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恐竜と花冠

作者: 水瀬透

メランコリック・ダイナソーの物語

花冠を作りたかった恐竜とすべて壊してしまいたかった少女の恋の物語


 恐竜は、花冠を作ろうとしました。

 しかし彼の手は、編むどころか、鋭い爪が花をばらばらに壊してしまうだけでした。

 恐竜は、花冠を作りたかったのです。


 ずっとずっと、花冠を作りたかっただけなのです。



 ずっと昔に、恐竜の住む森がありました。

 あまりに残酷で、凶暴で、恐ろしかったために、記録にも残っていない恐竜です。

 生き物も、草花も、大きな木も、何もかも、ばらばらに壊すことを何よりの楽しみにしている恐竜は、メランコリック・ダイナソーといいました。濃いピンク色の大きな身体に、血のように真っ赤な瞳。刃物のように鋭い鱗を全身にまとい、大きな牙と、大きく鋭い鉤爪を持った、とても恐ろしい恐竜でした。

 そんなメランコリック・ダイナソーのなかに、外れものが一匹おりました。

 澄み切った空のような青い身体に、びいだまのような淡いピンク色の瞳。鋭い鱗も牙も、鉤爪も、大きな身体も、強い力もほかの仲間と変わりませんでしたが、澄んだ青色の彼をみんなは仲間はずれにしました。

 ブルーという名のこの恐竜には、何より違うところがありました。

「ああ、やっぱりこの手じゃあ、だめだ」

 ぽろぽろと涙をこぼしながら俯くブルーの足元には、ばらばらにちぎれた花が落ちています。


 ブルーは、生き物を、草花を、大きな木を、愛していました。

 とりわけ花を愛しており、ブルーは花冠を作ることを夢見ていました。


 例えば、人間が鳥や豚や牛や魚の言葉を知らないのは、知っていたら、食べられないからです。

 わかってしまえば、生きたままそれらの腹を捌くなんて出来ないから、知らないのです。

 本来なら殺し、食べるべきものを、ブルーは心から愛しておりました。

 小さな生き物の愛らしさを、大きな生き物の威厳ある姿を、色とりどりの草花を、季節ごとに葉の色を変え、甘い実をつける大きな木を、できる限り壊すことのないように気をつけていました。

 壊すことが本能に刻まれているはずなのに、ブルーは何も壊したくありませんでした。

 だから、ブルーはいつもひとりぼっちでした。

 来る日も来る日も花冠を編もうと、鋭い鉤爪の指を伸ばしては、花を壊して泣いていました。

「もしもこの手がこんな鉤爪でなく、人間の優しい手だったら、ぼくはどれだけ大切なものを愛せるだろう」

 いいなあ、いいなあ。そう言って、また涙をこぼしました。

 ブルーはただ、花冠を編みたかっただけなのです。


 メランコリック・ダイナソーの住む森から少し離れた場所に、人間の住む村がありました。

 森に住む恐竜はとても残忍で、凶暴で、恐ろしいといわれていたので、誰も森に行くものはおりませんでした。

 けれど、それは子供に言い聞かせる母親が、自分の父親から聞いたもので、その父親もまた、自分の母親から聞かされていたもので、母親は年の離れた兄から聞いて、兄は祖父から聞いていて、その母親も祖母から言い聞かされていて、その祖母の曾祖父だって、自分の母親が曽祖父の代からそう聞かされていたのでした。

 そんな、誰も近づかない森を気に入っている少女がひとり、おりました。


 アカネという名の少女は、恐竜の言葉を、身体を流れる血で知っている人間でした。

 人間でありながら、恐竜やそのほか残忍な生き物の言葉どころか、その嗜好を、残虐さを楽しむことを知っていました。花を踏み散らかし、小さな生き物の逃げ惑う姿を好み、触れるすべてを壊すことしか知りませんでした。

「あれは、鬼か、物の怪なのではないか」

 両親でさえ彼女を庇うことはなく、またアカネも望んでいませんでした。

 少女はひとり、ケモノのように草原を駆けました。

 たった一人ぼっちでも、寂しくなんかありませんでした。


 アカネはずっとひとりきりだったので、寂しいという気持ちを知らなかったのです。


 花や、小さな生き物、美しいもの、奇麗なもの。

 食べるべきものたちの言葉を理解し、愛してしまった恐竜と、壊すことしか知らない少女は逆さまに同じでした。

 鏡合わせのような恐竜と少女は、そうして出会ったのです。


「あんた、何をしているの?」


 森を駆けていたアカネは、目の前で大粒の涙をこぼしている恐竜に尋ねました。

 青色の恐竜は、アカネの背丈くらいの涙をこぼしながら悲しそうに答えました。

「花冠を、作りたかったんだ」

 涙の落ちた地面には、ばらばらに壊れた花が散らばっていました。

 アカネは不思議でたまりません。

 その大きな身体が、強い力が、鋭い牙と鉤爪があれば、壊せないものはないように思えたからです。

「どうして?」

 アカネは怯えもしないで、恐竜を見上げて問いかけました。

「あんたの鋭い鱗があれば、森の木なんて避けなくっても切り倒されていく。もっと自由に駆けることができる。なのに、どうしてあんたは泣いているの?」

 ブルーはそっと首を横に振りました。

「ぼくは、何も壊したくない。大切にしたいのに、花を壊すことしかできない。それが悲しくて、涙が止まらないんだよ」

「あんたは、恐竜なのに?」

「ぼくは、きみの手が羨ましいんだよ」

 きっと、この少女も自分のことを気味が悪いというのだろうなとブルーは思いました。

 けれど、アカネは自分の手をまじまじと見つめて、器用に彼の身体を登ってきました。

 慌てて危ないよ、と言いましたが、少女はあっという間にブルーの頭の上によじ登ってしまいました。怪我の一つもしないで、そんなことのできる生き物がいるとは思ってもいなかったので、ブルーはとても驚きました。

「あたしは、あんたが羨ましい。こんな高いところの景色、見たことないもの」

 すとんと腰を下ろして、アカネが言いました。

 すっかり落ち着いた様子に、ブルーは恐る恐る尋ねました。

「ぼくのこと、怖くないの?」

「泣き虫の恐竜なんて、怖くなんかないわ」

「なんにも、壊せないのに?」

「壊したいの?」

「ううん、何も壊したくない。でも、ぼくは……」

「好きなものを好きでいることの、何がいけないの?」

 アカネの言葉に、ブルーは胸が熱くなりました。

 好きなものを好きでいることを、ブルーはずっと、悪いことだと思っていたのです。

 ひとりでいることは、ブルーが自分で選んだことです。生き物をいたぶる仲間たちに合わせることなんて、ブルーにはできませんでした。弱虫だとこづかれ、わらわれても、狩りではなく、楽しみで誰かを殺すくらいなら、ひとりでいたほうがいいと、自分からひとりになったのです。

 でも、本当はずっと、さびしかったのです。

「ほうら、また泣く」

 頭の上でアカネがわらったけれど、ブルーは嬉しくてたまりませんでした。

 うろこ越しに触れるアカネの温もりがとてもあたたかくて、夢のようだと思いました。


 ブルーとアカネは、それから毎日のように一緒に過ごしました。

 森の獣達は、不思議な二人組を遠巻きに見ておりました。ブルーは自分たちに優しいことを知っていましたが、獣達の中には、アカネに追い掛け回されたものも少なくなかったのです。

