が内に秘めている決意に気づいているのかいないのか、彼女は軽くそう言ってから出ていった。
倖が外出して暫くすると、またジェット機のエンジン音でビリビリと窓ガラスが震えた。上坂は窓に近づいて空を見上げた。今日も銀翼の飛行機が紺碧の空に吸い込まれていく。あの翼のどれか一つに、先生は乗っているのだろうか。
世界を飛び回る彼女は自由で、強くてたくましくて、上坂はとても憧れた。いつか自分も彼女みたいに、世界を股にかける科学者になるんだと、彼はいつまでも空を見上げながら、そんなことを考えていた。
あの頃は、ずっとそれだけを、考えていた。
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「……さか……うさか……上坂!!」
キィィーン……っと、甲高いジェット機のエンジン音が響いていた。誰かに呼びかけられて、上坂ははっと目を覚ました。どうやら成田空港のロビーで、ソファに腰掛けながら、少しウトウトしていたようだ。
シバシバする目をこすりながら、徐々に明確になっていく視界に映ったのは、すごく天井の高い開けた建物の中を、人々がゴロゴロとトランクを転がしながら、あちらこちらへと散らばっていく光景だった。英語と日本語の場内アナウンスが交互に流れ、ツアーの団体客が、旗を持った添乗員の後についていく。
なんだか、すごく懐かしい夢を見ていたような気がする。飛行機の音がそれを思い出させたのだろうか。
上坂があくびを噛み殺しながら声の聞こえてきた方を見れば、下柳がビニール袋に入った大量の荷物を抱えているのが見えた。彼は上坂が起きたのを確認すると、それを振り回しながら、
「おう、上坂。いつまでも寝てるんじゃないよ。用も済んだから早くいこうぜ」
「下やんが待たせたんだろうが……って、なんだよその荷物は」
「これか? 飛行機の中で読むための漫画と、遊ぶためのトランプと、弁当とビールとつまみだぞ。お前も食うだろ?」
「そんなに買ったの? 飛行時間なんて、せいぜい2時間なんだぜ?」
「馬鹿、おまえ、旅の醍醐味は、その移動時間にこそあるんだそ。後から思い出してみれば、良くも悪くも旅の思い出ってのは、移動時間と待ち時間に集約されてるんだよ。そこでウキウキしていたか、うんざりしていたかで、その後に訪れる目的地の印象がガラリと変わるんだ」
「そんなもんかね……って、そもそも俺たち観光旅行に行こうってんじゃないから。なに全力で楽しもうとしてんだよ」
そんなやり取りをしながら、手荷物を預け搭乗手続きを終えて、上坂たちは飛行機に乗り込んだ。
今日はシルバーウィークの初日で、空港は人でごった返していたが、世界的に大不況のこのご時世、円高の日本国内よりは海外旅行の方が人気らしく、上坂達の乗った飛行機はガラガラだった。
上坂は父親に会うために、この連休を使って北海道に行くことにした。縦川に相談したところ、一人じゃ心配だからと言って下柳がついてくることになったのだが、これじゃどっちが引率か分かったもんじゃない。
まあ、別に上坂が子供で頼りないからついてきたというわけじゃなくて、立花倖があんなことになったからには、次は上坂が狙われるかも知れないという処置だから、腕が立ちさえすれば誰でも良かったのだろう。下柳はこう見えても現職の刑事で、柔道の有段者なのだそうだ。しかし、柔道の有段者と言われても強そうに感じないのは何故だろう。眠りの小五郎のせいだろうか。
なにはともあれ、上坂は別に自分が狙われるとは思っていなかったし、仮にそうなったとしても、もう自分は十分に生きたからいいやと、年の割に妙に枯れ果てたことを考えていた。
