あんたが殺したんだろう?
翌朝。目覚ましが鳴るよりも前に目が覚めた縦川は、昨日の疲れが抜けきらない重い体を引きずるようにして、鷹宮家へと向かった。天気はあいにくの曇り空で、その薄暗さのせいか、運転している最中に幾度も幾度も眠気が襲ってきた。
途中、耐えきれなくなった彼は適当なコンビニの前で車を停めると、眠気覚ましの栄養ドリンクを飲んで一息つくことにした。コンビニの駐車場でシートを倒して目をつぶっていると、もうこのまま何もかも投げ出して眠ってしまいたくなった。どうも昨日のたった一日で、鷹宮の家族に会うのが心底嫌になってしまったようである。
とはいえ、どんなに相手が嫌なヤツでも、葬式を坊さんがエスケープするわけにはいくまい。だいたい、それは友達の葬式なのだ。
「俺がやらなきゃ誰がやるんだ」
彼は気合を入れるようにピシャリと自分のほっぺたを叩くと、ヒリヒリする痛みに耐えながらまた車を発進させた。
少し目をつぶって疲れを癒やしたお陰か、その後は眠気も途切れて、スムーズに板橋の鷹宮家近辺までやってこれた。環七から高級住宅地のある脇道に入り、曲がりくねった道を通って、鷹宮家の鬱蒼と茂る森を目指す。
ところが、幹線道路の方は比較的流れていたくせに、こんなほとんど車が通りそうもない住宅地の方が、今日は何故だか混雑している。妙だな? と思いつつ、車列に従い、徐行運転で目的地までやってきたら、なんと鷹宮家の入り口に当たる森の切れ目に、異様な数の人間が詰めかけているのが見えた。
もしかして弔問客だろうか? 彼は有名ユーチューバーだったし……とも思ったが、それにしてはみんな普段着といった感じで、とてもそうは見えない。大体、昨日の話では鷹宮の家族は直葬にしたかったくらいで、親戚にしか知らせてないと言っていたはずだ。
おかしいなと思いつつも、その場に留まっているわけにはいかないから、車を森の方へと進めていったら。人垣を割って、制服警官がひょっこりと現れて、縦川の車を停めた。唖然としながらウィンドウを開けると、警官は縦川の格好を見て、
「あなた、縦川さん? 今日の葬儀を執り行う住職さん?」
「はい、そうですけど……」
「失礼しました。どうぞ、お通りください……おいそこ! 勝手に中に入るなって言ってるだろう! 不退去罪で逮捕するぞ!!」
一体何が起きてるのか尋ねたかったのだが、警官は入口付近でゴソゴソやっている不審な連中を見咎めると、怒鳴り散らして去っていってしまった。
仕方ないので周囲の注目を一身に浴びる中、困惑しながら鷹宮家の敷地へと入っていくと、昨日、駐車場にしていた広場に、昨日は無かった車が複数台置かれているのが見えた。おそらくこっちは本物の弔問客のものだろう。
縦川が車を降りると、先に来ていた下柳が駆け寄ってきて、
「おう! 雲谷斎! やっと来たか」
「うんこ言うな……ところで、一体これは何の騒ぎなんだい?」
「それがな、ネットでえっちゃんが死んだことが拡散されてしまったらしくて、それを知ったフォロワーとかが、弔問に来ちゃったみたいなんだ」
「なんでまたそんなことに!?」
すると下柳はため息を吐きつつ、眉間にシワを寄せて、
「どうやら二郎が善かれと思って、えっちゃんのSNSのアカウントから報告しちゃったらしいんだ」
ネットの有名人が暫く姿を見せないと思ったら、何ヶ月か経って急に親族を名乗る者が出てきて、本人は死にましたとか言うあれである。この場合はネット上で騒ぎになるだけだが、鷹宮の場合は昨日の今日だから、葬式に間に合うだろうと思った者が駆けつけてしまったようである。
それにしても普通は住んでいる場所まで身バレはしていないものだが、これも有名人の宿命だったのだろうか。ともあれ、理由はわかったから、縦川は言った。
「じゃあ、出棺の見送りくらいはさせてやったらどうだろうか。この広場までなら入ってもいいだろう。今、車で通ってきたんだけど、ここら一帯が人で溢れてたよ」
