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「そうでしょうか」
空木が微笑んだ。
「なぜ、井上氏は木蔦を植えたのでしょうね」
女が不審そうな顔をし、古沢が問いを発する。
「どういうことですか?」
「まるで外から、まったく中が見えないようにするためのようではないですか。安全面から言えば、これは非常によくないんですよ。これでは門の中に入ってしまえば、あとはやりたい放題です」
「やりたい放題って……あ、泥棒?」
古沢の呟きに、空木が頷く。
「誰にも見咎められないということは非常に仕事が楽になるそうです。ここでは犬を飼ってるわけでもありませんし、管理人や使用人を置いているわけでもありません。昼間は無人ですから危険度は増します。美観? いいえ、違います。もとより井上氏は住まいの様式や外観に拘る人ではありませんでしたよ」
それは玄関ホールの壺と像からも判るでしょうが――と空木は言う。
「井上氏が木蔦を植えさせたのは何時でしたか?」
「来たころはなかったわ。……雪弘が庭師を呼んだのは、私がここに来てしばらく経ってから」
古沢と同じく空木の質問の意味を測りかね、女は戸惑った様子で答えた。
「そう。井上氏は早くからあなたの存在に気が付いていたんですよ。彼はあなたに会ってみたかった。姿を見せてくれるのを待っていたけれど、なかなかあなたは現われなかった」
女の眸に言われていることがわからない、と怯えの色が浮かぶ。
「あなたが一か所に居つけなかった理由も、またそれでしょう? ただならぬ気配に怯えて、誰もがあなたを手放してしまう」
女は唇を噛む。
買い手はすぐつくのに、同じ頻度で返品が繰り返される理由。
あんなに自分を美しい、奇麗だと褒めてくれたことが嘘だったかのように、皆いらないと唾を飛ばして――かつての買い手たちは口を揃えて、こう言った。
『絵の女に見られているような気がする』
『家の中に人の気配がするんだよ』
『あの絵を買ってからだ。なんだか家の中がざわついて』
『気持ち悪い』
『あの絵はおかしい…!』
「あなたが買い手たちに悪さをしたことも、するつもりもなかったでしょう。実際、あの頃のあなたにそこまでの力はなかった。違いますか?」
女は小さく頷いた。
「井上氏は、それまでの買い手たちとは違ったんです。彼は考えたんです。どうやったら、あなたに会えるかを。で、思い当たったわけです。人目を気にしているのかもしれない、と」
「人目を……?」
古沢の呟きに、空木が心なしか楽しそうに頷く。
「一人住まいなのに何を言っているのやらと思ったでしょう?」
古沢は強く頷く。
「そうですよねえ。つまりですね、井上氏の意識は外に向いたんです。屋敷が外から見えるのが問題なのかもしれないと考えたわけです。当時はずいぶんと風通しのよい塀だったようですよ。何せ、柵ですからねえ」
空木は小さく笑う。
「あの木蔦はね、あなたのために植えられたんですよ」
女が瞠目する。まさか……という予感に眸が染まり始める。
「外から見られる心配がなくなれば、あなたが気兼ねなく歩けますから。屋敷内という範囲限定ですが」と言った空木が、どこか笑いを堪えるような顔をした。
「それでも足りずに、彼は屋敷のあちこちに女性の像を置き始めました」
そこで空木は古沢に向き直る。
「玄関ホールのほかにも、この屋敷のあちこちに女性像が置いてありました」
「あ、あちこちに……?」
「はい。あちこちに。井上氏はどうやらかなり心配性だったようです。いえ、用心深いというべきでしょうか。どうやら、うっかり誰かに彼女の姿を見られたときに、”いや、像を見間違えたんでしょう”と言うためだったらしいです」
古沢は絶句した。
