笑顔
「几凪教授ー!」
そう呼ばれて振り返ったその男は、もの優しげな笑顔で応える。
「おや、津々木さんじゃないですか」
「今日の講義も面白かったですっ」
青い短髪の少女が蒼いマフラーに首を埋めながらにこにこと楽しそうに喋る。几凪は少しずれた眼鏡を手で押し上げる。
「今日の内容は少々ややこしくて不得意とする子が多いんですけどね……津々木さんみたいな子は珍しい」
「えええ、そうですか? でも楽しかったのは事実なので! 次の講義も楽しみにしてますよ!」
「そこまで言われると講義のしがいがありますよ。その調子で就活も……」
几凪の暖かそうなコートのポケットから、なんともプログレッシブな音楽が流れてきた。
「おや、ごめんね。電話とは珍しい」
几凪はメロディーの鳴り続けているスマホを出し、発信者の名前をチラリと見る。にこやかだった目に少しだけ暗い影が落ちたが、津々木はそれに気付かない。
「ああ、お久しぶり。はい? 突然どうしたんです? え? はぁ……」
応対しながら、几凪は津々木に申し訳なさそうに片手で顔の前で手を合わせるようにした。
「あ、じゃあ私はこれで! 次の講義もよろしくお願いしますっ」
津々木はそう言ってぺこりと頭を下げると、几凪は手を振って応えた。
「で、なんなんですかね」
『俺はお前の秘密を知ってるっつってんだ』
スマホの画面の向こう側、威圧しようとすごむ声がした。
『やろうと思えばお前の人生めちゃくちゃにできるんだぞ? 大学教授のフリをしたキチガイめ』
「……へぇ」
大学から家への帰路を歩きながら、几凪は少しにやりとする。
『今までお前がさらった奴らの事も知ってる。それが知られたらお前は終わりだ。それが嫌なら』
「お金が欲しいんでしょう?」
几凪は男の声を遮る。
「最初からそう言えばいいのに。今まで何百万あげましたっけ? それで自分が下の立場になるのが嫌だったんですか? その金で私をゆするネタでも考えてたんですか?」
『黙れ。バラされたくなけれ』
「次何か言ったら殺しましょうか」
横断歩道を横切りながら几凪は続ける。
「あなたの事を鵜呑みにする人間なんてどこにもいませんよ。無名のライターが垂れ流す根拠のない噂を、誰が信じるでしょうね。もう二度と、私と連絡できないようにしてもいいんですけど」
『…………』
やっぱり、根も葉もない噂か。几凪は思った。
「別に、お金をあげないなんて言ってないですからね。欲しいんでしょう? また連絡しますよ」
几凪はスマホを切り、たどり着いた駅の中へ入っていった。
「ただいま」
しん、と静まり返った家、几凪は一人で呟く。靴を脱ぎ、手を洗う。そしていつものように着替える。汚れなき真っ白な衣に。
廊下の一番奥のドアノブを握る。数秒置いて、ごくごく小さな機械音と共にロックが外れる音がした。開け、地下2階分はありそうな階段を下りる。無機質な金属の扉を1枚、2枚、開けて着いたのは、研究室。
結構な広さのその部屋には、いくつかの大きな、人間すら普通に入ってしまいそうなガラス管と、後は素人が見ても良く分からないような小瓶や器具が壁沿いの棚に並べられていた。几凪はまず1番端のガラス管を見た。半分ほど、銀色の液体が入っている。
「大人しくここにいるなんて、珍しいね」
ずる、と。
その液体が、動画を逆再生しているかのようにガラス管の内側を伝って、登っていく。上部の蓋を押し上げて、だばだばとそれはこぼれ落ちた。几凪はそれを気にも留めずに部屋の壁にかけられた鏡に向かう。
「珍しい?」
声がした。几凪のそれとは違う声。
背後、銀色の液体が、形をなしていく。音もなく、鎌首をもたげたヘビのように伸び、その先端がぐばりと開いたかと思うと、中には尖る牙のような突起がいくつもあった。そしてその口は几凪の背後へとにじり寄り。
「お腹すいてるのかい?」
几凪は眼鏡を外しながら、鏡越しにその大口に話しかける。
「当たり前だろォ? サキが最近サボるからさァ」
銀色の大口が再びどろりと崩れ、今度は人の上半身の輪郭を作っていく。
「たまには普通のご飯食べたらいいのに」
「くふふ……あんなの喰えるか」
銀髪の少年の姿に変わったそれ――藁之谷は隈の浮かべた三白眼で鏡の几凪を覗き込むような上目遣いで見る。下半身はどろどろの液体のまま、その境目からは猫の尻尾が伸びていた。
「サキは今日も大学で偉い人ぶってきたのかい?」
そう言いながら几凪の肩に手を乗せた。
「仕事だよ。……ああ、コンタクト外すから邪魔は止めてくれ」
言うと、藁之谷の肩から先が形を失いびちゃっと床に落ち、彼の溶けた下半身と一体化した。
「仕事ねェ……よく嫌いなヤツとも仲良くできるなァサキは」
「仲良くはないさ。人間はたくさんいて損はないし」
几凪は目に付けていた黒いカラーコンタクトを外した。その下から見える、縦に長い瞳孔。
「ああ、そうだキョウスケ。お腹すいてたんだよね……そういえばあるよ、餌」
藁之谷はその言葉を聞き、嬉しそうに尻尾を振った。
「ひひ……どんな餌なんだよォ」
「そりゃもう新鮮な餌さ。"今から呼ぶよ"」
几凪はスマホを取り出し、一番新しい着信履歴の番号を呼び出す。
「けど、1つだけお願いだ」
そう言って几凪は、スマホを耳に当てながら続ける。
「2人で半分こしよう」
振り返り、藁之谷に向かって見せたもの優しげな笑顔には、狂気が宿っていた。
「私も、お腹がすいてきたから」