「俺も始めはそうすべきだと思ったんだがな……どうやら、そうもいかないんだ」
「どうして? 鷹宮の家の人なら、俺から説得してもいいけど」
「そうじゃない。いや、それもなんだが……とにかく一度よく耳を澄ましてみてくれ」
下柳は険しい表情をして頭を振った。何がそんなに気に食わないのだろうか? 耳を澄ませと言われた縦川が言われたとおりにしてみると、その理由はすぐ分かった。
「A1死ねー!」「もう死んでるし」「A1は不正アプリ利用者」「ゲームでズルをしてまで有名になりたいんですかねえ!」「おまえには騙された」「ちょっと、お前らいい加減にしろよ!」「死者を鞭打つようなことすんな!」「やめなよ」「デター! クラウドさんちっすちっす!」「ああ!? いい子ぶんなやハゲ」「あ? リアルでイキんなボケ」「てめえ、ぶっ殺してやる!」「ああ!?」「あああ!?」ピピピピピーッ! 笛を吹く音。「はい、そこ! 喧嘩しない! おまわりさん本気で怒っちゃうよ」
縦川が困惑し、目をパチクリさせていると、下柳が詳しい事情を説明し始める。
「さっき言った通り、死亡報告がネット中に拡散したんだが、そしたら困ったことが起きちゃったんだよ。どうやら、死んだえっちゃんのゲーム内のキャラが、未だに動いてたらしいんだな」
「どういうことだ? クラッカーに不正アクセスでもされたのか?」
「じゃない。寧ろその逆で、どうやらえっちゃんが不正していたらしいんだ。いわゆるBOTってやつを作成して、動かしてたらしいんだな」
縦川は耳を疑ったが、と同時にさもありなんとも思った。何しろ、生前の鷹宮はそのゲームのいわゆるランカーで、常にトップに立って攻略をし続けている廃人だった。ゲームに費やした時間は凄まじく、一体いつ寝てるんだろうと疑問に思っていたが、それなら納得がいくものだ。
「そう、だったのか……それは残念だが。それで、どうして外の奴らは騒いでるんだい? 不正してたからなんだってんだ」
「いや、それがどうやら、それじゃ済まないって連中が集まってるらしいんだ。俺たちにはさっぱり分からない心境だが、ゲームをやってる者の中には、それこそ凶悪犯罪者みたいに思ってるやつもいるようでね。あいつらは、不正者が死んだから、ざまーみろと言いたくてやってきたんだよ」
「……冗談だろう?」
「だったらどんだけ良かったろうな。いや、ほとんどの奴らは単に面白半分で来てるだけなんだろうが、中にはとんでもないのが紛れてて、こっそり敷地内に入り込んだりもするせいで、さっきなんか警備会社が飛んできた。俺がここに来た時も、そこの玄関で二郎相手に揉めててな。警察呼ぶ呼ばないって話になってたもんだから、俺が割って入って、本職だってことを明かしたらようやく大人しくなりやがった。それでまあ、そいつらは追い出したんだが、次から次へとまた別のがやって来るからさ。これじゃ埒が明かないってんで、所轄に電話して応援を呼んだところなんだよ」
それがさっき縦川を停めた警官なのだろう。どうもやらネットで鷹宮の死を知った連中は、まだまだこの近辺にうろついているらしい。
「こいつら何がしたいんだ。そんなことしてもなんにもならないだろうに」
「それでも自分のストレス解消のために、他人の足を引っ張りたいやつが世の中にはいるんだ。えっちゃんは有名ユーチューバーだったから、そういう有名人が不正をしていたってのが、彼らにとって格好の攻撃材料になったんだろう。他人を攻撃すると気持ちよくて仕方ない。他人が嫌な顔をすると自分が勝った気分になれる」
ただし、ここに集まった者たちは死者を冒涜するために集まった者だけではない。純粋に、ユーチューバーA1を偲んでやってきた者たちもいる。ところが、攻撃的な人間にとっては、その人達もまた攻撃対象になりうるのだ。
擁護する連中は罵倒してやればいい。何しろ悪いのは不正を行っていた鷹宮栄一なのだから。自分たちは正義で、だから何をやっても許されるのだ。
