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蔦揺籃のみた夢  作者: 佐原万葉
第四章 蔦揺籃
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「井上氏のこの絵への想い入れが、どれだけ深かったかというのは判って頂けたかと思います」


 井上雪弘にとって、この絵は特別なものだった。生前、元気な頃は一番過ごすことの多かった書斎に飾り、死期が迫ったときには己の寝台から最も良く見える位置に飾った。常に見える場所を望んだ。それは過去への思慕によるものだったのか……。


「ロマンチストだったんですね…。ちょっと想像できないけど」

 古沢は厳しい顔をした井上の写真へ視線を落とす。写る男は、たいした仏頂面である。自分で持っていた写真だから、これでももしかしたら写りの良い方なのかもしれない。

 これ、十分、子供が泣いて逃げ出すんじゃないか?――小林の言葉を思い出し、そう思うくらいには充分に。


 空木は古沢の感想には苦笑で応えを止め、くるりと絵へ向き合った。

「中国には絵の中から美しい女性が出てきて、持ち主の男性を助けてくれる異類婚礼譚型の話が多くあります」

「え?」

「それでなくとも器物百年を経て霊が宿るなどと申します」

 空木は優しい声音で、いない何かに呼び掛けた。

「出ておいで。あなたを害するものはありませんから」


 わずかに絵の表面が揺れ、絵の女性の輪郭がぼやけ、ふわりと絵から女性の姿が浮かび上がる。古沢の目の前に女性が降り立った、音もなく。


「で、こうなった次第です。おや、大丈夫ですか?」

 古沢は腰を抜かした。自らあげられた魚のように口をぱくぱくさせるばかり。

「は……。さ、さっきの……? て、手品…?」

 なんども呼吸を繰り返し、震える声を絞り出す。

「いえ? 手品ではありませんよ」

「つ、つまり…さ、さっきの…」

 同じもの……?

「そうです」

 あっさり頷いた空木の言葉に、古沢は「うーん」と唸って気を失いかける。

 ちらりと空木は大姫を見上げて、視線で牽制した。

 蹴らないでくださいよ?

