終章
終章
――ご不要の品
お引き取り致します。
以前は『品物に関するよろず相談事承ります』という看板だったが、「品物」を欠落させて読み取る人だけが、時々しか来なかったので、今のモノに替わった。だが、客入りにはまったく変化はない。
とにかく、そんな看板のかかった交叉堂に主が戻っていた。
こじんまりとした店である。引き戸の入り口の両端に飾られている商品も積極的に人様の購買意欲を煽る代物ではない。
やはり今日も今日とて、お世辞にも繁盛しているとは言い難かった。
今日は店内に店主のほかにもう一人いたが、当然客ではない。
「どうなることかと思いましたが……」
安堵の溜息をついたのは、白髪の方が多い小柄な男性。職業弁護士。彼の事務所を訪ねたなら『青木弁護士事務所』という看板が迎えてくれるだろう。
「井上さんの望む形に収まってくれた」
長いこと気に掛かっていたものを、やっと降ろすことができたと今は心穏やかな表情である。
「それにしても判らないのは……いったい、どうして、あの家に皆入ることが出来なかったのでしょうか」
「本当に……不思議なことがあるものですね」
初老の弁護士がしきりに首を傾げ、曖昧にも見える微笑を店主が浮かべる。
「自分の目で見たのではなければとてもとても……。なんら裏工作をした跡はなかったんですよ。小林さんも頭を捻りっぱなしでしたよ。あの人は、そんなことを何も言ってはいなかった」
あの人――とは井上雪弘のことだ。
「あの人は頑固で真面目一点張りだったくせに、時々思い切りのいいことを仕出かすんですよ。真面目な顔で、時たま冗談を言うもんだから、本当かどうなのか測りかねて、私なんぞは本当にすっかり騙されることがありましたよ。ぎょっとさせられた最たるものは今回の件でしたけど……。まったくねえ……いったい、どういうことなのやら……。あの人はどういう仕掛けをしていったんでしょうかねえ……」
井上雪弘の数少ない友人でもあった敏腕弁護士の口調に愚痴が滲む。亡き友への少しばかりの恨み節はしばらく続いた。
恨み節のなかにある友愛と一抹の寂しさ――空木は微笑を浮かべたまま耳を傾け、青木の愚痴に応えることはしなかった。
「今、蔦屋敷の方はどんな様子ですか?」
「なんら問題はありません。普通に、出入りできます。普通の家のようにね! もう少ししたら古沢さんが越してくる予定です」
それから、と青木は小さく笑った。
「ご近所では、あの屋敷に人が住むなんてと今から評判になっているそうですよ。とんでもない物好きの情報を得ようと、小林さんのところまで電話がかかってきたそうで」
とばっちりだと小林は嘆いていたが、丁寧に対応しているという。
どこまでも人のいい方ですねえと空木は笑う。
「古沢さんは、蔦屋敷以外すべて放棄したそうですね」
「ええ! あっさりとしたものでしたねえ。おそらく古沢さんにとっても良い選択だったと思いますよ」
「井上氏の親族の方々は、さぞ安堵したことでしょうね」
「ええ、まあ……」
青木は組み合わせた指に視線を落とし、頷く。
その時、店の扉が勢いよく開いた。
「こんちわー」
引き戸を開けて入ってきた新たな人物は、まさか店主以外の人間がいるとも考えていなかったのだろう。勢いよく扉を開け放つと声高に店主を呼ばわった。
「どこに行ってたんだ? 珍しく店が閉まってたけど」
閑古鳥を飼っているという専らの噂の店主だが、店を休むことは滅多にない。
「もう少し静かに入ってきてくださいよ。T町ですよ」
「純多の件だろ? いや、そのあとも二日も店が閉まってたからさ」
店主の応えにはお構いなしで、ずかずかと入ってきた白石棗は、知らない人物が店の奥に座っていることに気が付いて、一瞬驚いたように足を止めた。
「おお、珍しい」
友人の態度に、空木は小さく溜息を吐いた。何を言っても無駄だと、今更ながらに思い出す。空木は、青木に白石を紹介した。
青木が顔を輝かせて立ち上がる。
「あなたが白石さんですね! 一度、お目にかかりたいと思っていたんです」
初老の紳士から親し気に握手を求められて、白石が目を白黒させた。
「お…おい…?」
握手に応えつつ、店主へ助けを求める視線を向ける。
「その方は井上氏の顧問弁護士をされている青木さんです」
「ああ、純多の」
「あなたが、古沢さんに蔦屋敷に行くよう説得してくれたそうですね」
白石がびっくりした様子で、大急ぎで左手を振った。
「逆です、逆」
青木が戸惑った表情になる。
「純多がそう言いましたか?」
にやりと笑って青木へ問う。
「いえ、そうではありませんが…」
思い切り不審がっているであろう古沢を説得して、蔦屋敷へ足を向けさせる――簡単なようで難しいその役割を見事果たした人物だと青木は思っていた。
友人がどうやらいい仕事をしてくれたようです――そう空木から聞いていたから。
「行くなって止めちゃったんですよね。思いっきり」
