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「特に異常とか、ないよね? 大丈夫だよね? ね?」
「はは、そんなに心配しなくても」
バスに揺られて二十分。左の車窓からずっと見えていた海を背後に、僕は三石と並んで歩いた。じりじりと茹だる暑さが、考える気力を奪っているような気がする。それは三石も同じで、水色のタオルで額や頬に出た汗の粒を拭っている。
公神館はもう目の前に見える。白い塗り壁に大きな窓がいくつもついた、開放的な建物だ。あと三十メートルもすれば、公神館の敷地に入れるだろう。
ふと、そこで三石が僕を引きとめた。シャツの袖部分をぐっと軽く引っ張られたのだ。
歩みを止め、僕は彼女のほうへ向く。そして、三石は暑さで顔を真っ赤にしながら申し訳なさそうに笑った。
だが、そうだ。後ろの蜃気楼が、笑っている。
「今日はありがとう、今度ちゃんと埋め合わせを、ねっ……今度、一緒に海でも――」
吹き付ける一陣の風。僕は目を見張った。
三石の頭の先からさらさらと音がしたと思えば、次の瞬間、彼女はみるみるうちにピンク色の花びらになって、
「な――三石ッ!!」
三石が、桜の花びらになって消えてしまった!
手を伸ばすももう遅い。僕の手に花びらだけが数枚残ったばかりで、肝心の三石がいない。
「去年の春 逢へりし君に 恋ひにてし 桜の花は 迎へけらしも。春がきたよ!」
聞いたことのない女の子の声。確実に三石ではない。
僕は声の聞こえた方へ身体を反転させた。空は曇り、先ほどまでの暑さはなくなっている。汗が急速に冷えていく。
僕の数十メートル先には、小さな小さな少女の姿。水で濡れたように輝く長く黒い髪に、健康的な小麦色の肌。身長は低く、小学校低学年くらいのあどけなさが残っている。一見すると、良くも悪くも普通の女の子だ。
「君は!?」
「……おや? お兄さん、だあれ? まあいいや」
僕よりもニ十センチは低いであろう目線が合った。細い手が僕の両手首を掴み、強く強く力を込められた。ぎゅっと肉を抉られるように少女はさらに力を込めていく。そして、少女はにやりと笑って僕の左腕、ちょうどザガンがいるところに爪を立てた。
痛い、と抗議しようと口を動かしたときだった。少女なら話を聞いてくれそうだったからだ。
「――お兄さんもぉ、」
しかし、現実は非情だった。目の前が物理的に真っ暗になっていく。ぽっかりと真っ黒い穴が、俺の腕を飲み込もうとしている! その穴は、少女の口の中。反射的に喰われると感じてその場から逃げようとするも、腕を捕らえる少女の腕の力が強すぎて、無理だ。
人ならざる存在。異形の人外。人の皮を被った怪物。この少女の理不尽さはまさにその証。
(――神様、)
死を覚悟した。少女の幼い顔は歪み、直径にして三十センチにまで迫る口からわずかに唾液が垂れた。瞬間、ぞわりと背中が震え、血の気が引く。ぎゅっと両目を閉じ、恐怖や不安から逃れようとして、叫びたい気持ちを抑えた。
「いただきまぁす!」
左腕の、ザガンがいる場所に爪がたてられる。黒い目から血の涙が噴出した。それは僕の血でもあり、ザガンの血でもあるのだ。痛みで思わず呻くが、叫ぶ力さえもない。痛い痛い痛い、もう、自分がパズルピースのようにばらばらになってしまったみたいだ。
足で少女の腹を蹴り、身体全体の力を使って今度こそ逃げてやろうと試みた。でも、どうして、少女の爪が僕の神経を抉った。指先が痺れ、肉が空気に露出される痛み。誰か、誰でもいい、この際なんだっていいんだ。この苦痛から解放してくれれば、神でもなくても――
「そこぉ! どきなさぁぁあああいぃぃいっ!」
珊瑚色が目の前で揺れた。聞いたことのない甲高い声がしたと思えば、少女は後方へと吹き飛んだ。その途端、閃光で目の前が眩む。目の裏がチカチカして、脳が麻痺した。
何が起きたのか理解ができない。しかし、僕が抱えていた痛みは完全に消えてしまった。
じくじくと痛みを訴える左腕からは絶えず血が流れている。それでも、傷口をあの爪で抉られるよりはましだ。