それに考えようによっては、死者を冒涜すること自体は犯罪でも何でもないし、本人が死んでいるから言い返される心配もない。行為そのものを非難されることはあるだろうが、死者が生前にやっていた不正行為を盾にすれば、相手は黙るしかない。ここにくれば自分の欲求を満たすことが簡単にできるのだ。
そんな卑しい連中が、ここにはこんなにも大勢いるのだ。
縦川は目眩がする思いだった。
「なんとか追い返すことは出来ないのかい?」
「よほど酷ければ不退去でしょっ引くことも出来るだろうが、ただの嫌がらせじゃ犯罪にならないしな……相手がヤクザならともかく」
「しかし、どうして家バレまでしてるんだろう。こんなに早くこんなにたくさん集まってくるなんて不自然じゃないか」
「それがネット社会の怖いところなんだろう。誰か一人が知ってたら、あっという間に拡散する」
鷹宮栄一だって自分の個人情報を漏らすような下手は打たなかっただろう。だが彼はあまりに有名すぎたから、有名人の卒業アルバムが勝手に出回るようなことが起こってしまったのだろう。そして一度ネットに拡散されたら、もう取り返しがつかない。
「はあ~……これじゃ葬式にならないぞ。やっぱり無理を言ってでも、葬儀場を抑えておくべきだったか……」
「今からでも変えられないのか? ……いや、今から移動なんかしたら、かえって混乱するだろうしな。出棺の時は責任を持って追い散らすから」
「頼むよ」
「まったく……世の中はどうして暇なやつほど性格がネジ曲がってるんだろうか……って、うん?」
そんな具合に二人で事態を嘆いていると、話の途中で下柳が、ふと何かに気がついた。彼は家の敷地外で罵声を上げている連中の中をじっと見つめると、
「あ! あの野郎は……もしかして、こないだの超能力者じゃないか?」
「え!?」
驚いて縦川も彼の見ている方をまじまじと見つめる。すると確かに、2ヶ月前、鷹宮と三人で行ったフレンチレストランで大暴れしていた超能力者がそこにいた。
「不正野郎に人権なし! みんなおまえが死んで喜んでるぞ、A1ざまあ! げひひひひ……」
他の連中と大差ないセリフだったが、これに下柳の堪忍袋の緒が切れた。彼は顔を真っ赤にすると腕まくりし、
「おいっ! どうして貴様がここにいるっ! 保護観察官は知ってるのかっ!!」
下柳がものすごい剣幕で近づいていくと、彼は飛び上がって狼狽し、
「ひっ!? げげげ~っ! おまえはこないだの刑事!? ……やべえぇぇぇーーー!!!」
「あっ! こらっ! まちゃーがれっ!! ジーニアスボーイ!」
超能力者が背中を向けて一目散に逃げ出すと、下柳は逃すまいとその後姿を追っかけて行ってしまった。
取り残されてしまった縦川はぽかんと口を半開きにしながら、どうして彼がこの場所に居たのか混乱していた。確か、あの日、あの後、事件を起こしてしまった超能力者は、東京都の作った隔離施設とやらにぶち込まれたはずだ。なのにどうしてここにいる? いや、そもそも、あんな危険人物が何食わぬ顔で外を出歩いててもいいのか? たまたま下柳が居てくれたから良かったものの、もしも気づかずにいて、またあの力を振るわれたら……自分たち一般人は為す術がないじゃないか。
一体、行政は何をやってるんだろうと彼がゾッとしながら立ちすくんでいると、鷹宮家の方から葬儀屋の職員が慌てた素振りで走ってきた。
「あ! 和尚様! いらしていたんですか。いつまでもいらっしゃらないから、何かあったんじゃないかと思いましたよ」
その言葉に慌てて時計を確認しようと、車の中のスマホを見れば、葬儀屋からの着信が山のように入っていた。どうやら外の騒ぎや、ここで下柳と話しに夢中になっていたせいで、時間が経つのを忘れてしまったらしい。慌てて身支度を整えながら、彼は葬儀屋に言った。
「すみません。何しろこの騒ぎだから、面食らっちゃいまして」
「ビックリですよね。私はこんな式は始めてですよ……まるで犯罪者みたいに」
「これじゃあんまりだから、せめて少し落ち着くまで、葬儀を延期できませんかね」
