りか
「先日は素敵でしたよ? 計算が出来ることよりも大切なことだと思います。墾田永年私財法さんだって喜んでいるのではないでしょうか」
かあさんは褒めているつもりだった。
確かに彼女は狙って嫌味を言うことも多い。
しかしこの言葉は本当に褒めているつもりだったのだ。
「そうですか? ありがとうございます」
パイにだってそれくらいわかる。
だから彼もお礼を言ったのだ。
自分が得意で大好きな計算をバカにされて怒っているくせに。
計算しか取り得のなかった過去の自分を否定されて傷付いているくせに。
それを伝えられるほどパイは強いハートを持っていなかった。
ありがとう。
その言葉を返すしかなかったのだ。
そんなことでは変わらない。
無意識の攻撃は続く。それもわかっている筈なのに。
惨劇を止めたい。そう願っている筈なのに。
「う、うん。ちょっとだけ、カッコいいとかも思っちゃったよ。ちょっとだけどね!」
そのとき墾田ちゃんがそう言って笑った。
それによってパイがどれだけ励まされたことか。
墾田ちゃんのおかげで、傷付いた心も少しは癒されたことだろう。
「どうして他人を避けるの?」
パイと墾田ちゃんでツンデレ言い合いを繰り広げていた。
そこから少し離れた場所で、再び色彩は疑問を持っていた。
そしてそれを問い掛けていた。相手を傷付けていることすら気にせずに。
「何を仰っているのでしょうか。さっぱりわかりません」
笑顔でかあさんは色彩を睨み付ける。
予想外であった。
好意的な印象を得られていると思っていた。
さすがのかあさんも、バレるだなんて……思っていなかった。
「どうして他人を避けるの?」
答えが帰って来なかったので、色彩はもう一度問い掛けた。
「避けてなどおりませんよ? むしろ避けているのはどちらかと言えば貴方の方なのではないかと思いますが」
それでもかあさんは折れなかった。
色彩に言い返したのだ。
そんな無駄なことをしてしまった。賢いかあさんの、取り乱したが故のミス。
「ううん、わたしは避けていない。近付きたいと思っている。わたしから拒むつもりはない、人であれば。そちらは人を避けている。だから私は不思議。知りたいの、教えて」
悪気などなかった。
知りたいから、教えて欲しいから問い掛けている。
ただそれだけなのだ。
彼女は基本的にミスターくらいにしか気を遣わない。
それがイレギュラーな事態なのだ。
天才として崇められ続けていた。
自分に絶対的な自信を持ち、凡人の気持ちなど考えようともしない。
だから誰も寄り好かないのだ。
別に彼女自身が避けているという訳ではない。
「止めて下さい。私はそんなの、……私はその質問の答えを知りません。別の方に問い掛けて下さい。答えを知っている方がこの中にいるかもしれませんよ」
この言葉は本当であった。
かあさんだって、その質問の答えを持ってなどいない。
「どうして他人を避けるの? と、わたしはきみに聞いている」
色彩に恐怖を覚え、かあさんはやってはいけない行為に出てしまった。
取り乱していたからと言って、絶対にやってはいけない行為。
やってはいけないと、彼女が一番理解している筈なのに。
「いやっ! 消えて下さい」
懐からビンと薬さじを取り出す。
そしてかあさんは手持ちの水酸化ナトリウムを放ったのだ。
驚きながら色彩はそれを避ける。
「危ないでしょ? 危険さはわかっている筈。何をしているのさ」
かあさんの声でそちらを向く。そして瞬時にビンの文字を確認し、パイは怒った。
「ごめんなさい。私、なんてこと……。護身用の薬品を、女の子に……」
さすがに微笑むことは出来ない。
自分の担当教科すら、過酸化水素水は完璧でいられなかった……。