(7)
「今年は2人とも受験生よねぇ…………花子、本当に大丈夫なの?」
夕食の最中に花子と神先輩を振り返った母は、当然おバカな花子ばかりを心配し始めた。
正直今の花子は毎日家にやってくる神先輩ばかり(恐怖で)気になって仕方なく、勉強にも中々熱が入らない。
とりあえず県内の女子短大を希望してるが、このままではおそらく合格は無理だろう。
母の心配を余所にその時はどこかで働こうと、何とも安易でおバカな考えだ。
「あの、俺でよければぜひ花子さんの勉強を見させていただけませんか?」
呑気にメシを頬張り続ける花子の隣から突然届いた神先輩の申し出に、食卓は一瞬シンと静まり返った。
すぐさま己の心を守るため現実から逃避した花子だったが、周りはそれを許してくれなかった。
「あらあら、花子の勉強を? それはすごく助かるけど、本当にいいのかしら……」
「普段花子さんの作る美味しいご飯に何のお礼も返せないのを、大変申し訳なく思ってたんです。ぜひお願いします。少しはお役に立てるはずです」
神先輩は花子の両親に向かって懇々とお願いし、最後に深いお辞儀までセットしてしまった。
「花子姉ちゃんよかったね! 先輩に勉強見てもらったら絶対合格間違いなしだよ!」
神先輩に勉強をお世話される花子をとても喜んだハジメが、花子の大学合格も声高らかに宣言してくれた。
「花子さん、俺でもいい?」
「……は、はい」
謙虚に尋ねてくる神先輩のお陰で無理やり現実に引き戻された花子の口は、今日も勝手に了承してしまった
……なぜこうなる。
さっそくその日からイケメン恐怖症花子にとって1つの部屋でイケメンと2人きりという、まるで罰ゲームのような地獄勉強会が始まった。
夕食後、自分の机と向かい合う花子の隣には神先輩が寄り添い、付きっきりで勉強を教えてくれる。
約1時間半という果てなく長い時間、イケメンの吐息にさえ逃げられず、もはや勉強ではなく拷問でしかあるまい。
ひどく思い詰めた花子の青い顔をあまりにも真剣と勘違いしたのか、神先輩も本気を出しひどく真剣に勉強を教えてくれる。
あまりにも真剣になりすぎた神先輩は机の上の参考書ではなく花子の横顔だけを真剣に見つめ、元々なかった互いの隙間を埋め尽くさんばかりにベッタリ寄り添い、親切丁寧あり得ないほど真剣に教えてくれる。
あまりにも神先輩が真剣すぎるので、とうとう限界に達した花子も得意の現実逃避技を用い、己のすべてを目の前の参考書だけに逃避した。
さすが神と崇められる神先輩は実に素晴らしい、己自身がひどく真剣になることで相手を勉強にとことん追い込ませる神業勉強法のお蔭で花子の成績はグングン急上昇、あっという間に志望大学の合格ラインをはるかに超えてしまった。
これでようやくイケメンから逃れられると安堵した矢先、イケメンは容赦なく花子に真横から爆弾を投下してきた。
「花子さん、これで一緒の大学に行けるね」
とりあえずギリギリラインだが県内のいくつかの大学も合格レベルに達した花子に対し、神先輩は嬉しそうに微笑みながら、なんと同じ大学に行こうと誘ってきた。
いや、すでにその気満々である。
「…………そ…………わ…………」
「それだけは絶対に死んでも嫌だ。わたしはイケメンのいない女子短大に行くんだ」と初めてイケメン相手に抵抗を試みたが、結局頭一文字ずつしか言葉にならなかった。
あまりにも弱々しい頭一文字抵抗でも抵抗は抵抗、花子の初めての抵抗を敏感に感じ取った神先輩は壮絶美しい切れ長の瞳に明らかに傷を浮かべた。
神様を傷つけた。すでに地獄行き決定極悪非道人間以下に成り下がった花子であったが、それでも構いやしない。鬼心で今度ばかりは抵抗を貫いた。
「花子さん、お願い」
鬼花子の顔をのぞき込み強く懇願するイケメンからとうとう最後の切り札「お願い」を出されれば、花子の鬼心など一切関係ない。
「……は、はい」
イケメンの願いを決して拒絶してはならない。
どんなに抗いたくても花子の本能が決してそれを許してはくれなかった。
花子はひたすら苦悩した。