 ブルーは頭の上にアカネを乗せて、恐竜にも人間にも見つからない場所をあてもなく歩きました。

 頭の上のアカネはもっと早くと言うので、ときどき少し駆けてやりましたが、ブルーはもし落っこちてしまったらどうしようと心配で、小さくて脆い身体が振り落とされないように、頭を揺らさないようにと気を遣っていたので、アカネはもっと早くがいいと口を尖らせました。

 ひとしきり駆けると、ブルーはアカネに草花や木々の名前をひとつひとつ教えました。

 相変わらずアカネは壊すことが好きで、ブルーのいないところでは小さな花なんて踏みつけても気にしません。それでも、ブルーの前で、ブルーが好きだという花を壊すのは面白くないと思って、やめました。

 アカネは花の名前なんて教わっても、ほとんど聞いていなくて、高い場所から見下ろす景色を楽しんでおりました。

 けれど、ブルーは自分の愛してやまない花や樹の実の、美しく、可愛らしい名前を教えることをやめませんでしたし、アカネもうるさがることなく、ブルーが愛おしそうに口にする花の名前を聞いていました。

「あれは、きみの名前だよ」

「あたしの?」

 ある夕暮れに、ブルーは空をさして言いました。

「この空の色を、茜色って呼ぶんだよ」

「あかねいろ?」

 そう、と項くブルーの淡い青色の頬が、空と同じ色に染まっています。

 アカネが見上げると、空も、雲も、森の木々も、自分の服も、同じ色に奇麗に染まっていました。

 燃えるような色の空の端には、ほんの少し夜の気配がにじんでいます。

 言葉を忘れたようにアカネは空に見入っていました。

「きれいだね」

 ブルーはアカネの口からこぼれた言葉に驚いて、優しく微笑みました。

「そうだね。ぼくはこの空の色が一番好きだよ」


 春には花吹雪の花びらとたわむれ、夏には蛍の光に見蕩れて、秋には鮮やかに色づく木の葉とどんぐりを集めて、冬には雪の中へ寝転んで空を見上げました。

 穏やかな日々を、二人で過ごしていました。

 そのうちに、アカネは聞き流していたブルーの言葉に聞き入るようになりました。それだけではなく、ときにはアカネが指をさして尋ねることさえありました。

「ねえブルー、あの白い花に名前はあるの?」

「あの木の実はどんな味がするの?」

 その度にブルーはひとつひとつ、嬉しそうに、丁寧に教えてやるのでした。

「おいしいでしょう?」

「おいしい。あまいのね」

 木の実を頬張っていたアカネが、ふと思い出したようにブルーの目を覗き込みました。

「ブルーの名前も、あたしみたいに何かの色なの?」

「そうだよ」

 答えてやりながら、ブルーは苦くわらって付け足しました。

「青色のことを、ブルーっていうんだ」

 メランコリック・ダイナソーは濃いピンク色の身体に、真っ赤な目が特徴で、卵もピンク色。ほかの仲間は、みんなピンク色にまつわる名前なのに、自分だけは卵のときから身体と同じ青い空の色をしていたから、変わり者という意味で呼ばれているのだと、はずかしそうに言いました。

 ふうん、と手についた果汁を舐めとったアカネは、すとんっと地面に降りると、ブルーの目の前に立って、まっすぐに上を指さしました。

 どうしたの、とブルーが口を開く前に、アカネがにっとわらいました。

 いつの間に、こんなふうにアカネはわらうようになったのだろうと目を奪われました。


「あんたの青は、空と一緒。きれいな名前ね」


 アカネに誘われるまま、地面に寝転がったブルーは、じゃれるようにしながら流れていく白い雲を、そこに変わらずある空をじっと見つめました。

 花の名前を奇麗だと思ったことはたくさんあります。青色の花もブルーは愛していました。空だって美しいと思うけれど、自分の名前を奇麗だなんて考えたこともありませんでした。

 ブルーには、空がさっきまでとは色を変えたように思えました。ずっと、大切なものに。

「ありがとう、アカネ」

「あんた、なんでもありがとうって言うのね」

 アカネは、ブルーを弱虫だとはもう思っていませんでした。

 だから、ただ思ったことを口にしただけだったのです。ブルーがどう思うかだなんて、まるで気にしちゃいませんでした。

 自分にたくさんのことを教えてくれるブルーが、自分を恥ずかしいだなんて思うのが気に食わなかったのです。

 だから、自分でも驚くくらい柔らかな声で頷きました。 

「いい名前じゃない、ブルー」

 アカネ自身も気づいていない、とても優しい微笑みを浮かべて。



 ある朝、アカネが森を駆けてブルーに会いにいく途中に、小鳥が落ちていました。

 じたばたともがいていますが、羽根を痛めたらしく飛べそうにありません。アカネを見て、必死で逃げようとさらにもがきますが、どうにもなりません。木の葉の隙間や、木のうろから獣達がそうっと息を殺して成り行きを見守っていました。

「可哀想に」

「きっといたぶられてしまうよ」

 こそこそとした囁きが、ぴたっと止みました。アカネが小鳥のそばに近づいていったのです。ああもうだめだと、目を覆ってしまうものさえありました。

 すると、すっとしゃがみこんだアカネが、小鳥を両手ですくい上げました。

 獣達は息をのみ、小鳥は何をされるかわからない恐ろしさと、翼に走る痛みとで、きいきいと叫び、暴れて、アカネの手に思い切り噛み付いたのです。

 あっと見つめていた獣達は、目を逸らしました。

 小鳥といえど、くちばしで思い切り噛めば、痛みは相当のものです。生き物、ことに小さな生き物を見れば、面白がって追い掛け回していたあの少女にそんなことをして、殺されないで済むはずがありません。

 アカネは、呆然としている小鳥に向かってため息をつきました。

「落ち着いたなら、じっとしていなさい。傷に響くわ」

 獣達は自分の目と耳を疑いました。その間にも、アカネは小鳥の羽根を調べて、片手に小鳥を抱いたまま、適当な小枝を拾い、自分の服を噛みちぎって、添え木を当ててやりました。

「死ぬような怪我じゃない。しばらくおとなしくしてたら、また飛べるようになるわ」

 不器用な手つきでしたが、アカネはそうっと、手の中にすっぽりおさまる小鳥を撫でてやりました。

 アカネを探しに来たブルーが話を聞いて、怪我に効く薬草のある場所へとアカネと小鳥を連れて行ってくれました。ゆっくりと歩くブルーの腕に腰掛けたアカネの手に、小鳥はぴいと鳴いて、小さな身体をすり寄せました。

 アカネは毎日手当てをしました。

 ブルーの教えてくれた薬草と、アカネの手当てで、小鳥はまた空を自由に飛べるようになりました。


 小鳥は毎朝、森の入口でアカネを待つようになりました。


 そうしてブルーのところまでアカネが駆ける隣を、すいすいとじゃれるように飛んでいきます。

 アカネはまだ完全に治ってはいない小鳥に合わせて、少しゆっくりと、置き去りにしないように、また翼を痛めないようにと森を駆けるのでした。

 小鳥の怪我が完全に治る頃には、たくさんの獣達が森の入口でアカネを待つようになりました。

 一番そばにいるのはあの小鳥でしたが、ブルーとアカネの周りには、森の獣達が集まってくつろぐようになりました。

 ブルーの足にもたれて小鳥とたわむれるアカネを、ブルーは優しく見つめておりました。


 ブルーは相変わらず花冠を作ろうとしては失敗して、花をばらばらにしておりました。

 けれど、その頃にはもう、アカネは花を踏みつけなくなっていました。



 出会った頃は獣じみていたアカネも、成長して少女から娘へと変わっていきました。


 髪は伸ばしたままでしたが、赤みがかった黒髪は美しく、その奥の焦げ茶色の瞳は、時折ふわりと花がほころぶように柔らかくなることも多くなりました。

 手足はすらりとしなやかに伸びて、駆けているときの姿は、若い牝鹿のようでした。

 柔らかな丸みを帯びた身体は無駄がなく、飾り気のない野に咲く花の美しさを見せるようになりました。柔らかな手や、本当にときどき優しく細められる目に、ブルーは心臓がおかしな具合に高鳴るのを感じました。けれども、当のアカネは無自覚な少女のままで、ブルーの頭や腕にするりと登っては嬉しそうにわらうので、ブルーもわらってしまうのでした。