「うちは構わないんですが、火葬場がね、時間が押してますから」
そりゃそうか……ダメ元で言ってみたが、それくらい知ってるだろうと言わんばかりの返事に、縦川は肩をすくめると、諦めて鷹宮家の玄関をくぐった。
下柳は超能力者を追いかけていったっきりだが、ちゃんと葬儀までに帰ってくるだろうか? ……そんなことを考えながら玄関で足袋を履き替えていると、中から喪主の栄二郎が出てきた。
「縦川さん、お待ちしておりました」
「やあ、二郎くん。遅れちゃって申し訳ありません。外があんなものだから、ちょっと戸惑ってしまって」
「ああ~、本当にすみません……俺が兄さんが死んだことを報告してしまったばっかりに……こんなことになるなんて思いもよらなかったんです」
「仕方ないですよ。俺もそう思いますから。みなさん、もうお集まりで?」
「はい。と言っても、親戚が10人もいないんですけどね。今、父と母が相手してます」
栄二郎に先導されて家の中へと入る。葬儀屋はもう一秒でも無駄にしたくないと言った感じで一礼すると早足で先を進んでいった。
母屋の中はがら空きで、昨日、鷹宮の両親に捕まえられていた応接室の中に親戚のものらしき手荷物が詰め込まれていた。離れに続く廊下に差し掛かると、その親戚たちが所在なさげな表情で、ポツンポツンと中庭に佇んでいるのが見えた。
彼らは縦川の姿を見ると、やっと来たよと言った感じのホッとした表情を見せて、ダラダラと栄一の部屋のある離れの前に並んだ。葬儀は彼の部屋で行う段取りだったが、縦川と栄二郎が入ったらもう満員だったから、みんな廊下や中庭で立って参列していた。
鷹宮の母がにこやかな笑みで参列者におしぼりやお菓子を配っている。そんな気配りが出来るのなら家の中で待たせてやればいいのに、気が利かないと言うよりも、多分わざとなんじゃないだろうか……
本当に、不可解な家である。
縦川はそんな気持ちはおくびにも出さずに、何食わぬ顔で廊下を進むと、葬儀の準備の整った部屋の前で中庭にいる参列者に向かってお辞儀をした。
そして黒子のように寄ってきた葬儀屋と最後の段取りを打ち合わせていると、その間にもう一人の葬儀屋の職員が喪主に近づいて葬儀が始まる挨拶をするよう促した。
ところが、栄二郎が用意していたメモを読もうと取り出すと……その瞬間を見計らったかのように、何故か父親がしゃしゃり出てきて、
「皆さん。本日はご多忙の中お集まりいただき誠にありがとうございました」
と、慌てる栄二郎を尻目に勝手に喋りだした。縦川は嫌な予感がしたが、彼を止められるような者は、その場には一人もいなかった。
「生前は愚息がご迷惑をおかけしまして、申し訳ありませんでした。あれは仕事もせずに引きこもって、友達も家族も作れない半人前のまま逝ってしまいましたが、こうしてお見送りに来てくださるみなさまがいらっしゃらなければ、誰もあれを見届けることは無かったでしょうに、本当なら寂しい旅出となるところをありがとうございました。あれは親に最後まで迷惑をかけて、死んでまで今日も外に変な輩を集めて平穏を乱している。これも最後だと思えば我慢してやることも出来ますが、生きているときから迷惑ばかりかけるやつでした。それもこれも親の言うことを聞かないやつだったから、バチが当たったのでしょう、あれは親の言うことを聞かずに失敗ばかりしていました。情けない死に方をしたのも、親を悲しませるのも、私の教育が間違っていたと不徳の致すところです。ですが私には幸いもうひとり子供が居る。これからはこの栄二郎が我が鷹宮家の後継者です。これはあれとは違い子供の頃から親の言うことをよく聞いて、立派に育ちました。一生懸命勉強して東大に入り、私のために外務省に入りました。とても優しい子なんです。親戚一同の皆様方には、これからはこの栄二郎をもり立てて、何卒我が鷹宮家を今後共ますます繁栄していただけるようによろしくおねがいします」
