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蔦揺籃のみた夢  作者: 佐原万葉
第二章 T町・小林不動産
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「噂?」

 まだ奇妙なことがあるのかと古沢が顔を顰める。


「出るんですわ」

「は?」

 古沢と空木、同時に先を歩く小林の後頭部を再び見る。

「と云う、噂がありましてね」

「で、出る? 出るというと、つまり…その…?」

 夏の風物詩。嫌な予感に、すでにびくつく古沢。

「アレ、です」

 重々しく小林は頷いた。

「と云っても、あたしは実際に見たわけじゃないです。けど、近所じゃかなり評判になってまして。井上さんは、あの家で亡くなってますから、まあそこらへんも影響しているんでしょうねえ。人の話し声がする、ピアノの音がする、とか」

「井上さんが亡くなってから…?」

 古沢の質問に、小林が少しだけ振り返った。

「そりゃそうです。誰もいないはずなのに音がするから、皆怖がってるわけです」

「そうですよね…」

 小林の声に馬鹿にするような響きはまったくなかったが、当たり前のことを聞いてしまったと古沢は赤面して首を竦めた。


「で、アレじゃないかっちゅうわけです」

「ア…アレって…」

 聞きたくないくせに、聞かない方が良いと解っているくせに尋ねてしまうのは好奇心のなせる業か。

「幽霊です」

 小林は真面目な顔で肯定した。

「なんで先に言わなかったと怒らんでくださいよ。幽霊云々は別としても屋敷に入れんことは、実際に見てもらわんと信じてもらえんでしょうからね…」

「疑うでしょうね、確かに」

 幽霊という言葉だけで震え上がっている古沢とは対照的に、空木はのんびりと頷く。そよとも衝撃を受けている様子はない。不思議そうな面持ちになったのは一瞬で、あとはまったく動揺する素振りもない。

「ええ、ええ。ですからね、もう何も言わずに見てもらうことにしとるんですわ」

 小林は項垂れ、はあと溜息をついた。


「井上さんはピアノを弾いたんですか?」

 空木の問いに、おや、と云う顔を小林はした。

「…そういう話は聞いたこと、ないですねぇ。うーん、お身内の方にでも聞けば知ってるんでしょうけど。近所じゃ知ってる人、いないでしょうねえ。なにせ人付き合いのない人でしたから」

「ですが、生前弾いていたなら、やっぱりご近所には聴こえたでしょう?」

 空木の問いに、小林は首を捻る。

「どうでしょうねえ。あそこは壁も厚くてしっかりした造りだから、窓を閉めきってたら聴こえないかもしれません……なんともいえませんねぇ。とりあえずは、そんな話は聞いた事ないです。だいたいピアノを弾くどころか、家にピアノがあったのもそれで始めて知ったくらいですから」


「ええ!? じゃあ誰が」

 古沢が見当違いなうえに素っ頓狂な声をあげた。彼はこの手の話が大嫌いだった。恋人に――元恋人に苦笑されたこともあったほどに。

「そこの家の住人が亡くなって無人になったのなら、その住人が弾いている、というのがセオリーですが…。井上さんが弾けない――弾けなかった、とするなら。死後いきなり弾けるようになるというのも妙なので、古沢さんの云う通り、そこは重要な問題点ですね」

 褒められているらしいが、古沢はちっとも嬉しくなかった。

「問題…そういうことは考えませんでしたなぁ」

 小林は妙な感心をした。


「あたしは、あの女の人が戻って曳いてるんじゃないかと思ってたんですわ、最初」

「女の人?」

 古沢と空木の異口同音の問いに。小林は「名前は知りません」と応えた。

「井上さんね、一緒に暮らしてた女の人がいたみたいなんですよ。人付き合いが苦手っていうより、どこか人嫌いなとこのある人でねえ、身内すらほとんど近づけさせなかったって話です。町の中じゃ、あの屋敷の門をくぐるのは新聞配達となぁんにも知らない訪問販売の人間ぐらいだ、なんて言われてるくらいで」

「ずいぶん難しい方、だったんですか?」

 遠慮がちな古沢の問いに、「偏屈でした」と小林はあっさり頷く。

「顔からして怖い人でしたね。それ見て、子供が泣くというほどのもんじゃありませんでしたけど、近いものはありましたかねぇ」

 古沢は本当だろうか、と驚きつつ空木に視線を滑らす。空木は返答に困るような表情を見せたが、否定はしなかった。

「ですけど別段、近所の人とトラブルを起こすってこともなかったし、屋敷にいるんだかいないんだか…ってな具合で静かなもんでした。まあ、そんなんだったから、その女の人の話を聞いたときはびっくりしたもんです。まだ若い奇麗な人だって話なんですけどね、消えちゃった」