 あの小鳥はアカネによくなついて、伸びた髪にじゃれては、アカネの肩でうとうとまどろむこともよくありました。

 ブルーにもたれているうちに、小鳥を一緒になって眠ってしまうアカネの周りには、森の獣達も集まってきて、一緒に日向ぼっこをしては、安心しきった様子で眠ってしまうのでした。

 ブルーはそんな光景を、愛おしそうに見つめているのでした。



 アカネは、森では受け入れられたものの、村では相変わらずひとりでした。

 幼い頃から隣に住んでいる、リョクという少年だけは、アカネを見つけると話しかけてきました。

 けれど、話しているとリョクの家族に睨まれるので、アカネは少し返事をするだけでした。同い年ではあるものの、病弱なリョクは起き上がることがやっとで、真っ黒いさらさらの髪に、不思議な翡翠色をした瞳は、華奢な身体と相まって、ぱっと見は少女のようです。どうして話しかけてくるのかアカネにはわかりませんでしたが、リョクはアカネを見かけると、必ず声をかけてくるのでした。

「あ、アカネじゃないか」

 久しぶりに家へ戻ると、窓から気さくに声をかけられました。

 アカネはさっと周りを見て、誰かが見ていないか確かめて、ため息をつきました。

「あんた、あたしと話したら怒られるでしょう」

「ああ、気にしていたの?」

 アカネでも気にするんだね、と言われて、馬鹿馬鹿しくなったアカネは通り過ぎようとしましたが、慌てた様子のリョクに引き止められます。

「待って。言い方がよくなかった。ごめん」

「どうでもいいわ」

「おれはただ、森の話を聞きたいだけなんだ」

「森の?」

「ああ。だってこの辺りはほとんど畑や田んばにしてしまったから、花や木や獣はいないだろ。アカネならたくさん知っているんじゃないかと思ってさ」

「森には行くなって、あんた知らないの?」

「知ってるよ。でもアカネは行ってるんだろ?」

 どうして知っているのかと聞けば、そこくらいしかアカネの気に入りそうな場所はないと言われて、アカネは見透かしたような言い方に腹が立ちました。

「知らない。あんたには教えないわ」

「おれの名前がリョクってのは、いい加減覚えてほしいな」

 知らないわ、とアカネは今度こそ通り過ぎて行きました。

「またね、アカネ」 

 手を振るリョクをちらりと見て、ぷいと早足で家に向かいました。


 ふらりと庭先に現れたアカネを見て、赤ん坊を抱いた母親をかばうように父親がさっと間に入りました。

 よちよち歩きの赤ん坊はアカネの妹です。

 赤みがかったアカネの黒い髪と違って、果実のような橙色のふわふわとした茶色の髪ですが、瞳の色は二人とも同じ焦げ茶色。リョクに聞いた通りでした。

 赤ん坊を見に来ていた近所のものも、息をのんでアカネを見ています。  

 張り詰めた空気のなか、ひらりと視界を横切った蝶々につられて、赤ん坊がよちよち歩きで縁側の端っこへ歩いていきました。誰も気づいていません。アカネのほかは、両親さえも。

「アンズちゃん、だめよ! 危ない!」

 母親が叫び、縁側から落っこちた赤ん坊を抱きとめたのは、アカネでした。

 あの乱暴者のアカネが、誰かを助けた? 信じられないものを見る目で、みなはアカネを見ていました。

 ぎこちない手つきで抱き上げると、赤ん坊はきゃらきゃらとわらってアカネにしがみつきます。

「あんた、アンズっていうの?」

 腕の中でじたばたと手足を動かして、にこにことわらう妹に、アカネはふわりと目を細めました。


「いい名前ね」


 アカネが縁側に下ろそうとすると、アンズはアカネの手を掴んで離しません。駄々をこねるように小さな両手がアカネの手を引っ張ります。はっと息をのんだ両親は止めに入ろうとしましたが、アカネが何をするのか目を離すことができません。みなも同じでした。あまりの驚きに、動くことができなかったのです。

 アカネは気にする様子もなく、アンズの目線にかがむと、柔らかい髪をそっとなでて、小さな両手を自分の手で包み込んで、小さな小さな指をひとつずつほどいていきました。魔法のようにあっさり手を離したアンズの頭をもう一度なでて、アカネは庭を出ていきます。

 狐に化かされたような顔をしたみなのなか、アンズだけはにこにことアカネの後ろ姿を見つめていました。


 アンズはどうしてか、アカネのことがとても好きでした。

 アカネがふらりと帰るたびに「あかねーちゃん」と舌足らずに、不思議な呼び方をして、アカネにべったりとくっついて、離れようとしないのです。

 そっけないアカネにも、物怖じすることなく顔いっぱいにわらって、身体いっぱいでアンズは好意を向けてきます。怒られるからと突き放そうとしていたアカネに、ある日アンズは言いました。

「かあさんも、とうさんも、あそんでいいっていったよ!」

「ほんとうに?」

「ほんと!」

 どうしてアンズが、姉とはいえ、いつも一緒にいるわけではないアカネになついたのかは、誰にもわかりません。けれど、アカネが赤ん坊のアンズを助けたのは確かなことでした。

 物影から遠巻きに、遊ぶ姉妹を眺める両親にアカネは気づいていました。歓迎されてなんていないこと、いまだに疑われていることに、気づいておりました。

 けれど、アンズの陽だまりのような笑顔は嫌いではありませんでした。

 ふわふわの髪を、アカネの真似をして伸ばしているのだといって、アンズはアカネに櫛で梳かしてとせがみました。

「くし? あたし使い方がわからないわ」

「じゃあ、アンズがおしえてあげる!」

 それからはアカネが帰るたび、アンズは櫛を持ってきて、かわりばんこに髪を梳かすのがお気に入りになったのでした。


 アカネは森から戻るときには、どんぐりや落ち葉などをアンズに持っていくようになりました。 

 お菓子の缶にアンズはアカネにもらったものを大切にしまっており、アカネの次になついている隣のリョクに、よく見せに行くのでした。

「ああ、これは珍しいどんぐりだね」

「アンズのあかねーちゃんは、すごいでしょう」

「アンズはほんとうにアカネがすきだなあ」

「うん! だってアンズのおねえちゃんだもん!」

 そっか、と頷くリョクに、アンズは無邪気な問いかけをひとつ。

「リョクにいちゃんは、あかねーちゃんのことすき?」

 ぱち、と目を瞬いたリョクは、アンズの柔らかい髪をくしゃくしゃに撫でてやりました。

 きゃあきゃあとはしゃぐアンズに目を優しく細めて、そっと頷きました。

「おれも、アカネがすきだよ」

 今度はいつ帰ってくるだろうねと、二人は森のほうを見つめておりました。

 もちろん、アカネは知るよしもないことでしたけれど。


「アンズ、か。髪の色そのままね」


 アカネは自分の手を見つめて呟きました。

 少しでも力を込めれば壊れてしまいそうな、柔らかくて脆い温もりが、まだ手に残っています。

「おかえり、アカネ」

「ただいま、ブルー」

「アンズは元気だった?」

「ええ、あのどんぐり喜んでたわ」

 アンズに会った日は、ブルーのところへ帰ると、アカネはいつも妹の話を聞かせてやるのでした。ブルーは人間が好きでしたから。アカネは話し終えると、いつも不思議そうに首をかしげるのでした。

