(12)
無意識に身体をブルブル震わせた花子は、突然引っ越しの挨拶に現れた目の前の男性を凝視した。
ハッと我に返ると、すぐさま顔を隠すように俯く。
…………天野? さっき天野って言った?
男性は確かに先ほど自分を天野と紹介したはずだ。
そして何よりこの稀な超絶美形イケメン顔。
忘れもしない…………すでに遠い昔2度も偶然巡り会い、同じ時を共に過ごした過去のあの人に間違いない。
またもや今日偶然再会し、しかも偶然隣に引っ越してくるなんて…………もしやこれは偶然ではなく、もはや必然?
今までずっと偶然だとばかり思い込んでいたが、実は必然だった?
イケメンと必然な花子は、一生死ぬまで恐怖のイケメンから逃れられない運命ってこと? そういうこと?
だったら偶然の方がまだマシだよね?
必然より絶対偶然だよね?
しばし偶然と必然を交互に苦悩し現実から目を反らしていた花子だったが、ようやく観念しイケメンと対面を試みることにした。
「は、初めまして…………鈴木です」
伏せた顔をとりあえず戻し、弱々しく挨拶した。
「初めまして、よろしく」
…………………………。
なんと!
幸いにも花子の事をまるで覚えていないらしい。
花子の顔を見ても反応する様子がない男性から初対面の挨拶もされ、花子は内心ひどく安堵した。
大袈裟にも必然と思い込んでしまったが、本当にただの偶然だったようだ。
しかも相手は完全に花子を忘れてる。
どうせアパートの隣同士など所詮赤の他人、顔を合わせる機会も滅多にない。
そうだ! この際近いうちこっそり引っ越してしまえばいいじゃないか。
もともと母と2人で暮らしてたこの家は、花子1人には広すぎる。
今日ばかりはイケメンが良いきっかけとなった。
「ああ! やっぱりもう遅かった。お兄ちゃん!」
なんともタイミング悪く、たった今栞とハジメが花子のアパートに現れた。
花子と男性に向かって勢いよく突進してきた栞は、まるで花子を庇うように男性の前に立ち塞がった。
し、しおり…………花子お姉ちゃんから一生のお願い。余計なことは絶対言わないで。
「お兄ちゃん! 花子お姉ちゃんに一体何の用!?」
花子の切実な願いも虚しく、栞は今絶対タブーな花子の名を声高らかに堂々と叫び上げた。
「花子?…………ああ、花子さんだったのか」
栞の背後にこっそりビクビク隠れている花子をわざわざのぞき込んだ男性は、納得したように呟いた。
「久しぶり花子さん、偶然だね」
妹栞のお蔭ででとうとう花子に気付いてしまった神兄は、超絶麗しいお顔に壮絶美しい微笑を浮かべ偶然の再会を喜んだ。
花子のイケメンこっそり逃亡お引越し計画もすっかり水の泡だ…………
「お兄ちゃん! なに白々しくとぼけちゃってんの? 最初っから花子お姉ちゃんのこと気付いてたくせに!」
今日ようやく兄の呪縛から解き放たれたはずの栞だが、どうやら完全とはいかなかったらしい。
実兄をひどく疑い、大声で罵った。
「もうお母さんから確認済みなんだからね! 今日突然花子お姉ちゃん家の隣に引っ越してくるなんて、絶対おかしすぎる! やっぱりこの前帰ってきた時、朝帰ったフリして夜こっそり変装した私達の後つけてたんでしょ!」
「ちょっと栞さん、完全疑いすぎだよ…………あ! 神先輩お久しぶりです! まさか今日こうして再び先輩にお会いできるなんて、俺最高幸せ者です!」
後から近づいてきたハジメは慌てて栞を止めると、久しぶりに再会した先輩に大声で感激を伝えた。
「ハジメか…………久しぶりだな。栞と付き合ってるんだって?」
「まあ……はい」
「見ての通りこいつは昔からひどく疑り深い奴だけど、俺にとってはいつだって可愛い大切な妹だ。これからも末永くよろしく頼むな」
「任せてください先輩!」
妹を思う神兄の深い言葉に、ハジメは感動のあまり声高らかに栞を引き受けた。
あれだけ実妹から罵られたにもかかわらず神兄はやはり神、その名に違わず心の大きく愛情深い素晴らしいお方だ。
「ちょっとハジメちゃん! なにお兄ちゃんに洗脳されちゃってんの? どう見たって妹思いのフリした詐欺演技に決まってるじゃない!」
「栞さん、いい加減にしなよ。こんなにも栞さんを思ってくれるお兄さんに対して失礼すぎるよ」
「いいんだハジメ、俺は慣れてるから。それより飯はこれからか? よかったら皆でどうだ?」
「もちろんです先輩! 今日はこれから花子姉ちゃん家で焼肉の予定なんで、先輩もぜひ一緒にどうぞ」
え…………!? た、確かに神兄は神のように素晴らしい。
そんな素晴らしい神兄様を安肉ジュージューに誘うなんてあまりに失礼すぎやしないか、ハジメ。
「ハジメちゃん、お兄ちゃんは高級ブランド肉しか食べないよ。そうだよね? お兄ちゃん」
とうとう妹栞が反撃に出た! 神兄の弱点はやはり安肉だったようだ。
