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蔦揺籃のみた夢  作者: 佐原万葉
第三章 蔦屋敷
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 気丈な女性だった。


 美栄子――古沢が一方的に別れを告げた彼女とは、友人の紹介で知り合った。謂れのない罪を着せられて退社に追い込まれた古沢を、微塵も疑うことをしなかった。

「いったいどういうことなのかしらねえ。ちょっと調べたらわかりそうなものなのに。仕事が大好きで、私との食事の約束、今まで何回忘れたことあった? 覚えてないでしょう? そんなあなたが、そんなことに時間を割くわけないのにね」


 古沢の彼女に対する所業は面目ない限りで、多いに反省をしたものだった。

 そして彼女は根拠になり得ない主張に胸を張り「なんとかなるわよ」と笑った。

 「私だって働いているんだし、しばらくはね、大丈夫よ」


 結婚を考えてはいたが、婚約もまだだった。

 そんな相手に、彼女は「大丈夫よ」と笑う。

 おそらくそれは、喜ぶべきことだったのだと思う。いったい、同じ状況下で同じ言葉をかけてもらえる男がどのくらいいるであろうか。欠けることのない信頼に、心強くあるいは感謝こそすれ、重荷に感じるなどどうかしている。

 しかし、古沢は美栄子を真っすぐに見ることができなくなっていた。彼女に対する後ろめたさか罪悪感か……。


 その後すぐだった。美栄子が、彼女の上司から見合いを勧められているということを聞いたのは。商社に勤める彼女は、その人柄通り、真面目でコツコツと良く働き、上司の評判も上々だと知っていた。

 良い大学を出たエリート。なによりも経歴の無傷な将来ある相手。このまま自分と付き合っていていいわけがない。

 そう、思った。

 このままでは横領犯の妻になってしまう、と思った。無実だけれど世間では違う。真実が時に事実となり得ないことを、古沢は嫌と思い知っていたから。だから、別れを切り出した。美栄子は泣いた。

「どうして?」

 彼女があんなふうに泣いて反論するのを見たのは、あれが初めてだった。

 美栄子の泣き顔が焼き付いて離れない。


「どうして?」

 古沢の目の前に美栄子がいた。しゃがみ込み、泣き崩れて。あの日の――別れ話を切り出したあの日と同じ様子で。

 泣いている。

 これは夢か……?

 ここに美栄子がいるはずがない。美栄子はとはもう一か月は会っていないのだから。

 ここはどこだ……?

 思考がまとまらない。


「どうして…?」

 美栄子の声が震えている。

 古沢は応える言葉を持たなかった。何度繰り返しても、たとえ夢の中であっても、応える術もなく立ち尽くすのだ。


「どうして私を捨てたんですか?」

 目の前の女は両手で顔を覆って涙にくれる。

 美栄子はいつのまにか着物姿になっていた。それをおかしいとも思わなかった。

 彼女自身の輪郭がひどくぼやけているように、古沢には見えた。

「なぜ捨てたの」

「違う…!」

 古沢は問われて、思わず叫んだ。

「違う…」

 いや、違わない――古沢の心の中で声が上がる。

「私はあなたを信じていたのに。なぜ、あなたは私を信じてくれないのです……」

 違う、違う。信じていないわけじゃない。疑ってなんていない。

「私などどうでもよかったというのですか」

「違う…!」

 喉が干上がるのを感じた。言葉がうまく出てこない。

「そう、じゃないんだ。そうじゃない…。僕は……僕は怖かったんだ」

 いつの日か彼女が離れていってしまうのが。今、信じてくれていると解っていたらからこそ、怖かった。そんなことを考え出すと泥沼に嵌まった。

 美栄子のため、美栄子の将来のため――そんな理由をつけながら、本当は自分が怖くなって逃げ出した。


「なんて身勝手な…!」

 古沢の目の前の女が顔をあげた。面は怒気に染まり、その身からは悲しみの中に迸るような怒りがあった。女が怒りのままに襲い掛かった。白い手が、古沢の喉に食い込む。

 どうっと、押されるまま後ろに倒れた。

「許せない…!」

 美栄子が恨めしいと歯軋りする。

 古沢は振り払おうとは思わなかった。

 いつか喪う日が来るならと、一方的に切り捨てた。彼女の意思を聞きもせず、自分の身だけを可愛がってやった結末がこれならば、反論の余地はないではないか。

 仕方がない、と思った。

 爪が皮膚を破った感触がした。首筋に、生暖かいものが触れる。

 変だな…美栄子は爪を伸ばすのが苦手で、いつも短くしていたのに――遠のいていく意識の隅で、古沢はそんなことを思った。



***



「うっとうしい!」


 その場を切り裂くような、苛立ちを隠そうともしない女の声が周囲に響き渡ったのはそのときだった。

 朦朧とした頭で、古沢は不機嫌極まりない――眦を釣り上げた美しい女が、ぼんやりとした視線の先に浮いているのを見た。


 鮮やかな着物の袖が揺れている。

 人が宙に浮くわけもないので、これは幻だと思った。噂に聞く走馬灯というのとはずいぶん違うなあ…と妙に思っている自分がなんだかおかしくて、唇の端に笑いが浮かんだ。


「いつまで呆けておる!」

 声音に頬を叩かれ、古沢は茫然としながらも眸を瞬いた。

 一方、大姫の方は云い捨てると、もう古沢などどうでもいいというように、その双眸を古沢に馬乗りになっている女にひたと定めていた。

「いつまでも馬鹿馬鹿しい茶番につきあわされるのは不愉快じゃ」

 大姫は勝手に乗り込んできて、勝手な台詞を吐く。

 その言葉合図だったかのように、突然、布地が大きく裂けるような音が響き渡った。


 それは大姫が唐突に出現してから、ほんの数十秒後の出来事だった。



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