口では了承したもののどうやったらイケメンから逃れられるか、卑怯にも神先輩の願いを裏切りひたすら逃げ道を模索した。
表面には出さず大人しく勉強を続ける花子に、神先輩も安心したらしい。
志望大学を問われとっさに近くの適当な大学名を挙げた卑怯者花子の嘘を、あっけなく信用してしまった。
花子は隣にいる神先輩の喜びを肌で感じとり、罪悪感でズキズキと胸が痛んだ。
それでも口では決して抵抗できない花子には、他の逃げ道など存在しなかった。
他に存在しなかったはずの逃げ道が、なんと目の前に突然現れた。
正確にはテーブルで悲壮感を漂わせていた。
母の良子である。
「あれ? お母さん仕事は?」
花子が学校から帰宅する時間はまだ近所のスーパーで働いてる母がなぜか家にいて、テーブルに頭を擦りつけ暗く俯いている。
明らかに様子のおかしい母にひどく嫌な予感がした花子は、恐るおそる傍へと近寄った。
「どうしたの…………お母さん」
ドクンドクンと高鳴る胸をぎゅっと押さえつけ、顔の見えない母にビクビクと問いかける。
「花子……ごめん。お母さんこの家を出なければいけなくなった」
花子が衝撃的な母の家出宣言に絶句すると、ようやく顔を上げた母は泣きながら事情を告白した。
母の良子は再びやらかしてしまった。
花子には到底信じられない話だが、酷にも真実らしい。
確かにパートに出ていると信じていた母はここ最近、なんとホストクラブ通いに精を出していた。
なんでも最初は仕事仲間に誘われ、興味本位で行ったのがきっかけらしい。
それだけでも十分義父への裏切り行為であるのに、母はなんと1人の爽やか系イケメンホストにすっかり熱を上げ、金を貢ぎこんでしまったという。
過去に2度もイケメンから手酷い裏切りを受け散々な目に遭わされたというのに、母のイケメン愛はそれでも健在だった。
呆れるほど懲りない母である。
当然今までパートで貯めた金はすぐに底つき、とうとう義父名義の貯金にまで手を付け、すでに相当使い込んでしまったというのだから救いようがない。
しかもすでに義父にはばれ、泣きながら真実を告白済みだという。
そんな愚かな母でも、優しい義父は責めずに許してくれたらしい。
あまりに義父が優しすぎて、母は罪の呵責に耐えられず、これ以上義父の傍にいることはできないという。
すでに離婚を決意した母は、おそらく引き止めるだろう義父に黙って家を出るつもりらしい。
母の懺悔の告白にしばらく開いた口が塞がらないほど呆然とした花子だが、ようやく口を閉じたとき観念の臍を固めた。
時にイケメンに振り回されとんでもなくやらかしてくれる母だが、花子にとって母は母である。
共に責任を負うしかあるまい。
「お母さん…………行こう」
花子は泣きながら謝り続ける母に、共に家を出る決意を伝えた。
離婚届と謝罪の手紙を残した母娘は、2年間暮らしたマンションを去った。
花子にとって義父やハジメとの別れはひどく辛いものだった。
たった2年という短い年月だったが、優しい2人と家族として過ごせた時間は楽しく、とても幸せだった。
特に花子を本当の姉のように慕ってくれたハジメは、突然花子達が去った現実におそらくひどいショックを受けるに違いなかった。
あの純粋で優しいハジメを傷つけてしまった現実は、しばらく花子を落ち込ませた。
ひどく悲しいが、もう二度と会うことは叶わないだろう。
家を出た母娘は以前暮らしていた社員寮で一緒だった母の知り合いを頼りに、花子が小学校低学年の頃までいた土地に再び舞い戻った。
受験間近の時期に義父の家を去るしかなかった花子は幸いにも高校は無事卒業を認められたが、当然大学は諦める他なかった。
元々そこまで強い意志があったわけではなく、これから母を助ける為にすぐ働く必要があった。
そして何より、あれほど逃げ道を苦悩していた神先輩から逃げられた現実に安堵した。
一緒の大学に行くつもりだった花子がいなくなれば神先輩も諦め、自分のレベルにあった大学を受験してくれるだろう。
卑怯にも逃げたいばかりに嘘の裏切り行為で神先輩を傷つけずに済んだことは、花子にとって不幸にも1つ幸いなことに違いなかった。