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「これが秘密保持契約書、こっちが雇用契約書だね。秘密保持契約書はニチヨンで得た情報を勝手に外部に漏らさないでほしいなってことが書いてある。雇用契約書に関してはちゃんと説明するよ」
この契約を反故にすれば、どうなるか。簡単に想像ができる。契約しない、または契約を無視した段階で、僕は社会的に抹殺されてしまう。
「さて、君は今日から一か月間、夏休みが終わるまで、ウチでバイトをしてもらう。時給は千二百円。学生のうちは試用期間だ。具体的な勤務内容は、……今日みたいな事件の解決に取り掛かってもらうこともあるし、雑用なんかもある。状況に応じて変動する、って感じだ。OK?」
梶井さんは緊張している僕を笑うように左手で黒の万年筆を遊び、明るい調子で話す。僕も少し肩の力を抜こうとはあっと息を小さく吐いた。
「はい、でも、いいんですか? その、お給料が発生するなんて思ってなくて」
「? 労働には対価がいるだろう?」
「は、はあ……」
法律違反を自覚して生きてきたのはこちらだというのに、なんとも歯痒い気がした。僕としても、好待遇の提案だと思う。
「ただ、三日間は君を試す。使えないと判断したら、君のトモダチを問答無用で処分するからね。三日後、正式に雇用契約を結んだタイミングで、より詳細な内容を書面で渡すよ」
処分するという言葉が、僕の心に少し引っかかる。悪神は腐っても神様であるからこそ、法に縛られたり、恐れられたりするわけだ。それを「処分する」という強い言葉選びをするのは、梶井さん自身の性格だけではなくて、彼女の立場がそうさせているようだった。彼女の瞳が、優しく揺れているからだ。理由は分からない。
冷房がよく効いている部屋で、緊張感のある話をすると、手や足の先が冷えていく。握り込んだ指先が、掌の温度よりも低いことに気づき、今の僕は緊張しているのだと自覚した。
そんな僕の様子を見てくすくすと薄く笑いつつ、細い指で口元を隠して咳を一つ挟んだ。話題が変わる合図だ。
「それと、――まだ出てこないのかな? 悪神ザガン様?」
明らかにザガンに話しかけている。彼女には声も姿も聞こえないし見えないというのに、まるで本当に会話をしているような間とテンションで喋っている。
〈……ケッ、誰が出ていくかってんダ〉
ザガンもザガンで、聞こえていないのは分かっているのに普通に返答をしている。出ていいくものかと、心底嫌そうな態度でぼやいている。
「ああ……実体化できるほどのエネルギーがないんだね?」
〈ッ、クソ、バーカバーカ!〉
意地の悪いような言い方で図星を突かれ、苛立ちと共に焦りが伺えた。見た目や言動に反して、感情表現は僕より豊かだ。
「ろくろ君、こっちの雇用契約書にはね、悪神のサインも必要なんだ。わかるよね?」
「でも、僕、ザガンを、」
「鈴呂、準備」
僕の言葉を待たずに、梶井さんは何やら準備を始めた。僕のほうまで歩いてきて、肩を掴み三歩ほど後ろへ下がった。よろめきながらも、僕は彼女のやる通りにするしかなかった。
「実はもう準備完了だったりして♪」
鈴呂さんは上機嫌で、梶井さんにガラス瓶を渡した。片手で充分に持てる大きさのもので、中には赤紫色の血のような液体が入っていた。それをいったいこれから、どうしようと言うのか。
「そう、ありがとう。この血は、六情の神々の血をブレンドしたもの。言っておくけど、非売品で社外秘だから、口外しないように。……さて、これを君の腕の神紋に一滴垂らすと……」
梶井さんはにこにこしながら、ガラス瓶のコルクを抜き、スポイトで少しだけ血を吸いあげた。それをゆっくりとこちらに持ってくるも、僕はこれから何が始まるのやら恐怖で足がすくんだ。
神の血について詳しくは知らないが、他人の血に触れるのが衛生上良くないのは知っている。神秘の存在と言っても神は生き物だ。衛生上どうなんだ。手が腐って使い物にならなくなったり、変ないぼができたり、そんなグロテスク満載なことは起こらないのか。はっきり言うと、ここまで肝心な情報を知らされないでここまで来てしまったが、僕は今日もしかしたら死んでしまうのではないか。
スポイトの先端を僕の左腕、ザガンの上に近づけた。そして、何の躊躇いもなく血の一滴が投下された。
ぴちゃりと小さな音がして、赤い血が重力に従って床に落ちる。痛みも痒みも、なにもなかった。ああ、身構える必要はなかったのだと安堵した時、血液を直に受けたザガンの印が宙に滑った。
「え?」
と、僕は思わず声を出していた。ひらひらと舞ったなら、その印は途端にくしゃくしゃに縮み、この部屋を吞み込まんとする黒い煙に覆われた。その煙は、ちかちかと二度だけ光った。
見覚えがある。つい数時間前に、これとまったく同じ光景を見た。