あの、東京インパクトから続く一連の陰謀を生き抜いたのだ。自分が死んでも悲しむ家族ももういない。もう十分ではないか。でも、もしそうなったら恵海や友達、それに縦川なんかはきっと悲しむだろう。だから出来るだけそうならないように努力はしたい……尤も、努力と言っても何をどうしていいのか分からないのであるが。
そんなネガティブなことを考えていたからバチが当たったのだろうか。
飛行機が離陸して暫くすると、上坂は強烈な頭痛に見舞われた。頭痛というか、耳の中にゴーッと言う風を切るような耳鳴りがして、ズキズキと鼓膜が痛む感じだった。航空性中耳炎というやつだろうか。体調が悪い時に飛行機に乗ると、気圧の変化で耳が痛くなるというあれだ。
「おい、大丈夫かよ、上坂。おまえ、すげえ顔色してるぞ」
「いてててて……まいったなあ。こういうときってどうしたらいいんだろう?」
「耳抜きしろ、耳抜き。鼻つまんで唾飲み込むんだ」
「さっきからやってるよ……いてててて」
上坂が頭痛に悲鳴をあげていると、気を利かせたCAが飴を持ってきてくれた。礼を言って飴をペロペロと舐めていると、若干傷みは和らいだ気もするが、根本的な解決には程遠いようだった。
下柳が言った。
「ったく、体調悪いんならそう言えよ。そういやさっきもウトウトしてたけど、昨日何時に寝たんだよ」
「……あんまり寝れなくて」
「あー、その顔はおまえ、徹夜だな? 遠足前の小学生じゃないんだから、遠出する前の日はちゃんと寝ておけよ」
「仕方ないだろう? 緊張してたんだよ」
何しろ上坂は、物心ついたときから肉親は居ないと言われて育ったのだ。その肉親にこれから会いに行こうというのだから、緊張するなと言う方が無理だった。
尤も、会いに行くといっても、実際に会うかどうかは未だ決めていなかった。向こうは上坂が5年前に死んだと思っているのに、その息子がいきなり生きてましたと言って現れたら混乱するだろう。彼には彼の生活があるのだし、今更それをかき回すつもりは無かった。
それに、上坂の父親が必ずしもいい人とは限らないのだ。自分のことを捨てた……という事実は、もう気にしないようにしていたが、それでも子供を置いて出ていかなければならなかったような人が、人格者であるとは中々思えなかった。
立花愛の話を聞いた限りでは、北海道で花卉農家をやっている落ち着いた人物らしいのだが、彼女が実際にそれを確かめたわけじゃないのだ。もしかしたら農家なんていうのはポーズだけで、実際は裏社会に通じる荒くれ者という可能性だってある。だから会う前に一度遠くから確かめて、もしもそうだったら会わずに帰ろうと上坂は考えていた。
そんな具合に上坂が頭痛に耐えていると、下柳のスマホがピロピロと音を立てた。着信音がそっけないのは仕事の電話だからだろう。彼は一瞬むっとした顔をしてから、スマホの電源を切ろうとしたが、
「非番なんだから電話してくるなって言ってんのになあ……って、あれ? これって御手洗さんの番号じゃないか」
着信相手が仕事の関係者ではなくて、つい最近知り合った人だと気づいて、慌てて電話に出た。
御手洗は上坂にとっても共通の知り合いである。一体何の用事だろう? 耳の下あたりをぎゅーっと押して、痛みに耐えながら下柳の様子を見ていたら、彼は電話の向こう側が見えるわけでもないのに、やたら恐縮してペコペコお辞儀したり、え? とか、なんだってー! とかやたらオーバーなリアクションをとるものだから、上坂はどんどん気になって仕方なくなってきた。
やがて下柳は何度も何度もカクカクとお辞儀をしながら電話を切ると……
「まいったなあ」
「御手洗さん、なんだって?」
「それがさあ、御手洗さんの上司の孫娘が、今朝から行方不明なんだって。おまえ、饗庭江玲奈って子、知ってるか?」
上坂は目をパチクリさせながら、
「江玲奈? ああ、知ってるよ。あいつがどうしたって?」