「あんなふうに、あたしを見る目もあるのね」

「アカネが優しいって、アンズは赤ん坊の頃から知ってるんだよ」

 赤ん坊や子供はようく知っているからね、とブルーはわらいました。

「あたしが、優しい?」

 そうだよ、と頷いたブルーは、ゆっくりと言葉を紡ぎます。いつもの、優しいブルーの言葉で。

「赤ん坊は一人では生きられないから、自分を愛してくれて、守ってくれる誰かを見分ける力が強いんだよ。優しさに、ようく気がつくんだ」

 そうは言われても、アカネはやっぱり腑に落ちません。

「優しくなんかないわ」

「アカネは、優しいよ」

 いつものように微笑んで頷くブルーを見て、アカネは気がつきました。

 ブルーだけは、いつも自分を優しい目で見ていてくれたと。

 その目に自分が救われていたことに、視線に込められた、敵意や恨みが分かるようになって、初めて気づいたのです。

 アカネとブルーが出会った頃、アカネは触れるすべてを壊して、楽しむような少女でした。ブルーの目の前で花を踏みつけたことだってあります。そのときだって、かなしそうではありましたが、たしなめて、潰れた花を寂しそうに見つめるだけで、次の日には、いつも通りアカネを待っていてくれたのでした。

 いつでも優しい言葉と瞳で、自分を迎えてくれる場所を、アカネはブルーのほかにもっていません。

 けれど、ブルーのほかにほしいとも思いませんでした。

「優しいってのは、ブルーのことよ」

 だから、それだけ伝えたのでした。

 そうかなあ、と困ったようにわらったあと、やっぱりブルーは優しく微笑んだのでした。

「ありがとう、アカネ」


 穏やかで、心安らぐ優しい日々が過ぎて行きました。


 いつまでもこんな日々が続けばいいというのは、そんなに身の程知らずな願いだろうかとブルーは思いました。

「あなた、何を考えているの?」

 アカネを見送った真夜中のことでした。

 月明かりの中、目の前に現れた濃いピンク色の身体からは、怒りが目に見えるようです。真っ赤な目には、嫌悪感しかなくて、ああ懐かしいなと、ブルーは的外れなことを思いました。

「人間と一緒にいるって正気なの?」

「どうしてそんなことを言うの?」

「しらばっくれないでちょうだい、もう分かっているのよ」

 いつかばれてしまうだろうなあと、ブルーは細心の注意を払いながらも思っていました。

 人間はごまかせても、メランコリック・ダイナソーは、視覚、嗅覚、聴覚、触覚、味覚の五感のうち、目と耳と鼻がとても発達しているのです。自分からはメランコリック・ダイナソーの住処へ近寄りもしないブルーでしたが、まったく誰とも会わないわけではありません。アカネはいつもブルーの頭や腕に乗るか、それでなくてもくっついています。だから、匂いをかぎ付けられてしまったのかもしれません。

 コーラルは、珊瑚の名を持つ、ブルーと同じ時期に生まれた姉のような存在です。

 小さな頃はいじめられっ子のブルーの面倒を見て、仲間に入れてやろうとあれこれ世話を焼いていた時期もありました。結局、ブルーが花を愛し、いたぶるべき生き物をも愛するようになったので、面倒を見ていた分、顔を見れば、余計に腹が立って仕方がないのでした。

「花やけものを相手にするくらいなら、放っておいてあげたのに」

「誰が知っているの?」

「もうほとんどね。そろそろ長老の耳に入るでしょう」

 そっか、とだけ答えるブルーに、コーラルは牙をむいて怒りをあらわにしました。

「いますぐその人間を殺しなさい。そして、帰りましょう」

 殺すなら、いまなら戻ってこられると詰め寄るコーラルに、ブルーは首を横に振りました。

 夜の静けさを切り裂くように、コーラルの叫びが森の木々を震わせます。

「どうして! あんなもの、生かしておく価値もないじゃない!」

「そんなことはないよ」

「あなたが死んでしまうのよ? それがわからないとでもいうの!」

 わかるよ、とブルーは静かに頷きました。

「この、なりそこない!」

 溢れる言葉や感情が身体の中でぐちゃぐちゃになり、わなわなと身体を震わせていたコーラルは、吐き捨てるように一言だけを投げつけました。鉤爪でブルーの頬をひっぱたいて、きびすを返して去っていきます。

 八つ当たりで手当たり次第に木々を粉々にしていく後ろ姿に、目の下と頬から血を流したブルーは囁きました。

「ありがとう、コーラル」

 コーラルが自分に忠告をしに来たことを、ブルーはわかっておりました。

 ブルーが頷けば、メランコリック・ダイナソーの仲間たちの中へ帰そうとしていたことも、わかっておりました。

 昔から、何かと目をかけてくれたコーラルは、やっぱり変わっていなかったのです。

「だけど、ぼくは人間だからじゃなくて、アカネだから殺せないんだ」

 ブルーが囁きをこぼすと同時に、流れ星が夜空に光って消えました。

「すきなひとを、ぼくは殺したくない」

 涙のような流れ星が、すうっと静かに消えていった夜でした。



「たんじょうび?」


 ある日、ブルーの目の前に花が差し出されました。

 リボンも何もかけられていませんが、色とりどりの花束でした。

 来るなり目の前に花を突きつけたアカネが聞いたのです。誕生日を知っているかと。

「なんだい、それ?」

「生まれてきた日のことなんだって」

「生まれた、日?」

「ブルーは、自分がいつ生まれたか知ってる?」

「知らないなあ」

 誰も教えてくれなかったし、いままで知らなくて困ったこともなかったと首をかしげるブルーに、あたしだって知らないわとそっけない口調でアカネは答えました。口を尖らせるくせは、成長してもそのままです。

「ブルーは花が好きでしょう?」

「うん、すきだよ」

 わけがわからないまま、ブルーは答えました。

 アカネがブルーの目をまっすぐ見上げました。意志の強さそのままの強い瞳も、そのままです。

「だから、今日にしたの」

 出会った時から変わらない、まっすぐな瞳が、弱気なブルーの瞳を見上げます。

「あんたが生まれてきたってことが肝心なの。日にちなんてなんだっていいわ」

 アカネは何だか身体中がそわそわ、ふわふわとして、これは何て名前かしらと思いました。

 これを渡したらブルーに聞いてみよう、と見上げたブルーの大きな目に映った自分を見て、どうしてかじっと見ていられなくて、アカネは少しだけ目を逸らしました。

「きっと、たんじょうびってそういうことよ。今日が何日かってことも、あたしは知らないもの」

 アカネはそう言って、ぽかんとするブルーがよく見えるように、花束を持った腕を目一杯に伸ばします。

 そして、花がほころぶように、ふわりとわらいました。


「ブルー、お誕生日おめでとう」


 ブルーは手を伸ばそうとして、引っ込めました。

 メランコリック・ダイナソーである自分が触れたものは、すべて壊れてしまいます。

 こんなに壊したくないものには、触れられるはずがありません。

「誕生日には、贈り物をするの」

「おくりもの?」

「そう、もうひとつあるのよ」

 アカネは少し迷いましたが、隠していたもう片方の腕も、ブルーの目の前に突き出しました。

 それは花冠でした。 

 けれど、ブルーでなければ分からなかったでしょう。

 アカネの作った花冠は、ほとんど冠の形になんてなっていない、花のこんぐらがった、いびつなものでした。それでも、アカネをよく知っているブルーには、どんなにアカネが苦労したのか、見るだけで分かりました。

