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蔦揺籃のみた夢  作者: 佐原万葉
第三章 蔦屋敷
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 しんとした空気が満ち、ことりとも音がしない。

 人の気配がしない。

 無人の部屋の扉を開けては閉めて、空木は「これは参りました」と呟く。


「まんまと隠されてしまったのう」

 空木の耳朶を、ふいに笑みを含んだ女の声音が叩いた。口調は古めかしいが艶やかな声音は、なぜか空木の頭上から降ってくる。

「あれが、この屋敷を閉じていた張本人じゃな。ふふふ。蔦屋敷の守り人とはよう云ったものよ。なかなかやるではないか」

「大姫……」

 少々、咎める響きを含んだ声音で、空木は相手の名前を呼んだ。

「冗談を言っている場合じゃありませんよ。まったくこんな大事になるなんて思ってもいませんでした」


 まさしく烏の濡れ羽色という美しい黒髪がさらさらと流れ、朱色を基調とした中に淡い桜の柄が散った鮮やかな色彩の振袖をまとった声の主は、軽く膝を折る形で空木の肩口の上に浮いていた。


「幽霊騒動のことかえ? それともまんまと見失ったことかえ?」

 面白そうに見下ろされて、空木は閉口する。

「……両方です」

「それは、そなたが悪い。幽霊騒動然り、頼まれていたにもかかわらず、怠惰を決め込んで様子を見に来ないから、こういうことになる」

 甘さのない顔立ちは冷たさを孕んで実に美しい。白い面のなかに鮮やかに咲く、小ぶりの朱唇を着物の袖で隠し、大姫と呼ばれた女はころころと笑った。

「別に怠けていたわけじゃありません。それに、そうほいほいと出てこないでくださいよ。見られたらどうするんです」

「ほう? 誰に見られると言うのじゃ? ついてきてくださいと懇願してきたのはそなたの方だったと思ったがのう? ひどい言い分じゃな?」

 懇願…と呟き、しかし「すみません」と即時に空木は白旗をあげた。

 すぐに詫びを口にした空木に、大姫はつまらなさそうに見下ろした。

「心配は無用。あの男なら、妾の存在にとうに気が付いておるぞ」

 まったく信じていない様子の空木をちらりと見て、少々わざとらしく大姫が溜息を吐いた。

「あの男は、電車の中で会ったときに妾の存在を感じ取っていた。覚えておらぬか? ひどく驚いた顔で、そなたを見ておったろう?」

「…そうでしたか?」

 記憶を辿るが、それらしいことは思い出せなかった。

「情けないのう。普段から身を隠しておれ、人に気づかれるなと妾に口煩くいうわりに、そのように鈍いようでどうするというのじゃ」

「…すみません」 

 見下ろされているからではない。外見上はさほど年齢差のない二人だが、覇気も気迫も大姫の方がはるかに勝っていた。立場にも、それが反映されていた。

「でも、なにも言っていませんでしたよ?」

「当り前じゃ。見えぬからこそ不思議がっておったのじゃ。違和感を覚えた程度ならば、勘違いで済ませるのが人じゃ。どうやら、あの男はここの主ほどの力はないらしい」

「別に、井上氏も力がさほどあったわけではありませんよ」

「そうかえ? もう放っておけばよかろう」