誰も彼もが凍りついた笑みを顔に貼り付けたまま目を泳がせていた。まるでプレステ初期のポリゴンみたいにカクカクする空気の中で、鷹宮の父だけが高精細な3DCGの如く滑らかに動いていた。
顔面蒼白の栄二郎が無茶ぶりを引き継いで何かを言おうとしていたが、結局は用意していたメモをポケットにしまうと、
「えー……本日は皆様、ご多忙の中ご参列いただきましてありがとうございます。このようなことになってしまいましたが……兄は……えー……皆様が来てくださったことを喜んでると思います……では、時間も押しておりますし、簡単ですがこれで。和尚様、よろしくお願いいたします」
縦川は能面のように固まった顔に薄い笑みを浮かべたまま、一礼すると参列者に背を向けて座ると、木魚をポクポク叩いてお経を読み始めた。
友達の葬式なんて軽々しく引き受けるもんじゃない。俺がやらなきゃ誰がやるなんて思わないほうがいい。だって、悲しくても、悲しくても、先を読み続けなければならない。誰も聞いていなくても、誰かが儀式を続けなければ、友達は死後への旅立ちを旅立つことが出来ないのだから。
参列者に背中を向けていられることだけが、唯一の救いだった。しかしそれでも隠しきれない背後の弛緩した空気に、縦川は度々読経をつっかえた。眠っていても勝手に口が動くというくらい、毎日毎日慣れ親しんでいたはずなのに、今はどうしてこんなに苦労するんだろうか、さっぱりわけがわからなかった。
背後からひそひそ声が聞こえる。
「この度はご愁傷さまで……」「栄一さんは残念なことになりましたが、栄二郎さんがいてよかった」「お兄ちゃんに比べて弟は立派……」「お母様もご苦労なされたでしょう……」「栄二郎くん、いつか機会があったら遊びにいらっしゃい」
外からは時折、深夜のサバンナみたいな、奇っ怪な叫び声が響いてくる。
「A1は不正者ー!」「金返せー!」「汚い手を使って俺たちのアイテムを強奪した偽善者」「ユーチューバーの恥さらし!」「見抜きしてもいいですかー!」
みんな思い思いに好き勝手なことを言って、死者を冒涜し続ける。何故こんなことになってしまったのか。彼が一体、何をしたというのだろうか。この鷹宮家と言うのも異常だったが、今日、ここに集まった関係ない人々はもっと理解不能だった。
彼がユーチューバーだったと言うことが、好きなことをやって人よりも金を稼いでいたことが、そんなに許せなかったのか。
うんざりする……木魚を叩く手がいつの間にか荒々しくなっていた。縦川は読経の声を気持ち1テンポ落として、気を落ち着けようと試みた。でも無駄だった。背後から心無い言葉が突き刺さる。まるで針のむしろのようだった。
参列者のいる中庭と、この部屋の中とではまるで別世界のように空気が違った。きっと、この部屋に取り残されてしまった喪主の栄二郎も、自分と同じ心境に違いない。縦川は、縋り付く蜘蛛の糸を探しているような心境で、仲間を求めてちらりと、すぐ後ろに座る栄二郎の顔を盗み見た。
木魚を叩く音が乱れ、一瞬、読経が止まった。
縦川がトチったことに気づいた葬儀屋が、焦った視線を送ってくる。
彼はハッとすると、木魚を叩くリズムを取り戻して、やけっぱちみたいに大声で叫ぶように言った。
「ご焼香、お願いしますっ!」
ポクポクと木魚の音が鳴り響く部屋の中に煙が立ち込め、香ばしい匂いが辺り一面を包んでいく。縦川は読経を繰り返しながら、背後で参列者の焼香が済むのを待った。頭の中ではまるで別のことを考えていたのに、口をついて出るお経はもう淀みなかった。ポクポクと正確にリズムを刻みながら彼は思い出していた。
さっき……背後を盗み見た時……
栄二郎は笑っていた?
もしかしたら顔の角度の問題で、そう見えただけかも知れない。もしくは、あんなただのおべんちゃらでも自分を褒めてくれる参列者に感謝していたのかも知れない。
しかし、あの時見た彼の表情は、思わず縦川が自分の使命を忘れて二度見してしまうくらいに、とても邪悪なものに見えた……
こりゃ、一体なんなんだ……?