「また泣く。ブルーはほんとに泣き虫ね」

 アカネがまた、ふんわりとわらいました。

「たんじょうび、おめでと」

 ブルーが生まれてきたことを、アカネがわらって祝います。

「あんたが生まれてきてくれて、よかった」

 嘘なんてつかないアカネがそう言うので、ブルーは涙が止まりません。

「ありがとう。ありがとう、アカネ」

 ありがとう、と繰り返すブルーに、アカネは優しく頷きました。

 そんな二人を、森の獣達がそっと見守っておりました。



 明日もきみといられたら。

 それだけでよかった。

 ほかには何もいらなかった。


 明日も、きみと生きられたら。


 ブルーの願いは、そのままアカネの願い事でもありました。


 こいこい、と手招きされるままに、泣き止んだブルーが顔を寄せました。

「違うよ、こっち」

「どっちだい?」

 アカネは、花を持った手をブルーへ伸ばします。

「あんたの手を、よこせっていってるの」

「ぼくの?」

 ブルーは戸惑い、自分の手を見ました。

 鋭い、大ぶりの鎌のような鉤爪のある自分の手は、ブルーの大嫌いなものでした。

 メランコリック・ダイナソーであるブルーは、傷つけるしかできません。

 いくら傷つけたくなくても、壊したくなくても、彼の心とは無関係に、触れるものすべてを壊してしまうのです。

「だめだよ」

 ブルーは、せっかく涙の引いた目に、みるみる目を潤ませて、首を振りました。

「ぼくが触ったら、アカネに怪我をさせてしまう」

 だめだよ、無理だよと繰り返して、ブルーは首を振ります。

「こんな手じゃ、無理だよ」

 鋭い鉤爪を見て、傷つけるしかできないとうなだれます。

 泣き出しそうなブルーをじっと見つめて、アカネはこともなげに言いました。

「いいよ、痛くないから」

 ためらうばかりの自分に、アカネはまた怒っているだろうと思ったブルーは恐る恐るそらした目を合わせました。

 アカネは手を伸ばしたまま、ブルーを見つめるておりました。その目は怒っていません。出会った頃より柔らかくて、包み込むような優しさをにじませた目が、ブルーを見上げていました。


「あたしごとあげるから、壊れないよ」


 微笑んだアカネがくれた、まっさらな言葉は、ブルーが涙をこぼすには十分でした。

「大丈夫。一緒に持てば、こわくないよ」

「でも、」

「だいじょうぶだってば」

 それでもためらうブルーに、アカネが少しにらんで手を伸ばすので、とうとうブルーはそろりそろりと手を伸ばします。

 そうっと。

 焦れったくなるほどに、そうっと、ぎとぎとと鋭く光る長い爪が伸びてきて、アカネはためらいなく真ん中のいちばん長い爪を取りました。

 花束を握ったほうの手で、アカネはブルーと手を繋ぎました。

 手のひらに薄皮が裂ける感触があったけれど、アカネは気にしないでブルーを見上げます。

「い、痛くない?」

「痛くないよ。言ったでしょう?」

 不安そうに、おどおどしたブルーがアカネを見ています。

「いたくないよ」

「でも、アカネが怪我しちゃうよ」

「だいじょうぶ」

「だ、だけど、血が出たりしたら痛いし……」

「そんなの、あんたが気をつければいいでしょう」

 アカネはきつくブルーの目を睨みつけて、言い聞かせるように目を合わせました。

「あたしは自分で選んでブルーと手をつないだの。だから、傷ついたって痛くないの」

 まったくもう、と荒っぽくため息をつく少女の頭に、ぽたりと、大きな雫が落ちてきました。

 ブルーを見上げて、仕方ないなと柔らかく息を吐いたアカネは、しなやかな細い指で、鋭い爪を撫でました。

「ほうら、また泣く。たんじょうびなのに」

 それでも、ブルーは自分の手に触れた温もりが嬉しくて、触れる冷たい花の感触が、繋がれた手と手が、何度見たって信じられなくて、しあわせで、涙が止まらないのでした。目に焼き付けようとするたびに、視界が滲んで、花束と、繋がれた手がひとつに見えて、愛おしさにまた涙が溢れます。

 ようやっと、口にできた言葉はふたつだけ。

「ありがとう、アカネ」

 泣くじゃくるメランコリック・ダイナソーに、小さな人間の少女はつんとすまして答えました。

「どういたしまして、ブルー」


 雲が泳ぐ青空が、茜色に染まって、端のほうから夜に染まっていくのを、二人は手をつないで、ずっと見ていました。

「あたしの名前だよって、あんたが教えてくれたのよね」

「そうだったね」

 ブルーがアカネに教えたのは、もう何年も前のことになります。

 それまでは気にもとめなかった夕焼けの色は、いまではアカネとブルーにとって特別なものになっていました。

「いつか、ぼくが花冠を作ったら、アカネにあげるね」

 ブルーの言葉に、アカネはただ頷きました。

 言葉を発するのがもったいないくらいに、その日の夕暮れは美しかったのです。

 手を繋いだまま、少女の名前の空の色を、二人はずっと、ずっと見ていました。



 明日も、きみと居られたら。

 それしか望んでいなかった。

 ただ、花冠を作りたかっただけなのに。



 いつだって、先に手を出すのは弱いものでした。 

 死にたくなくて、恐ろしくて、殺される前に殺してしまいます。

 そして、手を出された方は身の程知らずがと怒りに任せて殺します。


 だから、先に手を出したのは人間でした。

 少女が恐竜と一緒にいるのを見た村人たちは、メランコリック・ダイナソーたちに村が襲われることを恐れて、武器を取りました。

 その頃には、アカネはもう、花も生き物も壊さなくなっておりました。

 村人らはアカネを捕らえると、鎖で縛って、牢屋に閉じ込めました。

「やはりお前は人の子だ、鬼か物の怪に憑かれているだけだったのだね」

 いくら違うと言っても聞き入れられません。

 暴れてもがいても、久しく何も壊さなかったアカネは、壊し方を忘れておりました。簡単に捕まって縛られてしまうその姿は、ただの人の子と何も変わりません。

「アカネ」

 扉の開く音に振り向くと、両親が立っておりました。

 アンズは家かリョクに預けられているのか、見当たりません。 

「よかった。やっぱり、あなたは優しい、人の子だったのね」

 涙声の母親に抱きしめられて、アカネは言葉を失いました。

 抱きしめられたことなんて、生まれてから一度もありませんでした。アンズがよく抱きついてきましたが、それとは違う温もりがアカネを包みます。

 ふわりと頭を撫でられて、顔を上げると父親が立っていました。

「もう大丈夫だ。一緒に暮らそう」

 何が起きているのかわからないアカネに、両親は告げたのです。


「あの忌まわしい恐竜は、すぐに退治してくれるから」


 アカネは必死に訴えました。

 ブルーがいかに優しいか、何も壊そうとしないか、自分を大切にしてくれていたか、アカネのつたない言葉をありったけ使って、声が枯れるのではないかというくらいに訴えました。