「だから、今朝から姿が見えないんだと。放任主義の親のせいで、普段から学校にもいかずフラフラしてるらしいんだけど、今回はなんか旅行かばん持って出ていったらしいんだよ。でも家出とは思えないから、もしかして上坂について行っちゃったんじゃないかって。もちろん、そんなやつ居ないよって言ったんだけど、御手洗さんが一応飛行機に乗ってないか確かめてくれって言うもんだから……そんなわけねえよなあ? 14歳の小娘なんだろ?」
下柳は怪訝そうな表情で首をひねっていたが、上坂の方は苦笑いしか出てこなかった。
「ああ、確かに14歳なんだけど、小娘ってわけじゃなくて……寧ろババアっつーか……ほら、下やんも先生から預言者について話を聞いただろ?」
「ああ、あれか。え? じゃあその預言者ってガキだったの??」
「いやだからそうだけどそうじゃなくって……まあいいや。説明が面倒だから、あとで話すよ。取り敢えず、御手洗さんは機内に乗ってないか確かめて欲しいって言ってたんだな?」
「そう言ってる」
上坂は立ち上がると、座席からキャビンを一望してみた。しかし、狭いとは言っても何百人が搭乗可能なジャンボジェットの中であるから、その場ですべての座席を確認するなど到底不可能だった。
彼は仕方なく下柳と一緒に通路に出ると、飛行機の中を行ったり来たりして、すべての座席を確認することにした。さっきよりだいぶマシになってきたとは言え、ズキズキと痛む頭を抱えながら、どうにかこうにか飛行機内を一周して戻ってきたが、どこにも江玲奈の姿は見当たらなかった。
「あと見てないのはファーストクラスだけだけど、まさかそんなとこにはいないよな?」
下柳はそう言うが、江玲奈のことを知っている上坂は寧ろその可能性が一番高いことを思い出し、
「いや……もしかするとそうかも。あいつ、確か月の小遣い100万円とか言ってたから」
「100万円!? 冗談だろ!?」
「冗談ならいいんだけどね、多分本当なんだよ。でも困ったな、ファーストクラスじゃ中に入るわけにもいかないし、CAに頼んだら教えてくれるだろうか?」
「いや、それが本当なら許しがたい。こちとら手取り30万を貰うためにどんだけ働いてると思ってるんだ。世の中を舐め腐りやがって……ガキが。絶対とっ捕まえてやる」
「え? ちょっ、どうすんだよ??」
100万円と聞いて俄然やる気が出てきた下柳が、会ったこともない江玲奈相手に一方的な怒りを向けながら、ドスドスとファーストクラスのある前方キャビンへと歩いていった。
上坂が要らないことを言ったかなと戸惑いながら、そのあとについて歩いていくと、下柳は案の定、ファーストクラスの手前に常駐していたCAに止められてしまったが、
「悪いな、俺はこういう者なんだ。手配者が乗ってるかも知れないんで、確認だけさせて欲しい」
ところが、彼は何の躊躇いも見せずにポケットから警察手帳を取り出すと、驚いているCAを押しのけて、ファーストクラスのスペースへと入っていってしまった。
国家権力を当たり前のように私的な理由で振るうとは……とんでもない野郎だと呆れつつも、上坂は慌てて彼の後を追った。
ファーストクラスはカーテンで仕切られただけで同じフロアにあったが、その中にある座席はすべて個室のように区切らられていて、エコノミーとは明らかに違う世界がそこにあった。
ただ、快適そうなのは確かであるが、たかだか2時間程度の移動のために高い金を払って乗るのは馬鹿馬鹿しいと思いながら、江玲奈がいないか乗客の顔を確かめて歩いていると、やはりというか何というか、一番前方にある一番高そうな座席に、その人の姿はあった。
「……おや? 上坂じゃないか。なんだ、もう見つかっちゃったか」
「江玲奈……どうして君がここにいるんだ」
「なに。北海道は美味しいものがたくさんあるって聞いたもんでね」