ポクポクとリズミカルな木魚の音が響いている。背後では焼香を終えた参列者達が、早く終わらないかとそわそわしていた。縦川はその空気を敏感に察知すると、木魚の音を強くして、お経を最後まで一気に読み上げた。
彼が読経を終えると、ヒソヒソと会話を続けていた参列者達も口を閉じて、辺りは静寂に包まれた。お経の声が聞こえなくなると、不思議とみんな同じように静かになるものである。さっきまで外から無責任に響いてきた、栄一を中傷する声も今はもう聞こえない。
縦川は座布団の上で回転して参列者達の方へと向き直る。その時に栄二郎の顔をちらりと覗き見たが、もう彼は平静に戻っていた。さっきのは見間違いだったのだろうか、気にはなったが確かめる術はない。彼はそのことを一旦忘れることにすると、あと少しなんだから、今は自分の義務を遂行することに集中しようと思った。
とは言っても、あとは法話をして出棺するだけなのだが、ここに来るまでに色々と考えてきたはずなのだが、朝から続く一連の奇妙な出来事のせいで、話すことをすっかり忘れてしまった。友達の最後なのだからと、一生懸命考えていたはずなのに、今は虚しく価値のないものにしか思えなかった。
だからもう適当に、思いついたことを仏教用語にでも因んでひねり出そうかと、彼は漫然と参列者の顔を眺めた。参列者の顔はさっき見たはずなのだが、何故かどれもこれも今はじめて会ったばかりのように思えた。なんだかそれを見ているとムカムカしてくる。
こいつら、毒だな……と縦川は思った。
毒をじっと見つめていると、気分が悪くなってくる。だから見知った顔が無いか探したが、下柳はまだ戻ってないようだった。
代わりに、庭の隅っこの方に、あの目立つ白髪の少年の顔が見えて、縦川は昨日であったばかりなのに、なんだかその顔が無性に懐かしく思えた。他の参列者たちとは違って、彼の苦痛に歪む表情を見ていると、故人を悼んでくれる人がたった一人でもいてくれたのだなと思えて、救われたような気分がした。
「えー……『ありがとう』の反対語を何ていうか皆さんご存知でしょうか。私は知らなかったんですが、知人に言わせれば、それは『あたりまえ』なんですね。ありがとうの反対があたりまえなんて言われても、ピンと来ないでしょうが、実は漢字で書けば一目瞭然。ありがとうとは、有り難い、有ることが難しいと書く、つまり稀有な状態のことを指す言葉なんです。だからその反対は当たり前なんですね。
生きていることは有り難いことです。現代社会に住む私たちはそれが毎日続くから、当たり前のように思っていますが、よくよく考えても見れば、生物がこの過酷な世の中で生きていけるのは、本来有り難いことですよね。逆に、死は当たり前なんです。誰にでも当たり前のようにやってくる。避けて通ることが出来ないから、私たちは恐れるんです。
なんだかおかしな話ですよね。私たちは生きていることが有り難いことを忘れているくせに、当たり前にやってくる死を恐れる。普通、逆じゃないですか。私たちは生きていることに感謝して、誰にでもいつかやってくる死を恐れずに、毎日を有り難いと思って大切に生きていくべきなのです」
縦川の言葉に、参列者の何人かが感心するような声をあげた。ぱっと思いついただけだから、別に有り難い説法というわけではない。寧ろ当たり前だからこそ、人の心には届きやすいのかも知れない。
「人間ってのは何故か3とか7とか奇数が好きなんですけど、仏教用語にも三毒ってのがありまして……この三毒ってのが何かと言いますと貪瞋痴、簡単に言えば、貪り、怒り、無知、のことを指します。何かと言えば、人間の煩悩のことなんですね。
お釈迦様は、生きているのはどうしてこんなに辛いのか、人間社会はどうして戦争ばかりしてるのかと嘆いて、菩提樹の下に座ってじーっと考えた。そしてある時ハッと閃いたのです、それは人間に煩悩があるからだと。人間があたりまえのように感じる妬みや嫉み、人を傷つけたいと思う怒りや憎しみ、他を知ろうとしない無知、こういったものが人間社会を蝕んで争いの種になっている。だからその煩悩から解脱し、悟りを得ることによって極楽浄土へ行かんとしたわけです」
思いつくままに話を広げながら、ぼんやりと周囲を眺めてみるも、下柳は未だに帰ってくる気配がなかった。あの超能力者のせいで焼香すらあげられなかったとは、迷惑な話だなと思いながら、ふと見れば、端っこの方に居た上坂が、体調でも崩したのか、額に玉のような汗をかきながら、どこかへ行こうとしていた。それを鷹宮父に見咎められて連れ戻される。どうかしたのだろうか……?
