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蔦揺籃のみた夢  作者: 佐原万葉
第四章 蔦揺籃
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第四章 蔦揺籃




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 空木が向かったのは、井上雪弘の寝室だった。

 完全に腰が引けた状態で、びくびくと空木の後に続く古沢の背中を、いきなり大姫が豪快に蹴りつけた。


「大姫!」

 空木が非難の声をあげた先で、古沢が前のめりに顔から床に突っ込んでいく。

「逃げ出さなかったのは褒めてやっても良いが」

 寝室の扉が開いていて幸いだった。でなければ、古沢は顔面から扉にぶつかり、今よりもひどい目にあっていたことだろう。

「妾は、そのような柔弱な男は好かぬ」

「好きとか嫌いとかいう問題じゃないでしょう!? いきなり人を蹴りつけないでください」

「断りを入れればよいのか?」

「断っても駄目です!」


 古沢がよろよろと起き上がる。

「大丈夫ですか…?」

 空木が手を貸しながら、恐る恐る尋ねる。

「大丈夫です…」

「すみません。本当にすみません」

 低頭して詫びる空木の後方で、大姫はそっぽを向いている。

「大丈夫です。ちょっと擦ったくらいなんで」

 触れるとぴりぴりと痛みが走る顎は、赤く擦りむいていた。

「大姫! あなたも謝って!」

 空木の叱咤に、さらに大姫はつんとそっぽを向く。その様子に仕方なく苦笑した古沢に「大丈夫ですよ」と云われて、空木が肩を落として詫びを重ねた。


「それより…誰もいませんよ…?」


 大きい寝台が中央に据えられた無人の部屋。探す必要がないほどに、誰かが隠れる余地などありそうにもなかった。


「入院することを拒んで、この家から離れることをしなかったということは小林さんの話の通りでした」

 気を取り直して話し出した空木に、古沢は小さく頷く。

「それで医者と喧嘩したんですよね?」

「はい。井上氏は頑固で人嫌いだったと云われていますが、けして物分かりの悪い人ではありませんでした。医者の言うことが正しいことなど言われなくても承知していたんです。ただ、それでも井上氏はどうしてもこの屋敷から離れたくなかった理由があったんです」

 そうして――と呟きながら、空木は寝台の右側の壁へと歩み寄る。

「離れたくなかった理由が、ここにあるんです」

「この部屋に?」

 古沢が眉をひそめた先で、空木が壁の掛け軸に手をかけた。

「彼女が」

 裏返しにされていた掛け軸をくるりとひっくり返す。

「あ……!」


 あの女がいた。

 薄紅色の着物を纏い、右手を頬にあて、少し首を右に傾けた姿勢で彼女はそこにいた。

 鬼女のごとき荒ぶった表情はそこにはない。日本髪を結い、少し伏し目がちの視線で、古沢を真っすぐに見下ろしていた。笑顔ではない。双眸に笑みはない。喜びもない。むしろ在るのは悲しみか……。

 だが、微かに笑んでいると思える表情を、彼女はしている。この矛盾はいったいなんなのだろう。


「これが理由です」

「この絵が? さっきの女性をモデルにした絵ですよね?」

「明治初期の作品です」

「明治? 最近じゃなくて?」

 絵から視線を剥がせぬまま、古沢は喉が干上がるような感覚を覚え始めていた。

「はい。作者は不明ですが、思い入れの感じられる良い絵です。特に曰く付のものではなかったはずなんですが、どうも一か所に落ち着かなくて、巡り巡ってうちの店にやってきたんです」

「というと…」

「この絵はうちの先代が井上氏にお売りしたものです。二十年ほど前のことです」

 何かを思い出すかのように、空木は双眸を軽く細め絵を眺めた。

「初恋の方にそっくりなんだそうです」

「は、初恋…」


 空木はそこで懐を探って、一葉の写真を取り出した。

「井上氏です。さっき他の部屋で見つけました」

 古沢は受け取って、改めて気が付いた。今の今まで井上雪弘という人間の顔すら知らなかったことに。

「見るのは初めてですか?」

「はい。…確かに、頑固そうだ」

 小さく古沢は笑ってしまった。

 厳めしい顔だった。眉間の皺とかっきりとした眉が、老人の性格を充分に語ってくれるような気がした。

 そのとき古沢の脳裏に何かがすっと横切ったが、空木の声にふっと消えてしまった。

「飛び込みのお客様でした」


 昔から骨董収集の趣味があった井上は、仕事で立ち寄った場所で少しでも時間が空くと骨董屋巡りをすることを密かな楽しみにしていたという。

 ある日、小さな町の、これまた小さな骨董屋の暖簾を何も考えることなく、くぐった。

 そして、井上雪弘はこの絵に出会った。


 静かにゆっくりと店内を見て回る。蘊蓄を語ることもなく、蘊蓄を求めるわけもなく、ただ黙々と。店主もまた、客のしたいようにさせて、声をかけるようとはしなかった。

 静かな時間がどのくらい流れただろうか。

 客は帽子を脱ぐと、店主へ向かって満足そうに笑いかけた。

「良い物を揃えてある。目の保養になった」と店主を褒めた。

 その店主の背後に、彼は見つけた。


「絵を見つけて、ひどく驚いた顔で、開口一番。”あの絵を売ってくれ”と。売りに出す予定のものではなかったので、店主はひどく困りましてね」

「売り物ではなかった?」

「ええ。問題があるとは思えないのに、なぜか戻ってきてしまうという絵で。そういった相談と一緒にうちの店に持ち込まれたものだったんです。解決策もなく、仕方がないので売りに出すのはやめようという結論が出た矢先のことでした。もともとうちで仕入れたものではありませんから、勝手ができるはずもなくて」

 空木は苦笑しながら、続けた。

「けれど井上氏はどうしても引き下がらなかったんです。店主が、”こういった曰く付きのものですから”と説明してもまったく駄目で。とうとう井上氏に押し切られる形で、一か月という約束でお預けしたんです」

「なぜ一か月なんです?」

「いつも、それくらいで戻ってきてしまうからです」

「一か月…」

 

 ――絵は戻って来なかった。

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