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ぐっと今度こそ力を入れて蓋を開けきった。身構えたよりもすんなりと開いたそれを優しく床に置く。
「じゃあナ」
僕の耳に届いたのはザガンの声。まったく何を言っているのか。
目を離して一秒、箱の中身を覗こうとした時、ふわりと一枚の貝殻が宙に浮いた。まるで神様が使う魔法のような現象に、呆気に取られた。なぜなら、その札が僕に色々なものを見せたからだ。
まず、僕の眼前に溢れたのは水。川ではない、海の水だ。海水が神社を引き倒し、ここではないどこかへ僕を流してしまった。濁流ではないにしても、僕の背中を優しく水流が押したのだ。僕は心地が良いまま、ただ呆然と海に呑まれる。ふと、流れが止んで凪ぐ水面にミレーのオフィーリアの絵のように浮かんでいた。このままどこまでもぼうっとできそうだったけれど、僕は辺りをぐるりと見渡す。ザガンも、ヒイロ少年も、いない。
僕の四方、どこを見ても果ては海だけ。青い水面と白い空が水平線で溶け合っている。さらさらと勢いの無い波が打つ。不思議なことに、濡れている感覚はあるのに僕の身体は沈んだり浮いたりもしなかった。
ぼうっと波が来るほうを眺めていると、地響きが聞こえた。それはやがて振動になって海の水を揺らし、波が慌ただしく騒ぎ出す。僕は焦って逃げようとするけれど、その前に僕の踏み出した右足から徐々に地面が盛り上がっていくではないか!
驚く暇もなく、新しく生まれた地面に立った。足の裏の感覚がはっきりした。白い砂浜を爪先で蹴ると、柔らかい砂が風でふわりと飛んだ。
「なんだ、ここ」
率直に生まれたのはそんな感想だった。突如として何もない海に砂浜が張り出し、気づけばはるか向こうの山までが生成される。僕の後ろにはさっきと似たような海があった。
とりあえず、知らないところに連れてこられたのだ。散策しない手はない。
「砂浜。本物? ……あれは、ヒイロ?」
思いのほか、ピースはすぐに見つかったらしい。僕の少し先に、砂浜で一人遊んでいるヒイロ少年が見えた。海の家も併設されているビーチで、近くには住宅が並び、本来なら人通りも多いであろうところで一人。開いたままのパラソルや、膨らましたままのボート、浮き輪。宙に浮いたビーチバレーのボール。人がいないと成り立たない景色の中、動いているのは僕とヒイロ少年だけ。よく見るとヒイロは、さっきまで話していた姿よりも、幼く見えた。半袖に半ズボン、麦わら帽子をかぶって、黙々と砂の城を作っている。
日差しのせいでかいた汗を拭う。ヒイロに声を掛けてみることにした。
「おーい、ヒイロ!」
「ひぃくんっ」
僕の呼びかけとほぼ同じタイミングで、女の子の声が重なった。聞き覚えのある声だ。
「◆◆◆! 遅いじゃんか!」
僕が知るよりも幼いヒイロ少年は少女のほうへ手を振りながら、にこにこと汗を拭う。声にノイズが混ざったようで、うまく聞き取れない部分がある。
「ごめんね……でも、売店のお兄さんが花火のほかにアイスをくれたよ。はい、溶けちゃわないように」
「俺、溶けそうなアイスは食べない主義。だから◆◆◆が食べていいよ」
「で、でも……」
「いいから! ……アイス好きなんだろ」
それなりに距離があるはずなのに、二人の声がはっきりと聞こえた。『神話』は神の存在証明だとするなら、目の前にいる少年が少女の存在証明の一部だと考えられる。高度な妄想である可能性も考慮できるが、大部分は少女が持つ記憶で構成されていそうだ。
「好き、っていうか、食べたことないっていうか」
「ほら、貸して」
一人困惑してアイスの行き場をなくしていた少女の手からヒイロ少年がそれを奪い取った。勢いをつけて、少女の口の中にソーダ味のシャーベットアイスを放り込んだ。
「は、はい。うぅぅう!? つ、つめひゃい!」
「もう◆◆◆のアイスだから。うまい?」
「美味しい……」
楽しそうに談笑する二人を、僕はただ見ていた。正確には見ていることしかできなかった。僕がこの世界でできることは、本当に少ないらしい。試しにパラソルを動かそうとしても、石のように重くて動かなかったのだ。恐らく先ほど、僕が話しかけたのもヒイロ少年には届いていないのだろう。
