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突然の消失に、意味をなさない悲鳴が古沢の喉元から迸る。
「ふうむ。逃げ足だけは見事じゃのう」
呆れた様子で大姫が呟くが、それどころではなかった。
「今、今、今…!」
「落ち着いてください」
恐慌に陥りかけた古沢の肩を掴んで、空木が言う。
「判っていらっしゃると思いますが、彼女は人ではありません」
「……!?」
古沢の驚愕の表情に、空木は自分が間違っていたことを知った。
「あれ…もしかして判ってはいらっしゃらなかった?」
大姫がふっと息を吐いた。空木の早とちりを笑いそうになったのかもしれない。
激しく首を縦に振る古沢に、「あー…」と空木は呟いてから「信じてもらえないかもしれませんが」と付け足した。
「幽霊の正体と言ったであろうに」
大姫の言葉に、古沢が飛び上がった。
恐る恐るというふうに、声をした方を見上げる。
「ひいいいいい!」
古沢は今更、宙に浮きっぱなしの大姫の存在をきちんと認識した。それだけ気持ちを向ける余裕ができたのだろうが、この場合はそれが裏目に出た。
古沢はそして、更なる恐慌に陥りかける。
大姫の眉間に生じた皺に、まずいと空木は思う。
古沢の態度が癇に障ったのだろう。
「ふん。仮にも助けてやったというのに、良い態度じゃな」
「な、なに…」
後退りしだした古沢と、それを睥睨する大姫。空木は額を抑えた。すっかり大姫のことを忘れていた。
「う、空木さん…?」
涙目になりつつ助けを求める古沢の態度に、大姫は興が削がれたらしい。危険はないだろうと安堵としつつ、空木は申し訳なさそうに古沢を見た。
「彼女は、僕の連れです」
今更、隠し立てもできないので、事実だけをさらりと述べる。
古沢はぽかんとして空木を見返してきた。
「つ、連れ?」
「はい。まあ、詳しいことはアレなのですが、古沢さんに危険はないとお約束します」
「あ、あなたたちはいったい…」
古沢の双眸に、空木に対する不信感が滲み始める。
大姫を責めても仕方ないことだが、空木は内心では溜息を盛大に吐いた。
すでに古沢は大姫に気が付いていると大姫は言っていたが、この様子からすると、実のところきちんと気が付いてはいなかったことが明白である。最終的に、どう誤魔化せばいいのかと頭が痛くなってくる。
「あなたはいったいなんなんですか!?」
「しがない骨董屋の店主です」
古沢の頬にさっと朱がのぼる。からかわれた、と思ったのだ。
「妾たちのことより、あの小娘の方が先ではないのかえ?」
大姫の言葉に、古沢がまたまた飛び上がった。しゃべらないはずのぬいぐるみが、突然言葉を発した場面に遭遇してしまったかのような仰天ぶりだった。
やはりこのまま話を進めるのは無理だろうかと思案した空木だったが、意外にも大姫を凝視する古沢の目に嫌悪がないことに気づく。正直驚いた。恐怖はあるようだが、受け入れる余地は十分ありそうだ――そう感じた空木は小さく笑んだ。
「とりあえず、古沢さん、消えた彼女のことです。いいでしょうか?」
古沢の視線が泳ぎ、やがてその口から詰めていた息が漏れる。
大姫を今一度ちらりと見て、古沢は大きく息を吸って吐く。なんとか気持ちを落ち着かせようと試みる。
「…はい…」
「彼女は井上氏と暮らしていた女性。人ではありません」
「ゆ、幽霊…?」
本物…? と古沢の顎ががくがくと鳴る。
「近からず遠からずというところでしょうか」
「意味が解りません!」
「すみません。別にからかっているわけではないんです」
古沢に噛みつかれて、思わず空木が両手を軽く挙げる仕草を見せる。
「幽霊と言い切ってしまうには語弊があるので…」
「人じゃないんでしょうっ」
