2
2
「ところで十四年前、といって何か思い出すものがありますか?」
「十四年前、ですか?」
考え込む必要はなかった。
「祖母が亡くなった年ですけど…それが何の関係が?」
「井上氏は、その年にあなたに会ったことがあるそうですよ」
「は? え? え?」
空木が小さく頷いた。
「お祖母様のご葬儀の際に――その時、古沢さんから飴を貰ったとか」
古沢は驚き、食い入るように写真を見つめる。
「飴? 僕はこの人に会ったことがある…? そんなことは…あっ…!」
古沢は写真をぐっと顔に近づけた。
記憶の中にはない顔が、古沢を無言で見つめ返しくる。
顔もうろ覚えだが、そう――飴を見知らぬ男性にあげた記憶はあった。
「この人…?」
記憶の中の男性は、手元の写真よりも幾分か若かった気は――した。
***
十一歳と云えば、事の次第は充分に理解できる年である。
現実に起きている出来事と、まるで人目を憚る様子で庭先から伺っている男の関係を理解できなくても、相手が何かしらの理由故に皆の前に姿を現わせずにいることは予測がついた。
あれは、祖母の通夜の日。
男は泣いていた。帽子を握りしめ、静かに項垂れていた。
なぜか古沢の心情の針は男に対していっさいの不審を示さなかった。だから、古沢は男に声をかけた。隠れるようにしていた男には、ひどく思いがけないことだったのだろう。驚きを隠せない様子で、幼い子供を見つめ返していた。
『おじいちゃん、お祖母ちゃんのお友達?』
古沢は思い出した過去に、思わず唸った。
今にして思えば「おじいちゃん」というほどの年齢ではなかった気がする。だが、祖母が”お祖母ちゃん”であるが故に、祖母と近い年齢の人は皆”おじいちゃん・おばあちゃん”だった。
だから、そう声をかけた。
『あ…ああ。うん、そうだ』
驚いた顔をしていた男が、ひどく悲痛な表情をしたのを見て、幼い古沢は何かしなければと思った。そう思わせる何かが男にはあったのだろう、恐らく。
『うーんと…』
ポケットをまさぐった。取り出したのは一粒の飴。ミルク味のキャラメル。
『これ、あげる』
男が瞠目した。怖い顔だった。
思わず怯んだ古沢の前で、男は絞り出すように「ありがとう」と言った。
このキャラメルも祖母から貰ったものだった。お見舞いに行く時に欲しいものを訊くと「飴」と答えた祖母。そして貰った飴を、祖母は古沢に分けてくれるのだ。
不安そうにしている古沢に「大丈夫よ」と笑いながら。
そんな二人のやり取りを、母は呆れたように見ていたが「甘いものばかり駄目よ」と言わなかった。それが、また不安だったのを覚えている。
男は大きな左手で自身の顔を一撫ですると、反対の手を古沢の頭の上に乗せた。
『ありがとう』
男はキャラメルを受け取り、そして去って行った。
古沢は、男のことを周囲に話さなかった。特別理由はない。大人たちは皆、忙しそうに立ち回っていたし、ただ話す機会がなかったからというだけ。
祖母の葬儀で泣いている人は、男だけではなかった。
皆、泣いていた。多かれ少なかれ、祖母を悼み泣いた。古沢だって泣いた。
隠れるように佇む姿を不思議だと思いはしても、声を押し殺して泣く男の姿は、とても当たり前のことだったから。
男が祖母の死を悼んでいることは確かだと思ったのもあったろう。
そして、束の間の出会いは、いつしか古沢の記憶の波に埋もれていったのだった。
***
蘇ってきた記憶を疑いたくなるほど、古沢はただ驚いた。
「古沢さんのお祖母様は井上氏の遠縁にあたるそうです。その縁でしょう。お若い頃、氏の東京のお屋敷――本家で働いていたそうです」
「そうなんですか…。あれ? 今、遠縁って言いました?」
「遺言書に書いてあるのは本当のことなんです」
「そう、だったんですか。ちっとも知らなかった…」
ひとつの予感に捕らわれて、古沢は空木を見た。
「もしかして…」
「はい。井上氏の初恋の相手というのが、古沢さんのお祖母様です」
その言葉に、古沢は絵に視線を戻した。
「お奇麗な方だったとか」
古沢は首を傾げる。記憶を辿った後、率直な意見を述べた。
「物静かで優しい人ではありましたけど、特別きれいってわけでもありませんでしたよ。いつも縁側で縫物をしているか本を読んでいるかで…僕もよく本を読んでもらいました」
「とても優しい方だったんですね」
古沢は大きく頷いてから、ちょっと照れ臭そうに笑った。
「僕は小さい頃はけっこうなお祖母ちゃん子だったと思います。とても可愛がってもらいました。うちは共働きのうえ、母が体調を崩すようになって、よく祖母のところに預けられていたんです」
「この絵に似ておられるそうですよ」
「似て、いますか…?」
「そう、井上氏はおっしゃっていましたね」
「祖母のこんな若いころの写真を見たことがないから判らないけど…」
そういえば、母の子供の頃の写真も一度も見たことがなかった。もし幼少の母の写真を見る機会があったなら、祖母もともに写っていた可能性があっただろうに。
「お二人は結婚を望んでおられたけれど、周囲の大反対にあって叶わなかったそうです」
「なぜですか?」
「昔は、身分というのが重要視されていたからでしょう。今では考えられないほどに」
「身分…」と呟き、古沢は腑に落ちないものを感じた。
「でも、遠縁でしょう? 仮にも身内なのに身分違いだなんて」
空木が困ったような顔になり、やがて言いにくそうに口を開いた。
「お祖母様は分家筋にあたり、当時としては本家筋とさほど距離があったわけではないのでしょうが、ある事情からかなり冷遇されていたらしいんです」
「冷遇? ある事情というのは?」
「わかりません。井上氏はそれについては、いっさい教えてはくれませんでした。古沢さんが言われた通り、お祖母様は分家筋といえ、分家のお嬢様です。その分家のお嬢様が本家で働いていたというのは珍しいことだと思います」
「行儀見習いとか…今でいうところの花嫁修業? 昔はそういうのあったって聞きますし、そういうのじゃ?」
「今でもあるところはありますけれどね」と言ったのち、空木はゆるく首を振った。
「そういうのではなかったようですね。お祖母様は分家筋の方で、片や井上氏は本家の跡取り。井上氏の家は名家と云えるお宅ですから、なかなかに複雑なものがあるようでした」
「複雑なもの…」
「そして、二人は別々の方と――古沢さんのお祖母様は、あなたのお祖父様と結婚されたわけです」
二人は周囲によって裂かれ、互いに別々の伴侶を与えられた。
それから会うこともなく……時が流れていった。