上坂が渋い表情を見せると、江玲奈は肩を竦めながら、
「冗談だ、君が北海道に行くと聞いたからさ。向こうについたら出ていくつもりだったんだが、どうして僕が乗ってるって分かったんだい?」
「御手洗さんが心配してたみたいだぞ、こちらの……下柳さんが電話を受けて、ちょっと探してくれって頼まれたんだよ」
「へえ、そうだったのか。僕の行動を予測するとは、御手洗もなかなかやるもんだね……預言者の称号は彼に譲って、僕はもう隠居するのも悪くないかな」
江玲奈は何が面白いのか、愉快そうにくっくっと一頻り笑った後、上坂の隣で眉毛をピクピクしながら怖い顔をしている下柳に向かって、
「下柳って言ったかい? わざわざご苦労だったね。御手洗には僕から連絡しておくから、気にせず上坂の引率にだけ専念してくれたまえ」
「やっかましいわっ!!」
すると、下柳は例のごとく人を食ったような口調の江玲奈に向かってずいっと一歩踏み出すと、ゴツンと彼女の頭にげんこつを落とし、
「……あいたっ!? え!? え!? なにをするんだ!??」
「やかましいわ、ガキがいっちょ前の口聞きやがって! 大人に心配掛けんじゃねえよ! すぐ御手洗さんに謝りの電話いれるぞっ! お父さんお母さんにも、ちゃんと許可を貰うんだ! 大体、ファーストクラスだあ? ふざけんな! こちとら貧乏旅行しかしたことないんだぞ。あー、羨ましいったらありゃしない! ちくしょう、ちくしょう! おまえもエコノミーに移るぞ。ほれ、上坂、こいつの手荷物持ってこい」
「ちょ! え!? こら、何をする」
「御手洗さんに、お前のことを頼まれたんだよ! ついてきたいならついてきたいと、最初から上坂に言えばいいのに、まったく……とんでもねえガキだなあ。今回は御手洗さんの顔に免じて許してやるけど、北海道にいる間は、ちゃんと俺の言うことを聞くんだぞ」
「ちょっと待ちたまえ! 僕は自由を拘束されるいわれはないぞ。御手洗にはちゃんと言っておくから、放したまえ!」
「いいから黙ってろっ」
快適そうなフカフカの座席に座っていた江玲奈は、下柳にズルズルと廊下を引っ張られていく。彼女はそれに必死に抵抗しようとしていたが、元から青白い顔をした不健康体の彼女が、野獣のような男に敵うはずもなく、彼女は涙目になりながら上坂に向かって助けを求めた。
「お、おい、上坂! この男はなんなんだ? 見てないで止めてくれ」
上坂はドナドナされていく江玲奈を、若干いい気味だと思いながら、
「いやあ、下柳さんの言うとおりだよ。大人に迷惑かけちゃいけない。それに若いうちからこんな贅沢してると、将来大変だぞ。金銭感覚とかおかしくなっちゃうから」
「馬鹿な! 僕をそんじょそこらの子供と一緒にするんじゃない。知っているだろう? 僕は500年を生きた古の魔女、現代を生きる預言者、ヘレナ・ブラヴァツキーなんだぞ!」
江玲奈は上坂に裏切られ、ショックのあまり所構わずそんなことを口走ったが、
「あーあー、知ってる知ってる。俺も10万年生きた悪魔とか、100万年生きたイエスとか会ったことあるぞ。主に生活安全課で。そういうのは帰ってから聞いてやるから、いまは黙ってついてこい」
下柳はまったく意に介さずそんな風に言い返すと、もはや歩く体力もなくなってしまった江玲奈を小脇に抱えてファーストクラスから出ていった。
上坂がその姿を苦笑しながら見送っていると、ゴホンゴホンとわざとらしい咳払いが、あちらこちらの座席から聞こえてきた。せっかくファーストクラスに乗っているのに、こんなに騒がれてはたまらないと、抗議をしているのだろう。
上坂は慌ててごめんなさいと言いながら頭を下げると、下柳に言われたように江玲奈の手荷物をひったくるように手に取って、その場を後にした。




