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「古沢さん…!」
声とともに飛び込んで来た空木は目の前で展開されている光景に一瞬だけ双眸を見開いて、立ち止まった。走ってきたのだろうか、少しその肩が上下に揺れていた。
「彼から離れなさい」
静かな声音だった。古沢に馬乗りになって、その首を締め上げていた美栄子が、その声に振り返った。
「邪魔をするな……!」
その声の主を、美栄子は忌々しそうに睨めつけた。
「悪ふざけにしては度が過ぎますよ」
「うるさい……!」
激しい声に、空木が短い息を吐き出し、ゆっくりと首を振った。
両者から少し離れた上空から「いい態度じゃな」と大姫が呟いた。
「それが正しい相手なら考えもしますけれどね」
ぎりぎりと歯軋りが聞こえた。美栄子の唇から悔しげな空気が零れる。
「うつ、ぎさん…?」
古沢の霞かけた視界に草履と濃紺の着物の裾が見えた。
「まだやるというなら、こちらにも考えがありますよ」
空木がため気をついた。
「甘いのう」
やはり空木の背後にいた女の呆れの混じった声音に、美栄子が小さく、だが鋭く身じろぎし、その腕の力が少し緩んだ。
「乱暴なことはしたくないんですよ」
解ってください、解っているでしょう――どちらともとれる響きだった。果たして、その言葉は目前の美栄子か背後の大姫に向けられたものか。
動かない美栄子に、空木が少しだけ悲しそうな表情をした。
空木が一歩踏み出すと、美栄子の手が一段と緩んだ。美栄子の双眸は怒りになかに小さな怯えを孕んで、近づいてくる空木を凝視していた。その距離が縮まるにつれ、怯えの色が怒りの色を塗り替えていく。濃くなっていく。
空木は古沢の傍らまで来ると、動けずにいた美栄子の肩に軽く手を乗せた。途端、美栄子の体が古沢から弾き飛ばされた。
古沢の喉にどっと空気が押し寄せる。
「大丈夫ですか」
空木が古沢を助け起こす。
目の前がくらくらした。なんだか指先が痺れているようだった。
「すみません、遅くなって」
「い…いえ…」
古沢は首を振ろうとするが、喉が痛んだ。
「美栄子…美栄子は……」
空木の手を借りて体を起こしながら、古沢は美栄子を探す。
「彼女は美栄子さんではありません」
古沢の背を支えながら、空木が前方を指し示した。
「よく見て下さい。彼女は美栄子さんではありません」
床に崩れ落ちていた女がゆっくりと半身を起こした。弾き飛ばされた衝撃で結っていた髪がほどけたのだろう。一房、長い黒髪が流れて落ちた。
色の白い、細身の、けれど少し頬の線がふっくらとした女だった。それまでの鬼面のような怒りの形相は、すでにそこにはなかった。あったのはぽっかりと穴の開いてしまったような悲しみの表情、眼差し。
美栄子とは似ても似つかない――女。
「大丈夫ですか?」
ちゃんと見えていますか?
戻ってきましたか?
そんな空木の問いに、古沢はぎこちなく頷く。
「は…い…」
茫然として、古沢は女を見つめた。女は古沢を見てはいなかった。
なぜ、美栄子だと思ったのだろう……。
「仕方ありません」
まるで古沢の心中を読んだかのように、空木が云った。慰めるように。
「彼女に、夢を見せられていたようなものですから」
「それは、どういう…。彼女は…」
――誰?
「井上氏と暮らしていたという女性です。この屋敷に出没していた幽霊の正体ですね」
「え!?」
呆気に取られて空木を見るが、相手が至極真面目に言っていると解って、古沢はじわりと汗が浮き出るのを感じた。
古沢の頭の中でぐるぐると疑問が渦巻き始める。
酸欠でふらつくのか、理解できる許容量がいっぱいでふらつくのか――。
「ええと、つまり、つまり井上さんが亡くなってから、ピアノを弾いていたという?」
第一声としては予想外の言葉に、空木が眸を瞬いた。
「え? ええ、多分」
言いながら、問いかけるような視線を女に向けた。
「間違いないみたいですね」
「ずっと、ここに一人でいた……?」
この屋敷の中にいたというのか。この女性が?
まじまじと古沢は、女性を眺めた。
財産相続騒動と幽霊騒動に狂奔する人々の姿を尻目に、この女性が?
「一人で…?」
「くどいのう」
大姫が呟き、空木に視線で咎めらる。混乱の只中に溺れている古沢には、その呟きはまるで聞こえていない。
「井上さんと最期まで一緒にいた女性……?」
「彼女です」
「医者が見たというのも…」
「彼女です」
苦しそうに女が身じろぎした。相変わらず視線はあさっての方向で、二人を見ようとはしなかった。
「なんで、僕を…」
なんで首を絞められたのか。彼女は本気だったように思う。だが、そんな仕打ちをされる理由が解らない――なぜだか怒りはなかった。ただただ疑問だった。
空木は大きく頷いた。
「なぜこんなことをしたんです?」
空木の問いかけに、女の顔が微かに二人の方へ向いた。
「なぜ殺そうとしたんですか。それが井上氏の意思ですか?」
相変わらず静かな声音だったが、女にとっては両頬を引っ叩かれたような衝撃だったらしい。眸を瞠り、二人を見つめた。
「……違うわ」
「そうでしょうね」
「殺すつもりはなかったわ」
「そうですか?」
空木の声音に非難の色はない。ただ本当に疑問を呈しているだけのようだった。
「雪弘が死ぬときまで気にかけていたのに、何も覚えていなかった……」
女はかつての屋敷の主を、名前だけで呼んだ。
「雪弘が遺そうとしたものを、いらない、と言った」
その言葉に、古沢は一瞬考え、はっと身じろぎする。
「…私は雪弘の願いを叶えたかっただけ」
うわ言のように女は呟いた。
「この屋敷に来た人に脅しをかけ続けた、のはいいとしても、これはやり過ぎです」
古沢の首に残る痕を見て、空木の声音に微かな批判が滲む。
古沢はただ、二人のやり取りを息を詰めて見つめるばかり――。
「井上氏が望むこととは思えませんね」
女の表情が歪み、そして女はそこから掻き消えた。