 けれど、言えば言うほど取り憑かれていると言われるだけでした。

 鎖をほどこうともがいていたアカネは必死になるあまり、背後にまわった気配に気がつきませんでした。

 鼻と口を薬品を染みこませた布で覆われて、アカネの意識が遠ざかってゆきます。

 普通の人間なら三日は起きない量だ、と誰かが頭上で話しています。

「目が覚める頃には、すべて終わっているわ」

 薄れゆく意識の中、母親の声と錠の落ちる音を最後に、アカネは気を失いました。



 ああ、来たんだね。

 ブルーは森の入口で火の手が上がるのを見て、諦めたように口の端をあげました。

「きみたちはお逃げ。もうこの森は焼けてしまうから」

 獣達に告げると、メランコリック・ダイナソーにも会わずにすむ道筋を教えてやりました。

 あの小鳥がブルーの目の前に飛んできて、ぴいと心配そうに鳴きました。ブルーはそっと微笑んで首を振りました。

「きみもお行き。アカネは大丈夫だから」

 それでもうろうろとしておりましたが、ブルーが小鳥の仲間に連れて行くように言って、獣達をすべて安全な場所へ避難させました。獣達を見送ると、ブルーはみんなとは反対の、森の入口へと歩いていきました。

「ごめんね、アカネ」

 囁きをひとつだけこぼして、ブルーはありったけの声で叫びました。

 普段のブルーなら絶対に出せないような、荒々しい大きな声です。

 森の木々を震わせ、炎さえ消し去るメランコリック・ダイナソーの声が森に響き渡りました。



 小鳥の鳴き声が、アカネの耳をくすぐります。

 アカネは夢を見ておりました。

 いつものようにブルーのところへ出かけて行き、森の入口で小鳥と落ち合って、アカネは小鳥たちと並んで駆けてゆきます。しかし、どれほど駆けてもブルーが見当たりません。あの優しい青色が見つからなくて、アカネは小鳥と顔を見合わせました。すると小鳥が段々と大きくなって、ブルーほどの大きさになって、アカネを見ています。

 何が起こっているのかわからないアカネをすり抜けて、獣達は小鳥をブルーだと言ってじゃれつきます。ふわふわの柔らかな羽毛は、触れるだけで誰かを傷つけなんてしません。

 どうして?

 まるで初めから、ブルーなんていなかったかのように森はいつもと変わりません。

 ただ、ブルーがいないだけで、何も変わりません。

 迷子のようにきょろきょろと辺りを見回して、駆け出そうとしたときでした。

 アカネ。

 誰かに呼ばれた気がして振り向くと、そこには花のような少年が――


「ぴい!」


 誰かが自分をつつくので、アカネが重たいまぶたを開きました。

 まだ目を閉じていたいのに、と落ちそうになるまぶたを、また誰かがぴい、ぴいと頭や頬をつついて邪魔をします。

 ぴい! と耳をかじりながらの大きな声に、アカネの意識は戻りました。

 はっとアカネが身体を起こすと、あの小鳥が一生懸命にアカネをつついていました。

 小鳥のそばには、牢屋の鍵が落ちていました。小さな小鳥の身体は、アカネの閉じ込められた牢屋の鉄格子の隙間を、十分に通ることができます。小鳥は仲間と一緒にアカネを探しに来たのです。

「ブルーは?!」

 小鳥が涙をいっぱいに浮かべた目で、ぴいぴいと鳴きます。小鳥の声と、森から微かに流れてくる煙の匂い。

 そして、聞き間違えることなんてない、ブルーの声。

 アカネにはそれで十分でした。

「行かなくちゃ」

 それだけで鎖は簡単に引きちぎることができました。小鳥を肩に乗せたアカネが立ち上がります。

 そのとき、鍵の開く音に小鳥がぴいと悲鳴を上げて、アカネの髪にもぐりました。


「やあ、アカネ」


 そこに立っていたのは、柔らかく微笑んだリョクでした。

「鍵がないと思ったけれど、アカネは小鳥とも仲良しなんだな」

「あんた、どうして鍵を開けたの?」

「外からは簡単に開くんだよ、ここの鍵」

 鍵はひとつじゃないしね、と指に引っ掛けた鍵をしゃらりと回してみせました。

 アカネは眉を寄せると、髪に隠れていた小鳥を両手で包んで囁きました。

「あんたは逃げなさい、森はきっと燃えてしまうから」

 また怪我をしたら、もう手当はしてやれないの。

 アカネから離れようとしない小鳥を、無理やり引き剥がして押し出しました。

 リョクは牢屋から出てきたアカネに問いました。

「行くの?」

 アカネが頷くと、すぐにまた問うてきます。

「どうして?」

「行かなきゃならないのよ」

 アカネが焦れているのを分かっているはずなのに、リョクは問うのをやめません。

「あの恐竜がいるから?」

「あんた、さっきから何を言っているの? あたしは行かなきゃならないの」

「行ったら、アカネは死ぬよ?」

 それでも行くの? と聞かれてアカネは頷きました。

「あの子が泣いてる。あたしが行かなきゃだめなの」

 アカネは、もういいでしょうと振り切って駆けていこうとしました。

「行かないで、アカネ」

 腕を掴んで引き止めたのは、リョクでした。

「ふざけるのもいい加減にして!」

「おれは、ふざけてなんかいないよ」

 振りほどこうとしたアカネは、リョクと目が合って思わず動きを止めました。

 自分を見るリョクの、あの翡翠のような若草色の瞳は、こんなに強かっただろうかと。

 さらさらの黒髪は幼い頃から変わりませんが、体つきは、もうしっかりとした青年のものです。背だって、いつの間にかアカネを追い越していました。

「頼むよ、アカネ。行かないでくれ」

 こんな目を、リョクは見せたことがあったでしょうか。


「おれは、アカネがすきだ」


 リョクにとって、アカネは幼い頃から憧れの存在でした。

 病弱で、起き上がることがやっとのリョクにとって、自由に野を駆けるアカネは羨ましい存在でした。いつか自分も、あんなふうになれたら、そう思っておりました。

 けれど、アカネは触れるすべてを壊す少女でした。

 乱暴者といっても足りないくらいの荒くれ者で、手の付けようもない、大人が数人がかりでも捕まえることさえかなわないアカネを、村の大人たちは持て余し、実の親さえも、物の怪憑きだなんだと遠巻きにしました。

