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恋愛小説のはずでした

婚約破棄で王都の結界が壊れたので、ドラゴンと契約しました

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/07/15

 

「エレオノーラ・アルヴェイン。君との婚約を、本日をもって破棄する!」


 王太子フェルディナンド殿下の声が、王宮の大広間に響き渡った。


 今夜は建国記念祝賀会。


 国王陛下をはじめ、宰相、重臣、国内の有力貴族までが集まる中、殿下は私を指差していた。


 その隣には、桃色のドレスをまとったミレイユ男爵令嬢が寄り添っている。


「君は王太子妃の座を笠に着て、ミレイユへ度重なる嫌がらせを行った。そんな悪辣な女を、未来の妃にするわけにはいかない!」


 広間にざわめきが広がった。


 私は手にしていたグラスを、近くの給仕へ返した。


「承知いたしました」


 殿下が目を瞬いた。


「……何?」


「婚約破棄を承ります。王家より賜った品々は、明朝までに目録を添えて返却いたします」


「待て。君は自分の立場が分かっているのか?」


「王太子殿下の婚約者ではなくなったところですわね」


「そういうことではない!」


 殿下は声を荒らげた。


 どうやら私は泣き崩れ、無実を訴え、殿下の心変わりを嘆くべきだったらしい。


 けれど、ここ数か月の殿下の振る舞いを思えば、婚約を続けたい理由など一つもなかった。


 胸の奥に残っていた最後の何かも、殿下の言葉で静かに冷えた。


 私は左手の指輪を外した。


 王家とアルヴェイン家、二つの紋章が刻まれた婚約の証。


 それを卓上へ置いた瞬間。


 高い窓の向こうで、夜空が青白く瞬いた。


 王都を覆っていた光の膜に、一本の亀裂が走る。


 続いて二本、三本。


 薄青い結界は音もなく砕け、無数の光片となって夜空へ散った。


 広間から声が消えた。


 王都結界が、消滅した。


「何が起きた!」


 国王陛下が立ち上がる。


 神官たちが窓辺へ駆け寄り、術式を展開した。しかし、結界が戻る気配はない。


 私は卓上の指輪を見下ろした。


 内側に刻まれていた術式は、すでに光を失っている。


「婚約が解消されたためです」


 私の声に、皆の視線が集まった。


 国王陛下が眉を寄せる。


「どういう意味だ」


「王都結界は、アルヴェイン家の直系と王家との婚姻契約を基礎としております。婚約が破棄された以上、結界も失効いたしました」


「そんな話は聞いていないぞ!」


 フェルディナンド殿下が叫んだ。


 老宰相が深いため息を吐く。


「王太子教育の初年度にご説明いたしました」


「記憶にない!」


「殿下が、古い契約の講義など不要だと打ち切られたのです」


 殿下は口を閉ざした。


 国王陛下はこめかみを押さえた。


「エレオノーラ嬢。結界を戻せるか」


「婚約を結び直せば、恐らくは」


「ならば――」


「お断りいたします」


 即答すると、フェルディナンド殿下が顔を赤くした。


「国の危機だぞ!」


「その危機をお招きになったのは殿下です」


「貴族ならば国を守る義務がある!」


「王太子殿下にも、王都の結界を破壊しない義務はあったと思いますけれど」


 そのとき、王都中に警鐘が鳴り響いた。


 一度。


 二度。


 三度。


 外敵の襲来を告げる鐘である。


 直後、夜空を震わせる咆哮が轟いた。


 窓ガラスが鳴り、燭台の炎が大きく揺れる。


 巨大な影が月を横切った。


 黒銀の鱗。


 城門ほどもある翼。


 燃える金色の双眸。


 三百年前まで王都を守っていた、守護竜オルディウス。


 それが王城の正面広場へ舞い降りた。


 石畳を伝った衝撃が、靴底から足の裏へ突き上げる。


 石畳が砕け、王宮全体が揺れる。


 広間から悲鳴が上がった。


『人の王よ』


 腹の底へ響く声が、王宮を満たした。


『王都を閉ざしていた結界は失われた。ならば、古き守護契約を再開しよう』


 国王陛下と重臣たちは、急いで広場へ出た。


 私も関係者として同行する。


 オルディウスは広場の中央で翼を畳み、悠然と王を見下ろしていた。


 近くで見ると、王城より大きい。


『三百年前と同じく、我が王都の空を守る。魔物、飛竜、外敵の侵入を退けよう』


 国王陛下の顔に、わずかな安堵が浮かぶ。


「その報酬は」


『毎年、牛千頭、羊三千頭、麦五千袋、金貨三万枚』


 重臣たちが息を呑んだ。


 王はすぐに首を振った。


「無理だ」


 あまりにも早い返答だった。


『払えぬか』


「今の国庫から毎年それだけを出せば、軍備も治水も立ち行かなくなる。その条件では契約できん」


 オルディウスは怒りもしなかった。


『そうか』


 金色の瞳を一度細める。


『ならば、我と王家との話は終わりだ』


 実に淡泊だった。


 王都を襲うとも、焼き払うとも言わない。


 契約が成立しなかった。ただ、それだけらしい。


