向日葵、愛犬、彼女(絵の具/犬/向日葵)
私は画家。名もなき画家だ。それでも、固定のファン、金持ちのパトロンがいて食うには困っていない。それまでには色々と苦労もあったが、そんな事を言っても、今日の飯にも絵にも繋がるものではないから、省略しておこう。
今、私は、真っ青な海と空を前に、キャンバスに絵の具を広げている。パトロンが「海の絵が欲しい」というので、打ち合わせの結果、王道な昼の空、青い海を描いているところだ。
私は注文通りの絵を描く事が嫌いでないので、この仕事はこの仕事でとても楽しんでいる。が、今は夏。直射日光の激しい中、海水浴客から目をそむけ、ひたすら絵仕事にかかるというのは、なかなかの重労働である。好きでやっている事ではあるのだが……。
しかも、貧乏時代、肉と骨とパンを分け合った相棒の犬のジョンまで、どこかに散歩に行ってしまった。いや、この直射日光の中、忠実な犬でいられて体調を崩されても困る。大方、この仕事にかかるうちになじみになってしまった、屋台のおばさんのところにでも行って、肉でもわけてもらっているのだろう。この間もそうだった。
しかし昼の海と空、それ以外は自由というパトロンの寛大な注文はありがたいのだが、シンプルな海と空というのも、なかなか描くのが難しいのである。食うに困って、絵画教室の真似事をした時も、生徒が地味に困っていた部分でもあり、教えるのも難しい部分でもある。
無論、私も全くの素人ではないから、ちょっとしたコツを教えたり、それらしく描く方法を、そのまま教える事は出来る。だが、絵というものは、趣味にしろプロにしろ、あまりに杓子定規では、描く方も見る方もつまらない。どこかのコンクールで賞を狙いたいとか、私のようにパトロンが喜ぶように描くとか、そういう小癪なコツは、中級者以上からでいいのだ。
だから、海を描けという課題でも、馬鹿正直に水面と空を描かなくていいと言ったのだったか。そうしたら、ヒトデを異様に細かく生徒とか、貝殻をいくつも並べたものを描いた生徒とか、面白い生徒がいっぱいいた。なお、金髪水着の美女のきわどい絵を描いて来た生徒は、「プライベートでやれ」と叱った。理不尽だと言われたが、私も保護者に叱られて月謝がもらえぬと困る。
などと想いを馳せているうちに、愛犬のジョンが戻ってきた。垂れ耳と、薄い茶色の毛並みがチャームポイントの大型犬である。幼児くらいなら、馬のように乗れるだろう。
「ジョン、それは……?」
ジョンがご機嫌にしっぽを振りながら咥えているのは、一本の向日葵。
「すみません、私がこの子にあげたんです」
ジョンを追いかけてやってきたのは、長い髪を後ろで纏め、エプロンをした年頃の女性であった。指先に軽いヤケドの痕があり、手には良い匂いのする包みがある。匂いから察するに、いつも屋台のおばさんに届けてもらっている、ポテトとチキンだろう。柔らかい空気と、働き者の手が屋台のおばさんに良く似ていた。今も仲が良いのだという旦那と出会った頃、おばさんもこんな顔をしていたのだろうと想像出来る。
「あなたは……?」
「ご贔屓にしてもらっているポテトとチキンの屋台の店の娘です。普段は他の仕事をしているのですが、忙しい時は手伝いに来てます」
「今、すぐ戻らないといけないほど忙しそうですか?」
「いえ、ちょうど、お昼のピークは過ぎたので、これを届けたらのんびりしておいでって言われたところです」
「なら、少しだけ、私の仕事に付き合ってもらえませんか?」
そんなわけで、今回の絵には、向日葵を咥えた愛犬と、彼女が添えられ、最終的にメインになってしまい、パトロンから流石に苦笑いされた事は一応記しておこう。
もっと後、彼女が、恋人という意味での彼女になったとか、愛犬のジョンの背中に、彼女との間に出来た赤子が乗ったとか、そういう余談は、機会があれば詳細を語るかもしれないが。今回の絵仕事には関係のない話だから、省略しておく。