 大姫は「ふん」とそっぽを向いただけだった。


「うーん……」

 古沢は唸る。研究職が天職だと思い、この手の話が苦手で、数式が好きで、物事を積み上げて行く過程は美しいと常々……。

 しかし初の非現実的なモノとの接近遭遇に、古沢の理性は風前の灯火だった。

「うーん………」

「大丈夫ですか?」

 問いかける空木の背後では、つきあってられぬとばかりの表情で大姫がやはり宙に浮いていた。


 唸り続けることしばし、苦悩に満ちた顔で古沢が唐突に面を上げた。その顔には、何か並々ならぬものが充満していた。

「判りました」

 古沢は大きく息を吸って吐いて、唾を飲み込む。

「その人の存在を認……よしとして、です」

 おや、という顔を空木がした。古沢の順応力の高さが意外だった。もっと激しく長く拒否し拒絶されると思っていたから。

「なんで僕が襲われなくちゃいけないんです? 他の人も脅していたというし」

「ええ。僕もそれが聞きたいんです。あんな理由では納得できませんよ? なぜ、あんなことをしたんですか?」

 古沢と空木、二人の視線を受けて、女が小さく身じろぎをする。

 空木もまた知らない。彼女が屋敷を閉じることは知ってはいたが、まさか脅しをかけまくり、あまつさえ古沢を手に掛けようとするなどとは思ってもいなかった。

 沈黙が通り過ぎる。


「さっさと答えぬか」

 大姫が言う。

「そこの小童などどうでもよいが、このような茶番につき合わされた以上、それなりの理由を聞かせてもらわねば収まらぬ」

 空木がなんともいえない顔になる。

「大姫、それはちょっと勝手じゃあ…」

 大姫の右手が鋭く翻る。いつのまにやら手にしていた扇が、空木の後頭部に的中した。


「で、どうなんじゃ?」

 大姫に睨まれて震え上がったわけではないようだが、女がぽつりと言った。

「雪弘は、この人に決めていた」

「相続人に、ということですか?」

 空木が問う。だが後頭部を擦りながら、痛みに微かに顔を顰めながらでは、いささか締まらない。

「そう」

「そんな馬鹿な!」

 声をあげたのは、「小童」呼ばわりされて地味に傷ついていた古沢だ。

「僕と井上さんとじゃ遠すぎる! 祖母がいくら初恋の相手だったからって、僕らと付き合いがあったわけじゃないのに! 僕は覚えてなかったし!」

 自分は覚えていなかった――という言葉に、女がぴくりと反応する。滲む怒りに古沢は一瞬怯みはしたが、言葉を重ねる。

「それに、それにです。僕にきめていたなら、なんでこんなまどろっこしいことをするんです!?」

 遺言書にそう残せば済むことだろう。

「どうですか?」

 空木が問うと、女が曖昧に微かな笑みを浮かべた。

「でも雪弘はあなたを覚えていて、あなたに遺したいと考えていたわ。十四年前、飴を貰ったことが嬉しかったから」

「飴!?」

「そうよ」

「そして、雪弘のことを黙っていてくれていた」

「え……いえ、それは……」

 まさか言う機会がなかっただけで、そのまま忘れていただけだとも言えず古沢は戸惑う。

「そんな、それだけのことで…」

「でも雪弘にはそうではなかったのよ」

「………」

 なんだか、とても古沢は呆れてしまった。


「そうですねえ。確かにただ遺言書で古沢さんを指名しても、他の方たちは黙っていないでしょうから。それは判るんですけどねえ」

「判るんですか!?」

「だって古沢さんもおっしゃったでしょう? 付き合いもない自分なのにおかしい、と」

「お、おかしいとまでは言ってない気がします、けど。……おかしいですよね」

「まあ、普通に揉めますよね」

 げっそりと古沢は項垂れる。

「だから、あなたは彼らを脅し続けた」

 空木の言葉に女が頷いた。


 屋敷を閉じただけでは足りない。

 屋敷に入れるのは正当な後継者だけ。そして、彼女は食い下がる者たちへ姿を見せて、己から後継権を放棄させた。

 そして、待った。古沢が訪れるのを。


「雪弘はあなたのことを色々調べていた。条件が悪いと言っていたわ」

「条件」と繰り返した古沢を、女がじっと見つめた。古沢は少し怯んだ。

「そして、とても怒っていた。どうして、ちゃんと抵抗しない、世間は何を見ているのかと。雪弘は怒っていて……とても悲しんでいた」

 女の言葉に、古沢は息を飲む。

 古沢は目頭が熱くなるのを感じた。思わず、息を吐く。

 ああ、ここにも信じてくれる人がいた――と知って。


「雪弘は、私に任せると言った。考えを話したら、駄目とは言わなかった。私に任せる、と言ったわ」

「井上氏も承知のことだったんですか…。まったく人の悪い」

 そんなことをまったく知らされていなかった空木は小さくぼやいた。

「そなた、信用がなかったんじゃないのかえ?」

 大姫が意地の悪い笑いを浮かべ、空木が少しだけ傷ついた表情を見せた。


「で、でも、僕が来なかったらどうするつもりだったんですか?」

 リスクが高すぎやしませんか――という問いは女の一言で撃ち落とされる。

「来たわ」

「いや…それはそうですけど、それは結果論で」

「あなたは来たわ」

 雪弘が言ったとおりに。

「…………」

「では、どうして古沢さんを襲ったんですか。それも考えのなかの一つですか?」

「まさか」

 女は一言の下で切り捨てた。

「そんなこと雪弘が許すはずないじゃない」

「では、なぜですか?」

「雪弘のことを覚えていなかったから」

 女は従来の主張を繰り返した。

 うーんと空木は唸る。

「そうは云っても十四年前に一度会ったきりですよ。仕方ないのでは?」

 女はふいっと横を向く。

「でも雪弘は一目で判ったわ。テレビであなたを見て、とても喜んでいたわ」

「テ、テレビ?」

 目の前の女性から、近代電気機器の名前を聞かされるのは、大きな違和感があった。

「テレビに出たんですか?」

「はっ? へ? ああ…! あれ、放映されたんだ…」

 頬を朱に染めた古沢に、空木と大姫が顔を見合わせた。どんな番組に出たのか、非常に気になった。

「一目で判ったと言っていたわ」

「そうは云っても、古沢さんは当時十一歳くらいですよ? いくら何でもそこまで求めるのは酷でしょう」

 女はつんとそっぽを向く。

 大姫が小さな笑い声を漏らした。

「時間のことを言っても詮無いことじゃ。我らと、そなたらでは流れが違う故」

「ですけどねえ。お祖母様は十四年前に、お母さまも早くに亡くなっておられるんですよ。話を聞く機会もなかったのでしょう。許してあげてもいいのでは?」

 女は横を向いたまま動かない。


「どうやら、それだけではないという感じですね」

 やはり――という思いで空木は女を見る。

 まだ何か女の事情があるのだ。

「……雪弘は選んだわ。彼女の孫を、ずっと想い続けていたのよ、彼女のことを」

 絵が――絵から抜け出した女が涙を流すということが果たして在り得るのだろうか。

 だが、古沢は厭う気持ちにはならなかった。

「私ではなかった……」

 語られる言葉も注がれる眼差しも――彼女のものだった。

 遠くに彼女を見ながら、井上雪弘は女に語り続けた。


 こうなれば良い――という未来を望む言葉を。





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