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第二章 T町・小林不動産
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目的地まではきっかり九分三十秒。大通りに面しており立地的には良いのだろうが、駅のすぐ傍とは言い難い場所にある。そのためか、中に客がいる様子はない。こっそりとは云えない状況で中の様子を伺い、派手な金文字で打ち付けられた『小林不動産』の看板を見上げ、一つ深呼吸をしてから、古沢はおもむろに扉を開けた。
「すみません」
返事はない。
「……すみません」
再度呼ぶと、がさごそと新聞を折り畳むような音が応えた。
「………………はい」
妙な間の後の応答。寝ていたのだ。「はい」が「ほい」に聞こえたのは、古沢の幻聴ではない。
商売する気があるのかないのか、顔にかぶさっていた新聞を机に放ってから、頭髪が少し寂しくなりつつある頭を撫でて、太鼓腹気味の男性がゆっくりと立ち上がった。隈のせいで目が落ち窪んで見える。
「ええと、お部屋をお探しですか」
赤くなった眼を瞬かせながら、なんだかはっきりしない口調で尋ねてくる。その気だるげな様子は、いささか古沢の方が心配になるほどだった。
「あの…いいえ」
「あ、うちの者と約束を? すみませんねえ、みんな昼飯に出ちゃってて。誰ですかね、近くにいると思うんで、すぐに呼びますよ」
大儀そうに出てきたわりには、親切だ。人が好さそうなところは、この町の住人の特徴だろうか――つい、古沢はそんなことを考えた。
「違うんです。ええと……その、先日ですね。井上さん――井上雪弘さんから手紙と鍵が届き」
「え!?」
不動産屋が文字通り飛び上がった。
この反応は一体……?
その反応に、古沢の方が目を丸くした。
「送られてきたんですか……?」
「送られてきました」
不動産屋は腕組みをして、天井を見上げて「うーん」と唸った。
「まあ、お掛けください」
思い出したように椅子を勧めてから、「ちょっと待ってくださいね」と言って奥に消えた。
壁には書類棚が並び、カウンター席が三つあるだけの、そう広くはない店である。
古沢は勧められたまま、カウンター席に腰を下ろした。
なかなか戻ってこないなと思っていたら、不動産屋は茶を乗せた盆を持って戻ってきた。
「どうぞ」
「どうも」
茶を置くと、不動産屋は古沢の向かいに腰かけ、名刺を差し出してきた。
「あ…す、すみません。今、名刺持ってなくて」
両手で名刺を受け取ってから、しどろもどろで返す古沢に、小林――ここの社長だという男は鷹揚に手を振った。
「いえいえ。お休みの日まで名刺を持つこともないでしょうから」
「…………」
小林は何度か息を吹きかけてから茶を飲み、顔をしかめた。熱かったのか、濃かったのか…。
「すみませんが、その手紙を見せていただけますか」
左胸のポケットから取り出した手紙はクシャクシャだった。何度も読み返したせいで、角は丸くなり擦り切れている。少々赤面して、慌てて皺を伸ばすが手遅れである。
「ああ、かまいません。別に字が読めなくなるわけじゃありませんからねぇ」
懐から眼鏡を取り出すと、小林は少し首を竦めるようにして上体を引いた。
「うーん…」
腹痛を起こしたような形相で呻く小林に、否が応でも不安が増した。
「あの…それ…嘘ではないです」
慌てるあまり、意味不明なことを口走る。しどろもどろで怪しいことこの上ないが、疑われていると思った古沢としても必死だった。
「いやいや、偽物だと疑っているわけじゃないんですよ」
「あ…あの…その井上さんって方は実在してるんですか?」
ちらりと小林が視線をあげた。
「す…すみません。実は僕、その井上さんて方を知らないんです。母方の親戚を知らないというか…その、母は亡くなってまして、話を聞く機会もなかったっていうか…。最初は悪戯だと思って放っておこうかと思ったんですが、どうしても気になってしまって…」
「実在はしてますよ。実在してた、というべきなんでしょうけど」
「え?」
「日付は三週間前。亡くなる直前のものですねぇ」
「ああ…本当に…。亡くなって、いる」
存在が確かだと分かった今、氏の亡くなった日も知らず、葬儀にも臨席しなかったことになる。古沢は冷や汗を拭う。
「ん? そらまあ、遺言っていうぐらいですからねぇ」
「あ、あの! そのご病気で…?」
小林は頷いた。
「ここ一年くらい体調を崩されていたみたいですね。それにしても、どうしてすぐ来なかったんです?」
「えっ。今日が約束の日なので…」
「おや…本当ですね。んん? 妙ですね、日時を指定してるのは、古沢さんだけです。妙です。あとは…確かに…確かに他のと同じですね。ええと、これでいくと古沢さんは井上さんの何に当たるんですかねぇ」
「…僕にもわからないんです」
そもそも身内、として遺産をもらえる距離にあるのかすら謎である。
「僕自身、母の身内といったら、亡くなった祖母くらいしか知らないんです。なので、確かめようがないというのが本当のところで。正直、悪戯だと思ってたくらいで」
古沢の言葉は尻すぼみで小さくなっていった。
じゃあ、どうして来る気になるのかと問われるのを警戒したが、小林はそれ以上言及してこなかった。もっと他に気にかかることがあるらしい。
「お母様もお祖母様も亡くなっておられる? ああ、それじゃあね、井上さんを知らないのも無理ないかもしれませんねえ。そもそも、あの人もあまり…というか、はっきり言って人付き合いをほとんどなさらない人でしたからねえ。ずいぶんと困ったでしょう。いきなりこんなの送り付けられちゃあね」
「ふうむ」と小林は呟いた。
「鍵もまったく同じ。困ったねえ…」
小林は顔をひと撫でしながら呟いた。
「あ、あの、僕は亡くなった井上さんって人に興味があっただけで…いえ、なんというか母の親類という人だから…その…」
すっかり頭を抱えている小林の様子に、すでに相続人は決まっているのだ、と思った。
「相続する人が決まっているのなら、僕はこのまま帰りますから……」
古沢は頬が紅色していくのを感じながら、言い募った。だが、いかんせん何を云っても言い訳になってしまう気がして、ますます赤面した。逃げ腰になって、とうとう腰を上げかけた古沢を、小林は右手で押し止めた。
「いえ、それは問題ないです。まだ、決まってないんですわ」
それきり口を閉ざし、しばらく言いにくそうにしていた。
「実はですね…」
小林の秘密めいた物言いに、思わず古沢が身を乗り出したとき、背後の扉が突然、開いた。