古沢の恨めしそうな視線を受けて、空木が口ごもる。
「ええ、まあ。その、なんといったらいいのか…」
空木は大姫に視線で助けを請うが、大姫は素知らぬふり。
「井上さんは幽霊と暮らしていたっていうんですか?」
信じがたい――そんな表情で古沢は受け入れられないと首を大きく振った。
「そういうことになりますね」
幽霊呼びの訂正を諦めた空木が頷く。
古沢は頭を抱えてしゃがみ込んでしまいたかった。完全に許容量を超える出来事だった。
「…空木さん。空木さんは、あの女性のことを知って、いたんですね? そんなこと、ちっとも言ってなかったけれど…」
「すみません」
「謝られても…」
「彼女のことは、井上氏から聞いていました。ただ、まさか彼女が幽霊騒ぎを起こしているとは思ってもいなかったので…」
「だって、幽霊なんでしょう?」
答えに詰まった空木の前で、髪を掻き毟らんばかりに古沢が呻く。
「空木さんにしろ、この屋敷の持ち主にしろ変ですよ! 僕はもう、解らないことばかりだ! どうにかなってしまいそうですよ!」
「それが普通の反応です」
空木の柔和な微笑に、なんだかもうすべて放り出したい気分が少しだけ削がれた気がした。
「ただ誤解しないで頂きたいのですが、もともと彼女は攻撃的な質ではないんです。幽霊騒ぎにしろ、どうして古沢さんにあんなことをしたのか…。なにか理由があるとは思うんですが」
「あて推量をしても無駄なことじゃ。そんなに知りたくば、本人に聞いてみれば良い。応えるかは知らぬが」
大姫の声に、古沢はまた飛び上がった。
「でも、良かったです」
なにがですか!?
場違いな言葉に、古沢が声にならない反論をあげる。
「いえ。もし古沢さんに彼女が視えなかったら、どうしようかなあと考えていたんです。説明が難しくなりますから」
同意を笑顔で求める空木の正気を、古沢は激しく疑った。
「視えることは良かったんですが、彼女を追いかけていかれたのにはびっくりしました」
「追い…?」
なぜ自分は追いかけて行ったのだろう――古沢は考え込む。なぜだか、あの時は考える間もなく走り出していた。本来なら怖がりの自分が得体のしれないものを、無条件で追いかけていくことなんて考えられないのに。
「閉じられた屋敷は、あの小娘の独壇場じゃからな。造作もなかろう」
「ええ。すでに彼女の策に嵌まっていたんでしょうね」
「頭が痛い……」
呻いた古沢に、空木がびっくりしたような表情で労りの言葉をかけてくるが、それすらも憎らしく映った。
「なに訳の解らないことを言っているんです! 他の人だって見たんでしょう!?」
僕だけが見たわけじゃない、という言葉に、あっさりと空木が首を振る。
「いえいえ。視える人と視えない人というのはあるんですよ。相性とでも言いましょうか。恐怖心というのは、無いモノをあるように見せることがままありますが、小林さんは毎日通っているにも関わらず、一度も視たことがないとおっしゃっていたでしょう? 邪な気持ちがなかったからかもしれませんが、多分、視えない人なんだと思います」
もう古沢は首を振るしかない。おかしいのは自分か空木か……両方か。
「血筋というのもあろうよ」
「あるかもしれませんね。ところで、どうします?」
「え?」
「ここで引き返しますか? これ以上、危ないことはないとお約束しますが、もう古沢さんは条件を充分満たしていますし、小林さんという証人もいますから、無理をする必要はありません」
「で、でも彼女は……消えて…」
「消えてはおらぬ。屋敷の中にまだおるぞ」
「どうしますか?」
古沢は迷い、やがて首を振る。
とてもではないが、ここで「はい、さようなら」という気にはなれなかった。
古沢は意を決して立ち上がる。それが答えだった。