目の眩みが落ち着くと、視界に飛び込んだのは先ほどまで僕を喰らおうとしていた少女が、腹を抱えて蹲っているのが見えた。浅く呼吸をし、頭から血を流している姿は見ていて痛々しい。
「あなた様のお名前は?」
肩まで伸ばされた珊瑚色のストレートヘア。黒いシャツに白いコルセットパンツ。首の襟の先には、白磁色のハートが輝いている。靴は黒い革製のショートブーツで、全体的にシンプルな洋装を着こんでいる。
彼女は緊張を隠さず、しかし笑いながらも異形の少女に立ち向かう。その腕には鍵のような、見たことのない不思議な形の剣を持っていた。レイピアのように見えて、その細い刀身から三本の細い刃が飛び出ている。それは物を斬るというより、引き裂くためにあるようだった。
「なまえ……? そんなのない! 神様だもん」
「神様って名乗るのか。そんな神様、いませんよ?」
話が全く掴めないけれど、彼女が少女相手に煽っていることは分かる。彼女は丁寧な口調とは裏腹に、ほんの少し、わずかだけれど剣の先と両膝が震えていた。
「ここで会ったが百年目! 悪さをするその舌、」
と、啖呵を切ったその時だった。剣を構えなおす彼女の背後に現れたのは黒い影。大蛇のようなシルエットに無数の短い手が生えている。それはすぐさま彼女の背中へ飛びついた。
「え!? きゃぁぁあああ!」
鞭のようにしなった黒い影が実体を伴い、彼女の横腹を殴った。目で追えない速さで薙ぎ払われ、大木に激突する音が聞こえた。人一人を受け止めた衝撃で、青々と茂る葉が何十枚も落ちる。
「そ、その子に手を出したら、ダメ、なんだから……」
「お姉さん、とっても弱いのに、なんでそんなに頑張るの……? 自分から飛び込んできたくせに、かっこ悪いよ」
コーラルピンク髪の彼女は、服に落ちた葉を無視してよろよろと立ち上がった。これといった外傷はないが、あの勢いで吹っ飛ばされれば、骨の一つや二つは折れていそうなものだ。
僕はこれ以上戦いに巻き込まれまいと、痛む腕を庇いながら、身を隠せそうな場所を探した。ここはよくある神社の境内のつくりをしていて、鳥居の下から続く石畳が本殿まで続く。その脇にはぽつんぽつんぽつんと左右に三つずつ、赤い灯篭が立っている。ならば、隠れられる場所は一つ。本殿前の狛犬が乗る台座の背後。
急いでそちらに駆け寄り、すぐに身を縮めた。ちらりと境内中央を覗くと、ふらついていた彼女が、不屈の心で仁王立ちしている姿が目に入った。
「ははは。そう、です、よぉだ! 否定できないっ!」
二度目の構え直し。ほつれが見えるパンツは、砂で汚れていた。真っ直ぐに伸びる剣は、彼女の目を体現するかのようだ。
ほんの少しの静寂が支配した。ひりひりとする空気の中で、彼女は突き出した右手と同じほうの足を前に出し、踏みしめた。
「どりゃぁああああああ!」
野太い声が境内に響く。それを真正面から受けようとした少女は、悲痛な声を出しながらも、左へ避ける。
「痛いのは、いや!」
ほんの僅かに少女の柔らかい頬が切れた。臆することなく、闘志を燃やす彼女もまた、逃げた少女を執拗に追いかけた。刃は届いている。間違いなく。それでも、少女はあっけらかんとしているように見えた。痛いから「痛い」と言うわけではない、不愉快だから「痛い」と言っているのだ。
「……装甲が硬い、っ通常の神様ではなさそう?」
肩で息をしながら、彼女は視線を色々な所へ飛ばしている。先ほど襲い掛かってきた大蛇の影を気にしているのだろうか。その姿は見えないし、少女も素直に彼女へ向き合っているらしかった。
「神様、だってば!」
「人より少し、硬い、だけでしょ!」
神である少女にはなんの武器もない。当然だ。神は分かりやすい武器を持ちたがらない。生身で充分に人を支配できる。それなのに、僅かながら頬に傷を負わせたのは、人である珊瑚の彼女が、一般人ではないことが明確にわかる事実だ。
少女は苛立ちながらも、黒い影で応戦する。さっきの大蛇とは違い、小さい蛇のサイズだが、その数が尋常ではない。簡単に見積もっても五十匹は、攻撃してくる彼女の腕やら足やらに噛みつこうとしていた。大半を躱せても、数匹は彼女の四肢や腹にしっかりと歯が届いているらしい。血を流しながらも、剣を下すことはない。常に地面と平行を保ち、しっかりと少女を貫かんとする。