思っていたのと違う言葉に、青木は空木を見る。
空木は間違いではないですと苦笑して、頷く。
全力で古沢を止めた白石だったが、己の言動にだんだんと不安が募り、このままにしておくのはまずいのではないかと友人である空木を頼り、駆け込み寺とばかりに交叉堂にやってきたのだ。
せめて朝刊よりは遅く来てください――とは、その時の空木の嘆きである。
井上雪弘は古沢のことを調べていた。
そのため古沢と白石が同じ中学の出身であることを、早い段階で空木は把握していた。ただ、二人がどの程度の親しい付き合いがあるのか測りかね、尋ねるとっかりを探っていた矢先のことだった。
逡巡していた空木の元へ白石の方から飛び込んできたのは、本当に偶然だった。
自棄になっている様子の恋人を――元恋人を案じた美栄子が白石に様子を見てきて欲しいと助けを求めた。
古沢に紹介されて、以前より美栄子は白石と面識があったからだ。数回会ったことがある程度だったが、古沢がよく白石の話を美栄子にしていたようで、頼るなら白石しかいないと考えたらしい。
友人が起こしたという不祥事を白石は露とも信じなかったから、どうにか冤罪を晴らすことができないかという思いもあり、自身の友人である交叉堂店主に相談することを迷わなかった。
「いや、だって普通とめますよね。あんなひっどい内容の話」
ひっどい内容と言い切られた青木はよろめき、空木は眉尻を下げた。
「純多のところで初めて見て、こんなの信じるのがいるのか?と思いましたよ」
「……もれなく皆さん、信じていました」
青木が言う。
「そうみたいですねえ。現実的に在り得なさそうなところが逆に信憑性が増すんですかねえ。純多も疑ってるくせに気になって仕方ないって感じだったんで、ちょっとやばいなと」
「やばい?」
不可解そうな青木に、白石は「あ―」と困った様子で頬を搔く。
「思いっきり否定しちゃったんで、逆効果になったんじゃないかなと。一方的にやるなと言えばやりなくなるし、行くなと言えば行きたくなるもんでしょう」
「それはあなたの場合でしょう」
空木は苦笑するが、あっさりと白石は首を振る。
「いや、けっこうそういうもんだって。純多は、あれで天邪鬼なところがあるからな。あれはまずかったって思ってさ」
早朝にもかかわらず慌てて交叉堂に駆け込んだわけだ。
「放置でいいって言われたときはどうしようかと思ったけど」
にやりと笑ったまま白石が言う。
「結果的には良い仕事したってわけで、良かった良かった」
「古沢さんからは多いに異論がでそうですね」
そうか? という顔を白石はしただけだった。
***
「気さくな人だなあ。弁護士っていうから、もっと厳しい人かと思ってた」
青木は次の仕事があると言って、名残り惜しそうに帰って行った。どうやら棚ぼたの業績に胸を張った白石を気に入ったらしかった。
そのとき、ふわりと大姫が現れた。
「お! 大姫、きれーな着物着てんなあ。初めて見る着物だな? 帯? ああ、帯もいいなあ」
目ざとい男である。大姫の着物が新しいものだとなぜわかるのだろうか――といささか空木は閉口する。
「くるっと一周回って。似合ってる似合ってる」
手を叩いて嬉しそうな声をあげる白石とまんざらでもない様子で応じている大姫。
視える人間である白石を、大姫は珍しくも厭う様子はなく、こんな風に姿を見せたりする。白石の為人を知っている空木も、今更それを咎めることもない。
咎める気はないが、この二人、時折、妙に気の合った様子を見せる。そういう時はだいたい空木がげんなりする羽目になる。
空木は二人の会話に眉間を抑え、わずかに唇の端を引き下げた。
大姫が着ている着物、それに不満を覚えずにはいられない。
今日、青木が携えてきた着物。
青木は、井上雪弘から渡すよう頼まれていたという。
「報酬ときいていますよ?」との初めて聞く話に、空木は思わずぐりんと背後へ首を巡らせてしまった。
いきなり何もない宙を振り返った空木に、青木がきょとんとしたのはまた別の話。
それは井上雪弘から大姫への報酬。
渋る大姫へ助力を嘆願し哀願した空木だったはずだが、その前にとっくに井上雪弘が味方に引き入れていた。着物1着と帯2本で商談成立と相成っていたらしい。
見える質だった井上雪弘は、交叉堂に出入りするうちに大姫とも面識が出来ていた。
人嫌いを自称するくせに、ひょこひょこ人前に姿を見せる大姫である。相手は見極めているというのが大姫の弁ではある。
手伝ってやってると恩着せがましく散々言われていた空木は唖然とする他なかったが、そんな空木を尻目に、大姫はまったく悪びれる様子もなかった。
青木から受け取り、いったん店の奥にしまったものを、どうやら早速持ち出したらしい。
大姫は着道楽だった。
口止めしたのは大姫か。はたまた面白そうだからというだけで黙っていた井上か。