「壺はですね、何かあったときのために、とっさのときにあなたが隠れられるように、らしいですよ」
堪えず笑声を漏らした空木の後ろで、「阿呆じゃな」と大姫が言い、古沢も頷きそうになった。
「なぜ壺に隠れねばならんのじゃ」
呆れ返ったような大姫に、空木は「さあ」と応える。
「かくれんぼには壺だったんじゃないですか」
「そなた適当に言っておろう」
「井上氏がそう言っていたんです」
「阿呆じゃな」と大姫は再度言い、古沢は遠慮なく同意し、空木は苦笑した。
どこか寄る辺ない子供のような表情をしていた女に、空木が優しく言った。
「それほど、井上氏はあなたのことを考えていたんですよ」
彼の考え得る万全の体制を整えて――。
一目、会いたいと。
多忙を極めていたのに、庭師を入れる際には必ず屋敷にいたという井上。
他人を――庭師を雇い入れることも嫌だったが、厳しい指揮と監視下に置くことで妥協し、木蔦は植樹された。彼女に会いたいという切なる男の願いを受けながら。
願いは想いになり、想いは絵に――女に力を与えた。
女のために植えられた木蔦が、彼女を守る揺り籠となった。
女は好きな時に好きなだけ自由に姿を現わせるほどの力を得、屋敷は彼女の場となり、男の願いは叶う。
「でも、それは、私があの人に似ているから……」
「さっきの話が聞こえていたと思ってんですが」と言ってから、空木は古沢に視線を向けた。
「あまり似てはいないそうですよ?」
古沢も大急ぎで頷いた。
「そんなに似ているとは思いません」
「に、似ていたから、私を買った、のよ……」
「確かに、目が似ているんだそうです。面立ちに似通ったところはないのに、不思議と懐かしい感じがすると仰っていました」
「ほら!」女が叫び声をあげ、空木が首を振る。
「そんなのはただのきっかけに過ぎませんよ。いくら初恋の人に似ていたとしても、絵から出てきた相手を怯えず受け入れられる人がどれくらいいるでしょうね? ましてや、井上氏は迷信の類をまったくと言っていいほど信じてはいなかった。それは実際に一緒に暮らしてきたあなたが一番知っているんじゃありませんか?」
女は怯えたように首を振り続ける。
井上雪弘という人間は迷信を信じなかった。だからこそ、不安になった。目の前にある不思議をなぜ、彼は受け入れているのか、と。
だから、自分は自分として見られてはいないのではないか、と――思った。
現実と浮世は簡単に混じりあう。
過ぎた執着が、男をおかしくしても仕方がない話だと思えた。
「もう一言、余計な事を付け加えれば、再婚話も降るようにあったのですよ。結局、井上氏は独り身を通しましたが。その理由を静かな生活を乱されたくない、家に人を入れたくないと言っていたそうです。頑固で偏屈な井上氏らしいと、巷では言われていたそうですが、真相はどうなのでしょうね」
そのせいで蔦屋敷にはすごいお宝があるのではないかという噂がまことにしやかに流れるようにもなった。
「なんで、そんなことまで知っているんですか?」
「井上氏はうちのお得意様だったんです。店によく寄ってくださって、そのときに、まあいろいろと」
古沢の問いに応えてから、空木はにっこりと笑う。
「店に来られたときは、あなたの話ばかりでしたよ? 古沢さんのお祖母様の話よりもね」
同意を求める空木の視線に、大姫がふっと息を吐き消極的な同意を示した。
「井上氏が古沢さんを選んだのは、なにも初恋の人のお孫さんだからというわけではないんですよ。この人なら、あなたごと託せるから――最初は驚くだろうけれど、受け入れてくれるだろう、と。どうでしょう、今でも恐いですか?」
「そりゃあ……恐くないと言ったら嘘になりますけど、少なくとも気持ちが悪いとは思いません」
「井上氏の読みは間違っていなかったということですね。おそらく他の人達では駄目でしょうねえ。――結局は、あなたが井上氏を信じるか信じないか。ですが」