「出されたものは何でも食す。高校時代寮での基本だ、問題ない。花子さんご馳走になるよ」
失敗! 妹栞の嫌味反撃を神兄が華麗にかわした。
すでに安肉食べる気満々らしい神兄は花子の許可も聞かず、さっさと花子の家に入ってしまった。
…………結局どうしてこうなる。
「へぇ…………ここが花子さんの部屋か。けっこう広いね」
4人で焼肉ジュージュー囲みながら、神兄は改めて花子の部屋を振り返った。
「ちょっとお兄ちゃん、同じ間取りの隣にちゃっかり越してきたくせに、何マジマジ花子お姉ちゃんの部屋見つめてんのよ。いやらしい」
「花子さん、こんなに広い部屋に1人きりじゃ心細いよね? これからは隣同士だし、いつでも俺が遊びに来れるから安心して」
妹栞を完全スルーした神兄はおそらく一人暮らし女性の花子を案じてくれたのだろう、安心させるように微笑みかけた。
やはり神は紳士…………紳士な神兄はモンスター美少年時代から何1つ変わっていない。
せっかく神紳士が安心するよう気遣ってくれたのに、花子は素直に喜べず不安ばかりを募らせた。
無理やり安肉を頬張り不安を誤魔化していると、ふと脳裏に疑問が過った。
それにしてもなぜ神兄は高級豪邸のご実家ではなく、突然このボロアパートに…………
「それにしても先輩、なんでご実家ではなくこのアパートに? A町だったらそんなに離れてませんよね?」
やはり血は繋がらなくとも仲良し姉弟花子とハジメ、互いの思いはいつも一緒だ。
「いつまでも親の家で甘えるわけにもいかないしな。偶然ここは会社からも近いし通勤も楽だから、偶然ここが空いていて助かったよ」
偶然を2度繰り返した神兄…………やはり必然ではなく完全な偶然だったようだ。
イケメン必然疑惑がスッキリ晴れ、花子もようやくこれで一安心だ。
「……偶然? よく言うよ。確か昨日まで隣には別な住人が住んでたはずだけど。お兄ちゃん、一体どんな汚い手使ってここに入り込んだわけ?」
そ、そうだった!
確かに昨日まで隣は佐藤さんだったはずだ。今日いつのまにか突然天野さんに変わってる!
「栞さん、もうこれ以上お兄さんを疑うのはやめなよ。神先輩がそんな姑息で卑怯な真似するわけないじゃん」
「いいんだハジメ、こんなにも偶然が重なったんだ。元から疑り深い性格の妹が疑うのもしょうがない」
大変妹思いの神兄はどんなに己が卑怯者扱いされても、決して妹を咎めない。
いつだって許す心を持ち合わせている慈悲深いお方だ。
神兄の謙遜な姿に、一瞬でも神兄の不正を疑ってしまった花子はすぐさま反省し己を恥じた。
「言っとくけど、花子お姉ちゃんにはいつも私とハジメちゃんがいるんだから一切心配しなくても大丈夫だよ。お兄ちゃんはこれから忙しくなるんだしお父さんも期待してるんだから、仕事だけに集中した方がいいんじゃない?」
妹栞が負けじと反撃に出た! 神兄を気遣い花子お姉ちゃん引き離し作戦だ。
「……ハジメ、お前達はしょっちゅうここに来てるのか?」
突然神兄は超絶美顔の眉間に皺をよせ、ハジメに尋ねた。
「はい、しょっちゅう来てます。花子姉ちゃんのことも心配だし」
義姉花子を深く思う優しいハジメの言葉に、神兄は複雑そうに息を吐いた。
「お前のお義姉さんを思う気持ちは痛いほどわかるが、栞の兄としては複雑だな…………それじゃあデートもまともにできないだろう?」
「……あ」
ハジメは妹を深く思う神兄の心境を悟ったのか、ようやく気が付いたようだ。
「栞さん、ごめん…………そういえば今までまともにデートもしたことなかったよね。俺、恋人として失格だ」
「……はぁ?」
「安心しろハジメ、お義姉さんの隣にはいつも必ず俺がいる。今まで妹に我慢させた分、これからは存分に外で楽しませてやってくれ」
「はい先輩! 花子姉ちゃんをよろしくお願いします!」
「ちょ! ちょっとハジメちゃ」
「栞さん、明日から毎日外でいっぱいデートしようね! 俺これからは栞さんだけのためにいっぱい頑張って楽しませるからさ」
「ハ、ハジメちゃ……」
これから栞を幸せにしようとものすごく張りきる健気なハジメの姿に、栞はそれ以上何も言えず、とうとう兄への反撃威力を失くしてしまった………………沈
ハジメの代わりを申し立ててくれた神兄がいつも隣の部屋にいてくれる事になったのに、なぜかまったく安心できない花子だが、ハジメと栞がこれでようやく恋人として一緒にいられることになった。
お邪魔虫だった花子も少し寂しいが、これでようやく一安心だ。
突然恐怖のイケメンが隣に越してきた事実はやはり恐怖に違いないが、相手は紳士で人徳のある神兄だ。
今までなぜかひどく怖れていたが、それほど気にする必要もないかもしれない。
偶然隣同士になったとはいえ、なるべく顔を合わせず関わらなければそれで済む。
気持ちを割り切りようやく隣のイケメンを受け入れた花子は食欲も湧き、再び安肉を頬張った。