どちらにせよ、そんな密約があることをちらとも匂わせなかったのだから、二人に一本取られたことは間違いない。
完全に手玉に取られていた空木は密かに嘆息するほかない。井上に苦情を申し入れることは不可能だし、大姫に至っては一笑に付されるだけだ。
しかも空木は頼み事の等価として、簪二本をすでに大姫へ納めていた。大姫が気に入る簪を見つけるため店を二日休んだ。
「で? どうなった?」
ひとしきりはしゃいで満足した白石が問う。
大姫はさっさといなくなっている。
空木から結果を聞いて、白石がゆっくりと頷いた。
「そっか。まあ純多らしいな」
蔦屋敷以外を放棄したという友人に、白石は苦笑する。
「連絡とってないんですか?」
「いや? 電話はしたよ。したけど、ほら俺が行くなって言ったのに行ったわけだろ。ちょっと後ろめたいみたいでさ。なんか口が重かった」
白石は、それでも嬉しそうだ。
「結局、井上さんはその蔦屋敷を純多に継がせたかったわけか」
「そうですね」
「なんで、蔦屋敷だけ?」
「さあ」
「どうして、家は開かなかったんだ?」
「どうして僕に聞くんです?」
「知っているんじゃないのか?」
「知りませんよ」
「ふん。別にいいけどな。で、なんか良いことでもあったのか?」
「なんでですか?」
「妙に機嫌が良いから」
自覚がなかった空木は軽く双眸を瞠り、一瞬誤魔化そうかと考えたが、ふっと笑みを浮かべた。
「蔦屋敷の守り神に会いましたよ」
「なにに?」
白石が眉間に皺を刻む。
大姫を視ることができる白石だ。友人に招かれて蔦屋敷を尋ねれば十中八九、白石は彼女に気が付くだろう。
「へえ。俺も会ってみたいな、その着物美人」
隠す必要もないだろうと判断した空木だが、対する白石の第一声には苦笑いだ。
「木蔦の見事なお屋敷でしたよ。蔦の花言葉を知っていますか?」
「? いいや。なんで?」
「いいえ。知らないならいいんです」
「よくわからないけど、まあいいや。それより、これ見たか?」
「あ、埃」などと呟いて、棚を拭き始めた店主は、白石の言葉に振り返る。白石が鞄に無造作に突っ込んでいた新聞を広げた。
「純多のところの横領事件。専務のボンボンが絡んでたんだってさ。小さな記事だけど、ほらここ。平社員に罪擦り付けるなんてひでえよな。しかしあれだな、やっぱ悪いことしても、お天道様は見てるぞってな」
「お天道様ですか。また渋いことを言いますね」
空木の口元に深い笑みが浮かぶ。
「だって、そうだろ。自首してきた理由が、夜な夜な女が枕元に立って責めるからって言うんだから!」
笑っていいのか呆れればいいのか判らくなった空木である。
複雑な気分で、ちらりと店の奥へ視線を投げる。
別れを切り出された後も冤罪を晴らそうと必死に証言を求めた美栄子。地道に証拠固めに奔走した青木。だが、犯人は組織と親に守られて、引き摺りだす今一歩が掴めなかった。
まかせておけ、と言ったのは大姫。
さて、どうするものやらと思っていたが……。彼女が喜々として夜な夜な真犯人の枕元に立つ姿が目に浮かんだ。
大姫が自ら進んで動くなんて珍しいことがあるものだと思ったが、これも井上雪弘から得る報酬の対価だと今ならわかる。
まったく敵わない。
「ん? なに笑ってんだ?」
「おや、郵便ですね」
友人の問いかけを背中に、いそいそと空木は店の入り口へ向かう。
「お疲れ様です」
空木の声を受けて、郵便配達員が去って行く。
「そうそう。純多と美栄子さん、婚約したってよ。謝りに行った純多、拳一発お見舞いされたらしいぞ。平手じゃないんだぜ。拳だぜ、拳。格好良いよなあ」
けらけらと白石が友人の受難を笑う。
「それ、まさか古沢さんの前でも言ったんじゃないでしょうね」
外で受け取った郵便物をそのまま確認しながら、空木が呆れたように言えば
「言ったよ。それで許してもらえただけマシだって」
けろりと白石は応える。
配達されたばかりの郵便物のなかに、最近知り合ったばかりの古沢の名前を見つけて、自然と空木は笑みを浮かべた。
『空木さん、あんたに頼みたいことがあるんだ』
井上雪弘はそう言いながら店に入ってきた。
『仕掛けは上々…とはいかないが、ね。後の判断は、あの娘とあんたに任せるとしよう。もし、あの娘が誰も選ばなかったときは、あの娘だけは保護してくれ』
絵の女性を『あの娘』と呼び、彼女が想うよりずっと慈しんでいた井上。
井上はみなが思うよりも、ずっと遊び心のある男だった。
井上が描いたものは、多くの人を狂騒させたが――果たして井上が、すべてを見ていたとしたらなんと言っただろうか。
ご期待には添えたでしょうか――空木は空を見上げて問いかけた。
応えはなかったけれど、井上がにやりと笑った気がした。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
少しでもお楽しみ頂けたなら幸いです。