干渉のできそうもないのに、僕はなぜ女神の『神話』の世界に巻き込まれてしまったのか。沸き上がった疑問を搔き消すかのように、景色がみるみる変わっていく。夏の砂浜が溶けてなくなり、即座に浮かび上がったのは山だ。それから石畳と石の階段。これは僕の家の近くにある小さな祠へ続く入口だ。見知った光景に懐かしさを感じた。
「◆◆◆、段差、きをつけて」
「ありがとぉ、ひぃくん」
僕だけが知る紅葉の名所に、かつて来客があったなんて知りもしなかった。ヒイロ少年は手慣れた風に少女をエスコートしている。仲睦まじい二人は、手を繋いだまま色づく紅葉を眺めた。
「このたびは 幣も取りあへず 手向け山 紅葉の錦 神のまにまに」
思い出したようにぽつりと呟いた少女。菅原道真が詠んだ、旅の句だ。
「ん? なにそれ」
「百人一首だよ。菅原道真っていう神様?が詠んだ句なんだって」
「へえ、意味は?」
「うーんと、神様に捧げる幣を用意できてなかったから、代わりに紅葉をお供えします。神様、受け取ってくださいませ。っていう句かな」
なるほど、ヒイロ少年が遊びの一環で百人一首をしようと言った理由が分かった。少女はヒイロ少年に時々歌を教えていたのだ。
――となると、自動的にヒイロ少年の“好きな人”は少女ということになる。僕を呑み込んだあの――そこまで考えて、止めた。僕はヒイロ少年の気持ちを否定する立場にない。誰も否定できないんだ。
「はい、お供えもの」
ヒイロ少年が何を思ったのか、落ちてきた葉をキャッチして、少女の手に乗せた。意表をついてやろうという心意気のようで、口角が上がってしまっているのは隠せない。
「えっ! えと、受け取れないよ」
「どうして?」
「どうしてって……私は、ひぃくんから贈り物を貰う資格なんて、ないよ」
「資格なら十分すぎるほどある」
「えう、」
「おれの女神様だ、から?」
……おお。顔を真っ赤にしたヒイロ少年と、あたふたする少女を見ているとなんだかこちらまで恥ずかしくなってくる。
「は、恥ずかしいこといわないでよぉ!」
「まだまだ弱小女神様だけど! いっでぇ!」
「ご、ごめんね……」
勢いでヒイロ少年の背中を強く叩き過ぎらしい少女は申し訳なさそうに謝った。か弱いように見えて、並みの人間が適う相手ではないことを知っているため、僕は少し数時間前の出来事を思い出して胃が痛くなった。
とにかくあたたかい空気感が、瞬時に冷えた。これは場面が変わる前兆だ。
夏、秋ときたら次は冬である。案の定目の前の景色が変わり、雪の降り積もる庭が広がった。ヒイロ少年は布団に横になっていて、襖を開け、縁側の向こう側にある雪を見ていた。少女はヒイロの視線の先にいて、雪の妖精に見紛う姿ではしゃいでいる。僕はそんな二人を部屋の一番奥から見ていた。
「雪! ひぃくん、これ雪だよ! ……冷たい!」
「はしゃぐなよ。あともう少し静かに」
「えう、ごめんなさい」
僕の地元はあまり雪が降り積もらないから、もしかしたら別のところなのかもしれない。例えば長野とか新潟とか北海道とか。
「◆◆◆、こっち」
「うん。どうしたの? おなか痛い? おむねのほう?」
嫌な言葉だ。ヒイロ少年がまるで病人みたいだ。よく見ると、ヒイロ少年の着物から少し出た首や手が秋の頃よりも痩せていることに気づく。単なる風邪というよりも、病気を患っているほうが正しいのかもしれない。いったいどんな病だというのか。
「大丈夫。そうだ、◆◆◆は桜、見たことある?」
「ないよ。春ってどんなものかわからないし。昔の歌を学んでると、春ってものはきっとうららかで暖かい、いい季節なんだなって。でも、それだけしかわからない」
「冬が過ぎたら春が来て、桜が咲く。俺は桜が大好きで、◆◆◆と一緒に見たいなって思ってる」
「う、うん! 私もだよ! 私も見たい!」
桜を見る約束。普通に生きていければ簡単に叶う。
『神話』には結末があるのだろう? そして、やはり僕は何をすべきなのだろう?