あの時はオウカの体内(という表現でいいのかは分からないが)だったが、こんな風に黒い煙を吐き出し、雷のような光を二度点滅させ、それから――
「いってぇぇぇええええええエ!!! 何すんダ! このクソ人間!」
煙は急速に消え、さっきまで部屋にはいなかった存在が一体。数時間前に数十年ぶりの再会(物理)を果たした友人。
「……というように、半強制的に悪神を具現化することができる」
まるで何事もなかったかのように梶井さんは誇らしげに言った。あの血のせいでどうやらザガンは表に出る他なかったらしい。彼の反応を見るに、きっとすごく痛かったのだろう。血を浴びて痛いという感覚はまったくわからないが、人じゃないのも大変なんだ。たぶん。わかんないけれど。
「さて、ぱぱっと書類にサインしてもらおうかな。いいかい?」
「イイもなにもそのために呼んだんだろうガ……」
「口先だけでも許可を得るのは大事さ。さあ、意志があるなら書きたまえ、二人とも」
同意事項にさらりと目を通す。ここで見たもの聞いたものを無断で部外者に口外しないこと、口外した場合は懲役刑か罰金を科せられることなどが明記されていた。
僕の隣に立つザガンは、雰囲気から怒り気味なのが伝わってくる。梶井さんはザガンの前にも書類を一枚出した。
とんとんと左の人差し指で示された箇所は、サインと判子を記す欄だった。黒い簡素な万年筆を梶井さんから受け取り、名前を書く。鍛冶場という名字は画数が多いから、少し時間がかかる。名前を書き終えると、その横に人差し指に机の上に用意されていた朱肉をつけ、判を押した。
僕に数十秒遅れて、ザガンも書類にサインができたらしい。書類を机に滑らせるように梶井さんに突き出した。僕とザガンのサインが書かれた二枚の紙を受け取った彼女は、口元をほんの少し緩めた。そして、すぐに異変が起こった。
「ザガン、なんか光って、」
「ア?」
ザガンの胸部が淡く光り出したのだ。突然のことに、流石のザガンも面食らった様子で自分の胸を凝視している。白い光がぼんやりと広がったかと思えば、その光が目で追えない速度で梶井さんの左手の中に収められた。僕はその光が何であるのかを分からないまま、あんぐりと口を開けているしかなかった。
「ハァ!? 返セ! 俺様のダ!」
梶井さんの左手に握られた光は、霧のように散り散りになった。そうして、光だったものが、実際には黒い本であったことを知る。あれは数時間前にザガンが見せてくれた彼自身の一番大事なもの、『神話』というやつなのである。
「同意事項に書いてるだろう? “契約した悪神の神話を一度複製し、半永久的に保管します”とね」
僕の書類にはそんなことは一切書かれていなかった。見せつけるように、ザガン用の紙の同意事項の部分を軽く二回叩いた。確かにそこには、太字で梶井さんが言った通りの文言ご一言一句漏れずに書かれていた。
「かーッ! 読んでられっカ! クソ!」
「規約文書には目を通そうね、これ社会の常識」
ザガンよりはるかに年下であろう梶井さんに注意されている姿が、少し面白かった。同意事項に文句や反論があったところで、僕は犯罪者として捕まり、ザガンは殺される。この可能性が現実になるだけだ。同意事項をよく読む癖はつけておいた方がいいなと学ばせてもらった。
「鈴呂、後はよろしく。彼の食事と部屋の案内をしたら、今日はあがりでいいよ」
「了解。明日は?」
「午前休で頼むよ。午後からこの子の面倒を見てもらうからね、報酬は弾もう」
「その言葉を待ってた」
さらりと会話を済ませ、鈴呂さんは僕の方へよたよたと歩いてくる。梶井さんは机の上の文房具類を整理し始めた。
「一花にもそう伝えておいてくれ。それじゃ、わたしはこれで」
言葉通り、左の小脇に書類を抱え、ショルダーバックを右に持ち、彼女は帰り支度をしだしている。鈴呂さんは彼女の様子を見ることもなかった。彼はこの間、片手間でスマートフォンをいじっていた。
帰り支度を終えたらしい梶井さんは少し速足に部屋を出た。部屋を出る間際、
「ああ。そうだ。これからどうぞ、よろしく。鍛冶場ろくろ君?」
と、爽やかに投げかけられ、
「よ、ろしくお願いします! 梶井さん」
というように、反射的に返していた。僕の返答に気を良くしたのか、梶井さんは軽い足取りで手を振って部屋を出た。
「よし、ついてきて」
僕は言われた通り鈴呂さんの後を追った。梶井さんの書斎の反対の壁の、左手に文明の利器がはっきりと見えた。レトロ調に作られた、木製風の古めかしい大きな箱。
鈴呂さんは、その箱の横にあるボタンの上矢印を押した。十五秒ほど待っていると、ぴんぽんと音が鳴って扉が開いた。
「四階まで、っと」
「エレベーターあんのかヨ……」
後ろでザガンが呟いた。ああ、僕もほとんど同じ感想を抱いた。