 足早に階段へ足を向ける空木は、何かを探しながら周囲へ視線を飛ばす。

「そういうわけにはいきませんよ。これの原因はあなたにもあるんですからね」

 大姫の眦がかすかに上がる。

「なぜじゃ」

「あなたに気が付いて、彼女が引き離しにかかったんですよ」

 大姫が不機嫌そうな面持ちになった。

「言いがかりじゃな。妾は無理矢理押し入ったわけではない。邪魔であるのなら、あの小林とやらと同じく締め出せばよいことじゃ」

「無茶言わないでください…。あなたを締め出すなんてことは、彼女には無理です」

 力が違いすぎる――言葉にはせずに嘆息する。

「無駄なことはしたくなかったんでしょう、きっと」


 大姫にとっては、封じられていた蔦屋敷に入り込むことなど、実は造作もないこと。それを知るから、空木の口調は渋い。

「それが本当ならば、この屋敷のモノの見方を変えねばなるまいな。じゃが、妾はそなたが入れなかったら、入るつもりはなかった。そなたまで中に入れた、向こうが悪い」

「僕は関係ないでしょう」

 大姫の双眸が冷ややかなものになる。

「ほう? 面白いことを言うのう。妾はここで帰っても良いが?」

 じろりと睨まれ、空木は沈黙する。


 人に非ざる存在。

 悪戯に人の世に干渉して混乱を引き起こしては楽しむ同胞も少なくないなかで、大姫は基本的に人の世には無関心である。干渉する気もないから干渉もするな、という立場の彼女に同行を願うために説得するのは、なかなか骨の折れることだった。

 ここで臍を曲げられて、本当に帰られてはたまらない。空木は誠心誠意、謝った。

「ふん……まあよい。それで? いったいどうするつもりかえ?」

「どうしましょうね」

 打開策を思いつきません――と胸を張った空木に、大姫は心底呆れた顔をした。

「言っておくが妾が居ようと居まいと、この結果にさほど違いはなかろうよ。とはいえ、なぜ、そなたまで入れたのか」


 空木の後ろを滑るようにして、大姫が続く。足があるのだから、走っても良さそうなものだが、面倒なのか足を地につける様子はない。

「僕も気になっていたんですが、やっぱり妙ですよねえ」

「そなたが約定を違えたのに腹をたてたのやもしれぬな」

「そんな大げさな」

 別に約束を破ったわけでは――と顔を顰めた空木を、大姫は鼻先でふんと笑った。

「そなた、見守るだけのつもりだと言っておらなんだか? 期日を守らず首をつっこんだのはそなたじゃぞ」

「それはまあ確かにそうなんですけど……」


 約定――実は遺言には続きがあった。

 もし屋敷の鍵を持つ候補者たちの中から、期日内に相続人が決まらなかった場合、この屋敷は然るべきところへ寄付されることになっていた。

 期日が来れば、蔦屋敷は開かれる――空木はその見届け人の一人。

 万が一、何らかの理由で期日が過ぎても屋敷が開かなかった場合、空木が対応することになっていた。

 空木は保険である。いつまでも屋敷が閉じられたままでは、いつか周囲が騒ぎ出す。おかしい怖いと一部で言われているうちはいいが、これが大々的に取り上げられ、人が大挙してくる事態は望ましくない。故にそれを案じた、この屋敷の主によって、それを避けるための保険として期日と空木が用意されていた。