 霧か霞か…と小林は右手のの掌をぱっと上に開いた。

「最期まで一緒にいた女でしょう。皆さん、あちこち探したようなんですけどねえ」

「皆さん?」

 古沢の声に、小林は「ああ」と頷いた。

「はい。お身内の方と会社の人ですね。井上さんはけっこう有名な会社の社長さんを長いことやってましてね。退職?――ええと退任か、退任した後も会長さんとして長いこと経営に参加してたらしいですよ。なんで、葬儀も社葬だったくらいで」

 

 古沢は社名を聞いて、軽くのけぞった。恐らく、誰もが一度は聞いたことのあるだろう社名だった。


「反対にお身内の方は、そう熱心でもなかったようですけどね」

 いなくなったってことは、何かやましいことがあるんだろう――そう放言する者もいたという。

 小林は人差し指と親指で輪を作る。

「こっち絡みもあったみたいで。なんの要求もしてこないならいいやって感じで、うやむやっと。逆に会社の人は色々とね、探されたみたいなんですけどねえ。なんだかんだで人望はあったんでしょうね」


 古沢は思わず右手で左手を摩った。夏なのに寒気がした気がした。

「見つからなかったんですか?」

「ええ。でも、ほら人付き合いがまったくなかったから、だあれもよく知らないんですわ、その人のこと。それじゃあ探しようがありませんて」

「で、でも、その女の人がいたって知ってるってことは誰か見た人がいるわけですよね?」

「それも、いろいろと妙な話でして…」

 古沢の問いに、未だに腑に落ちないという顔で小林は首を傾げつつ唸る。


「井上さん、最期まで病院に入るのを嫌いましてね。屋敷にかかりつけの医者が通ってくるとはいえ、一人暮らしでお手伝いさん一人雇ってなかったんで、身の周りのこともあるし、いざってときまずいでしょう? で、医者は再三入院するよう言ったわけです。じゃなかったら、誰か呼ぶなり雇うなりしなさいって。当たり前ですけどね。そしたら井上さん、世話をしてくれる人ならいるって答えたそうです。医者はね、他の人なんて見たことないですから、当然、一緒に住んでるって言われても信じられなかったわけです。けど、ろくに動けないはずなのに、確かに身の周りは小奇麗だし、部屋もきちんと掃除されてっていうんですね」


 古沢はじっとりと額に汗が滲んでくるのを感じていた。


「医者の方も看病のアドバイスっていうんですかね、そういうのも含めて、その人と話がしたいと、いろいろ食い下がってみたそうですが、その話になると井上さん、ひどく不機嫌になって、あれは人前に出るのが苦手だからと頑として受け付けなかったそうです。医者の方もねえ、死期を早めたいのかって何度も怒鳴りつけたって言ってましたけどねえ。そしたら、そこに注意書きを置いて行けって」

 偏屈でしょう?――と小林は苦笑する

「まあ、そうなったらね、無理ですから、ひくしかないわけです」


 頑なな患者に医者も諦めるしかなく、注意点などを毎度、滔々と説教を垂れるがのごとく言い聞かせ、注意書きをしっかり置いていったという。


「結局、一度も会わなかったんですか?」

「いえ。一度、見たそうです。ひどく線の細い儚い感じの人だったとか。どういう人なのか、もっとちゃんとよく聞いていおけばよかったと随分悔やんでましたねえ」


 それは井上がいよいよ危ないとなったときだった。

 連絡を受け駆け付けた医者は、その時、初めて女を見たが、のんびりと話をする状況でもなかった。

 そして落ち着いたときには、もうどこにも姿がなかったという。


 小林が困った顔になる。

「でも、それだけでしてねえ。それこそ夜にですね、近所の人が窓に女性の姿らしきものが映ったのを見て、びっくりしたという話がありまして――正直、本当かなと思わないでもないんですけどねえ――まあそれで珍しいことがあるものだって感じで、あっという間に話が広がって、好奇心で覗きに行く人も結構でましてねえ。物好きでしょう?」