 それでも一向に構うことなく、アカネは野を駆けました。

 成長するにつれて、図鑑でしか獣を見たことのないリョクでさえ、きっと牝鹿のしなやかさはアカネのことをいうのだろうと思うような美しさを、アカネは現しはじめました。

 リョクにとって、アカネは遠い、遠い存在でした。

 あちら側とでもいうような、遠い存在のアカネが自分など気にかけることはないと知りながら、それでもリョクはアカネを見かけると声をかけずにはいられないのでした。

 自分の存在に気づいてほしくて、意志の強い瞳を、少しでもこちらに向けたくて。

 アンズと関わるようになって、アカネの強さが、どこか丸くなったようにリョクには思えました。

 それでも、やはりアカネは自分とは違うのだと、粉々に砕けた鎖に思い知らされたのです。

 けれど、アカネへの想いは砕けたって消えるものではありませんでした。

「アカネが好きだから、死んでほしくない」

 アンズもアカネを待ってる。

 行かないでくれと、切ないほどに必死な声が、アカネを引き止めます。

 そのとき、空を粉々に砕くような叫び声がこだまして、大地が揺れました。


「ごめんなさい、リョク」

 アカネが、リョクをまっすぐに見つめました。


「あの子が泣いてる。あたしが行かなきゃならないの」

 リョクをまっすぐに見て、アカネが繰り返します。

 もうどれだけ行かないでくれといっても無駄だと、リョクが一番分かっていました。

「あたしは、あんたの言ったことの意味も、よくわからない。でも、あの子が泣いてたら、あたしは行かなきゃならないの。そうするしか、選べない」

 手を離したリョクに、アカネが言いました。

 それは、そのままじゃないかとリョクは思いましたが、口にはしませんでした。

 その気持ちの名前を、リョクはアカネに教えませんでした。


「あかねーちゃん!」

「アンズ?」

 アカネに、体当たりをするようにしがみついてきたのは、泣きじゃくるアンズでした。

 駆けてきたアンズは、呼吸も整わないままで肩で息をしています。

「こわいよ。誰もいないし、こわい声がするの」

 たすけて。そばにいて。アンズは抱きついて離れようとしません。

「アンズ、よく聞いて」

「あかねーちゃん?」

 膝をついたアカネは、アンズの柔らかい髪を撫でて、優しく微笑みました。

 涙が止まるほどの、優しい微笑みでした。

「あたしは、行かなきゃならないの」

「いっしょにいないの?」

 涙をためる瞳に、アカネはごめんねと言いました。

「どうしても、そばにいなきゃだめなの。あたしがいないと、あの子はひとりぼっちになっているから」

「アンズもあかねーちゃんがいないと、やだよ」

 ぽろぽろと涙をこぼすアンズの涙をぬぐいながら、アカネはアンズを突き放せなかった理由が何となく分かりました。

 泣き虫で、にこにこしていて、優しくて。

 アンズは、ブルーによく似ていたのです。

 もちろん、それだけではありません。アンズがアカネに向ける、屈託のないまっすぐな好意が、アカネは嬉しかったのです。アカネは、アンズをそっと抱きしめました。


「おねえちゃんの、お願い。アンズ、ここから逃げて」


 いやいやと首を振ってしがみつくアンズの肩を掴んで、アカネは自分から引き離しました。

「リョク、アンズを連れてあの方角へ逃げて」

「まったく、おれは損な役回りばっかだな」

 後ろから歩いてきたリョクが、ひょいと暴れるアンズを抱き上げました。

「あっちに行けば、無事に逃げられるわ」

 アカネが指さしたのは、ブルーが獣達に教えたのと同じ方角でした。


「ごめんなさい、リョク。ありがとう」


 アンズをお願い。

 そう言い残して、アカネは風のように駆けてゆきました。

「あかねーちゃん! あかねーちゃん!」

 アンズが泣きながら叫んでも、もう見えません。

「おれらも行こうか、アンズ」

「あかねーちゃんは、どこに行ったの?」

 アンズも行く、と泣きじゃくるのをなでて、リョクは森に背を向けました。

「アカネは、アンズのお姉ちゃんは、世界で一番好きなやつのところへ行ったんだよ」

 腕を掴んだら振り向いて、自分の言葉に耳を傾けてくれた。

 リョクは、それだけで十分でした。

「だから、きっとアカネの幸せはそこにしかないのさ」

 アンズの涙をそっと拭って、リョクは、アカネが駆けていったのとは反対の方向へ歩き出したのでした。



「ブルー!」

 鎖を引きちぎって駆け付けたアカネが見たのは、虫の息になったブルーでした。

 アカネに気づいたブルーは、いつものように優しくわらってみせます。アカネは信じられないものを見る目で、ブルーの横たわる姿を見て、息をのみました。

「あんた、わざと……?」

「同じ人間なのに、きみとは違うね。どうして、その柔らかくて優しい手で、傷つけるんだろう。せっかく愛するひとに触れられる手を、愛するひとの涙を拭える手を持っているのにね」

 ブルーの傷だらけの青い身体にアカネは駆け寄りました。

 メランコリック・ダイナソーは、後の歴史にも残らないほどに恐ろしい、強い恐竜です。

 いくら人間が、毒や飛び道具を駆使したところで、知恵すらねじ伏せる強さを持っているからこそのメランコリック・ダイナソーが、こんなふうに、簡単に死ぬはずがないのです。

 ブルーはうっすらとわらって、囁きました。

「ぼくの欲しいもの、ぜんぶ持ってるのに、どうしてかなあ」

「あなたがもっているものを、ひとつも持っていないからよ」

 アカネはかすれた声で言いました。

「人間なんて、ろくでもない。忘れて、捨ててしまったんだわ」

「アカネ……」

「すきなひとのしあわせを、自分の幸せを捨ててでも願う心。争いを嫌う心。優しくあろうとする、傷だらけの心……あたしには、ブルーが、ぜんぶくれた」

 ぽたり、とアカネの目から涙がこぼれ落ちました。

「ブルーがいれば、それだけでいい。あんたがいるなら、ほかはなんにもいらない」

 アカネが泣くのを、ブルーは初めて見ました。

 アカネも、自分が泣けることを初めて知りました。

「あんたがいるならあたしだっていらない。なのになんで、あんたなの? あたしが死んじゃえばいいのに。あたしが代わりに死ねばいいのに。どうしてあんたなの?」

 駄々をこねるように泣きじゃくるアカネに、ブルーは優しく首を振ります。

「やだよ。ぼくはアカネが生きてないと、やだ」

 いつもと同じ、ずっと変わらない優しい言葉をアカネにかけます。

「ぼくはアカネに生きててほしい。ほんとうは、ぼくはこんなに生きられなかったはずなんだ。アカネがぼくを見つけてくれたから、だから生きてこられたんだよ」

「ブルー?」

 はっとアカネが顔を上げてブルーを揺さぶりますが、ブルーは安らかな顔で囁きました。

「ああそっか。ぼくは、ずっと花冠をつくりたいと思っていたけれど、……そっか、違ったんだ」

「ブルー? 花冠、作ってくれるって言ったじゃない。ねえってば」

 アカネがいくら呼んでも、いつものように返事をしてくれません。

「ブルー? いやだ、おいてかないで。ねえ、ブルー」

 そっと閉じていた目を開いて、ブルーは優しく微笑みました。

「ねえ、アカネ。ぼくは、ただ、ずっと――」

 言葉は途切れて、ブルーは柔らかな微笑みを浮かべて、動かなくなりました。

「……ブルー?」

 安らかな、優しい、愛しい夢を見ているように微笑んだままのブルーを、アカネは必死に呼びました。

 いつもの優しい声で、まなざしで、答えてくれると信じて、彼の名前を呼び続けます。

 それでもブルーが応えることは、もうありませんでした。



 ブルーを殺した村人たちは、メランコリック・ダイナソーは恐るるに足りないと、再び森へ火を放ちました。

 メランコリック・ダイナソーたちは激怒して、本能のままに人間たちを殺しました。

 美しかった森は面影もなく、獣達がブルーに教えられた道を通って逃げ出していなければ、誰も生き残ることはなかったでしょう。


 争いを終わらせたのは、たったひとりの少女でした。

 人間の心を持った恐竜を殺された、恐竜の心を持った人間の少女は、天を切り裂かんと吠えました。

 草木は裂け、大地には亀裂が走り、森を包んでいた炎も消えました。

 もう、少女は人間でも獣でも、恐竜でもありませんでした。

 血が知っている、本能より深い場所に刻まれたもので身体中を満たして、木々をなぎ払い、岩を砕き、触れるすべてを壊してゆきました。少女の形をした何かは、まっすぐにメランコリック・ダイナソーたちの住処へと向かいました。