「鎌倉時代に日本に入ってきた禅宗は……テレビなんかで座禅を組んだ人たちが、肩をパーンと叩かれてるあれですけど、あれは何をやってるのかと言いますと、お釈迦様みたいに煩悩について考えることによって、それを打ち払おうとしているわけですね。
でも、ただ打ち払おうと言ったってどうしていいかわからない。煩悩のことを考えないようにしようと思っても、我々は考えるなと言われると逆に考えちゃう。しょうがないから、実は座禅を組んでる人たちは、逆に自分の煩悩についてじっくりと考えてるんですね。座禅を組むことによって己を見つめ直し、ああ自分にはこんな弱い面があったんだなと受け入れて、それを許してやる。そうやって煩悩に打ち勝とうとしているわけです。
我々は自分の煩悩を許してやることで生きていけるんです。自分の弱さを受け入れることで、新たな自分を発見するわけです。でも死者はもう自分を許すことが出来ない。だから生きている者が許してやるんです。これが水に流すという考え方です」
上坂の顔色を心配しながら、そんな話を続けていたら、参列者の何人かが居心地の悪さを感じているのか、そわそわとしだした。チラチラと鷹宮父を横目で盗み見ている。きっと彼が癇癪を起こさないか、気が気でないのだろう。その張本人は、自分のことを言われていると感じているのか、目つきが怪しくなってきた。
「はじめに三毒と言いましたが、煩悩と言うものは毒なんですよ。こんなものをいつまでも心の中に溜め込んでいたら、いつか病気になってしまう。実際、我々は悪しき感情に強いストレスを感じるように出来ていて、ずっと悪いことを考えていると体がおかしくなってしまう。
また、感情と言うやつは消耗するもので、我々は強い感情を受け続けていると疲れてしまう。実際にとある実験では、被験者に感動的な映画を見せた後に握力テストをさせてみたら、見る前よりも結果が悪くなってしまったということがあります。それくらい、悪しき考えというものは人をおかしくさせるんです。
だからもう許しましょう。死んでしまったら人は許されるべきなのです。そして我々は許すことによって救われるのです。そうじゃなきゃ、みんな疲れてしまうでしょう。
今日、私たちは大切な人を失いました。中には今でも強い葛藤を持つ人もいるかも知れません。ですがそんな考えにいつまでも執着していては、いつか死者に足元を掬われて……地獄に落ちますよ。
本日は皆様、朝早くからお疲れ様でした」
縦川がそう言って話を締めくくったときには、鷹宮父の顔色は真っ赤になっていた。言いたいことは言ってやったが、それで気が晴れることは無かった。彼は参列者に軽く目礼すると、プイッと廊下の方へと足を踏み出した。
だが、その時、視界の片隅で何かが揺らめくのが見えて、彼は振り返った。
さっきまで中庭の端っこで苦しそうな顔をしていた上坂が、フラフラと上半身を揺らして今にも倒れそうになっている。
「……上坂君?」
彼の様子に気づいた縦川が声を掛けると、彼は衆人環視の中で、がくんと力なく膝を折った。
慌てて駆け寄ろうとする縦川を制して、栄二郎が庭に飛び出した。そして彼の体を抱きかかえると、心配げに彼の顔を見つめながら、
「おい、上坂君! 大丈夫か? 気分が悪いのか?」
すると上坂はそんな栄二郎を鋭い目つきで睨みつけた。白髪の少年に突然そんな目を向けられた栄二郎は、その迫力に射すくめられて困惑気味に目をしばたたかせた。
「気分が悪いかって? 最悪だね。ここは嘘つきだらけだ。傲慢で、欲深で、自分のことしか考えてない者だらけだ。あの坊さんはいいことを言った。確かにこんな毒にあてられていたら、体もおかしくなるってもんですよ」
上坂は吐き捨てるようにそう呟くと、
「もうやめなさいよ、栄二郎さん……事故だったかも知れない。そんなつもりは無かったのかも知れない。でも、あんたはやりすぎた。こうなっちゃもう黙っていられない」
「……何を言って?」
「あんたが殺したんだろう?」
彼のそのセリフに、場が凍りつく。なんでいきなりそんなことを? いや、そもそも、栄一は警察が調べて事故だったとはっきりしてるのだろう?
誰も彼もが目を丸くして見守る中、上坂だけが苦々しそうな表情で栄二郎のことを睨んでいた。縦川はそんな絵画みたいな光景を眼の前にしながら、あの時の……葬儀中の栄二郎の顔を思い出していた。