「物好きっていうか、悪趣味ですよ」という古沢の応えに、小林がどこか乾いた笑いを小さく漏らした。

「人影を見たって話も一度や二度じゃやないんですけど、あいにく顔を見たのは医者だけなんです」

 本気で怖がっている様子の古沢に、小林は苦笑した。

「いったいなにがなんだか…。今じゃあ医者は幻でも見たんじゃないかって云われる始末です。何かの見間違い、それこそ幽霊を見たんじゃないかって、随分と言われてかなり参ってますよ。…その女の人がいてくれたなら、この状況が少しは解ったんじゃないかっておもうんですけどねえ」 


 古沢はぞっと背筋が寒くなった。周りは夏で、うるさいくらいに蝉が鳴いているというのに、本当にすっと汗がひくのを感じた。

「き、奇妙な話ですね……」

「その女性が存在しているのは間違いないんじゃないでしょうか」

 空木の言葉に、古沢はぎょっとし、小林は目を瞠る。

「空木さんは、そう思われますか?」

 小林の言葉に空木は頷いた。

「ええ。身動きのとれない井上さんの身の周りのことなどを考えると、やはり誰かがいたと考えるのが通りがいいと思いますし」

「どこに消えたのか…なんで屋敷に入れないのか……」

 頭が割れそうですよ――と小林の疲労は濃い。


「頑張っていた他の相続人の方たちはどうなりましたか?」

 空木の問いに小林が小さく首を振る。

「屋敷の中に人影を見た、とか言い出す人が出ましてねえ」


 もともと火種はあったのだ。あとはちょっと酸素を吹き込めばよい。あっという間に燃え盛った。


「そうなれば、出てくる出てくる。そういえば、あの時。わたしも聞いた、見たわ、と云う具合でして。もともと意地の張り合いで戦線離脱できずにいたってのもあったんでしょう。一人落ちれば、あとは蜘蛛の子を散らすような感じでしたね」

「それで全員が諦めたのですか?」

「いえいえ。遺産欲しさか、度胸試しか知りませんがね、もちろん頑張る人もいました。思い出したように舞い戻って来る人もいましたし。あたしなんかは真っ先に逃げ出しますけどねえ」

 はあ…と小林は思い溜息を吐いた。


 真っ先に逃げ出す――とは小林の本音だ。冗談ではなく、知らぬ振りをしていたい。しかし、立場上それができないでいる。頭が痛いことこの上ない。


 それでも結局、皆、一晩もたなかったという。

 朝もやも晴れぬ時刻に、人語とは思えない叫びをあげながらの遁走劇に、町の住人達は叩き起こされ肝を潰した。始発電車を迎える準備をしていた哀れな駅員は襟首を掴まれ、訳の判らない叫びを浴びせられ、恐怖を味わい失神しかけたという。


 そんな経緯から、街の中で蔦屋敷はすでに鬼門の扱いとなっていた。


 しかし、管理を任されている小林不動産の社員たちは逃げ出すことも避けることもできない。

 本来ならば、一日に一度、窓を開け空気の入れ替えをするのが望ましいのだが、屋敷に入れない以上は仕方ない。が、ほっとしたのもつかの間、連日のように「あの化け物屋敷をなんとかしてくれ」と近隣住人からの苦情が舞い込むし、怖いもの見たさからか、無断で屋敷内に侵入しようとする者まで現れる。管理を請け負った以上、きちんと屋敷を見回らなければならない。どうしたって日に一度は見に行かねばならないだろう、と云うことになった。

 これが問題だった。

 皆が皆、譲り合って話にならないので、公平に日替わりに使用ということになった。その日のうちに、女性社員が二人、小林のもとへ辞表を持ってきた。もう笑い話にもならなかった。どうしようもないので、日々、小林が通っている。

 蔦屋敷のことを思うと、夜もおちおち眠ることができなくなる小林だった。


「後悔してますね?」

 硬い表情の古沢に、小林が弱り切ったように笑う。

「かなり……」

 古沢は辛うじて笑みらしきものを浮かべるが、口の端が時折引きつる。

「その手の話は苦手で……」

 聞かなきゃよかった、聞きたくなかったなあという思いは隠しようがない。

「鍵、きっと開かないんじゃないかなあ、今回も」

「ははは…」

 古沢の希望的発言に、小林は一層微苦笑気味の笑声を弱々しく漏らした。


「ああ、見えました、あれです」


 小林が立ち止まり、指さした先には見事な蔦を塀に絡ませた屋敷があった。

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