 少女はメランコリック・ダイナソーたちに、牙をむくように踊りかかりました。

「お前のせいよ!」

 コーラルが、大ぶりの鎌のような鉤爪を振り上げて叫びました。

 ひらりと身をかわした少女は、コーラルの悲鳴を背後に、真正面から恐竜たちをにらみつけました。

 かわすことなど誰にもできないはずなのに、少女は何でもないような軽やかさで鉤爪をかわし、その大ぶりの鎌のような鉤爪をへし折りました。歴史からも消されたメランコリック・ダイナソーたちがたじろいだのは、生き物離れした恐ろしい動きではありません。

 自分たちをにらみつける、強い、強い瞳でした。

「あんたたちは、あのこを恥だのなんだのと言ったわ。誰よりも優しいあの子は、ただ好きなものを、大切に愛していただけじゃない! 恥じるべきはあんたたちよ! あのこ以外のすべてよ!」

 少女はたった一人で、メランコリック・ダイナソーを何頭も倒しました。

 しかし、心と身体にきちんと残酷さを持った恐竜すべてを、少女がひとりで倒せるはずもありません。どんなに傷を負っても起き上がる少女に、メランコリック・ダイナソーたちは次々と襲い掛かります。

「さあ、あたしを早く殺しなさい」

 殺してみなさいよ、と少女はとうてい生きているはずのない身体でわらいました。

 全身を牙のように、鋭い爪のようにして、少女はメランコリック・ダイナソーたちに向かっていきます。


「愛せる心を持っていたあの子が、どうして死ななきゃならないの!」


 叫んだ少女は、最後には腹を鋭い鉤爪で貫かれて、死にました。

 恐竜も、人も、たくさん殺しました。村人は死に、恐竜もたくさん死にました。

 最後まで声の限り、命の限りに泣き叫んでいた少女が地に伏したとき、恐竜の亡きがらから、涙がひとすじ流れました。

 こんな血の赤でなく、いつかの空のような色がよかったな。

 真っ赤に染まった少女は、声にならない声で、命が終わるときにぽつりと呟きました。


「あなたを裁きます」

 かみさまが、少女の前に現れて言いました。

 たくさんの命が消えた罰を、少女は受けなければならないのだと言いました。 

「あなたのような魂が、二度と世界に生まれることのないように」

 少女は、生きることも死ぬことも許されない世界に、ひとりぼっちで捨てられました。

「あたしは、生まれてきたくなんかなかった」

 かみさまをにらみつけて、少女は言いました。

「あの子が殺される世界なんて、あたしはいらない」

 かみさまは何も言わずに、少女を生まれ変わりの輪から外しました。


 時のない草原に座り込んで、少女は花を編もうとしておりました。

 けれど、少女はそんな優しく、繊細な作業をしたことがなくて、花はくたりと萎れてしまうばかりです。


 もう、どれほどの年月が流れたでしょう。


 少女はあの頃と変わらない姿で、空を見上げました。

 日の暮れない、雲のない青空が少女を監視するように、見下ろしておりました。

 いつかの空を思い出そうとして、少女は首を振りました。

 俯いた手の中には、ちぎられた花の亡きがらだけ。

 自分はどれだけの命を殺すのだろう。

 少女はため息をついて、花をなでました。

 それでも、と何度も何度もぎこちない手つきで花を編もうと手を伸ばす少女の頭に、ふわりと軽く何かが触れました。


「あげる」


 柔らかな声に振り向くと、ほっぺたに青い鱗をくっつけた少年が立っていました。

 空より優しい青い髪に、びいだまのようなピンク色の瞳の、花のような少年です。

「やっと作れたんだ、遅くなってごめんね」

 恐竜の鱗をほっぺたに残した、人間の姿をしたブルーがわらっていました。

 少し爪は鋭いけれど、花を編むことの出来る人間の手で、座り込んだままのアカネの手を取りました。

 そうっと、壊れ物を扱うように、アカネの指へ花で作られた指輪が嵌められました。

 ブルーが優しく微笑みました。

「よく似合うよ、アカネ」

 アカネは、ふわりと生まれて、ゆっくりと育まれていた気持ちの名前を知りませんでした。

 自分を投げ出した、あんなに激しい気持ちの理由すら、わかっていなかったのです。

「約束。守れてよかった」

 微笑んで告げるブルーを見て、アカネはあの時とは違う涙を流しました。

 泣き虫で、優しいブルーと出会い、一緒に日々を過ごして、生まれ、育まれた感情が、彼女の全身と心の隅々を、いま、やっと名前をもって駆け巡ります。

 アカネはブルーに飛び付いて、抱きとめたブルーはそのまま、花びらを散らして倒れました。


「ねえ、アカネ。ぼくはずっと、きみを愛したかっただけだったんだよ」


 アカネは涙を流しながら頷いて、おぼえたての言葉を繰り返しました。

「ブルー、すき。だいすきよ、ブルー」

 花に埋もれたブルーは、あの優しい、愛おしさを隠さない目で頷きました。

「ありがとう。ぼくも、アカネがすきだよ」

 幸せそうに微笑むブルーに、アカネはしがみつきました。ブルーは、ずっと願っていたやわい人間の手で、泣きじゃくるアカネを抱きしめました。

 ブルーが贈った花冠は、彼の愛情と、彼の心そのままの、優しい色合いの花があしらわれていました。

 そしてそれは、アカネにとてもよく似合っていました。



「あなたを救いましょう」

 かみさまが、尊い命を落とした恐竜の前に現れて言いました。

「わたしの傍へ置いてあげましょう、優しい世界を約束しましょう」

 もうかなしい思いなんて、しなくていいのですと言いました。

 恐竜は微笑んで、首を振りました。

「ぼくを救ってくださるのなら、かみさま。どうかあのこのところへ行かせてください」

 かみさまがいくら諭しても、恐竜は譲りませんでした。

 かみさまは、彼を人間に近い姿に変えてやり、彼女のいる、誰もいない世界へと行かせてやりました。



 恐竜は、花冠を作ろうとしました。

 いつか、大切なだれかにあげたくて。

 恐竜は、花冠を作りたかったのです。

 いつか誰かを愛し、愛されたかった、それだけでした。


 花冠を作ろうとした恐竜は、ただ誰かを愛したかっただけでした。

 愛すること、愛されること、その幸福と恐怖を知り、恐竜は泣きました。

 心から溢れる強い愛しさで、互いを壊さないように、ぎこちなく、そっと指を絡めて手を繋ぎました。

 そのあたたかい手を、恐竜を愛する少女は、ぎゅっと強く握りました。



 優しい世界を作りたかったかみさまは、いまでも忘れられずに泣いている。

 もう誰もが忘れてしまった、昔々の物語。



Fin.


 2014.10.21.



 水瀬です。

 花冠を作りたかった恐竜とすべて壊してしまいたかった少女の恋物語でした。

 元々とても短いお話だったのですが、少し書き直したものになります。また書き直したいと思っています。ハッピーエンドと呼べるのか分からない物語です。悲しいけれど、それは互いを大切に思えたからで、ならばそこには愛情やたくさんの幸せがあったと思うので、自分は悲恋と呼べませんでした。どう見てもハッピーエンドなメランコリック・ダイナソーの物語を書いてみたいとも思っていますが、この物語にも愛情は詰め込んであります。自分なりに彼らを幸せにしようと思ったら、このときは、生きていた世界で幸せになるにはブルーもアカネも優しすぎるように思い、このようなお話になりました。

 読んで下さってありがとうございました。

 何か届けることが出来たのなら、それほどの幸いはありません。


 水瀬透


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