女の唇から吐息が零れ落ちた。
語られた言葉は、誰へのものだったのか……。
『たくさんの人間が押しかけてくるだろうが、君がいいと思う人間を選ぶといい』
『そう思えたなら、屋敷の中にいれてやるといい』
『君が安心していられる場所だといい』
そう井上雪弘は繰り返していた。
女の乾いた頬に透明な滴が滑り落ちていく。
「ごめんなさい」
微かに女が呟いた。
「でも、あれは……私が見せたのは、あなたの今一番心にあること、悔やんでいること」
あなたの幸せを阻んでいるもの。
古沢がはっと身じろぎした。
「雪弘はあなたが幸せだと良いと言った。だから……」
女は淡く微笑んだ。
そうして、現れたときと同じように、女の姿は燐光を放ち、揺れるように消えた。
「どう、なったんですか?」
「認めて貰えたようですよ」
「なんだか……今でも信じられないんですが、夢、じゃあないんですよね」
「はい」
「彼女は消えたんですか?」
「いいえ、いますよ、ちゃんと。さすがに疲れたのでしょうね。ご希望なら、姿を顕してくれると思いますが」
当たり前のように、女のことを人のように語る空木に、なんとも言えない気分になるが、いなくなったわけではないときいて、なんとなしに古沢はほっとした。不思議なものだ、と苦笑する程度には余裕ができていた。
「……もしかしたら母は、その、祖母と井上さんの……いいえ、なんでもありません」
今更、それがなんだというのだ。
さて、と空木が呟く。
「忙しくなりますね」
その言葉に、古沢は我に返った。
「その前にやらなきゃいけないことを思い出しました!」
勢いよく立ち上がる。
「美栄子に会わなくては」
古沢は駆け出した足を止めて、部屋の戸口のところで絵を振り返った。
女の絵は相変わらずそこにいたけれど、その笑みが少しだけ晴れやかになっている気がした。
空木が絵のそばで笑顔で立っている。
この人も得体がしれないな……。
そして、古沢はきっと前を向き、今度こそ駆け出した。
***
玄関で苦闘を続けていた小林の目の前で突然扉が開いたと思ったら、矢のように古沢が飛び出していった。
またもや突然動いた玄関扉を避けるため、海老のように後ろに飛び退いた小林は庭に尻から落ちた。無理矢理連れて来られた小林不動産の社員が「あ……」と呟き、とっさに手を伸ばすが間に合わず、落ちていく社長を目で追う。
小林とその部下と小林に呼び出されていた弁護士の青木は、呆気にとられたまま、遠くなっていく古沢の背中をしばし見つめていた。
尻から落ちて転がっていた小林が茫然としつつも青木に問いかけた。
「今の、見ました?」
「ええ……」
背広を脱ぎ、ワイシャツの袖をまくり上げ、小林たちとともに玄関扉相手に苦闘していた青木の髪は乱れ、紳士と評判の彼の姿はよれよれだった。
「中、から出てきましたよね?」
「ええ」
「……じゃあ、これで決まりですかね?」
「……問題は、なんらありませんね」
「……っ、良かった!」
もうこんな化け物屋敷とはおさらばできる。従業員の恨めしそうな視線に怯えることもない。小林は両手で顔を覆うと、嬉し泣きに泣いた。そのまま万歳三唱でも叫びそうな勢いだった。
小林とその従業員の歓声は、上の空木たちのところまで聞こえた。
そっと窓を開けて、下の様子を見ていた空木は苦笑する。
「正直な人たちですねえ」
「忙しないことよのう」
大姫が溜息とともに呟く。
「さほど面白くもなかった」
「何を期待していたんですか?」
呆れた顔で問う空木の前で、大姫の輪郭がぼやける。
「さてな。先に帰っておるぞ」
人の悪い笑みをうっすらと浮かべて大姫の姿が消えた。
「やれやれ……」
空木は溜息をついて、それを見送った。