 期日は今日の日没まで。

 空木には、その時には屋敷のあるものを保護することが課せられていた。


「でも相続人たちを脅してまわってるのはやり過ぎです」

 話を耳にしたときは困惑した。そんな話は聞いていなかったからだ。それでも静観して――最終日、残ったのは古沢一人というところまで待った。

 嘆息する空木に、大姫が喉元で笑う。

「何を見せられたのやら。訳の分からぬ悲鳴をあげながら逃げ出すなぞ、よほど都合の悪いものを見せられたのに違いない」

「面白がらないでください。気の毒ですよ」

「欲の皮を張っているからじゃ」

 大姫は言い切る。

「最後の最後で引き当てたというわけじゃな」

 古沢が最後の一人だったが、こんな風に巻き込まれるとは空木は予想だにしていなかった。そして――。


「まさか僕がいたから扉を開けた……なんてことはないですよね…?」

「さて、妾には真偽のほどはわからぬが、この期に及んで期日を間違えるような間抜けでは話になるまいよ。それに、そうであるなら、あの小童も入れぬはずじゃ」

「こわっぱ? ああ、古沢さんのことですか…」

「ほかに誰がおる」と言われて、空木は苦笑する。大姫からすれば、すべての人はすべからく小童だろう。

「大姫の言う通り、古沢さんを選びたくなかったなら、小林さんと同じように締め出せば良いわけですからね」

 たとえ、うっかりで開けてしまったとしても――。

 やはり古沢が選ばれたのだ。


「それで、どうしてこんな状況になっているんでしょう…?」

「さあ」

 大姫の応えはそっけない。

「古沢さん、無事ですか?」

「今のところはの」

 なぜわかるのかなどと聞きはしない。ただ、空木はげっそりとした表情になる。

「脅かさないでください…」

「脅してなぞおらぬ」

 興味もないとばかりの大姫に、空木は嘆息した。

「なんでまた急に…」

 屋敷に入ったときには、こんな気配はなかった。少なくとも敵愾心はなかったはずだ。

「いったいどういうつもりなのか…」

「さあて。好意的なものではないのは確かじゃな」

 所詮、大姫にとってはどうでもいいことらしい。

 空木は頭を抱えそうになった。

「古沢さんが選ばれたんじゃないんですか?」

「妾に言うても仕方あるまい。向こうに聞け。じゃが、そうじゃなあ、ここのは妾が思っていたよりも、力はあるらしい。うまく隠しておる」

 予想外のことだと楽しそうに笑う大姫だが、空木はげっそりとするばかりだ。全く楽しくない。


 心配と云えば、小林のことも心配だった。随分と手荒く弾き飛ばされていたから。

 元気に叫んで、走り去っていく気配がしていたので多分大丈夫だとは思うが――。

 空木は疲れた顔の親切な不動産屋の店主を思い浮かべ、嘆息した。

 まさか、まったく何も知らされていないとは思っていなかった。

「手を抜きすぎではないかえ?」

 それくらい確認しておけ――と言外に云われ、空木は「すみません」と身を縮めた。


 完全に巻き込まれている小林。渦中にほど近い場所に据えられてしまったのに、何も知らされずにいる小林には正直同情を禁じえなかった。

「今回の一番の被害者は小林さんかもしれませんね…」

「どう説明するというのじゃ」

「そうですかねえ。小林さんもわりといけそうな気はしますけど」

 大姫は空木に胡乱な目を向けた。

「あの弁護士のように、ただ待てと言われて待てると?」

「……無理、ですかねえ」

 大姫のいうのは井上の顧問弁護士青木のこと。

 青木とて、どうして屋敷が開かないか――そのからくりまでは知らされていない。ただ期日までは待て、と。それで納得している。

「ああ、なるほど。だから、この幽霊騒動のことも静観しているわけですね」

 青木も困惑している様子はあったが、それだけだった。

 むろん、空木も同じなので、文句を言える筋合いはないが。


 大姫がくつくつと笑う。

「そういう意味では井上は見る目があったのう。なかなか面白い。それが理由じゃな」

 納得して黙って待てる青木と、そうはいかないであろう小林――選別の理由。

 そこで大姫は笑いをおさめ、じろりと空木を睨んだ。

「なぜ妾まで巻き込まれければならぬのじゃ?」

「……期日が過ぎても開けて貰えなかったときに――その可能性が大いような気がしたので、その場合には大姫に中から開けてもらわないと、ちょっと無理かなあと」

 心持ち、小さくなって空木は云う。大姫の視線はますます冷たい。

「妾を連れてきた理由なぞ訊いておらぬわ。そんなことは知っておる。わざわざ、あの小童に接触した理由じゃ。期日にはまだあろう。妾を謀るつもりかえ?」

「謀るなんて、そんな大袈裟な…。古沢さんの為人を直接、見てみたかった――これは本当ですよ。あとは」空木が小さく嘆息し「古沢さんに味方したくなりました」と吐いた。

 見届人としてはいささかまずいという思いもあるが、そもそも空木に公平性は求められていないのも事実。

「随分と気に入ったものじゃな?」

「良い方でしょう?」

「しらんわ」

 大姫の視線が動いた。近づく虫に気が付いたかのような、ほんの少しの動きだった。

「杞憂が本当になったようじゃぞ」

 ぴたりと空木が足を止め、振り返って大姫を見上げた。

「二人のいる場所がわかりますか?」

「無論じゃ」

 もっと早く教えて欲しいなどと、文句を投げる愚は犯さない。

「入れますか?」

「入れる」

「お願いします」

 大姫は頭を下げた空木を、しばし無言で見下ろしていたが、やがてつまらなさそうに小さく鼻を鳴らした。

「その殊勝な態度に免じて、今回だけは動いてやろうよ」

 ぱっと顔を輝かせた空木に、しかし…と大姫は続けた。

「妾を利用しようとしたつけは重いぞ。覚えておくがよいぞ」

 言うなり、大姫の姿はその場から溶けるように消えた。



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