少女が履いていた下駄を脱ぎ、縁側から室内へ上がった。僕の姿は見えていない。真っ直ぐにヒイロのもとに静かに座った。
「ひぃくん、蜈?ー励縺ェ縺っ縺ヲ!」
「!?」
ヒイロを労うように寝転ぶ彼の肩に手を置いた。柔らかい笑顔だが、突如として声が認識できなくなる。音にはなっているし、口も動いているのだけれど、その内容が理解できなかった。日本語でもないし、他のどの言語とも違う。聞いていて気持ちが悪くなる音だ。
「縺ゅj縺後……遏・縺縺ヲ繧具シ溘譯懊荳九縺ッ」
「豁サ菴薙′蝓九∪縺縺ヲ縺k」
「遏・縺縺ヲ縺溘°」
バグ。ふと頭に浮かんだのはこの二文字。ザガンが言っていた言葉。文字化けならぬ、音化けをしているんだ。
不気味な音声に、僕はこの場から逃げ出したくなった。おかしい。二人は笑いあっているのに、時々その表情が悲しいものに切り替わる。挙動もおかしい。手が六本になる瞬間さえあった。ついに音だけでなく、二人そのものが完全にちぐはぐになった。
その時、僕は安直だが直感した、この意味不明なバグを取り除くためにいるのだと。そうとなればただ呆然とは見ていられない。僕はこの部屋にある唯一の箪笥を開けた。第一、開けられるかの勝負であったが、どうやら杞憂だったらしい。パラソルも動かせなかったのに、この箪笥に干渉できるなら御の字だ。上の四段は服、次の二段は文房具や赤点のテスト用紙などだ。そして、最後の一段を開ける。
「……これは、」
百人一首の箱。ヒイロが持っていたものと同じだ。
僕が唯一知る情報と合致するもの、直感がこれだと叫ぶ。乱暴に蓋を開け、中の札を探る。何か違和感がないかを見つけようとする。
僕と彼の接点はこれだけ。ならばここに何かあるはずだ。そう思いたい。もし見当が外れれば、どうなってしまうのか。
「……数か? いや、……文字化け?」
見つけた! 文字化けした読み札!
そうなると、この札が元は何の読み札かを推察しないといけない。虱潰しで探すしかない。生憎、時間は十分にありそうだ。
「秋の田の……春過ぎてあしびきの、田子の浦、奥山に、かささぎの天の原、わが庵は」
順番通りで助かった。もしかしたら、少女と遊ぶために購入して手付かずのまましまっておいたんだろう。
「花の色はこれやこそ、わたの原、天つ風、つくばね――あれ?」
ふと、音が消えた。後ろの方で不可思議な動きを繰り返していた少女とヒイロが消えている。僕は不意に顔を上げ、文字化けした札だけを持って縁側にまで出てみる。
綺麗な雪が綺麗な庭に積もっているだけだった。しかし、二人はどこにもいない。静かすぎて不安になるほどだ。
僕はまた文字化けの札が何の歌であるかを調べるために、部屋へ戻った。その時だった。
ザッと襖が開いた。そして、開いた襖の向こう側が赤黒い肉塊が蠢いていた。
「豁サ縺ュ! 豁サ縺ュ! 縺ォ縺医縺ェ繧!」
「豸医∴繧! 豸医∴繧! 縺ォ縺医縺ェ繧!」
「蟠ゥ繧後m! 蟠ゥ繧後m! 縺ォ縺医縺ェ繧!」