 オルディウスは翼を広げかけた。


 私は一歩前へ出る。


「お待ちくださいませ」


 金色の瞳が私へ向いた。


『何用だ、守りの娘』


「先ほどの条件で、私がお雇いしますわ」


 広場が静まり返った。


 国王陛下が、ゆっくり私を見る。


「エレオノーラ嬢?」


「牛千頭、羊三千頭、麦五千袋、金貨三万枚。すべて契約どおりにご用意いたします」


 オルディウスは私を見下ろした。


『値切らぬのか』


「提示された報酬に納得したから、契約を申し出ております。値切る理由がございませんわ」


『人間は皆、まず高いと言う』


 オルディウスの視線が、国王陛下へわずかに動いた。


 王は気まずそうに口を閉ざす。


「私は払いきれると判断いたしました」


『何を守らせる』


「王都にあるアルヴェイン家の屋敷を。結界もなくなったことですし、防衛をお願いしたく存じます」


『王都全体を守る報酬と同額で、一つの館を守れと申すか』


「はい」


『仕事は少なく、報酬は同じか』


「契約内容にご不満がございましたら、改めますけれど」


 オルディウスは喉の奥で低く笑った。


 雷鳴のような音が広場を震わせる。


『いや。三百年ぶりだ。提示した条件を、そのまま受け入れる者は』


 巨大な爪が、私の前へ差し出された。


『よかろう。契約成立だ。以後、我が雇用主は汝である』


『条件はすべて記録する。互いに違えぬ限り、契約は続く』


 私は爪の先へ手を触れた。


 赤金色の光が広がり、契約の印が私の手首に浮かぶ。


 国王陛下が我に返った。


「待ってくれ」


 オルディウスは王を見下ろした。


「では、王都はどうなる」


『知らぬ』


 あっさりとした返答だった。


『王家は我との契約を断った。今の雇用主はこの娘だ。守護の範囲を広げたいのなら、そちらで話をつけよ』


 王と重臣たちの視線が、一斉に私へ移った。


 私は少しだけ考えるふりをした。


「ご安心くださいませ。王都は防衛させますわ」


 王が息を吐く。


「王城以外」


 王の顔が固まった。


 周囲の重臣たちも凍りつく。


 オルディウスだけが、楽しそうに目を細めた。


「エレオノーラ嬢」


「冗談ですわ」


 王は胸を押さえた。


「王城を含め、王都全体を守護対象へ加えることは可能です。ただし、これは王家とオルディウス様との契約ではございません」


「分かっている」


「王家からアルヴェイン家への、王都防衛の委託となります」


 国王陛下は少しだけ黙った。


 先ほど、自ら高すぎると断った額である。


 今度は同じ金額を支払っても、契約の主導権は王家へ戻らない。


 けれど、選択肢はなかった。


「条件を聞こう」


「オルディウス様への報酬と同額を、防衛費として当家へお預けくださいませ」


「同額だと?」


「本来は私が全額負担するつもりでした。陛下が防衛費をご用意くださるのでしたら、ありがたく充てさせていただきます」


 王は言葉に詰まった。


 私は続ける。


「その代わり、王都全域を守護対象へ加えます。魔物、飛竜、外敵への対処も、オルディウス様へお願いいたしましょう」


「……分かった」


 王は苦い顔で頷いた。


「王家が支払う」


 その返答を聞き、私はオルディウスを見上げた。


「守護対象へ、王都全域を追加してくださいませ」


『王城もか』


「もちろんですわ」


 私は一度、フェルディナンド殿下を見た。


「今後の処分が、適切に行われるのでしたら」


 王が近衛騎士へ命じた。


「フェルディナンドを拘束せよ」


「父上!」


「お前は婚約を破棄したのではない。王都の防衛を、何も知らぬまま捨てたのだ」


「ですが、私はミレイユを愛して――」


「北塔へ連れていけ」


 殿下は両腕を取られた。


「エレオノーラ! 君はそれでいいのか! ドラゴンなどに金を払うより、私と婚約を結び直せば――」


 私は笑顔で会釈した。


「どうぞ、ミレイユ様とお幸せに」


 殿下の叫び声は、北塔の方角へ遠ざかっていった。


 オルディウスは王城の尖塔へ飛び上がると、そこへ身体を丸めた。


 巨大な翼が夜空を覆う。


 それまで王都を守っていた薄青い結界は、もうどこにもない。


 代わりに、守護竜オルディウスが金色の瞳で夜の彼方を見張っていた。


 翌朝。


 王都は何事もなかったように目を覚ました。


 市場には野菜が並び、パン屋から香ばしい匂いが漂い、子どもたちは王城の屋根にいるオルディウスを見上げて歓声を上げている。


 私は自邸の庭から、その姿を眺めた。


 オルディウスは朝食の牛を一頭平らげると、満足そうに欠伸をした。


 結界を維持する方が、王国にとってはずっと安く済んだのだろう。


 けれど。


 あの夜の殿下の醜態を見てしまった以上、こちらからお断りだった。


 少しくらい高くついても。


 婚約者より、雇用相手の方が選びやすい。


 少なくとも守護竜オルディウスは、契約書を読むのだから。


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