その強い意志が実った瞬間。確実に少女の首を斬ろうと歯を食い込ませた。しかし、金属同士が激しくぶつかり合うようにオレンジの火花が散る。甲高い金属音が耳に響いた。
「刃こぼれ!? うそぉ!」
ふいに火花が止み、彼女自身が跳ね返される。即座に後方へと下がると、少女を中心に大きく迂回し、走り抜いた。少女も怒りのまま、先ほどの大蛇を地面から出し、走る彼女の背中を食い破らんと大口を開けた。
「どんな皮膚してんの、よッ!」
あと数十センチで大蛇の口に捉えられるところで、彼女はその場にしゃがみ込み、大きく剣を振った。影に触れていないにも関わらず、斬撃が届いたらしい。大蛇の頭は完全に切断された。
苛立っているのは彼女も同じだった。境内を駆け回りながら、反撃の隙を突こうと、目の色を変えた。
「マルコ、刀身新調! 三秒後に速度かける!」
マルコ、おそらくは武器の名前で間違いない。剣が呼応したように、刀身から伸びる細い三本線が変形し、矢のようなシルエットに変わった。驚いた、その剣は生きているのだ。
「三」
彼女の身体が見えない力に押されるように、ずしりと足が地面にめり込んだ。そこだけ強い重力を浴びているようにしか見えなかった。
「二」
次は、彼女の剣の柄の部分が変化した。単なる装飾だった蔦が伸び、しっかりと右手を覆った。がっちりと外れないように巻き取られた手は、赤くなりはじめている。
「一」
そして、最後は彼女の瞳の色だ。黒から深紅へ。内に秘めた炎が現実に現れた。
カウントダウンまでの間、少女は微動だにしなかった。苛立ちも怒りもない、せせら笑うだけで、彼女を冷たく見据えた。その姿勢は明らかに挑発するためのものだった。
一秒、たったそれだけで彼女は踏みこみ、赤の閃光となって黒い少女を貫いた。目で追うことはできなかった。それだけ速く少女に挑んだ。
僕のいるこの場所の近くに着地した彼女は、跪いたその足をしっかりと踏ん張り、くるりと少女へ向き直った。
「ちぇ、外したか」
外した? そう聞こえた時、今、彼女と反対方向を向いていた少女が緩慢にこちらへ振り返った。左肩を消失し、その切断面がありありと見える。腕がとれていないだけ奇跡ともいえるが、そんなことよりも問題は少女の雰囲気にあった。
「あははは」
笑っているのだ。年端もいかぬ少女の見た目で、怖がることも暴れることもない。神であることを理解していても、その異様な姿は僕を動かすのに十分な動機になった。
僕は思わず後ろへ駆け出していた。古い社のほうへ向かって走り出す。ここにいても彼女の邪魔になるだけだし、僕が何かできるわけでもない。幼い少女が神であることは理解した。でも、神と人が対峙する場面なんて初めてなんだ。
「……逃がさない」
ぽつりと、少女の怒りを孕んだ声がした。逃がさない、その一言で、僕の目の前が真っ暗になる。ブラックアウトしたのは三秒だけ。再び光が見えた頃には、辺りの景色があべこべだった。
遠近感が狂っている。建物も、人も、少女も、とてもとても巨大に見えた。
「あ、ちょっと、待って! その子は、だめぇぇえええ!」
彼女が叫ぶ。戦っている最中にも聞いたことのない焦った声。困ったことに、僕も動けないでいる。丸いシャボン玉の中に閉じ込められ、大きな手の上に――もしかしなくても、僕、小さくなってしまったのか?
どうやら正解らしい。世界が大きくなったのではない。僕が小さくさせられたのだ。それもこれも、きっと少女の力だろう。とにかく、こうなってしまえば僕はどうすればいいのか。シャボン玉を内側から叩くも、割れる気配もない。
「いただきまあす」
少女の吐息が近い。最悪のシナリオ通りでいけば、僕はこのあと真下にある少女の巨大な口の中に放り込まれるのだろう。
「や、やばい、このままじゃ先輩に殺される……!」
僕は叫ぶ暇もなく、シャボン玉ごと呑み込まれた。ああ、願わくば神様。僕を生かしておいてください……と祈りながら、意識を手放した。